「カバくんアゴが外れたよ」絵本の原案
それは夏の午後のことでした。
風も無く空はすっきりと晴れており、動物園の園内はギラつく太陽に炙られて、干上がるような暑さです。
巨きな体で人気の象さんも、百獣の王ライオンさんも、スーパーモデルのようなスタイルを誇るキリンさんも、猿山にたむろす猿さんも、いささか暑さにぐったりとしています。もともと暑い国を故郷にしている彼らですが、だからといって日本の暑さが全然平気というわけでもないのでした。
もちろん暑いのはそれを見る人間たちも変わりありません。むしろ人間の方がまいっていたでしょうか。
いろんな動物を見て回り、園内一番奥にあるカバ舎の前にきたときには、ここまで暑い中を歩いたせいで頭がボーッとしている人が多いのでした。
そんな彼ら彼女らは、羨ましそうにカバの太郎を見つめます。太郎はカバ舎の前にある小さなコンクリート池の水中に身を沈めてじっとしていたので、人間からは眩しい日差しも夏の暑さもどこ吹く風といったふうに見えるのでした。
実際には太郎もカバはカバなりに「暑いな」とは思っていたのですけれどね。
そこへ飼育係のおじさんが、冷やしたスイカを抱えてやってきました。
太郎の三時のおやつです。太郎は冷たいスイカが大好きでしたので、飛沫をあげて池の水の中から身を起こし、空へ向かって大きく口を開けたのです。
するとそれを見ていた人間たちから「おおーっ」とどよめきが起こりました。
分かっていたとはいうものの、目の当たりにしたカバの口のあまりの大きさに圧倒されたのでしょう。
カバの太郎は誇らしい気分になりました。
やっぱり人間は僕たちカバの大きな口が好きなんだなあ。人間の口は可哀そうなくらい小さいんだもの。この口を羨ましいと思っているに違いない。
そう考えて、精一杯に大きく口を開けてみせます。飼育係のおじさんからスイカを放り込んでもらっても、なおしばらくはもったいをつけて口を閉じずにいたくらいです。
さあ見てくれ僕の立派な口を。これから一噛みに、スイカを噛み潰してみせるからね。こんなことができない人間にとっては、さぞや面白い見物だろう。
と、そう思った時でした。
ピキィーーとアゴのつなぎ目あたりに、電流が走るのを感じたのです。
どうしたことでしょう。太郎はその瞬間から大きく開けた口を動かせなくなってしまいました。
「あがっ、あがっ、あがっ」
そんな間抜けな声をあげることしかできなくなったのでした。
さて、時間はそれからほんのちょっとだけ戻ります。場所は太郎の頭上に広がる青空の、そのまた上の宇宙空間です。
地球を見降ろすその場所には巨大なUFOが停滞していました。
その宇宙船の、天辺にあるフロアには、宇宙人たちが整列しています。全身をタイツに包んで目には真っ黒なサングラスみたいなのをかけている変な連中です。頭の上にはチョウチンアンコウみたいに曲がった突起が一本曲がって跳び出ていました。
そして皆、妙にエラが張った顔つきをしています。
その中心にいるリーダーが、展望窓越しに地球を見やってほくそ笑みます。
「フッフッフ。ついに地球を侵略する時が来た。この装置のボタンを押せば地球に向かって強力な『アゴ外し光線』が放射され、地球にいるすべての人間のアゴが外れてしまうのだ。人間は何も食べられなくなって栄養不足で絶滅してしまう。その後の地球は私たちの思うがままだ」
リーダー宇宙人の前には四角い箱のような装置があって、その中央には赤いボタンが一つ出っ張っています。壁に複雑な計器が並んだフロア内でも、そのボタンはひときわ派手で目立つのでした。
リーダーの一歩後ろに横一列に並んだ部下の宇宙人たちは、口々に賛同しました。
「素晴らしい計画です」
「人間たちは侵略されているとも気づかぬ間に絶滅してしまうでしょう」
「我々の知力の勝利です」
「所詮は人間などは私たちの敵ではないのですね」
「すぐに光線を発射しましょう」
心地よさげにそれらを耳にしたリーダーは、もったいをつけて憎々し気に嗤ったのでした。
「まあ待て、焦る必要はない。この兵器さえあれば人類などは風前の灯なのだからな。ちゃんと光線を人間が属する哺乳類向けに設定したな。それでは落ちつき払って確実に、私が皆を代表して計画実行のボタンを押そうではないか。えいっ」
宇宙人のリーダーが手に三本しかない指のうちの一番長い指でもってボタンを押すと、UFOの下部から跳び出たアンテナ突起から、扇形に末広がりになった光線が、地球に向かって放射されたのです。
カバの太郎がアゴに電流のような衝撃を感じたのは、その一瞬後のことでした。
「あがっ、あがっ、あがっ、あが」
アゴの外れた太郎は慌てふためいていますが、それを見ている人間たちには何の異常も現れてはいません。ただ目を丸くして太郎のようすを見つめるばかりです。飼育係のおじさんも最初は客たちと変わりませんでしたが、やはり専門家は違うもので、いち早く異常を察知して獣医を呼ぶために走り去りました。
「あがっ、あがっ、あがっ、あがっ」
太郎は口の中のスイカを喉に詰まらせないようにするのが精いっぱいでした。
獣医さんが駆けつけたその後でも、その混乱は中々収まらなかったのです。
さて、こんなふうにアゴが外れかけたのは太郎だけだったのでしょうか。
そうではありません。他の動物園にいるカバたちも太郎と同じように大口を開けて、口を閉じられなくなってしまっていたのです。
太郎がいるのは東京の動物園でしたが、大阪にある動物園でもカバの花子がアゴを外してしまっていました。
「あがっ、あがっ、あがっ、あがっ」
名古屋にある動物園でもカバのタックンとマルチャンがアゴを外していました。
「あがっ、あがっ、あがっ、あがっ
あがっ、あがっ、あがっ、あがっ」
広島にある動物園でも神奈川にある動物園でも沖縄にある動物園でも、カバたちは口を目いっぱい大きく開けてアゴを外していました。
「あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、
あがっ、あがっ、あがっ、あがっ
あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、
あがっ、あがっ、あがっ、あがっ」
それだけではありません。アメリカはニューヨークの動物園でも、ロスアンゼルスの動物園でも、イギリスの動物園でもドイツの動物園でもインドの動物園でも中国の動物園でもブラジルの動物園でもオーストラリアの動物園でも、動物園にいるカバたちはみな太郎と同じようにアゴを外していたのです。
「あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、
あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、
あがっ、あがっ、あがっ、あがっ
あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、
あがっ、あがっ、あがっ、あがっ
あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、
あがっ、あがっ、あがっ、あがっ
あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、
あがっ、あがっ、あがっ、あがっ
あがっ、あがっあがっ、あがっ、
あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ
あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ」
もちろんこれは動物園のカバにだけ起こったことではありません。アフリカのコンゴにいる野生のカバたちも同じようでした。
「あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっあがっ、あがっ、あがっ、あがっ、
あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっあがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ」
ザンビアにいる野生のカバたちもそうでした。
「あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっあがっ、あがっ、あがっ、あがっ、
あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっあがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっあがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ」
乾季で川の水が少なくなったため、百頭以上の群れを作ったケニアの国立公園内のカバたちも同じくアゴを外して大きな口を閉じられなかったのです。
「あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっあがっ、あがっ、あがっ、あがっ、
あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっあがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっあがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっあがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっあがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっあがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっあがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっあがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ「あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっあがっ、あがっ、あがっ、あがっ、
あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっあがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっあがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっあがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ、あがっ……」
カバたちは慌てふためき狂乱し、手のつけられないパニックに陥りました。
さて。このようすを見て驚いたのは人間たちだけではありません。国立公園の管理者などはさぞや驚いたでしょうが、それよりもっと驚いた者たちがいたのです。
それは言うまでもなく、宇宙空間にあるUFOから「アゴ外し光線」を放射した宇宙人たちでした。
自分で発射ボタンを押したリーダーのうろたえぶりは中でも大きかったのです。
「これはっ、いったいどうしたことだ。人間たちには何の変化もないではないか。アゴが外れたのはカバとかいう並外れて口の大きな動物ばかりだ。こんなはずでは。おい、兵器専門の科学者。これはいったいどうしたわけだ」
ダブダブの白衣を全身タイツの上に着た宇宙人が一歩進み出て、その呼びかけに応えます。
「はっ、これは推測ですが、おそらく我々の『アゴ外し光線』は効き目が弱く、人間には効かなかったのではないかと思われます。この星の動物たちはアゴが小さくそれを支える筋肉も柔軟なためにアゴ外し光線が効きにくく、跳びぬけて大口の動物相手にしか効果を発揮しなかったのではないでしょうか」
「そんな馬鹿な。これまで多くの異星人を滅ぼしてきた光線だぞ」
「私も驚いております。まさか我が種族が総力をあげて開発した最終兵器が通用しない相手がいるとは」
「うむむ。宇宙は広いものだな。仕方がない。この切り札が通用しないのではどうしようもない。我々の負けだ。悔しいが、今回は侵略を取りやめて撤退するしかあるまい」
「総統、私たちも悔しいです」
一列に並んだ部下の宇宙人たちも皆首うなだれて悔し涙をこらえました。
深海魚のようにエラが張った宇宙人の顔は、地球人よりも厳ついものでした。それが並んで歯噛みする様は、マフィアのように迫力があったのです。でも、どんなに悔しくても全員で計画の失敗を受け入れるしかないのでした。
さて。そんな成り行きで、侵略者たちは宇宙の果てへと飛び去っていきました。
地球に残された人間たちはそんなこととは露知らず、世界中のカバたちのアゴが外れた奇現象を不思議がるばかり。幸いカバたちは、大体一、二時間くらいで外れたアゴが元通りにはまっていきました。
「アゴ外し光線」は、連続して放射しなければアゴを外しっぱなしにはできないものだったようです。中々治らないカバでも大概一日か二日もすれば元に戻ったので、カバたちの世界にも大きな影響は残りませんでした。
ちなみに東京の動物園にいる太郎は治るのが遅く、三日かかってようやくといった具合だったので、少し痩せてしまいました。そしてそれから後は、おやつを食べる時に客たちに大口を開けて見せるパフォーマンスはやらなくなってしまいました。太郎君は、アゴが外れるのが怖くなってしまったのですね。日本に残ったアゴ外し光線の影響はこの程度です。
人知れず、人類絶滅の危機は去りました。もし運悪く宇宙人たちの「アゴ外し光線」の効果が強かったら、私たちは今頃ごはんが食べられなくなって、絶滅していたかもしれないのです。
みなさんも自分のアゴが動くのを感謝して、よく噛んでごはんを食べていきましょう。
最後に。これは誰にも知られていないことですが、一つの事実をお伝えしておきましょう。
実は宇宙人のアゴ外し光線でアゴが外れてしまったのは、カバたちだけではなかったのです。海の中では大きな口をした髭鯨たちのアゴも一時的に外れてしまっていました。
ですが、それは災難にあった鯨たち本人以外は、誰も知らないことでした。なのでアゴが外れた時に鯨たちがどんな声をあげたのかは誰にも分からない。永遠の謎となってしまったのです。
でも、あえてそれを想像してみたらこんな感じでしょうか。
「ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、
ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、
ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、
ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、
ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、
ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、
ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごあっ、ごぼっ、
ごあっ、ごあっ、ごごあっ、ごごごあっ、ごぼごぼっ、ごごごあっ……ごぼごぼごぼっ」
終わり
「限界怪魚ズールラ」SF小説
ほう。わざわざ地球から来なさったか。こんな辺境惑星の、それもこんな小国にのう。
いやいや、言われなくとも理由は分かっとります。我が国建国のきっかけとなった革命の歴史遺産を観光するのが目的なんでしょう。何しろ四半世紀前に起ったハルゲムド革命は、史上初の現地異星人と人類が共に戦った市民革命ですからな。マルクス・レーニン主義の流れを汲んだスペース左派の方なら、一度はここに来て現在でも左翼革命思想が有効だという実例を見てみたいでしょうとも。
それにしても、視察先としてこの土地を選ぶとはお目が高い。史跡としては首都パーリパリの方が有名ですが、私に言わせればあんなものは革命があらかた終わった後に勝利宣言をした場所に過ぎない。最も激しい戦闘が行われたここズンムズム州こそ歴史が深く刻みつけられた土地だと信じておりますよ。
ええ、もちろんその時の資料や史跡は豊富に残っとります。ゲリラ戦用に掘られた地下トンネルですとか、反政府軍の拠点となった建物ですとか。何しろ現地民のゲムド族はカタツムリみたいな軟体動物から進化した種族ですからな。連中がぬらぬらと体を細めてトンネル内を移動して、思わぬ場所に現れて奇襲をかけるのには政府軍もさぞ手を焼いたことでしょうて。
それらの戦いで使用した武器なども残っておりますよ。
確かうちにも一つありましたかな。ちょっとお見せしましょうかね。
さあさ、これがこの星の原住民ゲムド族が近接戦闘に使った剣ですよ。軟体動物から進化した連中が使うものですから、人類の剣とは大分形が違っている。刃先が鋸のようにギザギザになっているし、髭剃り刃のように二枚重ねになっているでしょう。
これには理由がありましてね。連中の身体はグニャグニャしていて掴みどころが無いでしょ。切りにくいし、その上人間などは及びもつかない生命力もある。刀で斬りつけてもプラナリアの体を斬るようなもんで、一回切っただけではすぐに治ってしまうんですな。そこで刃を二枚重ねにして、二重に斬って、斬られた傷が治りにくいように作ってある。よく考えてありますよ。こんなので斬りつけられた日にゃあ、人間などは一たまりもありませんわ。
ゲムド族と人類革命家の連合軍が悪の資本主義政府を打倒した裏には、こういったゲリラ戦に強い武器の存在があったんですなあ。
えっ? 興味ないですか。
貴重な資料を見せて頂くは有難いが、そういった方面には見識がないので価値が分からない?
それじゃあいったい何の目的でいらっしゃったので?
はあ、食道楽? 資産家だった両親の遺産を相続して働く必要が無くなったから宇宙を旅して様々な星の美味珍味を食べ歩いている? その長い旅を終えた後には体験を本にまとめて自費出版するつもり?
今時紙製の本にして出すんですか? ううむ。何と贅沢な。
いい御身分ですなあ。羨ましい限りです。いや、皮肉などではなく、そういう方がいてこそ人類の文化は細かいところまで保存され、後世に語り伝えられてゆくんでしょう。価値のある仕事だと思いますよ。ええ。
しかし、それならば訪れるのはここよりも首都パーリパリの方がよい気もしますな。何しろあちらは食の都と言われるくらいで、一流レストランが揃ってますからな。
はあ、そちらはもう訪れて、名高い料理は一通り食べ終わった? さすがですな。それで一息ついて、今度は他の星には絶対無いような奇食珍味の類いを漁ってみようというわけですか。それなら分かります。この州には未開のジャングルや複雑な海岸線の海があって、変わった食材には事欠きませんからなあ。その上調理法も独特ときている。宇宙一の奇食珍味を捜してみる価値はあるでしょうて。
その中でも特にお勧めの料理ですか。そうですなあ。すぐに思いつくのはヒラポラ草原産バフーンの臼歯スープですとか、ぺングリ茸の毒胞サラダ、シャックル獣の焼肉といったところでしょうかな。いや、実を言いますと、こう見えて私もちょいと食にはうるさい方なのでして。これらの料理について詳しくご説明しましょうかね。
まずバフーンの臼歯スープですが、ヒラポラ草原に住むバフーンっていうのは草食性の巨大軟体頭足類でして。その、地球の生物に例えるとイカを陸に上らせて体をどっしり頑丈にさせたようなもんですね。とは言ってもその大きさは相当なもんで、体長十メートル体重十二トンくらいあるんですが。
このバフーンは図体が大きいだけあって、口内には植物を擦り潰す巨大な臼歯を持っている。その上二本と下一本の歯は水平方向に往復半回転を繰り返し、文字通り石臼のような働きをするんですな。この歯を引っこ抜いて強火でグツグツと五十時間ばかり煮込むとですね、不思議なことに硬い組織がほぐれてトロトロのゼラチン質になる。それを適当な大きさに切り分けて、バフーンの脚肉や肝を始めとするさまざまな食材と薬味を煮詰めて作ったスープを加えてさらに三十時間ほど煮込むと、舌に絡まる絶妙な触感と、噛めば噛むほど染み出る慈味に溢れたバフーン臼歯スープの出来上がりとなります。地球の食べ物に例えると、海燕の巣のスープに似ているかもしれませんな。身体が弱り加減な時に精をつけるには最高の料理です。
次に説明しますはぺングリ茸ですが、これは猛毒の茸です。傘の裏に魚の卵のようなブツブツの毒胞をたくさん持っておりましてな。一本の茸で百万人を殺せると言われるくらいの恐ろしい毒がある。ところがこれが美味なんですなあ。しかし似ても焼いてもその毒は消えない。それじゃあどうやって毒を抜くかと申しますと、動物を利用するんですな。自然界というのはおかしなもんで、こんな毒茸でも好んで食べる動物はいる。ラムラグーっていう哺乳類似の草食六足獣なんですが。こいつにね、ぺングリ茸をしこたま食べさせるんです。そうすると若干の消化不良を起こして、ぺングリ茸の毒胞が糞の中に粒のままで混じるようになる。その糞を綺麗に洗ってですね、形の残った毒胞を細かい笊で濾して集める。そしてそれをサッと熱湯に通して殺菌すれば、さっぱりしていて薫風薫る、そして頬っぺたが落ちそうなくらいに美味な、無毒化されたぺングリ茸の毒胞サラダの出来上がりです。フレンチドレッシングがよく合いますな。
どういう理屈なのかは分からんのですが、ラムラグーの消化管にはぺングリ茸の毒を無毒化する機能が備わっているらしいんですなあ。
最後にシャックル獣の焼肉なんですが、実を言いますと、これは大っぴらにはお勧めできない。何故かと言うと、人道に反するとして非難されて、今では禁止されている料理だからです。とは言っても調理法自体は簡単で、ただ薄めに切った肉に塩を振って炭火で炙って食べるというだけなんですが。
非難されているのは、その前段階にあたるシャックル獣の屠り方なんでしてね。
シャックル獣というのは犬と似た感じの肉食獣なんですが、ものすごく獰猛なんですよ。ちょっとしたことでも物凄く怒り、自分より強い相手でも構わず襲いかかってゆく。まるで狂戦士のようなやつでして。
自然界で生き抜くために、徹底的に戦闘的になるように進化してきたんですな。そのため脳からすぐに大量の怒りホルモンが放出されて、それが全身に行き渡って体を戦闘モードに覚醒させる仕組みになっている。ところが、その怒りの戦闘ホルモンっていうのがねえ、肉の味を良くさせるんですな。何しろ全身に蓄えられた栄養素を即座に消費できるように変化させ、筋肉内のアミノ酸を最高レベルに活性化させますからな。これが旨くないわけがない。
そのため、このシャックル獣を屠る時は、最大限に怒らせるように棒で殴ったり灼けた鉄棒を押し付けたりして時間をかけて虐め殺すんです。怒りホルモンを全身に行き渡らさせて美味しくするための工夫なんですが、まあ、気の弱い人にはとても見せられないようなわけでして。
でも人によっては、「その虐め殺すところを見せてくれ。それを見ないことにはシャックル獣を食った気がしない」という方もいらっしゃる。あまりいい趣味とは言えませんが、ひとたびシャックル獣の肉の旨味を味わったら、そのような二重の意味での禁断の味にも目覚めてしまうといったようなわけでして。
大っぴらには申せませんが、私も二度ばかり味わいましたかねえ。もちろん禁止になる前の話です。それはもう血が滴るような、というより血の滴る、本当に「これぞ肉」という、血沸き肉躍る野性味の塊りのような味でして、一度これに嵌ると普通の肉は物足りなくなります。癖になると抜けられない、麻薬的な食体験です。シャックル獣の肉が本物のビールとすれば、他の肉は気の抜けたノンアルコールビールのようなものだと申せましょう。ああ、できればもう一度、私もあの味を味わってみたいのですが、残念ながら今では中々手に入らない。いっそのこと、こっそり密猟してでも食ってやろうかと、そんな邪心を起こすほどの美味となっております。
ですがね、ここだけの話。そこは蛇の道は蛇といいますか。まとまったお金を用意していただければ、裏ルートで、その、密猟組織と接触してシャックル獣を手に入れるという道も、まったく無いことはないのですがね。いかがですか。
はあ、そこまでしてくれなくてもいい? そうですか。美味しいんですがねえ。あっ、すみません。今涎を拭きますから。見苦しいところを見せてしまって申し訳ない。
ははあ、肉料理はパーリパリでさんざん食べてきたから魚料理の方がいいとおっしゃるので? そう言えばパーリパリは獣肉文化圏で脂っこい肉料理が多いですからなあ。
そうですか。それならお勧めは複雑怪奇に海流が交わる魔の海峡と言われるゾンバナム海の海の幸でしょうなあ。そこは昔から海難事故が多かった海域で、海の藻屑と散った多くのゲムド人たちの魂が亡霊となって海洋生物に乗り移ったから奇々怪々な生物がいるのだと言い伝えられているくらいなのですよ。
本当におかしな生き物がおりますわ。身体全体が超巨大な目ん玉で、眼球から直接足が生えている眼足類と言われる軟体類ですとか。網状になった長ーい舌を口から出して大きく拡げ、地引網漁をするように海底の生物を根こそぎさらって食ってしまう網鯨とも言われる巨大海獣類ですとか。針のように尖った口先を突き刺して血を吸って生きている吸血魚ですとか。襲われると腹にパンパンに溜めておいたウンコを一気に敵の鼻先に放出してそれを煙幕にして逃げる風船みたいにまん丸な魚ですとか。
しかし珍味と言われて一番に指を折るべきなのは、やはりズベコン川の河口に近い海域で獲れる怪魚ズールラでしょうかなあ。
はあ、そのあたりの海なら昨日立ち寄った? 自分は釣りも好きなので、半日釣りを楽しんで来たところだ、と。それは良かった。あのあたりは豊富な漁場として有名ですから、さぞやたくさんの魚が釣れたことでしょうて。
しかし、ズールラは釣れなかったでしょうがな。ハッハッハ。何しろズールラは今では幻の魚と言われるくらいで、地元の漁師でも滅多なことでは獲れんのですから。
それではズールラがどのような姿かを申します。もちろん怪魚と言われるくらいなので、変わった見た目はしとります。ちょっと地球で言うところのナマズと似てますかな。しかし頭が異様に大きくて、目も大きく目尻からは細麺みたいなものを涙のように垂らしている。頭頂部にはピンク色の触角が三本生えとります。そして大きな鰓のあたりからクラゲの触手のような紐状のものが出ている。それは個体によって数や長さがまちまちで、ほんの五、六本で長さは十センチくらいということもあれば、数十本で五、六メートルも伸びとる場合もある。色も真っ白だったり赤かったり、紫だったり。でもまあ大体はグニャグニャして気持ち悪いというのは共通してますかな。その紐状のものは、数が多くてなるたけ長い方が質のいいズールラだと言われとります。その他にも胴体の鱗と鱗の間からは、苔のようなものが生え出ている。それも一面びっしりとという感じで大量に出ている方が良いズールラです。
これが食べた時の味に関係するんですな。それというのも……。
えっ、何ですか。そういう見た目の魚なら一匹釣った。これがその写真なのでズールラかどうかを確認して欲しい、ですと? ハハハ冗談がきついですな。あの怪魚ズールラがそんな簡単に釣れるはずは……。
んがっ、こっ、これはっ。この何とも気色悪いフォルムと鰓から伸び出た紐状部のグチャグチャさ加減はっ。間違いない、これこそ怪魚ズールラです。この魚を釣った後はどうなされた。まさか自己流で調理して食べたのではあるまいな。この魚を食べる時にはちゃんと正しい手順を踏んで調理しなければならんのですぞ。
な、何とっ! もう食べてしまったと申されるのか。それもその場で切り分けて、さっ、刺身にして食ったと? 何て馬鹿なことを。こんな気持ち悪い見た目なら、そんなことをしてはいかんと分かるでしょうが。何、食べる前にはちゃんと切り身を毒判定機にかけて毒が無いことは確認した? グロテスクな魚の刺身は案外美味しいんです? そういう問題ではないわっ。
この魚がどうして珍味なのかを知っとるんですか。
何、別に旨くもなんともなかった? ジャリジャリした変な舌触りで味も薄かったから二切れくらいしか食べていない? あたり前だわこの馬鹿者がっ。
ああ、いや、思わず興奮してしもうて、申し訳ない。怒ったわけを説明します。この魚はですな、全身にとんでもない数の寄生虫を飼っとるんです。それも飛び切り恐ろしい悪性のやつを百種類近くも。実に全体重の四十パーセントが寄生虫だと言われるほど、体力の限界まで全身に寄生虫をギッシリ抱え込んでいる。目の端から出た涙みたいなものも、鰓から出た紐みたいな長いものも、鱗の隙間から出とる苔みたいなニョロニョロしたものも、全部寄生虫なのですぞ。もちろん体内にもビッシリ卵が産みつけられとる。あなたが食った刺身がジャリジャリした舌ざわりだったのも、寄生虫の卵に間違いありません。
ズールラにどうしてそんなに寄生虫がついているのかって? それは自ら望んでそうしているので、外敵から襲われないようにするためです。考えてもみて下さい。こんな自身の体と寄生虫ではどっちが多いか分からんようなやつを、食いたいと思いますかな。しかもズールラが体内に飼っている寄生虫は極めてタチが悪く、寄生した相手を内部から食い荒らして死なせてしまったり、ゾンビ化して操ったりするようなやつばかり。仮に何種かの寄生虫に耐性があったとしても、かならずどれかからは致命的なダメージを食らってしまうという、ロシアンルーレット百連発みたいな魚なのです。
不思議なことにズールラ自身は寄生虫に耐性があって、ズールラの体内では寄生虫はさして暴れないので栄養は取られても死ぬことはない。おそらく寄生虫たちは、ズールラを自らを受け入れて他へ移るための橋渡しをしてくれる大事な存在と知っていて、危害を加えないようにしとるんでしょうな。しかし、他の生物はそうはいかない。いったんズールラ寄生虫群が体に入ったが最期、骨の髄の最期の一滴までしゃぶりつくされる運命なのです。相手が寄生虫では毒に対する時のように解毒機能を高めて防御することも出来ず、なすすべもなく苦しみながら死んで行くよりない。ズールラは下手な猛毒魚よりも恐れられ、忌み嫌われている存在なのですよ。
そんなものを刺身で食うとは。正気の沙汰では無いわっ。
しかし、そんな魚がどうして天下の奇食、珍味と言われるのか不思議でしょうな。いやいや、それは「そんなもの」であるからこそなのですよ。ズールラ料理の玄妙特異な美味の源泉は、その、百種類近くにも及ぶ寄生虫なのですから。特殊なズールラ寄生虫の体内には普通の生物には無い特殊なホルモンや化学物質が存在するので、それがたくさん集まると複雑怪奇な反応をして、漢方薬の滋養成分のように深みのある味を醸し出すのです。
とは言いましても、それはズールラの全身を熱湯にぶち込んで百時間以上の地獄煮込みを行った後の話ですがね。ズールラ寄生虫には卵に熱耐性を持つものもいるので、そこまでやらないと安心とは言えない。そしてそこまで熱を加えればズールラの全身にいる寄生虫たちはドロドロに溶けて上質のゼラチン質に変化する。それでやっと天下無類の生体科学物質がブレンドされた滋養と嗜好品的な苦みを持ったズールラ煮込みスープの下準備が完了……って、そんなことを言っとる場合ではないわ。早く寄生虫を駆除する薬を飲まないと命がありませんぞ。
とは言っても、ここからでは病院に連れて行くのに時間がかかり過ぎる。刺身を食べたのはどのくらい前ですか。食べてからもう十六時間が経過している? いかんっ、もうすぐ寄生虫の卵が孵化して幼虫が暴れ出してしまうぞ。一刻も早く駆除薬を飲まなくては手遅れになる。近くに寄生虫駆除薬はなかったか。
ううーっ。ああそうだ。隣家のグエン婆さんが持っとったはずだ。あの婆さんは弟を悪性寄生虫で亡くしとるし、長年薬局に勤めておったから、強力な薬を常備しとる。婆さんが持ってる薬ならズールラ寄生虫にも効くはず。
ちょっと待っとりなさい。今とってくる。
はあはあ、飲みなさったか。これで一安心。まったく一時はどうなることかと思ったわい。しかし、あんたもこれに懲りたら、もう二度と無謀な素人食いをやってはなりませんぞ。とは言っても本当に苦しい思いをしなかったら骨身に染みないのが人の常か。よろしい。しっかり深層心理にまで染みわたって忘れることのないよう、ズールラ寄生虫がどんなに恐ろしいかを話してあげましょう。
とは言え何から話せばよいものか。ズールラには恐ろしい寄生虫がたくさんいるからのう。
べラベラ原虫、フィラール条虫、エポロ住血吸虫、オシセルカ口蓋虫、スヌバッチ線虫、パセード眼内虫、へイグ有鉤条虫、ぺスター吸肝体、カメラル紐虫、マグッソ蟯虫、グロマリラン寄生菌種、ポラボリヌ桿状体、カンピリア病原主、ピロピッピ腸内蛆、アンガータ食骨虫、マドクナード・ワーム、ケンターク・クラジミリア、パスター条虫、ソーメン麺条虫、オコンマー腔虫、ポコンチ太長虫、イキンマンタ痒群虫、タダーノ水虫などなど、あげればキリがない。
しかしその中で、最も早く人体をボロボロにして死に至らしめる危険な虫と言えばやっぱりフィラール条虫かのう。何しろこの虫は卵から孵ったが最後驚異的なスピードで成長し、まるでモグラが穴を掘り進めるように四方八方縦横無尽に人体を食い荒らしてゆくのですからな。人体はあっという間にトンネルだらけになって、見るも哀れな人間スポンジ死体の完成となってしまう。
ああ、しかし、この虫は活動し始めたら被害が大きいが、その分駆除薬も効くので早めに薬を飲みさえすれば恐いことはない。それより地元のゲムド族に恐れられているのは、パセード眼内虫の方でしょうな。
この虫はズールラ以外の経路からも寄生されることがあるので、被害の症例は比較的多い。卵から幼虫が孵化するのが早いし、動き始めると真っすぐに神経組織を目指し、それを辿って脳に侵入して宿主の精神を操ってしまうから厄介です。元々カタツムリ似の軟体生物に寄生する虫でな。下等な生物に寄生した時には宿主をゾンビ化し完全に操ってしまうと言われておる。活動中枢と食欲中枢を刺激して高カロリーなものを無茶苦茶に食わせ、そして得た栄養をそっくりと頂くのですな。そして大きく成長すると宿主の目に侵入し、眼球がラグビーボールのように巨大化して外に跳び出るという有様になる。そういう状態で脳神経に「上へ行け」という指令を出して草木の天辺やら岩の頂上やらに登らせ、跳び出た眼球を手旗信号のようにグルリグルリと動かして鳥を始めとする飛行生物に合図を送る。それを見た鳥は食欲を刺激されて、すかさず舞い降りて来て寄生された軟体動物を食べる。パセード眼内虫は、そうされることによって鳥の体内へと寄生先を変えて次の段階の種族繁栄へと進んで行くんですな。
この虫がゲムド人の脳内に入ると非常に厄介なことになる。もちろん食欲中枢は刺激されるがそれだけではなく、怒りの感情や攻撃本能にも強力なブーストがかかってしまう。きっとパセード眼内虫自身も、複雑な高等生物の脳を操るのは手に余る部分があって、上手く操り切れんからそうなるのでしょうな。
パセード眼内虫に憑りつかれた者は、まず血のように眼が真っ赤になる。そしてやたらと狂暴化して、周囲にいる者を攻撃し始める。刃物を手にして滅茶苦茶に斬りかかったり、ハンマーを振り回して片っ端から撲殺したり。そして殺した死体にしゃぶりついて肉を貪り食らう。そうやって無理やり栄養を取って体内の眼内虫が成長すると、目を大きく円錐状に跳び出させてカメレオンのようにグルングルンと動かしながら高い場所を目指す。高層ビルの屋上へ行ったり、高い山の頂上を目指したり。その途中でも出会った者がいれば、かたっぱしからぶち殺してのう。そういう悪夢のような事件が起こるものだから、非常に恐れられておる。この虫にだけは寄生されたらいかんのです。
人間が寄生された時にも同じような症状が起こるから、そんなことがあったら一大事だと、さっきはわしも焦ってしまってのう。叱りつけたりして申し訳なかった。いや、もちろんそれは、あなたの体を気遣ってのことなんだが。
その、過去のトラウマが脳裏をよぎってしまったということもあったかの。ほれ、さっき言ったお隣さんのグエン婆さんの弟さんだが、その人もこのパセード眼内虫の犠牲者なんじゃ。眼を真っ赤にして刃物を手にし、近所の人に襲いかかり始めたから駐在さんに撃ち殺されてしもうた。可哀そうにグエン婆さんはあれいらい近所の人から白い眼で見られるようになって……。弟さんに襲われて重傷を負う者が多数出てしまったから無理はないのだが、それでわしを頼って隣に移り住んできたのだ。まあわしも、そういった者の世話は自分の役目と思っとるから役に立てるのは本望なのだが。
少し話がそれてしまったか。ズールラ寄生虫の話ですな。おそろしい寄生虫はそれだけではないですぞ。これまで話したのは一般的な寄生虫駆除薬で駆除できる虫の話。本当に厄介なのは、むしろこれから話す一般薬が効かん寄生虫の方でしょうな。
ああ、もちろんあなたが今飲んだ薬でズールラ寄生虫の大方は駆除できる。だが中には通常の薬が効かんやつもいるのです。それらは改めて時間を置いて別の薬で駆除せねばならん。
ん? 薬は一度に飲めばいいじゃないですかって? 舐めたらいかん。ズールラ寄生虫を駆除する薬は極めて強力なのだ。複数の薬を一度に飲んだりしたら内臓が焼け爛れて死んでしまいますぞ。だからある程度時間を置いて順番に飲まなければならん。だが、そのタイミングは難しい。時によっては寄生虫が活動していても、しばらく放置しなければならん場合もあるのです。そうなりやすい寄生虫は何種類かいるが、いずれも恐ろしい症状を起こすものばかりだ。あなたもその中の幾つかは経験しなければならんかもしれんのう。
脅かすわけではないが、覚悟はしておいた方がいい。幸い死に至る場合は少ないので、しばらく地獄を経験すればいいというだけの話です。運が悪ければ後遺症が残る場合もあるが、死ぬよりは全然マシでしょうて。
考えてみればどうせ地獄の一つや二つは経験するのだから、わざわざ教訓的に恐ろしさを話してあげる必要もなかったかのう。ぐふふふっ。
あっ、いや、すまん。つい心にもない含み笑いが洩れてしもうて。決してあなたの身の上をいい気味だなどと思っているわけではないですぞ。心の底から心配して、老婆心ながら注意を喚起しようと思っとるだけなのでしてな。
被害を覚悟しとかなければならん寄生虫の中で代表的なものをあげると、まず指を折らなければならんのはアンガータ食骨虫でしょうかな。これは骨に吸着して骨を食べる珍しい虫なのだが、人間の体内に入ると頭蓋骨に好んで集まる習性がある。頭蓋の内外にフジツボのようにビッシリ貼り付いて骨をガリガリ削って食べるのだ。もちろんそんなことをされれば痛いが、何分骨なのでそう激烈な痛みになるわけではなく、何とも言えぬ嫌な痛痒が延々続くことになる。それだけでも恐ろしいが、それよりも耐えがたいのはこの虫が頭蓋を削って行くガリガリいう音が、骨を伝わって微かに聞こえてくることだと言われておりますな。ガリガリガリガリガリガリガリガリガリと朝昼関係無く聞こえ続ける。これは精神的に、かなりのキツさだと言って良いだろう。しかし被害を受けるのは骨だから、すぐに命にかかわるわけではなく、だからどうしても薬で駆除するのが後回しになってしまう。
とは言っても長い間放って置いたら悲惨なことになりますがな。寄生された人間は、いずれ頭蓋は元より体中の骨のすべてを食い尽くされて筋肉と脂肪と内臓だけのグニャグニャした肉塊人間になり果ててしまうのだから。そんな体になっても死に切れんとなったら、これこそ生き地獄というものでしょう。まあ、そうなるまでには一、二年はかかるので、そう心配することはないでしょうが。
その他、本人の苦痛が大きいが命の危険はないものにはパスター条虫が挙げられる。なんてことない名前だが、これも相当に精神的ダメージを与える寄生虫でしてな。こいつは身体から、宿主の脳に鬱症状や幻覚を起こさせる特殊なホルモンを放出するのです。だからこの虫に寄生された人間は強烈な鬱に襲われて恐怖に満ちた幻覚を見ることになる。
どのような幻覚かと申しますと、幻覚に襲われる本人が最も悍ましいと思っているものを見ることが多いと言われておりますな。例えば地球のゴキブリが嫌いだとすれば、地平線まで果てしなくゴキブリに埋め尽くされた惑星に一人ポツンと取り残されていて、その状況を理解すると、同時にゴキブリ共が襲いかかって来る。そして全身を食い尽くされてしまうといったたぐいのものです。
毛虫が大嫌いな女性が、臨月を迎えていて赤ん坊大の巨大な毛虫を何百匹何千匹と果てしなく出産し続けるという幻覚を見たとかいう話を聞いたこともありますな。もちろん幽霊、悪霊や、妖怪、悪鬼の類いも見るし、そいつらに囲まれ責めさいなまれて、自分の身体を何千何万もの切れ端にまで切り刻まれて、地の果てまでばら撒かれるなどという幻覚も当然ありです。
症状が重くなるとそのような幻覚を三日三晩、眠れもせずにぶっ続けで見て、その後体力の限界が来て気を失うと言われております。そしておおよそ一日後には目を覚ますのだが、その時には恐怖のあまり髪の毛がすべて真っ白になっている。と、思うと実はそれは錯覚にすぎず、髪の毛と見えるものはすべてパスター条虫の、皮膚の外へと長―く伸ばされた卵管なのです。髪の毛はとっくの昔に全部抜け落ちて、寄生虫の体の一部に置き換わってしまっているのですなあ。何千何万本の卵管が皮膚から飛び出しているのは、ある意味壮観と言えるかもしれません。
そんなわけだからその白髪に見えるものにベタベタと大量にくっついているフケに触ってはいけません。それはフケではなくてパスター条虫の卵なのだから。もちろんそんな状態では長い間洗っていない頭どころの騒ぎではない猛烈な痒みがあるが、それでも掻いたらいけないのだ。ふはははは。生き地獄ですなあ。
しかしそんなパスター条虫も、毛根が壊滅する程度で体に決定的な障害を残すわけではないからまだいい。本当に厄介なのはこれから話す人体に不可逆的な改造を加えてしまう虫でしょうな。
その代表的な虫はオコンマー腔虫と言う。この虫は、本当に恐ろしいですぞ。人間の生殖器にターゲットを絞って寄生するのだから。寄生される者が男性の場合は、まずは睾丸に棲みつきます。そして性腺を刺激して、井戸水をポンプで吸い上げるように、生殖機能を活発化させる。精子を異常に大量に作らせるのですな。そしてその精液の中に自分の卵を紛れ込ませ、というよりは人間の精子を作る能力を借りて、それに乗っかる形で大量の卵を作ってゆく。そしてそれを外部に一気に大量放出するわけです。それは寄生虫から見れば卵の散布だが、人間からみたら信じられないような量の射精となります。果てしなく一時間あまりも波状的に射精し続けて、最終的に放出される量は一リットルとか二リットルとかになると言われていますな。
そして、その時に本人がどのような感覚を覚えるのかと言いますと、これが何と究極的なるオルガズムの嵐。人間が耐えられる限界を超えて一時的な精神錯乱状態に陥るほどの超快感だと言われております。
しかし、喜んではいけませんぞ。それは源泉のすべてを一度に絞りつくした結果起こることなのだから。
その一時間以上にもわたる連続射精が終わったらどうなるか。当然男性器は使い物にならなくなる。男根も睾丸も急速に萎んで行き、収穫されるのを忘れられたキューリやアボカドのように、やがては腐ってポトリと地に落ちるのです。つまり男性廃業じゃ。
しかしそれでもオコンマー腔虫は許してはくれない。恐ろしいことに、さらに大きな改造を人体に加えてくるのです。男性器が終わったら次は女性器とばかりに、特殊な女性化ホルモンを放出して男性の体を女性化させてくる。それだけでなく脳内にも侵入して体を女性に作り変えるのだと言われているが、そのあたりの仕組みはまだよく分かってはおりませんでな。
しかしそれも、この宇宙で唯一無二の奇怪な症例というわけではない。そのような鬼畜のふるまいをする寄生虫は、オコンマー腔虫以外にもいるのです。確か地球にも蟹に寄生して宿主の体を雌化させる寄生虫はいたはずで、雌化してできた子宮にあたる器官に寄生虫の卵を保管させ、それを通常の産卵と同じように大量放出させるのです。まったく寄生虫というやつは、何をやり出すか分からないですな。
オコンマー腔虫に寄生された人間も、この蟹と同じような経緯を辿ることになる。体が女性化すると体内に子宮も出来て、そこには寄生虫の卵をパンパンに宿して育てながらやがては出産するという運びになる。しかしその後はどうかというと、体は決して元には戻らんのです。苦労してオコンマー腔虫を排除しても体は女性のまま。しかも生殖能力は無いときている。これもまた別の意味での生き地獄、いや、むしろ永遠に続くだけさらに酷い結果だと申せましょうなあ。
どうです恐ろしいでしょう。
ん? 意外に平然としていますな。それどころか妙にウットリとしているようにも見える。どうした訳で?
えっ、そのオコンマー腔虫になら、寄生されてもいい気がしている? 馬鹿なっ、気が狂ったんですか。男性廃業で、その上生殖能力の無い女性の体になってしまうんですぞ。
ええっ、それでもいい? いえ、むしろそうしたいの。だって私は同性愛者で、ずっと女になりたいと思っていたんだもの。性転換手術をしようかどうか迷っていたくらいだから渡りに船だわ。ですとっ?
うぐっ、何たることか。言われてみれば妙に艶めかしい目つきをする人だとは思っていましたが、そういう嗜好だったんですな。世の中ここまで乱れていたとはっ。いや、あなたがそれで満足だと言うのならそれでいいんですが。それにしても。ううーっ、価値観が打ち砕かれる思いです。
いやいや、それが悪いとは言わない。どうぞ自分の望む道を進んでください。しかし、その他にもたくさんいるズールラ寄生虫は非常に恐ろしいので、なにとぞお気をつけて。と、何だか保健所の公式発表みたいな物言いになってしまいましたな。面白くもない。
それじゃあ私の話はこれまでにしましょうか。この後はちゃんと病院へ行くんですぞ。ズールラ寄生虫の治療は二段構え三段構え四段構えの薬剤投与が必要になるので、なるべく大きな病院がいい。よかったらパーリパリにある国営病院を紹介しましょうか。そこへ行くまでの乗り物の手配もした方がいいですな。ちゃんと看護師が付き添って、途中で具合が悪くなったりした時のケアも出来るようにした方がいい。寄生虫もそうですが、ズールラ寄生虫駆除薬自体も相当に強い薬なので、副作用で気分が悪くなる場合もありますからな。
うん? そう言えば、やけに汗をかいていますな。それに呼吸も荒くなっている。気分が悪いのではないですか?
これはいかんな。さあさ、そこに横になりなされ。ゆっくり休んでなさい。私はその間パーリパリ行きの車の手配をしてくる。体調が悪くても大丈夫なように、横になれるスペースのある大きな車をな。いやいや、費用など心配するには及ばんよ。任せておきなさい。
ふう。少々手間取ったが、車の手配はしてきました。おっつけ十分もすればやってくるでしょう。体調はいかがですかな。さっきは大分苦しそうだったが。あっ、まだ立たん方がいい。病院に着いたら大変な薬品投与の治療が待っとるのだから、少しでも体力を温存しとかんと。
あらら、ずいぶん元気ですな。見違えるように活動的になられて。何だか目もギラギラと、って真っ赤じゃないですか。これはまるで鮮血のような、尋常な赤さじゃない。これではまるでパセード眼内虫に寄生された患者のような。それにその、さっきまでとは人が違ったように狂暴な顔つきは……ハッ、まさか本当にパセード眼内虫に憑りつかれたのでは。そんなはずは。寄生虫駆除薬を飲めばパセード眼内虫は根絶できるはず。
まさか薬を間違えていたのではあるまいな。
うぐっ、こ、これはっ! さっき飲ませた薬の瓶を確認してみたら、これは寄生虫駆除薬ではなくて強力整腸薬にすぎんではないか。しっかりしているように見えたが、あの婆さんは惚けとったのか。うかつだった。しかしさっきこの人は、まだズールラの刺身を食べてから十六時間とか言っとった。パセード眼内虫がこんなに早く活動するはずは……。
ハッ、もしやこの星の一日が三十四時間なのを忘れて時間を計算しとったんではあるまいな。地球から来た人がよくやる間違いだが。だとするとズールラの刺身を食べてからもう二十六時間以上が経過しとると考えるべきなのか。いかん。パセード眼内虫が活発に活動し始める時間帯ではないか。
あっ、ああ、しまった。こんなことをグダグダ言っとる場合じゃなかった。
……あの、どうして床に置いてあったゲムド族の剣を手に取られたので? ハハハ、まさかそれで私を襲うなんてことは。斬りつけて死肉を食らうつもりじゃないでしょうな。
ヒッ、ま、待ってくれ、話せばわかる。いっ、いや、脳活動を乗っ取られとるから話などは通じないのか。しかし何とか、頼む。この通りだ。命ばかりはお助け。わしには四人のかわいい孫が……うぎゃあーーーっ
了
「二杯目のお茶」ミステリー小説
老人ホームの休息所は、思いもかけず華やいでいた。
壁一面を占めた大窓の外に、満開の桜が並んでいたのである。
花群は雲母を思わせる放漫さで枝上に溢れ、眩しい陽光が儚く薄い花弁の際をクッキリと浮き立たせている。
ちょっとした花見の席といった趣きがあった。
誰もいないのが勿体ないようである。
山下が窓際のテーブル席を選んで腰を降ろすと、案内してくれた女性職員は「少々お待ちください」と言い置いて廊下の奥へと去って行った。
そして数分後、腕に介添えの手を沿えるようにして連れてこられたのは、灰色のジャージを着た萎びたような老人である。足元がおぼつかないのか、医療用の杖をついていた。
山下はちょっとしたショックを覚えた。記憶より、遥かにちっぽけな姿だったからである。
人は歳をとると背骨が曲がるだけでなく、身長も縮むものらしい。小さくなった分だけ余った皮が、干物のような皺になって体の表面に張り付いているかのようだ。以前は黒々としていた髪も、今は白鳥のように真っ白である。脂っ気がすっかり抜けてしまっている。
「山下君か。久しぶりだなあ」
老人は山下を見ると目尻を下げて微笑みかけてきた。
見た目に寄らず元気な声だったので、山下は少しホッとした。この人の記憶は果たして確かなのだろうかと、懸念を感じてしまっていたのである。
「お久しぶりです。長い間ご無沙汰してすみませんでした」
「いやいや、よく来てくれた。忍ちゃんは元気かい」
老人は杖をテーブルに立てかけると、山下と向かいあう席に腰を降ろした。連れ添っていた職員は、それを確認してから休息所端の給湯コーナーへ向かう。
「元気ですよ。『小暮叔父さんに会いに行ってくるよ』と言ったら『私の分もよーく挨拶して来てね』と頼まれました『おかげさまで家族五人共に健康で、幸せにくらしています。叔父さんもお元気で』とのことです」
「ふむ。忍ちゃんももう三児の母なんだね。お子さんは幾つになったのかな」
「上の子は今年から大学生で十八になります。真ん中は高校で十六歳。下の子はまだ十一歳」
「もうそんなになるのか。早いもんだなあ」
小暮老人は目を瞠るようにして、感慨深気に頷いた。
そこへ、女性職員がお盆にお茶を載せて持ってきた。山下と老人の前に湯飲みを置くと、「お帰りになる時には声をかけて下さい」と一礼してから去って行く。事務的で控え目な物腰しの人だった。
山下は職員を見送った後、自分の前にある湯飲をじっと見降ろした。手に取ったが、すぐに飲まずに底の底まで見入ってしまう。
一方、小暮老人はお茶を味わって、山下のようすを興味深く眺めていた。
「気になるかね。ここのお茶は割に美味しいよ。心配しなくてもいい」
「いえ」山下は決まり悪気に口元を綻ばせてお茶に口をつけた。頷いた。「なるほど。美味しいですね」
「だろう。ここの所長は静岡出身で、お茶にはこだわりがあるらしい。特産の茶葉を使ってるようなんだ」老人は窓外に目をやって、「毎日桜も見れるしな。ここも捨てたもんじゃない」
「静かで落ち着きますね。いつもこうですか」
「いや、今は昼寝の時間でね。皆は寝てる。そうでなかったら結構賑やかだよ。しかし、お茶と言えば、苦労した思い出があるな。私は田舎の出だから京都に移り住んだ最初の頃は、都のお上品なお茶文化が分からなくてね。二杯目のお茶を勧められても意味が分からず喜んで飲んだりしていたもんだ。亡くなった家内に『あなたは礼儀知らずで恥ずかしい』って怒られたなあ」
「二杯目のお茶を勧められたら『そろそろ帰ってほしい』というサインだっていうヤツですね」
「そう。家内は生粋の京都人だから、そういう事にはうるさくて」
老人は山下たち夫婦とは血が繋がっていない。妻の忍と血縁なのは、老人の奥さんの方である。その人は、忍の母の妹なのだ。忍の母は三姉妹の真ん中で、老人の妻は一番下の妹にあたる。
その人が亡くなったのは、もう四半世紀近い昔である。老人は長い年月を、一人で思い出を抱えながら生きてきたことになる。
「義叔母さんは品のいい人でしたものね」
「いやいや、そんなこともないが、マメなんだよ。私はズボラだから、あれが居てくれて助かった」
「夫婦は逆のタイプの方が補い合って上手く行くってよく言いますよね」
山下はそう言ったものの、気が強い妻の顔を思い浮かべると、少々疑問を覚えざるを得なかった。自分たち夫婦も性格が正反対だが、補い合った関係にあるのかどうかは自信が無い。結婚して以来尻を叩かれてばかりで、自分が一方的に犠牲になっているような気がしないでもなかった。
それとは逆に、老人の妻の義叔母は口調も優しくて、温和な笑顔の記憶しかない。きっと理想的な夫婦関係だったのだろう。
「まったくだ。私には過ぎた女房だった。歳は下だが、私などより遥かにしっかりしていた」
老人は遠くを見る目でしみじみ呟いた。
「お茶と言えば、僕らも少々苦労しましたよ。僕の田舎の山形では、京とは逆にお茶は二杯飲まないと縁起が悪いと言われているんです。そのために、お客には小さな湯飲みでお茶を出したりする。どうしてなのか、由来はサッパリ分かりませんが。結婚する前、そこへ生まれも育ちも京都の妻を連れて帰った。どうなったと思います?」
「ほう。ちょっと想像がつかないが」
「田舎の母と喧嘩になったんですよ。母は昔の人なのでどうしても二杯目のお茶を飲んでもらいたいと引き留めるし、妻は妻でどうしても帰ると言い張って腰を浮かしかける。しまいには『私のお茶が飲めないのっ!』『お義母さんこそ私にどうして欲しいって言うのっ』ってな騒ぎになってしまって。二人共気が強いもんだから大変でした」
「ハハハ、それは忍ちゃんらしいね」
「ええ。一時は『結婚は許しません』みたいなことになりかけたんだけど、何とか説明して誤解を解いてもらいました。大変だったけど、今思うと早めに喧嘩してくれて良かったですよ。両方とも意地っ張りだから、気を遣ってストレスを溜めた後だったら修復不能な関係になっていたかもしれない。今は比較的仲よくやっているようです」
「そうか。それは良かったな」
言葉が途切れ、沈黙が訪れた。
山下はお茶をゆっくり飲んだ。本当の事を言えば、このお茶をさして美味しいと思ったわけではない。元々舌が肥えてはなくて、茶の良しあしなどはさして判りはしない。それは、あるいは老人も同じだったかもしれない。お互いに、話の接ぎ穂を拾うのに苦労している感じがあった。
数万か、あるいは数十万かも知れぬ桜の花弁が窓の外から見つめる中、奇妙に重い空気が漂う。お互いに口にしたいことがあって、どちらが先に切り出すべきか迷っているような。口に出したが最期、後戻りはできない業のようなものを感じているかのようである。
先に口を開いたのは老人の方だった。
「ところで、今日はどんな用で来てくれたのかな。顔を見るためだけでは無かろう」
「ええ。実は二十三年前に義叔父さんの家で起こった事件について話をしたかったんです。もう思い出したくもないかもしれませんが、確認しておきたいことがありまして」
「やはりそうか」老人は大きく息をついた。「虫の知らせかな。私もあの事件について考えていたところだ。君の名前を聞いた時はそうだろうと思ったよ」
「すみません。少々時間を取らせて頂けますか」
「ああ、もちろんだ」
「ありかとうございます」
山下は足元に置いていた鞄から、薄い書類を取り出してテーブルの上に置いた。前日に作成した、事件の概要をまとめたものである。警察官という職業柄もあって、朧気な記憶だけで話をするのは避けたかった。相手に不必要な緊張を強いることになるかも知れないが、致し方ない。
「それでは、まずは事件の概要を確認させて下さい。事件が起こったのは二十三年前の八月二十日。その日義叔父さんの家を、僕を含め三人の人物が訪れました。他の二人は岩波和彦さんと辻村義則さん。岩波さんは賃貸しアパートを経営している他、観光客向けに占い師のようなこともやっている人でした。辻村さんは骨董専門の古物商です」
「ああそうだ。暑い日だったな。外では蝉が鳴いてた。よく覚えてるよ」
「午後一時頃、叔父さんは車で僕を迎えに来てくれたのでしたね」
「私の家には余分な車を駐車する場所がない。岩波君と辻村さんには一週間前にも来てもらったんだが、前の通りに無断駐車することになって、ご近所に迷惑をかけてしまったんだ。そんなことを繰り返すより、こちらから迎えに行った方がいいかと思ってね。住んでる場所は近いから、車で住居を回って彼らを拾うのは造作も無かった。こう見えても私は運転は得意なんでね」
「僕は迎えに来てもらって大助かりでした」
「なに、こちらから頼んだんだ。君を迎えに行くのは当然のことだよ。休暇で来ているところをお願いして悪かったね」
「休暇とは言っても妻の里帰りについてきただけですし、京都ももう観るところは無いかなと思って退屈していたところなので丁度良かったです。でも、先に車に乗っていた岩波さん辻村さんと顔を合わせた時は少し緊張しました。二人共、邪魔者を見るようにムッツリしていたので。こう言っては何だけど、結構怪しい風体でもあった。まるで上海あたりの裏社会に迷いんだようで、義叔父さんが僕を呼んだのも無理はないかなと思いましたよ」
「岩波君は易者めいた和服がトレードマークだったし、辻村さんはずんぐりしてナマズ髭を生やしていたな。歳も行っていて、海千山千の雰囲気があった。怪しいと言えば怪しい見た目だが、君を頼んだのはそれが理由じゃない」
「分かっています。大きな金を動かす契約をする時には第三者の立会人がいた方がいいからということでしたね」
「『この人は警察官だ』と言ったら、彼らも不当に安い買い取り額は言い出しにくいだろうからな。こちらも出来るだけ高く売りたいから。ちょっとした駆け引きを使ったわけだ。しかし、あまり効果は無かったのかな」
老人は小さく嘆息してから、お茶の続きを口にした。
小暮老人がその日に売りたかったのは、当時所持していた骨董品である。一時期骨董に凝っていたために、掛け軸や壺などの収集品は数十点に及んでいた。そして愛蔵していたそれを、すべて処分しようと決めたのは、そんな品々などはどうでもよくなるような不幸に見舞われたためだった。
山下はそのように聞いている。
二十年以上も寄り沿った妻が、交通事故で命を落としたのだ。
それはあまりに突然で、目の前に大きな黒い穴がポッカリ空いたかのようだった。朝には元気に話していた人が、夕には動かない骸となって帰ってきたのである。到底信じることが出来ず、呆然とするばかりだった。
しばらくは何もする気が起きず、食事もまともに摂れないくらいに抜け殻となった。
そしてその、哀しみに圧し潰された眼で見つめると、骨董などは何の意味もないつまらないものに思えてきたのである。
生前、妻は柄にもない夫の趣味を、苦笑しながらも見守ってくれていた。決して勧めはしないながらも否定はせず、時には少なくはない出費も『あなたが満足ならそれでいいんじゃない』と大目に見てくれていた。心の中がどうだったかは分からないが、飾った品々に甲斐甲斐しくはたきをかけ、こまめに布巾で拭いたりして、見映えが良い状態に保ってくれたりもしていたのである。
ところが今はその妻がいない。家の中を掃除する者も無く、それらは埃を被って行く一方なのだと思うと、虚しさばかりが募ってきた。
こんな物、何の役にも立たないではないか。と、すべてドブに捨てたい気分になった。
そんなところへ、「それならば全部私に譲ってもらえないですか」と声をかけてきたのが骨董商の辻村氏と、骨董趣味仲間の岩波氏だったというわけである。
その頃はまだ老人ではなかった小暮氏は、哀しみの中でも合理的な判断を下せるだけの柔軟性は持ち合わせていた。元々理系で、物事を理詰めで考える方でもある。
それに、金がなければ将来が不安でもあった。考えた末、二人に買い取り額の提示をしてもらい、高い金額をつけてくれた方に売ることに決めた。金額に差が無ければ友人のよしみで岩波氏に譲るつもりだが、大きな開きがあった場合でもそうする、というほどのお人好しではない。
とは言え数十点をすべて査定するのはそれなりに時間がかかる。二人にはまず家に来て骨董品を見てもらい、一週間後に再びやってきて最終的な買い取り額を提出してもらう運びになった。
山下が呼ばれたのは、その金額が提出されて譲り渡す相手を決める予定の席である。
「ええ。家に着いてからの出来事を順を追って振り返りましょう。僕らは家に着くと、玄関脇の和室に通された。そして和テーブルを囲んだ席に着いたらすぐに義叔父さんがお茶を出してくれたのでしたね」
「うむ。本題に入る前に寛いでもらおうと思ってね。お茶くらいは出すものだろう。しかし今考えれば、あの時のお茶の出し方は礼儀にかなっているとは言えなかったかな。私は何もかも家内に任せきりだったので、お茶の淹れ方すら覚束なかったんだ。お茶菓子すら用意していなかった。独りになったら何もできない。その事実に気づいた時には愕然としたよ。私は電気機器のエンジニアとして技術者畑ばかりを歩いてきたので、日常的なことが全然分からなかった。それは薄々気づいてはいたのだが、まともに意識したことは無かった。あの時は家内が亡くなってからそんなに時間が経っていなかったから、なおさらだ」
「義叔父さんはまず四人分の湯飲みを和テーブルの上に出し、順に急須でお茶を注いで行ったんでしたね。そしてそのうち三つをお盆に載せて、『さあどうぞ』とテーブルを挟んだ向かいにいる岩波さんの前へ差し出した。『お好きなものをお取りください』という形で」
「ああ、そうだった。岩波君が一番近かったのでね。岩波君、辻村さん。そして君、の順番でお盆を差し出してお茶を取ってもらったんだった」
「岩波さんはお盆の上のお茶を取る時に、ちょっと変わった動きをしました。いったん自分の一番近くにあるお茶に手を伸ばしかけて、気迷うようにその手を途中で止め、結局自分から遠い端にあるお茶を取ったんです。そして大事そうにその湯飲みを自分の前に置くと、ニッコリと幸せそうに微笑んだ。まるで何十万もする高級ワインを振る舞われて、『これは大事に飲まなければなりませんな』と自分に言い聞かせているかのように。その恵比須顔が僕の脳裏に焼き付いてずっと離れないんです。そのお茶が、まったく正反対の結果を岩波さんにもたらしてしまったのだから。嫌でも記憶に残らざるを得なかった。もっともその時には、まだそのお茶には、そういった凶悪な運命をもたらす成分は含まれていなかったかとも思われますが」
老人は目を細め、地蔵のように頷いた。
「君がそれを証言してくれたのだったな。君がいなければ、私が疑われていたかも知れない。感謝しているよ」
「その時僕は、岩波さんが自分の近くにあるお茶を取るのをやめて遠くにあるお茶を取ったので、嫌な感じがしたんです。もしかしたら、手前のお茶にはゴミでも入っていたんじゃないかって。髪の毛が混入するとかはたまにあることだから。それを見つけて避けたんじゃないかと。岩波さんの次にお盆を差し出された辻村さんもそのお茶を取らなかったので、なおさらそう思った。でも余りものとして僕に回ってきたお茶を手に取って見たら、そんなものは入っていなかった」
「当然だよ。私もお茶を淹れた時に確認している。そんなものは無かったさ。辻村さんも何気なくお湯飲みを取っただけだっただろう」
「ええ、そうですね。岩波さんはちょっと気紛れを起こしただけなのかもしれない」山下はいったん黙り、口元を引き締めた。気持ちを入れ直すようにして、「出来事の確認を続けましょう。客の僕たちは出されたお茶を飲んだ。岩波さんも口をつけていたはずです。するとそこへ玄関から呼び鈴が鳴った。義叔父さんは『ちょっと失礼』と言って部屋を出て玄関へ行って来客を迎えた」
「近所に住んでる義姉が家庭菜園で獲れたゴーヤとトマトを持ってきてくれたんだ。ゴーヤは時期が来ると一度に沢山成って持て余してしまうらしいね」
「そうらしいですね。やってきたのは亡くなった義叔母さんの一番上の姉でした。僕の妻忍の母の姉でもあるので、当然僕とも親しい間柄です。僕は玄関で話す声を聞いて、誰が来たのか分かったので挨拶しに行った。部屋を出て玄関に顔を出したんです」
「義姉は君を見て喜んでいたな。『あーら山下君。丁度良かったわ。山下君にもゴーヤをあげるわね』とか言って。義姉は君のような男前の好青年が大好きなんだよ。ゴーヤはともかくとして、義姉の作るトマトはすごく美味いんだ。大量生産されてない、昔ながらの味っていうのかな」
「ええ。おすそ分けしてもらったのを帰ってから食べたら、とても味が濃い美味しいトマトでした。もっとも、その時には落ち着いて味わえないような気分になっていましたが」
「それは私も同じだったよ。君よりもショックは大きかったろうな。何しろ自分の家で死人が出てしまったのだから。しかも亡くなった岩波君は学生時代からの友人だ。彼を亡くしたのは、二重にショックだったよ」
「岩波さんはゴーヤを持ってきた義伯母さんとも顔見知りなんでしたね」
「古い付き合いだからな。彼は時々私の家に遊びに来ていた。下手な碁を打ったりすることもあったよ。家内を訪れた義姉と顔を合わせることもあって顔見知りになったんだ」
「だから岩波さんも玄関に顔を出したんですね。僕の後からひょっこり現れて、野菜を持ってきた義伯母さんに『○○さんの顔も見れるとは。今日はやっぱり縁起がいいですな』とかお愛想を言っていた」
「彼は昔から調子がいいタイプなんだ。観光客相手の易者の真似事なんかはお手の物だったろう。結構稼いだと聞いている」
「そんなこんなで、その時和室に居残っているのは辻村さんだけになった。このことが後で重大な意味を持ってくるんですね」
「まったく、何が災いになるか分からんものだ」
老人は憮然として、手元のお茶に目を落とした。
「義伯母さんは野菜を置くとすぐに帰った。僕らは元の和室に戻り、お茶の残りを飲んだのでした。岩波さんのお茶も半分くらい残っていて、続きを飲んだと記憶しています」
「美味しそうに飲んでくれていたようだったな。安い番茶に過ぎなかったが。みながお茶を飲んで一息ついたところで、私は『それではそろそろ用件に入りましょう』と促した」
「その時は、何だか急にピンと張り詰めた空気が漂ったようでした。辻村さんは終始硬い表情だったし、恵比須顔だった岩波さんの眼も、抜け目なく光ったような気がした。僕らは義叔父さんに促されて、襖一枚を隔てた隣の部屋へ移動した。そこには壺や皿、掛け軸などの品が多数並べられていました。岩波さんと辻村さんはそれらの品を改めて見て行った。時おり頷いたりして、用意して来た買い取り額の正しさを確認している風だった」
「買い取り額の提示の前に、もう一度品物を見てもらった方がいいだろうと思ってね。押し入れや引き出しの奥にしまってある品も全部出してきて用意していた。それらのほとんどは辻村さんを通して買ったのだから、彼は改めて見なくても値打ちは分かりそうなものだが。新たな傷や汚れが無いかどうか確かめていたのかな。細かい所を見て、手帳に丁重にメモしたりしていた。一方岩波君は大雑把だった。『フム。この品は何度見てもいいですねえ』とか『この古び方が醸し出す詫び錆が……』とか鑑賞者としての感想を漏らす。金額はもう決めてあったんだろうが、本当に査定しているのかと思ったよ」
「岩波さんは感覚派なんですね。客観的な評価額ではなく、自分にとってどのくらい価値があるかを基準にしていたのではないですか」
「それが骨董を愉しむ本来のやり方なのかも知れないな。今になって思えば、私は骨董品の価値なんて何一つ分かってはいなかった。理系の朴念仁が歴史深い文化に憧れていただけでね。そのきっかけを作ってくれたのが岩波君で、様々な品を教えてくれて深いところに導いてくれたのが辻村さんだったという気がする。その二人が私の収集品を買い取りたいと言うんだから、気分は複雑だった。もしも辻村さんの買い取り提示額がすごく安かったりしたら、私は騙されて高く買わされていたということになってしまうし、岩波君の提示額も、安ければ私の収集品をそんなに低く見ていたのかとなってしまう。これまでは、お世辞もあったろうが『いい品ですなあ』と、飾られているのを見るたびに褒めてくれていたのでね。まあ、譲って欲しいと言うということは一定の価値は認めているということなんだろうが」
「僕の眼には立派な収集品だと映りました。知識も審美眼もまったく無いので、当てにならない感想ですが」
「私の眼も同じようなものだったよ。そのことは、後で分かったのだがね」
「岩波さんは上機嫌でした。『もう自分が買い取ることになるのは決まった』と言わんばかりに軽口を叩いたりしていましたね。学生時代の思い出話を始めたりもした」
「金が無くてモヤシばかり食べていた話とか、二人して同じ女学生に入れあげて同時に玉砕した話とかだったかな。赤面の至りだが。今考えると、あれは『古いつき合いだから当然私に譲ってくれるでしょうね』という彼なりのアッピールだったのかな」
「その一方で辻村さんはポーカーフェイスでしたが、何となく岩波さんの浮ついた態度を疎ましく思っているような雰囲気が感じられた」
「そうだったかね。私はどうもそういった感覚には疎くて」
「その時の僕はそう思いました。辻村さんは時おりチロリと細い眼で岩波さんを観察しているようなところがあったので。ちょっと蜥蜴か何かを思わせるような、冷たさを感じさせる視線でした。骨董商の人っていうのは、人を見て金のやり取りをするからこういう目つきになるのかな。とか思って厭な感じがしたりもしたんです。しかし、それは僕の思い違いで、実態はそんな甘っちょろいものでは無かったのかも知れない……」
「恐ろしいことだ。それを思うと今でも背筋が寒いよ」
老人は首を大きく横に振った。
「ええ。しばらくすると、岩波さんのようすに異変が起こり始めた。あれは、最初にお茶を口にしてから一時間くらい経った頃でしたかね。何だか目の動きが鈍い感じになって、呂律が回らなくなってきた。本人は『あれっ、変だな。何だか体調が』とか最初の頃は笑っていたけれど、どんどん様子がおかしくなって、変な汗はかくわ呼吸は苦しくなるわで立っていられなくなった。明らかに、何か重大な疾患が、彼を襲っているようでした」
「激しく嘔吐し始めた時には私も驚いた。胃の中は空で、出てくるのは胃液ばかりのようだったが。意識が遠くなり始めたのを見て『これはいかん』と思って救急車を呼んだんだ。しかし、その時にはもう手遅れだった。あんなに急に亡くなってしまうとは……。救急隊員からは『何か危険な物を飲んだり食べたりしませんでしたか』とか訊かれたが、心当たりなどないし」
「その辺り、僕は比較的冷静だったのかもしれません。警察官という職業柄、万が一これが事件だったら、と考えた。まさかとは思いましたが、岩波さんが病院へ運ばれた後、彼が飲んでいたお茶の僅かな残りをティッシュに沁み込ませて保存することにしたんです。僕自身、そうしないと僅かながらも疑念が残り、後味が悪くなってしまいそうな気がしたので。もしこの件が不審死と判断されて捜査されることになったら、地元警察の担当者にそれを渡すつもりでした。そして『毒など入っていませんでしたよ』との言葉を貰って安心したかったんです。ところがその期待は裏切られた。岩波さんは亡くなり、その原因は毒物だと判明してしまった。運命の歯車が、最悪の方向へ回って行くようだった」
「残ったお茶の中から検出されたのは、テトロドトキシンだったかな」
「そうです。いわゆるフグ毒ですね。フグから精製するにはそれなりの技術が必要ですが、たったの1、2ミリグラムで人が死に至るという劇薬です。どうしてそんなものが使われたのか、調査結果を聞いても訳が分からなかった」
「それは私も同様だよ」
「テトロドトキシンは摂取してから三十分から数時間後に効果が出始めます。岩波さんはお茶を飲んでから約一時間後に体調を崩し始めたので理屈には合っている。失礼ですが、毒が検出されたと聞いた時、僕は最初、義叔父さんに疑いの目を向けたんです。何と言っても義叔父さんが出したお茶の中にそれが入っていたのだから。見ていても毒を入れたような素振りは無かったけど、2ミリグラムくらいだったら事前に湯飲みの底に塗っておくだけでも殺すのは可能ですから。でも、それが岩波さんに配られた時のいきさつを思い出してみると、仮に義叔父さんがお茶に毒を入れたとしても、それを岩波さんに取らせるのは不可能だったと分かった。義叔父さんはお盆に三つの湯飲みを載せて差し出して、岩波さんに好きなものを取ってもらったのだから、確実に毒のお茶を配ることは出来なかったわけです。しかも岩波さんはその時どういうわけか、自分の近くのお茶は取らずに一番遠い位置にあるお茶を手に取った。毒の入ったお茶を近くに配置して、それを自然に取るようにしむけるというような方法も使えなかった」
「ああ。こう言ったら何だが、あの時岩波君が気紛れを起こして遠い位置にあるお茶を取ったのは、私にとっては僥倖だったのかもしれんな。もし素直に手前のお茶を取っていたら、私が疑われたかもしれない。まさか彼はそれを直感して取るお茶を変えたわけではなかったろうが」
「義叔父さんへの疑いは晴れました。それでは誰がお茶に毒を入れたかと言うと、そのチャンスがあった人物は一人しかいなかった」
老人は頷いて、
「まさか辻村さんがそんなことをしようとは。人は見た目によらないものだな」
「本当に、人は見かけに寄らないものですね。義伯母さんが野菜を持ってきてくれた時、義叔父さんと僕、そして岩波さんは和室から出て玄関に顔を出した。その時、部屋には辻村さんが、たった一人で残っていた。その時には毒を入れ放題だったわけです。そしてその時以外には、岩波さんのお茶に毒を入れる機会は無かった」
「状況からしたら、疑いを受けるのは当然だろうな。しかし、私には納得がいかない。私の知る辻村さんは、そんなことをする人じゃあ無かった。温厚で、年相応の落ち着きがあって、ちゃんとした常識人だったんだ。いったい何が彼を狂わせたのだろう」
「金。というのが捜査陣の見解だったようです」
「ああ、それは私も聞いた。しかし、本当にそうなのかな」
「警察では辻村さんを重要容疑者と見なして尋問しました。厳しい取り調べをしたと聞いています。殺害の動機は中でも重要な捜査ポイントで、徹底的な調査がなされた。その結果、意外なところから動機らしきものが浮かび上がってきた」
「その動機について聞いた時には何とも複雑な気分だったよ。やりきれなくて、哀しくもあり、だが一方では喜ぶべき部分もあったのだから」
「義叔父さんが所有する骨董品の中に、少なく見積もっても一千万円は下らない。おそらくは二千万に近い値が付くと思われる掘り出し物の壺があると判明したのでしたね」
「ああ。中国の青磁器で、骨董市で手に入れたものだ。二百年以上前の品という触れこみだったが、まさか本物だとは思わなかったな。多分売った人も偽物だと思っていたんだろう」
「そうでなければ安く売るはずはないですよね。辻村さんは頑なに犯行を否定していましたが、その品の価値を知っていたのだろうと追及されると否定しきれず、高額な壺を二束三文で買い取ろうとしていたことを認めた」
「あの壺は他の骨董商から買ったものだった。反対に辻村さんから買った品はすべて買値を下回る安物に過ぎなかったんだ」老人は大きく嘆息した。「人間不信になりそうだったよ」
「辻村さんは近年古物商の仕事が上手く行かず、金に困っていた。一千万を超える金は、どうしても欲しい状況だったんです」
「だから競争相手の岩波君を毒殺したというのか。しかしね、そんなことをしなくとも、もっと他に方法がありそうなもんじゃないか」
「それは僕もそう思います。しかし、僕の警察官としての経験から言うと、犯罪者というのは時として不合理な判断をするものなんです。どうしてこんなに賢い人が、と思うことはままありますよ」
「魔が差した。ということなかな……」
老人は鉛を口に含んだように不安な顔をした。そしてそれを洗い流そうとするかのようにグビリとお茶を飲む。
「警察官などという仕事をしていると、悪魔の囁きというのは本当にあるのかも知れないと思うことはありますよ」
「ところで辻村さんは、自白はしたのだったかな」
「いえ、それはしていません」山下はテーブル上の書類を捲って目を走らせ、確認してから答えた。「ただ騙し討ち的に高価な壺を入手しようとしていたのを認めただけで、殺人については首を縦に振っていなかった。あのまま行けば犯行を認めるのも時間の問題だったかも知れませんが、辻村さんはそれすらもできないようになってしまった」
「脳溢血だったっけか」
「老齢の辻村さんには、警察の取り調べは負担が大きすぎたのかも知れませんね。警察署での聴取が終わった後、帰り路で倒れ、結局意識は戻らず一週間後には帰らぬ人となってしまった。だから犯行の細かいところは今だに分からないままです。骨董古物商に過ぎない辻村さんがどうしてテトロドトキシンなどという毒物を入手できたのか、とか。どうして自分が骨董品を買い取れる可能性もあった時点で早まって犯行を行ってしまったのか。とか。謎はいくつか残ってしまった。ちなみに岩波さんは亡くなった時、ポケットにメモ帳を持っていたんですが、そこには義叔父さんに提示する予定だった買い取り額が記されていました。それは辻村さんが考えていた買い取り額と、同等の額だったようなんです。正確には岩波さんの方が僅かに高かったようですが。だから辻村さんは悲観する必要なんかなかった。どうしても高価な壺が欲しいなら、提示金額を予定より少し高く言えば良かっただけのはずなんです」
「岩波君は、私が高価な掘り出し物の壺を持っていることに気づいていたのかな。私にはそれが気になっている。もしそれが分かった上で安い買い値をつけていたのだとすると、彼も辻村さん同様に私を騙して一儲けしようとしていたということになってしまうが」
「それは何とも言えないですね」
「今思い出しても何とも後味の悪い事件だよ」
老人は話を纏めるようにそう言うと、窓外に眼をやった。
外は風が吹いてきたようで、桜を載せた枝がゆらゆらと揺らめいている。しかし花々は生気に満ちており、少々の強風であっても散る気配はない。
老人の小さな胸には一体何が去来しているのだろう。
山下は物憂気顔に隠れた心中を、想像しないではいられなかった。
桜と自分を重ね合わせ、「外の桜と比べると、今の自分は散り落ちた一枚の花弁のようなものに過ぎない」などと思っているような気がした。
この人に、これ以上重荷を背負わせたくはない。しかしそれは、できない相談だった。山下の話は、これからが本題なのである。
「僕にとっても後味はよくありませんでした。この事件のことが、ずっと心の隅に引っかかっていたんです。何かピースの一つが欠けているような気分がつき纏っていた。理性ではもう終わったことだと思っても、無意識が「それは違うよ」と囁いているような。どうしてそんな気分になるのか分からなかったんですが、一週間前に気がついたんです。僕は一つ、大きな見落としをしていたんじゃないかって。気になって、岩波さん毒殺事件の捜査を担当していた知り合いの刑事に問い合わせてみた。そうしたら、僕の疑惑は、裏付けられてしまったんです。僕は義叔父さんに、会ってみる必要性を感じた」
「それでここに来たのだね」老人は穏やかに、居ずまいを正して問い返した。「どんなことを思いついたのかな。興味があるね。言ってごらん」
山下はゴクリと唾を飲んだ後、思い切って口を開いた。これこそが、口に出したら後へは引けないパンドラの箱の底に秘めるべき言葉だ。
「岩波さんが飲んだお茶に毒を入れることができた人物は、辻村さんだけではなかったと気がついたんです」
「もしかして、岩波君が自分で毒を入れて飲んだと考えているのかな。しかし彼は自殺するようなタイプではないよ」
「いえ、そうではありません。あの事件は他殺でした。そして、毒を入れることができたもう一人の人物は、今僕の目の前にいます」
動揺するか、あるいは怒り出すか、と思いきや、老人の態度は変わらなかった。森の奥に静かに広がる、波紋一つ無い湖面を見ているようである。
「ほう。いったいどうすれば私が岩波君を毒殺できたのかね」
「分かってしまえば単純なことでした。僕がそれに気づいたのは、夕食後に妻の入れてくれたお茶を飲んでいた時です。子供らはお茶を飲む習慣がないので、僕ら夫婦はいつも二人でお茶を飲む。妻は湯飲みを二つテーブルの上に出し、急須でお茶を注いでいた。一つ目の湯飲みに注ぎ終わり、二つ目の湯飲みに注ぎ始めた時、せっかちな僕は何気なくお茶が入った一つ目の湯飲みを手に取ったんです。すると、妻がプンプンと怒るんですね『どうしてあなたにばかり幸運が行くのよ』って。そう言われても、何のことやら分からない。僕はそのままお茶に口をつけました。すると妻は『大体あなたは普段から……』って文句を言い始めた。一カ月前に、僕が宝くじで十万円当たったのが気に食わないって言うんですね。妻は昔から宝くじが好きで随分買って来たのに、一万円以上の当たりには出くわしたことが無い。なのに、たまあに買っただけのあなたに大きめの当たりが出るなんて、って。気持ちは分からなくもないですが、言いがかりもいい所だし、それが何でお茶と関係するのかが分からない。よく訊いて見たら、『あなたが今盗って行ったお茶には茶柱が立っていたのよ』って言うんです。妻は神秘的なものが大好きで、幸運をもたらすキーホルダーとかを集めてる。開運グッズマニアみたいな所があるんです。だから茶柱が立ったお茶は自分が飲みたかったと。それが分かった僕は『じゃあこのお茶は君にあげるよ』って言ったんですが、『口をつけた後のお茶なんていらないわよ』ってさらに怒られた。とんだところで大目玉です。しかし僕はその時に、フッと閃く思いがした。縁起担ぎの人は、茶柱が立ったお茶は是非とも自分が飲みたいものなのだな。そう考えた時、あの事件が頭に浮かんできたんです。毒殺された岩波さんは占い師を副業にしていた。ひょっとしたら、彼も『茶柱が立ったお茶はどうしても自分が飲みたい』と思うような縁起担ぎだったんじゃないかって。そう考えてみると、思い当ることはあった。岩波さんは差し出されたお盆からお茶を取る時に、どうして自分の近くからではなく、わざわざ遠い位置にあるお茶を取ったのでしょう。そしてどうしてそれをさも大事そうに抱えるように手元に置いて、ニッコリと微笑んだのでしょう。そしてその時から、岩波さんの機嫌は良くなったように見えた。野菜を持ってきた義伯母さんに、『○○さんの顔も見れるとは。今日はやっぱり縁起がいいですな』などと軽口を叩くほどに。それに気づいた僕は茶柱について調べてみたんですが、茶柱が立ったお茶というのは、『人に知られないうちに茶柱を飲み込むのが幸運を呼び込むやり方だ』という俗説があるようですね。そういうお茶を見つけたら、岩波さんはきっとそれを実行したでしょう。だから、もし義叔父さんが岩波さんを毒殺しようとするのなら、毒と同時に茶柱の一本を湯飲みに入れて、そこにお茶を注いで出せば良かったんです。そうすれば岩波さんは相当な高確率で、その死に至る杯を自ら選んで手に取ってくれた。とは言え茶柱というのはそう頻繁に立つものじゃない。都合よく茶柱になる茶の茎はどうやって手に入れたのか、と疑問を感じられるでしょうか。しかしよく考えると、それはそんなに難しくない。高級茶には茎だけを選別して作る、茎茶というものがありますから。それを買ってきて茶茎を丁度良い長さに切って湯に浮かべ、茶柱になったものを回収して乾かして使えばいい。それを湯飲みの底に貼り付けておくのは、一滴の水だけでも充分でしょう。そこへお茶を注げば、茶茎は自然に浮かんで茶柱になる」
少しの間があった後、老人はゆっくりと頷いた。すべてを達観したような穏やかさで、
「なるほど。そういう方法があるのか。言われてみれば、君の言う通り、岩波君は相当な縁起担ぎだったよ。仕事柄、運気を呼び込む方法などにも精通していた。出されたお茶を見たら茶柱が立ってないかどうかを確認するというのは、彼ならいかにもやりそうなことだ。君の言う方法は、実現性が高い、とは言えるのじゃないかな。しかし成功率百パーセントではないだろう。もし彼が狙い通りに毒入りのお茶を取らなかった場合はどうなるのかね」
「その時は『すみません、髪の毛が入っていました』とでも言って毒入りのお茶を回収して茶殻壺に中身を捨て、新たに毒の無いお茶を淹れて出せばいい。殺人の計画は延期になってしまいますが、それだけのことです」
老人は俯き黙り込んだ。
「僕は事件を担当した刑事にも問い合わせてみました。死んだ岩波さんの体内からは、茶柱にあたるようなものが発見されていなかったかと。すると彼らはしっかりと調べていました。テトロドトキシンが摂取されてから効果を発揮するまでの所要時間は三十分から数時間だから、数時間前に何を飲んだり食べたりしたのかは調べる必要がある。腸の内容物は当然検査するわけです。その結果、胃のすぐ下の小腸から、お茶葉の小枝と思われる切れっ端が見つかっていたそうです。なのにそれが何を意味しているのかは、誰も気づいていなかった。これは考えてみると不思議なことです。人間の思考というのは、常識の枠から離れるのが非常に難しいものと見えますね。しかし、僕はこの事実を重視します。たまたま犯行方法と合致する茶柱が飲まれていたなどということは、非常に希少な偶然でしか起こらないと言わざるを得ない。偶然ではない、と考えた方が合理的なんです。だから僕は告発しなければならない。義叔父さんが岩波さんを殺した犯人なのだと。いや、少なくとも、僕はそういう疑いを色濃く抱いているというということを」
山下が言い終わると、怖いような沈黙が訪れた。
老人の表情は変わらなかった。変わらな過ぎたと言っていい。決して動かない木彫りのお面と化してしまったように。口を堅く引き結び、もう二度と開くまいと決めてしまっているかのようである。
窓外の桜は動くのをやめ再び静まった。先程吹いていた風は、一時的な突風に過ぎなかったようだ。
壁に掛かった柱時計の音が、やけに大きく感じられてくる。砂漠を進む砂鼠の歩調のように、軽く渇いたリズムを刻む。玄関脇にある職員詰所の話し声も、微かに聞こえるような気がしてきた。こちらの声は、まさかあちらにいる人には聞き取られていなかったろうな。山下は、そんなことまで心配な気がしてきたのである。
老人の眼は、まともな思考を持たぬチンパンジーの瞳のように何を考えているのか判じ難かった。
山下は焦れて口を開いた。
「何か言っては頂けませんか。事件が起こったのは二十三年も前だ。仮に犯行は可能だったと分かったとしても、今さら立件するのは不可能でしょう。有罪にするだけの証拠は無い。僕はただ、真実が知りたいだけなんです。どうして岩波さんを殺害したりしたのか。ハッキリ言うのがお厭なら、仮定の話として話してくれてもいい。もしも自分が犯人だとしたら、こういう可能性は考えられるだろう、と言った風に」
「いや……、話すのが厭だということはないよ。覚悟はしていた。あるいはこの時を、私は待っていたのかも知れないな」老人は大きく息を吐いた。浮き輪から、一気に空気が抜け出て行ったかのようだった。長い間背負い続けた肩の荷を降ろしたように見えなくもない。「それでは言葉に甘えさせてもらって、仮定の話として話させてもらおうか。もしも私が岩波君を殺害しようとするなら、どういう動機が考えられるのか。それは……そうだな。やはり少し前にあった妻の死が、彼と関係していたとするのが私のような人間が殺意を抱く理由としては考えられるだろうな。例えば妻が交通事故に遭う前日に、彼が『東方に吉あり』などと妻に対して言っていたとしたらどうだろう。自信満々に断言されたものだから、妻はその言葉に従って予定を変えて東に住んでいる友人に会いに行き、その途中で事故に遭ったのだとしたら。どうしても拭いきれないわだかまりが胸に兆すのは当然ではないかな。この男が余計なことさえ言わなければ妻は生きていたのに、と。しかも本人はそのことを気にする素振りも無く、しゃあしゃあとして現れて、『持っている骨董品を全部売ってください』と言ってきたとしたら、いい感じはしないだろう。その上、それとなく打診してきた買い取り額が、一千万以上する掘り出し物の品を、全く無視した安値だったとしたら、腹も立つというものだ。私はその品の価値には気づいていた。人に言っても波風を立てるだけで得にはならないから言わなかっただけでね。長い付き合いなら、彼が高価な壺の存在を知っているのかどうかくらいは分かる。その額を聞いた私が、愕然としたとしてもおかしくはないだろう。その頃、骨董品を譲って欲しいと言ってきたのは岩波君だけではなかった。辻村さんも同じ要望を私に伝えてきた。なので私は二人に家にきてもらい、骨董品を見てもらうことにした。岩波君に『よく見直して考えを変えてくれ』と言いたい気持ちもあったよ。その時二人にお茶を出した。一週間後に君と一緒にやってきた時と同じように、お盆にお茶を二つ載せて岩波君に差し出して、そのうち一つを取ってもらった。そうしたら、彼は自分からは遠い位置にある、茶柱が立ったお茶を取るんだな。さも大事そうにそれを取って、幸せそうにニッコリと微笑んだ。お茶を入れた私は、そのお茶に茶柱が立っていることには気づいていた。だからその笑顔を見て、この男は人に不幸を押し付けておいて、自分だけはあくまで幸運を手に入れようとするのか、と思った。何ともやりきれなかった。その時に殺意のようなものが芽生えたのかもしれない。そして後でそれを思い返した時に、茶柱を利用して毒入りのお茶を手に取らせるトリックを思いついてしまったのだ。それが一番の間違いの元で、悪魔の囁きとして作用したのかもしれない。私は謎解きミステリー小説が好きだったんだよ。『そんなに幸運が欲しいなら、その幸運を飲み干して死ぬがいい』と、心の中で皮肉に吐き捨てる気分になったのじゃないかな。愚かなことだ……。それを可能にする毒はもう既に持っていた。大分以前に鬱傾向を持つ研究者の友人から譲り受けていたとしたらどうだろう。私自身も妻と結婚する前には鬱傾向を持っていたので、『場合によっては自殺もと考えて試しに造ってみた』というそれを、譲り受けるのはやぶさかではなかった。その友人は結局電車に身を投げて死んでしまったので、今ではその毒の存在を知る者はいない。引き出しの奥にしまい込まれていたそれを、久しぶりに取り出してみたのだ。そして計画は具体化して行き、犯行に際しては信頼できる証人を用意するべきだ。というところにまで考えが及んだ。それに適した人物にも心当たりがあった。……君には申し訳なかったがね。と、まあ、これはあくまでも私が犯人だったとしたらこういう経過が考えられるという仮定の話だが。もしも本当にこう考えて犯行を実行してしまったとするなら、その時の私は頭がどうかしていたと言うしかない。やってしまった後に我に返り、後悔したのではないかな。もしも最初岩波君たちを家に呼んだ時に出したお茶に、茶柱が立っていなかったら、自分は犯行方法を思いつかなかった。そうすれば毒殺などという大それたことを実行することもなく、岩波君は死なずにすんでいたのに、と考えたかもしれない。その結果辻村さんの死までを招いてしまったとするなら何とも申し訳ない。その思いは長く我が身を焼く業火となったろう。身体も衰えようというものだ。もちろんこれは、自業自得と言うしかないがね」
「そうですか……。答えて下さってありがとうございます」
山下は深々と頭を下げた。
そして姿勢を元に戻すと、生直な視線が強く自分に注がれているのに驚いた。
老人は、山下を眩しそうに見上げていた。椅子に座っている者同士だが、萎びた老体と恰幅のいい長身を比すると、どうしても視線は上を向くのである。
「それにしても君は立派になったものだなあ。二十三年前は、こんな線が細くて育ちの良さそうな若者に、警察官なんて勤まるのだろうかと思ったものだが」
「おかげさまで経験を積ませてもらいましたから。妻の忍にも尻を叩かれて、鍛えられてきました」
「そうか。忍ちゃんは大事にしておくれよ。あの子は昔から、私のお気に入りなんでね。子宝に恵まれなかった私たち夫婦には、自分の子供のように感じられたもんだ。子供の頃は本当に可愛かった。いや、今でも充分に可愛いがね」
「ええ。妻にはいつも感謝しています。今回事件の真相に近づく可能性に思い当たったのも、妻が入れてくれたお茶がきっかけですしね。そのお茶は、僕にとっては二十三年ぶりの、『二杯目のお茶』だったのかもしれません。茶柱が立ったお茶なんて、二十年以上飲んだことが無かったですから」
「そうか。私はここに来てから毎日お茶を飲んでいるが、茶柱が立っていたことなどないな。……いや、私の身には、そんなことは起こってはいけないのだ。私には、もう一生幸運などが訪れてはいけない。そう思ってるよ」
老人はそう言うと、お茶の残りを飲み干して寂しげに微笑んだ。
了
1
「ハルキゲニアンスープ」小説
「ハルキゲニアンスープ」
僕が住んでるアパートにはハルキゲニアがたくさんいます。
と言っても分からないか。少し説明が必要かもしれない。別に飼っているわけじゃなくて、いつの間にか現れて増えてしまっていた……って言う前に、まずハルキゲニアがどういうものかを伝えないといけないのか。知ってる人はどのくらいいるのかな。
すごく変な奴なんだ。
胴体は回虫のように細くて長い。そして片方の端をキウイのような形に膨らませ、もう一方の端は貝の吸水口のように細く伸びている。とは言ってもどちらが頭なのかはハッキリしなくて、細くなった先端部に空いている穴が何のためのものなのかも分からない。何しろ目も鼻も口も無いんだから。そもそもが、物を食べるのかも、呼吸するのかどうかさえ定かでないくらいだ。生き物だとは思うんだけど。
その他、彼らの際立った特徴としては、身体の上下に生えている奇妙な突起の列があげられるだろう。腹部と見える下の方には生っ白くて細い幽霊の腕のようなものが二列に十本づつ。計二十本くらい並んで生えていて、それが真っすぐに地面に伸びて身体を支えている。ウーパールーパーの前足を、長ーくしたような感じと言うのが近いだろうか。もやしなんかともちょっと似ている。
背中と見える上部には、ウニの棘を長くしたような棒状物が並んでいる。それは十五本。奇妙なことに不規則に、って言うか互い違いに、突起と突起の間を線で結ぶとジグザグになるように生えている。そして頭っぽいキウイ型の部分は萎み加減に歪んでおり、尻尾と見える細い先っぽは水平方向に大きく湾曲している。生物を生物らしく見せる左右対称性があやふやで、ずれてしまっている感じがするんだ。
色は全身真っ白だ。まるで洞穴の奥深くで進化した生物のように、本当に何の色素もない。大きさは十五センチから二十センチほど。
何とも奇妙な姿だけど、僕は以前これと同じような姿を、古生物図鑑で見たことがあった。何億年も前の地層で見つかった化石の生物を復元した図で、それについていた名前はハルキゲニア。だから僕は彼らをそう呼んでいる。本当のところは化石になって残っていたそれと、僕のアパートに現れたやつらが同じかどうかなんてわかりはしないんだけどね。
ついでに言うと、ハルキゲニアっていうのは「夢に出てくるもの」っていう意味らしい。どこの国でもこいつの姿は奇妙に思うらしく、中国語で書くと怪誕蟲。どちらかと言うと僕はこっちの方に心惹かれる。だけど、残念ながらどう発音するのかが分からない。
まあハルキゲニアの方が一般的なようだからこれでいいだろう。
そんなことよりも、どうしてそれが僕のアパートに現れたのかを説明しろって? そんなことは分からないよ。
とにかくそれはいつの間にかいて、それが当たり前という顔をしていたんだ。彼らに顔があればの話だけど。少なくとも僕にはそんな風に見えた。
出没し始めた時期もハッキリしない。このアパートに住み始めた当初にはいなかったはずだから、多分一年前か二年前。半年前っていうことはないと思う。僕はあんまり時間とか細かいことは気にしない方だけど、寒い季節じゃなかったのだけは覚えているから。そういう季節に部屋に変な生き物が出てきたら、冬にゴキブリを見たのと同じで印象に残るに決まっているからね。
それにしても、これまでそいつらをさして気にせず暮らしてきたのは、ちょっと「ボンヤリし過ぎている」と言われても仕方ないかな。まあそれは、自分でも自覚しているけど。
僕は人よりちょっと夢見がちと言うか、世界が少しくらい変てこになっても、平気なところがあるらしい。
いつも自分のペースで生きていて、現実と空想がごっちゃになっても、それはそれで楽しめばいいと思っている方だから。人間っていうのは簡単には理解出来ない不思議なものだから、自分の中を覗き込んでいるだけでも退屈しないっていうもんだし。
頭の中をからっぽにすれば、いつまででも空を見ていられる。以前は夢日記を書いたりもしていたし。そのノートは結局十冊くらいにはなった。でもちょっとやり過ぎたか、寝起きにぼんやりと変な物が見えたりするようになって、それで辞めてしまったんだけど。
ああ、いや、精神病的な幻覚なんかじゃないよ。朝目を覚まして寝ぼけた時に、薄っすらと見える気がするだけ。ブツブツと泡のようなものが空中に浮いていたり、黒い血管模様のようなものが複雑に絡まって見えたり。アルファベットのNの字が千個くらいビッシリとブロックのように並んでいるのが見えたり、とかいったていどだ。
これだけでも充分おかしいかな。そんなでもないと思うんだけど。
ほら、世の中には「夜中に不気味な気配を感じて目を覚ました時に幽霊を見た」とか言い張る人がいるじゃないか。それはきっと僕が見たりするこれと、同じ現象なんだろうって思うんだ。つまり、頭の中はまだ夢を見ているのに、どういう加減でか瞼はパッチリ開いてしまった。だから脳が混線して、夢に出るような変なものを見せているっていう状態だね。
心霊現象とかを信じる人はそういう時に不安を感じて幽霊とかを見るんだろうけど、僕はそういうのを全く信じていなくて、不安も全然何もないから無機質な泡や模様になるんだろう。
味気無いような気がしないでもないけど、それが僕の感覚なんだ。
ちょっと話がそれちゃったかな。
ハルキゲニアの話だ。
一度立ち止まって考えてみよう。最初に彼らを見つけたのは、どんな状況でだったろうか。
それはどうも曖昧だ、多分風呂に入っている時に、洗い場の隅で湯気に濡れて縮こまっている姿が見えたんじゃないかな。僕はいい湯加減だったから湯舟から出たくなくて、「奇妙なやつがいる」と思っても見逃す気持ちになったのかも。
いや、そうじゃあなくて、部屋に掃除機をかけている時だったかもしれない。カーテンレールの上にチョコンと乗っているのが見えたけど、「あんなところまで掃除機をかけなくてもいいかなあ」と思って見逃したのかも。でなければ、台所で夕食を作っている時だったかも。
僕は料理が好きで、だいたい毎食自炊する。以前洋食屋でアルバイトしていたこともあるからオムレツなどはお手の物なんだ。
熱した卵を箸で掻き回してから形を整えようとフライパンを持った左手を右手でトントンと叩いていた時に、視界の隅にハルキゲニアの姿がチラリと映ったのかもしれない。でもそういう時ならば、見えたものを二の次にして技術を要する作業に集中してもおかしくはないだろう。
とにかく僕は最初に見つけたそれを見逃した。心が慢性低血圧気味で急にはテンションが上がらなかったから、「変なものがいるようだけど。まあ、いいか」って思ったんだ。
それが間違いの元って言うか、ハルキゲニアたちを呼び寄せる呼び水のようになってしまったらしい。
何しろあんな奇妙なやつを静観して見逃す人は、そんなにいないと思うからね。
ハルキゲニアたちは、「このアパートなら奇異な眼で見られることなく、掴まえられることもない。伸び伸び羽根を伸ばせる」と思って喜んだんじゃないかな。きっと他の住居に現れた時には邪険に扱われていたんだろう。
ゴキブリ並みに悲鳴をあげられたり、スリッパで叩かれたり、殺虫剤をかけられたりもしたのかもしれない。
それにくらべれば、僕はずいぶんましな方だろう。
実際、彼らが気分よく滞在してくれるなら、少しくらいは場所を貸してやってもいいとは思っている。それは別に構わないんだ。しかし、それにも程度っていうものがある。
ちょっと油断していたら、どう控えめに見ても邪魔としか言いようがないほどに、彼らを見かける事態となってしまった。
床やテーブルの上は言うに及ばず、キッチンの洗い場や本棚の上、どうかすると厚みのない直線に近いようなテレビ画面の上や、壁の高い位置にあるエアコンの上にまで、器用に立っている姿を見かけるという状況になったんだけど、想像できるかな。
ひどい時には一度に二十体近くはうろついていたと思う。
あっ、今「うろついている」って書いたけど、彼らはもちろん移動はできる。でもそれはゆっくりで、進む方向はまちまちだ。頭のような膨らみがある方向へ進むこともあれば、先が細まった尻尾のように見える方向へ進むこともある。それどころか、真横へジワジワと移動していたり、斜めへ瞬間移動するように、ピョンと跳んだりすることもある。でもほとんどの時間はじっとしているけどね。たまに体全体に力を入れて硬直させて、寒いところでオシッコをした後のように細かく体を震わせている時もあるけど、これはいったい何なのか。未だに分からない。ちょっと不可解なところもあるかな。
こんなやつらがあちらこちらにいれば、お釈迦様やキリスト様でも気になってしまうっていうものだろう。
まあ、それでも、慣れてしまえば大丈夫だったけど。
彼らの奇妙な姿は、部屋に置かれたオブジェとしてみればそんなに悪くなかった。前衛芸術とかシュールなものは僕は嫌いじゃない方だから、見ようによってはこれもキッチュかなって思わないでもなかったんだ。
でも一度だけ、せっかく作って食べようとしたシチュー皿の中から現れた時には閉口したかな。ハルキゲニアもさすがに熱くて長い時間はいられなかったらしくて、鰐が岸辺に這い上がるようにして出て来たんだけど、まるで死んで腐った鯨かなんかの骨が、ドロドロのヘドロを纏って浮上して来たかのように見えたんだ。そんなんじゃあ食欲が湧くはずがないよ。
それに、出て来た後がまたいけなかった。赤ちゃんの手のような脚の先をペタペタテーブル面について、小さな紅葉模様を無数につけながらテーブルを斜めに横切って行った。胴体からもスープがポタポタ落ちるものだから、あたりは白いとろみでドロッドロだ。
まったく、その場にじっとしていればティッシュで拭いてあげられたのに。どうしてこういう時に限って全力で移動するのかねえ。
僕は思わぬ素早さで床に跳び降りて逃げたそいつを追いかけて、部屋の隅に追い詰めた。そしてようやく捕まえてタオルで優しく包むと浴室へ連れて行った。どうせならシャワーで洗ってあげようと思ったんだけど、どうした訳かタオルを開いたらいなくなっていた。
まるでテレポーテーションをするように、パッと消えてしまったとしか思えないような見事な消失ぶりだったんだ。
僕はもちろん驚いた。でもその一方では、納得がいくような気がしないでもなかった。彼らが出現する時にはどうやってアパートの中に入ってくるのかが謎だったんだけど、瞬間移動ができるのだとすると、そんなことは朝飯前というもんじゃないか。
あるいは飛び越えているのは空間じゃなくて、時間なのかもしれない、とも考えてみた。もともと現代にいるはずのない彼らのことだから、時間を飛び越えて、彼らの仲間が生きていた数億年前の世界と今とを往復しているのかもしれないと。まさかそんなことは無いとは思うんだけどね。
多分消えたと思ったのは僕の勘違いで、ハルキゲニアはただ目につかないところで逃げてしまっていただけなんだろう。
まあ、長く一緒にいたら、すこしくらいのドタバタはあるものさ。
そんなこんなで時は過ぎ、彼らは僕が近くにいても、まったく気にしないっていう感じになってきた。それは以前からっていう気がしないでもないけど、ここは自分たちの住み家だっていう余裕が感じられ、体も少し大きくなってきているような気がしたものだ。
そしてそれは、どうやら僕の気のせいというわけではなかったらしい。
久しぶりに高校時代の友人が訪ねてきた時のことだ。
ああ、いや、意外かもしれないけど、僕にも友人の一人くらいいる。中山って言って、無口な上に無表情で、何を考えているのか分からないようなやつなんだけど。SFファンで映画好きっていう趣味が合ったので、高校では一緒にいることが多かった。大学に進学してからは地元と東京に分かれたので、会うことも少なくなってしまっていたけど。
そいつはアパートに入ってくると、挨拶もそこそこに部屋中央へオタク太りのでか尻を据えた。そして当然のように、中古で買った大型テレビのリモコンを操作して、
「映画の配信サービスには入ってないのか」
「Uのサービスに入ってるよ」
「俺はAに入ってるんだ。ふうん。Uではこんな映画が配信されているのか」
てな流れで、当然のようにSF映画の鑑賞会が始まった。
近況など、積もる話はほとんどしない。考えてみるとおかしいようだけど、それで何となく気心が知れてお互い安心するようなところがあった。
ああ、こいつだけは余計な気を遣わなくていいやつだ。みたいな。
でも僕は、始まった映画に集中できなかった。テレビの上にはハルキゲニアがいて、ウーパールーパーのような脚の先でテレビ上部の縁を掴んで危うい均衡を保っていたから。いつバランスが崩れて落ちてくるか分からないし、尻尾のように細くなった胴の端をダランと画面の上に垂らしてもいた。気になってしまうのは当たり前っていうもんじゃないか。
しかし、中山は僕とは大分違い、奇妙な集中力を発揮して画面に見入っている。
画面には人類を襲う宇宙生物の恐ろしい姿がアップになったりしていたけど、その上に本物の謎生物がいるのでは、迫力も半減する気がした。ストーリーは、まあ、ありがちな宇宙活劇といったところだ。
映画が終わると、中山は仏頂面を崩さずに感想を漏らした。
「結構面白かったな」
「そうだね。ちょっとベタだったけど未来都市とか宇宙船のデザインが良かった」
「ところでちょっと気になったんだが。テレビの上に乗っている変なものは何なんだ」
そう指摘され、僕は胸を撫でおろした。「ああ、こいつにもちゃんと見えていたんだな」と。あまりに平然としているものだから、ひょっとしたらハルキゲニアが見えていないのかと不安になってしまった。やっぱりこのハルキゲニアは、僕一人だけに見える幻覚なんかじゃなかったんだ。
いや、分かってはいたけどね。確かめる機会がなければ百パーセント確実とは言えないじゃないか。
「しばらく前からこのアパートに出てきているんだ。僕はハルキゲニアっていうやつじゃないかと思うんだけど」
山中は理系で科学マニアみたいなところがあるので、当然ハルキゲニアは知っていた。それどころか、僕よりも遥かに詳しかったんだ。
「造り物じゃあなかったのか。しかし、そいつは違うんじゃないかな。ハルキゲニアっていうのは体長一センチから五センチくらいの小さいものなんだぜ。そこにいるやつは三十センチくらいあるじゃないか」
そう言われて初めて気づいた。
僕は何となくこのアパートに出てくるやつをハルキゲニアだと思っていたけれど、肝心のハルキゲニアについて詳しく調べたことは一度もなかったんだ。
こういうことは割とよくある。公式データを確認するより先に、ついつい自分の頭で考えてしまうんだ。そういうのが癖になっている。「ネットで検索しろ」とか人はいうけれど、ネットに誤情報が多いのは周知の事実だ。ネットで知った情報が正しいかどうかは、どこで確認すればいいのだろう。
そんなことを考えると億劫になってきて、何となく手が伸びなくてそのままになってしまう。
僕はなんだか不安になってきた。
「じゃあ、いったいなんなんだろう」
中山は無言で立ち上がるとテレビに近づいて、上に載っているやつを繁々と眺めた。尻尾のような細い先っぽを指で摘まんでピロンと軽く持ち上げてみたりもした。確かに生き物らしいのを確認すると、振り返って、
「どうして専門家に見せないんだ」
「いや、何となく」
「大発見かもしれないんだが」
「何だか気が進まないんだよ」
ていうよりも、そんなことは思いつきもしなかった。どうしてかは説明しようがない。
「何て言ったらいいのか。こいつらは、僕を信頼してこのアパートに出てきてきているような気がするんだ。だからそういうことはしたくない。第一面倒くさいしね。もし話題になって、専門家やらマスコミやらがこのアパートに押しかけて来たら落ち着かないじゃないか」
「『こいつら』と言ったな。これと同じようなやつは他にもいるのか」
山中は不審そうにジロリと室内を見渡した。
「ああ。今は眼につかないけど、探せば何匹かはいると思う」
「ううむ。それをマスコミに知られたら騒がれるから面倒くさいと」
山中は腕組みし、険しい顔をして考え込んだ。しかし、少しすると脱力して、「……それもそうか」と呟いた。
考えてみると、これで納得したのは不思議なことだ。この男もかなり変わっている。さすが僕の友人だけのことはある。
しかし何だか気まずい雰囲気にはなった。知ってはいけない友人の秘密を知ってしまったような気がしたのかもしれない。しばらくすると中山は言った。
「俺はもう帰るよ」
そしてアパートから出て行って、結局それが彼と顔を会わせる最後の機会となった……。って、別に死んじゃあいないんだけど。
何となく会わないでいるうちに、いつの間にか連絡がつかなくなってしまって、携帯に登録してあった電話番号とメールアドレスが消えてしまっていると気がついた、というだけだ。多分何かのミスで消してしまったんだと思うんだけど。
例によって僕はすぐに行動せずに、それを復活させるのを先延ばしにしていた。そしたら数年後、「中山は外資の会社に就職してイギリスに移住したらしい」という噂が耳に入ってきた。
僕は人づきあいには淡泊な方なんで、「そんな遠くにいるんじゃあ、きっともう会うことは無いんだろうな」と思ってあきらめたっていう話だ。でもそれは大分後のことなので、話を元の時間軸に戻す。
中山に指摘を受けてから、僕はアパートに出没するハルキゲニアを注意して見るようになった。
遅ればせながらネットで調べた復元図と見比べてみると、目の前にいるのはそれとは体の造りが微妙に違っていると気がついた。例えば復元図では細く伸びた尻尾?の先は二股になっていたけど、僕のアパートに現れるやつはそのままスッと一本のまま。端が膨らんだ方に目がついている復元図もあったけど、僕のアパートに現れるやつにはない。背中に並んだ長い棘棒も、復元図では互い違いに並んでなどいなかった。
そして動きをよく見てみると、たくさんある脚の動かし方もすごく変てこだった。ムカデのように波打つように動くのではなく、ヒトデの腹から伸び出た触手のように、てんでバラバラに動いている。でも結果としては一定方向に進んで行くというおかしなものだった。
でも、一番注目したのはやっぱり大きさかな。
彼らは、確かに大きくなってきていたんだ。
図鑑に載ってるハルキゲニアは体長五センチで、中山が見たやつは目測体長三十センチ。しかし気をつけて見ると、それより大きいものもいるとわかった。四十センチくらいは珍しくない。それだけでなく形も変異して、胴体がツチノコのように太くなってきている。ぬいぐるみのデフォルメキャラのようなシルエットに近づいてきていた。
いったいどういうことなんだろう。僕のアパート内は眼に見えない栄養満点のスープに満たされていて、ただそこにいるだけで養分を吸収して太ってしまう。なんていうこともないと思うんだけど。第一僕は全然太らないし。
そのうちに「あれっ、ずいぶん大きなのがいるな」と思った時に、巻き尺を買ってきて長さを計ってみた。近くのホームセンターへ行っている間に消えてしまうかもとも思ったけど、そんなこともなくて、帰っても同じ場所でじっとしていたので尺を充ててみると、驚いたことに六十五センチもあったんだ。胴体も大根より太かったから、大きさは小型犬と大差ないと言っていい。
でも彼らは食べないし、飲まない。糞もしない。少なくとも僕の目につくところでは。なので何の手間もかからない。小犬のように手間や世話が必要だったら、きっと僕には扱いきれなかったろうな。
だんだんと、僕は彼らとの共同生活に、親しみのようなものを感じるようになってきた。
どうしても一緒にいるやつの体がある程度の大きさになると、同居人に近い存在のように認識してしまうんだ。逆に言うと、きっと犬や猫が小さくなったら、愛着は相当減るんだろうな。ゴキブリサイズのやつがワンとかニャーとか言って自分を見上げていても、ピンとこないというものじゃないか。
人間は幼い子供くらいのサイズのものに最も愛着を持つようにできているらしい。
でも、だからと言って、僕は彼らを猫可愛がりし始めたわけじゃないよ。あくまでドライな関係で、相手を尊重して存在を認めようという気分が強くなってきただけだ。依然として、連中に哺乳類のような感情があるのかどうかは全然分からないし。
でも、それを感じさせる出来事も少しはあったかな。
アパートにネットで注文した品物が届いた時のことだ。
ちなみにそのブツは、フランス飲料メーカーのリコピン増し増し地中海産岩塩入り高級トマトジュース二十四本セット。僕はトマトが大好きなんで、トマト愛好者ならその味を想像しただけで唾液が湧き出ると言われるそれが届くのを心待ちにしていた。だけど実際に届いた時は、残念なことにトイレの中にいたんだ。
そんなわけで呼び鈴が鳴るのは聞こえたんだけど、すぐには出られなかった。こんな時には同居人がいたらいいのにっていう気持ちになるね。
慌てて水を流して廊下に出ると、玄関方向には驚くような光景があった。玄関の扉が開き、外には青い制服を着た宅配業者の人が荷物を抱えて立っていたんだけど、問題なのは誰が扉を開けたのかっていうことだ。
どうやらそれは、ハルキゲニアだったようなんだ。それも今までに見た中でも最大級に大きなやつが、尻尾っぽく細まった胴の端を三和土の床に着けて、キウイっぽい方を持ち上げてドアノブに凭れかかっている。並んだ脚には骨が無くてぐにゃぐにゃで先が赤ちゃんの手のように先別れしているので、ドアノブを掴むのはできるようだった。
そいつは長い胴体を縦にして立ち上がり、丸いノブを半回転させて僕の代わりに宅配業者を迎え入れてくれたんだろうか。
多分そういうつもりじゃあないんだろうけど。多分呼び鈴の電子音に反応して動いただけなんだろうけど、僕の代わりを勤めようとしてくれている風には見えたんだ。
間の抜けた僕は、玄関のドアに鍵をかけるのを忘れてしまっていたらしい。
宅配業者の男性は、ドア裏に縋りついている奇妙なものに気がついて、口をあんぐりと開けっ放しにしていた。目尻をヒクヒクと痙攣させて、その場から逃げ出すのをこらえているようにも見える。
あと一、二秒もしたら迷わすそれを実行したんだろうけど、不運なことにトイレから出てきた僕を見てしまったので、マニュアル通りに住人の対応を待たざるを得ない状況に陥ってしまったようだ。
まあ、混乱するのも無理はないけど、ちょっと慌てすぎじゃあないのかな。
僕はその人を怖がらせたらいけないと思ったので、わざとゆっくりと平然さを取り繕って玄関へ向かった。
何でもないんですよ。ここにいる生き物はちょっと変わってるけど全然無害だし、このアパートではこれが普通なんだから、怯える必要なんてないんです。といったことを伝えたかったんだけど、さすがに無理があったかな。
宅配業者の人は、傍に行った僕の胸にいきなり重みのある四角い段ボール箱をドンと押し付けた。そしてその上に置いた紙片をトントントントンッとせわしなく指で叩く。横にはボールペンも添えていたので、「早くサインしろ」っていう意味なのは分かった。
まるで五十メートル走でもしたかのように、やたら呼吸が荒くなってもいる。
どうやら歯の根が合わなくて、上手く言葉が出てこないらしい。
僕が下手くそな字で苗字を書くと、宅配の男性はそれをひったくって全速力で走り去ってしまったんだ。
まったく。立派な体格をしているのに、いったい何を怯えてるんだろう。本格的に取っ組み合ったら、ハルキゲニアくらい投げ飛ばせるに決まっているのにな。
そりゃあ確かに初めての人にとっては、エイリアン並みに奇怪な姿に見えるっていうのは認めるけどさ。
僕は傍にいるハルキゲニアと顔を見合わせた。僕はもうこの頃にはこいつの胴の端にあるキウイ型の膨らみは、顔なのだと確信するようになっていた。
そこには目も鼻も口もない。なのに何となく哀し気に見えた。多分少しだけ萎み加減に歪んでいたのが哀愁を誘ったんだろう。
そうしたらその時奇跡が起こったんだ。
「キューッ」
錯覚なんかじゃない。ゴム製の鳴き人形に空気を詰めて握りしめた時に出るような音が、ハルキゲニアから洩れた。キウイのように膨らんだ部分からか、それとも反対側にある細い先端部の穴からか、それとも胃が鳴るように、胴体の中央部から出たものなのか。それははっきりしなかったけど、そんなことよりも、「ハルキゲニアが音を発することがある」という事実が驚きだった。
僕が見つめると、ハルキゲニアは何となく、気まずそうにしているように見えた。すごすごと、半身を凭れさせていた扉から身を剥がし、三和土のスペースでいつものように胴体を水平にして細い脚の列を床につける体勢に戻った。
何となく、その姿は叱られた後の犬のようだったんだ。もちろんそれは、僕の主観にすぎないとは思うんだけど。
僕がハルキゲニアが音を発する場面に遭遇したのは後にも先にもその時だけだった。
ちなみにその時届いたトマトジュースは極めて美味だった。さすがマニアの間で絶賛されるだけのことはある。高価いのでそういつも買うわけにはいかないけれど、年に一回くらいは注文して飲みたいと思ったものだ。
さて、そんなことがあってから、僕は妙なことに気がつくようになった。
大学への行き帰りや、ちょっとした買い物などで外に出た時に、妙によそよそしい視線が僕に向けられているのを感じるようになってきたんだ。「あれっ?」と思ってその方向を見ると、そういう視線の主は、僕と同じアパートに住むご近所さんだったり、スーパーでよく顔を見かける店員さんだったりする。何となく、距離をとってコソコソ見つめるような感じがして、あんまり感じがよろしくないんだ。そして、こちらから見つめ返すと、目線を逸らして逃げるような反応を示す。
時々言葉をかわす隣室の人と顔を会わせた時なんかにも、ちょっとそんな感じがあったかな。その人は普段は気さくで冗談好きな独身サラリーマンなんだけど、僕がいつも通りに挨拶しても、受け答えがどことなくぎこちなくて会話が続かないんだ。一応上辺はにこやかなんだけど、中身は全然違うっていうか。
さすがに僕でもピンときた。こんなことは考えたくないけど、どうやら僕が住む部屋に変な生き物がいるという噂が広まって、それで気味悪がられているようなんだね。
うかつなことに、僕はこの時初めて、ハルキゲニアが現れるのは僕の部屋だけなんだっていう事実を知った。二階建て木造建築の同じ建物内なんだから、ハルキゲニアはたまには他の部屋にも現れているのかなあ。と漠然と思わないでもなかったんだけど、そんなことは全く無かったんだね。
きっと宅配業者の人は僕のところに来た後に、他のご近所さんへも届け物をしたんだろう。そこで今見たばかりの衝撃体験を話し、それで噂が広まってしまったっていうことなんだろうな。
まあ、ハルキゲニアを見たことが無いのなら、ご近所さんが気味悪がるのも無理はない。そのくらいのことは僕でも理解はできる。でもそれならそれで、実際に僕の部屋に来てハルキゲニアたちに触れあってみれば誤解も解けると思うんだけど、それもしないのは困ったもんだ。いや、正確には、少ししてから大家さんはやってきたんだけど。
初老で小太りで頭の禿げた、いかにも大家でございますっていう感じの人だ。その人は一目アパート室内を見ると、眉を顰めて「困りますね」って言うんだ。「ペットは禁止と入居する前に交わした契約書に書いてあったでしょ。守らないと退去してもらいますよ」
でも僕にも言い分はあった。別にここにいるハルキゲニアは飼っているんじゃなくて、勝手に現れたものだ。つまり、どちらかと言えばゴキブリやネズミに近い存在で、そういうものが現れるのは建物に何らかの不備があるからだと言えないだろうか。実際のところ、こんなものが現れる部屋に平然と住み続ける人は少ないと思われる。僕はそれを我慢しているのだから、逆に家賃を割り引いてほしいくらいのものだ。
そうしたら、やっぱり言ってはみるものだ。大家は厭な顔をして、結局お咎めは無しとなった。まあ実際のところ、こんな噂が立ってしまったら、僕に出ていかれた後に入居する人はいないだろうから、大家が妥協するのは当たり前だったんだけどね。
とは言えそれからも、ご近所さんの白い目はあんまり変わらなかったけど。まあ、それはしょうがない。人はそれぞれだから。僕は僕で勝手に生きて行くだけだ。
でも少しだけ、先行きが心配になってきたりもしたかな。なぜかと言うと、その時僕にはいずれはアパートに連れてこなければいけないと思っている人がいたからだ。その人もご近所さんと同じようにハルキゲニアを見て拒否反応を起こしてしまったら嫌だなあ、と思わずにはいられなかったんだ。
ああ、いや、その人っていうのはご想像の通り女性だけど、母親なんかじゃないよ。妹でもない。そうじゃあなくて、僕と同い年の、多分僕の主観を抜きにしても平均よりは可愛らしい女子だ。つまり、何ていうか、意外かもしれないけど、僕にも彼女の一人くらいはいるってことだ。って、二人以上いたら問題だけど。
どうして僕のようなのが彼女を作れたのか。不思議だろうけど、それについて書くつもりはない。そんなことを教えるのは恥ずかしい気がするし、どうせ大した話じゃあないからだ。ただそれには多大な幸運があって、それに乗っかった僕は天使の御利益に預かる気分だったと言えば十分だろう。
心配なのは、彼女が僕を勘違いしちゃいないかってことだ。
自慢じゃないけど僕は昔から成績は良くて、レベルの高い大学に通っている。一方彼女の大学は中レベルで、見た目も小柄で慎ましい。人柄も丸くふんわりしていて、良い意味での凡庸を長所にしてる感じがあった。
だからだろうか。一緒にいると、どうも彼女は学歴高めで背が高い僕を、ずいぶん上の存在として見て買いかぶってるんじゃないかって思える時がある。一歩引いて僕を立ててくれ、頼もしそうにこちらの顔を見上げてきたりするんだけど、そんな時僕は何だか騙しているようで、申し訳ない気がしてしまうんだ。僕はどうやってつき合ったらいいか分からないものだから、一般的な「おつき合いマニュアル」的なものを勉強して、それをなぞっているだけなんだけど。それが変に期待値を上げる結果になってしまってるんじゃないだろうか。
それがハルキゲニアを見た瞬間に一気に崩れて、「こんな得体のしれない生き物と同居してるなんて。ショック。私がつき合っているのはただの変わり者だったんだわ」と認識されてしまうのが怖い。いや、それは実像に極めて近く、ほぼ事実だから構わないんだけど。できれば少しずつ段階を踏んで、僕という人間を理解して行ってほしい。そして落下の衝撃を、和らげたいと思ってるんだ。
塔から飛び降りたアクション俳優が窓から跳び出た幌に何度もバウンドすることによって怪我をしないで地面に到達するように。いや、そんな華々しさはなくても、高いところから卵を落としても、地面に段ボール箱を敷き詰めて低反発素材をその上に敷いていれば割れないですむ。みたいな感じにしたいんだけど、どう考えてもそれにはハルキゲニアはなじまない。
……って、そんなことを思っているうちに、その時はあっけなくやってきてしまった。
その日は以前ハルキゲニアを糾弾していた大家が、再び僕の部屋にやってきていたんだ。
「いやいや、この前はすみませんでしたね。もう出ていけなんて申しませんから。できるだけ長くお住みになってください」
大家は自分の不利を悟ったんだろう。気持ち悪いような愛想笑いをして、お詫びの印とばかりに三百五十ミリリットルの缶ビールを三本セットで持ってきていた。そしてそれを上がり口に置くと、僕の足の横から顔を出して来たハルキゲニアに笑いかけて、頭を撫でんばかりの媚態を示す。
この頃には、宅配業者を迎えに出たハルキゲニアは来客があるたびに玄関に出てくるようになってしまっていた。僕はそんなことはやめさせたいけど、どうやったらその意志を伝えられるのかが分からなかったんだ。
ホラこの通り、私はこの生き物を何とも思ってはいませんから。という感じで、大家は仲直りをアピールすると、「もういいですね」と言わんばかりに扉が開いた玄関口から去ろうとした。
そしたらそのすぐ外には、僕がつきあっている彼女が身体を硬くして立ちつくしていた。という訳だ。
大家は人生経験豊富な人らしく、僕らの関係をすぐに察したようだった。邪魔にならないようにそそくさとその場から消えた。
後には僕の横にいるハルキゲニアをポカンと見つめる彼女がいるばかり。
彼女は襟が大きくフリル状になったワンピースを着て、ちょっとだけ普段より澄ました格好をしていたかな。
彼女の顔を見た僕は、「目が点」とはこういうことを言うのだろうなあ。と、間抜けな感想を持った。まさかショックで倒れたりはしないだろうな。と心配にもなった。
でも、もうこうなったら仕方がない。なるようになれだ。
「やあ」と笑いかけた。
ぎこちない間があった後、彼女の口からも言葉が洩れた。
「ちょっと近くを通りかかったから……。お邪魔だったかしら」
「いや、そんなことはないよ。でも来る時には連絡してもらった方がいいかな。アパートの中は散らかってるから少しは整理する時間が欲しい」
「そうね。ごめんなさい」
「謝る必要はないけど。中に入る?」
僕は足元にいるハルキゲニアには触れないようにした。
この誘いは十中八九、断られるんだろうと諦めていた。何しろ頑健な宅配業者も、したたかに人づきあいの網を絞る世間の人たちも、みんなコイツは避けるんだから。彼女は通せんぼをするように上がり口に立ち塞がっているハルキゲニアに尻込みして、きっと帰ってしまうんだろう、と。
でもそれは、ただの杞憂に過ぎなかったんだ。
彼女は何のためらいもなく、「お邪魔しまーす」と小さく間延びした声で言った。そして三和土に靴を脱いで上がってきた。
僕の足元に目をやって、
「その子、名前は何て言うの?」
ごく当たり前の口調だったので、僕はかえって戸惑った。
「えっ、ハルキゲニアって言うんだけど」
正確には僕は彼女の問いには答えていない。彼女が訊いたのは個体としての名前で、僕が答えたのは種としての名前。飼い犬を見て「何て名前」と訊かれて「犬」と答えるようなものだ。でもそれで問題はなかった。彼女はそれを個体の名前として捉え、それを略した愛称が、結局は個体の名前として定着したからだ。
「ふふっ、変な名前。ハルちゃん。よろしくねー」
少しクスッとした彼女は、膝を折ってハルキゲニアの前にしゃがみ込み、グンニャリした胴体の真ん中あたりを両手で掴んで抱き上げた。
驚いたのはハルキゲニアだ。今まで一度もそんなことをされたことが無かったのだろう。いささかパニックになって、地面を失った脚の前部をバタバタさせた。みんなてんで勝手な方向に動くので、慌ててる感はすごく伝わる。
目を点にするのは僕の方だった。
掠れる声で訊いた。
「怖くはないの?」
「どうして?」
胸にハルキゲニアを抱いた彼女は何を訊かれているのか分からないというようにキョトンとしていた。その姿はまるで幼い甥っ子を抱いている農家のお姉さんのように邪心が無かった。
僕のように鈍感な人間でも、人の気持ちが分かる時はある。彼女のハルキゲニアへの接し方は、決して無理して作ったものなんかじゃなかった。そうじゃあなくて純粋に、自然にニュートラルな親愛の情を向けただけだったんだ。
僕は感動した。中山のような変わり者でさえこのハルキゲニアをどう受け止めたらいいかしばらく思案していたというのに。何のためらいも無く受け入れてくれる人がいたのだ。
涙が出てきそうだった。
ああ、この娘と結婚するのかもしれないな。と、直感した。
そしてそれは現実になった。
不思議なくらいトントン拍子でつき合いは進み、プロポーズするのも自然な流れっていう感じだった。結婚式の日取りも決まった。その頃には僕は製薬会社に就職していて、生活も少しづつ安定してきていた。ちなみに配属されたのは新薬研究開発部門。僕の性に合っていて、人づきあいが少なめの部署だったのは運が良かった。
式は近親者を呼んで、慎ましやかに行うことになった。僕も彼女も友人が多い方じゃあなかったし、そうした方が堅実に新しい生活に踏み出せる気がしたんだ。
でもその式には、特別な出席者もいた方がいい。僕はそう判断した。ある意味僕たちの結び神と言えなくもない、ハルキゲニアを会場に呼んだらどうだろう。アパート内をうろついている連中の中から、代表して一体だけでも出席してもらうんだ。僕のこの案を、彼女は嫌な顔をせずに賛成してくれた。そのために犬移動用のペットケースを買って、おそらく世界で初めて個体名がついたハルキゲニアである「ハル」にそれを見せたら、案外簡単に中に入ってくれた。
本当に、ハルキゲニアは本当は人の心が分かるんじゃないかっていう気がする時はあるね。
結婚会場で、ハルは注目の的だった。とは言ってもそれは必ずしもいい意味じゃなくて、目を丸くしている人や、気味悪がって近づかないようにしている人もいた。僕の両親がそっち側に近かったのは少し寂しかったけど、悪童盛りの甥っ子なんかはやっぱりテンションが上がっていたかな。
今では僕の妻となった「彼女」のお婆さんが、ハルに挨拶して仲良くしてくれたのもとても良かった。九十になるその人はもう眼が悪くて耳も遠くなっていたけど、ハルの傍に案内されると赤ちゃんのようなハルの手を握って「うちの孫と旦那さんの二人と仲良くしてくれてありがとうねえ」としみじみ言ってくれたんだ。幼い頃からお婆ちゃん子だった妻はそれを見て思わず涙ぐんでいた。
ハルは訳が分からず膨らんだ顔をクラクラと揺れるに任せている感じだったけど、僕は彼も微かな善意くらいは感じ取ってくれたんじゃないかと思っている。
妻が初めて見たハルにネガティブな反応を示さなかったのは、きっとこのお婆さんの薫陶が大きく関係していたんじゃあないかと僕は思っている。すべてに先入観を持たず、物に動じず、万物に分け隔てなく穏やかな愛情をもって接する。ちょっと人間離れした境地にいるのでは。と思えるような老人は、ごく稀にだが実際にいるのだ。
僕らは結婚後もしばらくはこれまでと同じ僕のアパートで同居していた。つまり、僕らはハルキゲニアと一緒に新婚生活をしていたわけだ。
変な感じだったけど、ペットをたくさん飼って暮らしていると思えば大して気にならない。むしろこちらの方が全然楽チンだったろう。ハルキゲニアは食べないし、糞も尿もしないんだから。
でもそれも、終わる日がやってきた。
妻が妊娠したのがきっかけだ。僕らは考えた末、子供が生れたらこのアパートは手狭に過ぎるという結論に達したんだ。
長期ローンを組んで家を買う。慎ましやかなもので良いけれど、庭も少しは欲しいねなどと相談しあった。つまり、ハルキゲニアが出没するこのアパートとは縁が切れる。少し寂しい気はするけれど、彼らとはお別れとなるんだ。
まあ、仕方ない。もともと同居してくれと頼んでいたんじゃないんだし。僕らは彼らの行く末に責任は無い。でも、もし新しくこの部屋に移り住んでくる人がいたとして、その人が酷い人だったらどうしよう。大げさに言えば、せっかく育まれて来た人間とハルキゲニアの友情が、破綻してしまうことになるんじゃないだろうか。
それも、仕方ない。それが僕らの結論だった。
彼らを移動用ケースに入れて新居に連れて行くことも考えたが、それではペットと同じになってしまうし、そんなことをしたって彼らは気分を悪くしたらいつでも好きな時に消えてしまうだろう。そして永遠に現れない。そんなことになりたくはなかった。
僕らの新居は、それまで住んでいたアパートから大きく離れた住宅街に求めた。同じ平野の東と西という以外、両者に共通点はない。
そこに移り住んだ僕らは、ホッとしたような寂しいような、奇妙な心持ちになったものだ。妻の出産日が近づいていたので、そんなに気にする暇はなかったけれども。いざ産まれた子供を家に連れて帰ってきたら、幸福感の中に一抹の疚しさを感じてしまったのも事実だ。
産まれた我が子は女の子で、とても可愛いかった。ずっと顔を見ていても全然飽きない。けれど、だからこそ何かを犠牲にしてこの幸せを手に入れたのかなあ。みたいな思いも。
多分僕は幸せには慣れていなかったんだろう。何だかこれは、僕の人生らしくないぞ。っていうような違和感が、チラリと頭をよぎったりしてもいたんだ。
でもそれは、またしても杞憂に過ぎなかった。
その時、僕らは家の一階リビングに付属したテラスにいた。少々奮発してつけてみたものだ。妻は秋の柔らかい日差しを浴びて、アームチェアーに腰掛けて娘を抱いていた。僕はその傍に立って二人を見降ろしていたんだけど、その僕の太腿の裏側を、後ろからチョンチョンとつついてくる物がいる。
「えっ?」ってなった僕の頭に浮かんだのは、お隣さんが飼っているトイプードルが逃げ出して僕の足にじゃれついて来たのかな。ということだった。だけど、もちろんそんなことはなかった。振り向くと、後ろにいたのは見慣れた奇妙なシルエットだったんだ。
お世辞にも可愛らしいとは言い難い、歪んだような間が抜けたようなフォルム。胴体に生えた脚と長い棘の列。胴の端のキウイのように膨らんだ部分を僕の足にぶつけてきていた。彼らは身体の特徴で個体を識別するのは難しかったけど、見た中で一番大きなそのサイズでもって誰なのかが分かった。
「ハルッ」
僕は思わず大きな声で、そいつの名前を呼ばずにはいられなかったんだ。
僕は嬉しかった。何故かと言うと、ここに出てきてくれたっていうことは、彼らも僕らを気に入っていてくれたっていう事実が証明されたようなものだからだ。
妻は暖かい日差しのようにハルを眺めていた。
その後に、僕らの新居に現れるようになったのは、ハルだけじゃないってことが分かった。家の中に入ってみると、二階まで吹き抜けになったリビングに、さらに二体のハルキゲニアがいたんだ。僕のアパートに出現していた中で二番目に大きなハルキゲニアと三番目に大きなハルキゲニアに間違いない。でも結局現れたのはその三体だけで、他の小型のやつはこちらに移動してくることはなかった。物理的に出来なかったのか、あるいは大型の三体だけが僕らに親しみを感じてくれていたのか。分からないけれど、それは僕ら夫婦にとっては好都合だった。あんまりたくさんいられても困ってしまうからね。三体くらいが丁度いいというものだろう。
僕らはハルの例に習ってその三体に、大きい順からそれぞれ「ハル」「キゲ」「ニア」と名をつけた。「ニア」はいいとして「キゲ」はいかがなものかと思わないでもなかったけど、慣れてしまうとその名前は僕らのお気に入りになった。キゲっていう変な語感は、彼らの特徴に似合っている。
それから二年後に産まれた二番目の子、長男はそのキゲと仲良しになった。理由なくその辺を駆けまわったりする年頃になったら、キゲと一緒に走ったり、持ち上げて運んだり、芝生の上に転がってじゃれ合ったりしている。
一方、長女のお気に入りはニアだ。お姉さんらしく落ち着いて、一回り小さくて大人しいニアを横に座らせて、おままごとなどをやったりしている。ニアは何をやっているのか分からないようすだけど、とりあえずはじっとしているのが自分の役目と心得ているようだ。
僕ら家族は順風満帆で、何の憂いも無いようだった。
ご近所さんたちも少しづつハルたちに慣れて、彼らに声をかけたりもしてくれるようになってきた。やっぱり何事も、積み重ねっていうのは大事なんだね。
あと他に、話すべきことは何があるかな……。
ああそうだ。以前ハルキゲニアのいるアパートを訪れてきた高校時代の友人中山と二十年ぶりに連絡が取れたことを最後に報告しておこうか。
ひょっこりと突然に、やつから僕のメールアドレスに連絡が入ったんだ。ちょっと意外だったけど、よく考えてみればこれまで連絡が来なかったことの方が変だ。僕は手違いでやつの連絡先データを失くしてしまったんだけど、向こうも僕のデータを失くしているっていう証拠などはないんだから。実際に、それは消えてはいなかったらしい。
中山はまるで長い時間の流れが無かったかのように「最近はどうしてる?」って訊いてきた。「俺は今ロンドンにいて金融関係の仕事をしているんだが中々大変だ。ところで前に君のアパートへ行った時にいた変な生き物はどうなった? ちょっと思い出したら気になってしまってね」
二十年も経ってるのに「気になってしまってね」も無いもんだ。僕は呆れるやら苦笑するやらで、返信するのが少し遅れた。
でも、まあ大体こんな感じの返事をしようかと思ってる。
まずは簡単な挨拶をして、次に近況を報告する文。そしてその下に、僕ら家族四人がマイホームの前に並んで立っているところを撮った写真を貼り付ける。
そこに映った子供たちは、キゲとニアを胸に抱いて満面笑みを見せているはずだ。多分僕と妻の足もとにはハルがいるかな。
そしてその写真の上には白くて太いペン文字で、「ハルキゲニアともども、家族みんなで幸せに暮らしているよ」というメッセージを付け加えるつもりだ。
了
1
「まだらの紐事件」ミステリー小説。
1
去年の暮にシャーロック宮下が事件を解決した手際は見事だった。
名探偵シャーロック・ホームレスを自称する通り、当時の彼は公園のビニールテントで寝泊まりしていたのだが、近所で起こった殺人事件の捜査に乗り出して目の覚めるような推理で真犯人を指摘したのである。
ひょんな偶然からその現場を目にした僕は、どうしてこんな才能のある人物がホームレスなどに身を落としているのかと目を疑った。白人との間のハーフで鼻筋通った彼は、外見も名探偵にふさわしいものだったし、弁舌も爽やかで、とてもホームレスのようには見えなかったのである。
不思議に思って聞いてみると、遠い親戚の白血病の少女の治療費を捻出するために全財産を投げうって、そのために住居を失ってしまったとの事だった。何という立派な人物なのかと僕は感動し、親に高い学費を出してもらっているにも関わらず勉強に身が入らないでいる三流医学生の自分が、恥ずかしくもなったのである。
僕は失礼にならないようにと気を配りながら、住居が無いのなら僕の住んでいるマンションに同居しないかと彼に申し出た。もちろん誇り高く清廉な彼ならば無償の申し出などは受けるはずが無いと見越して、部屋代は折半にしてもらうという条件をつけてだが。
この申し出を快諾してもらえた時には嬉しかった。彼の探偵としての才能に、すっかり惚れ込んでしまっていたからである。宮下は決して自分から進んで自慢話をしたりはしなかったが、僕にどうしてもと問われると、過去にさまざまな難事件を解決した探偵としての実績を語ってくれた。それは実に数十件にものぼり、誰もが知る重大事件も複数含まれていたのである。何という素晴らしい人物とルームメイトになれたのかと興奮したものだ。宮下は同居した後には探偵の仕事を再開してその収入で部屋代を払うとのことだったので、少しだけ待てば金銭的な問題はまったく無いだろう。天才的な探偵の才能を持つ彼が、どんな活躍を見せてくれるのかとワクワクしていたのだ。
そう、ほんの二、三カ月前までは……。宮下の本性に気づくのに、それだけ時間がかかってしまったのである。
僕は宮下を自分のマンションに同居させたことを後悔しはじめていた。
何しろこの男、とにかく金を払わない。家賃は折半、食費や光熱費もちゃんと出すという約束だったのに、一度も金を払ってくれないのだ。今日こそは払ってくれと詰め寄ると、訳の分からない推理でどうでもいいようなことを言い当てて煙に巻いたり、読唇術めいた勘の良さでこちらが考えていることを言い当てて気味悪がらせている隙に逃げたりする。なまじ人並み外れて頭がいいので始末が悪い。
それは金が無いのは分かっている。もともと白血病の少女を救うために全財産を投げうった身なのだ。その点については大いに同情しているが、しかし……ん? ここまで書いてきて何かヘンだと初めて気づいた。今時白血病の少女だって? 何て時代がかった話だ。ひょっとして、この話も作り話ではないのか。宮下のこれまでの行動を見ていると、とてもそんな立派なことをするような人物とは思えない。徹底的に金には汚くて、ほんのちょっとでも僕からたかろうとする。百円単位で金を借りて返さないなどということがたびたびあった。そうだ、きっと嘘なのだ。ホームレスになったのは、きっと彼が怠け者で、まともに働こうとしなかったために違いない。だとするとひょっとして、有名事件を数々解決したというのも嘘か。いや、しかし、去年の暮に彼が見せた探偵の才能は本物だった。ということは、話を思いっきり大げさに盛っているのかもしれない。実際には二、三件しか解決していないのに、数十件の解決実績があると言っているのでは。考えてみれば、僕より三つ年上の二十四歳の身の上で、そんなにたくさんの事件を手掛けているとは想像しづらいではないか。きっとそうだこの詐欺師め。
いや、ちょっと筆が先走った。ちゃんと約束を守ってくれるなら、少しくらいの法螺話は大目に見てもいい。そのくらいの心の広さは僕にもある。問題なのは、宮下がまったく働こうとしないことなのだ。見事なほどの怠けぶりだ。実質的にはただの居候の癖して炊事洗濯掃除などはまったくしない。買い物などは金を誤魔化されるので任せられない。そして得意なはずの探偵の仕事も、しないのだ。驚いてしまう。
宮下は同居するとすぐにマンションの窓にH探偵事務所との張り紙をして、探偵業らしきことは始めた。張り紙などして大家から怒られないかとヒヤヒヤものだったが、彼は平気な顔だった。
「どうして君はそう悪い方向に考えるかねえ。まあ見ていてごらん。こうして張り紙さえしておけば僕の名声を聞きつけて依頼が殺到するに決まっているよ」
しかしそれから三カ月間はまったく捜査の依頼は無く、四カ月目にようやくポツリポツリと依頼が舞い込み始めてやれやれと胸を撫で下ろしていると、今度は何だかんだと理屈をつけて仕事を断ってしまう。やれ「名探偵が浮気調査など出来るかね」。とか、「ホームズが迷い猫の捜査をしたなんて聞いたことが無いよ」とか。金が無いなら何でもやるのが当たり前だろうなどという理屈は彼には通用せず、名探偵が調査するのにふさわしい依頼しか引き受けないと決めているらしいのである。結局半年間一度も仕事をしていない。いったい何を考えているのか。
もう一つ気になるのは、宮下は探偵業の免許をはたして持っているのだろうかということである。探偵を営業として行うには確か免許が必要だったはずで、それなりの教習を受けたり大手の探偵事務所で働いたりといった経験が必要とされるはずだ。しかし彼の経歴を聞けば聞くほど、そんな機会は無かったのではないかと思えてくるのである。彼の話はいつも大げさで、やれ「高校卒業後はバックパッカーになって世界中を放浪していた」とか、「エジプトでは王家の血を引く石油王の令嬢と恋に落ちたよ」とか、「アメリカのIT企業では年俸五十万ドルで働かないかと言われたんだけど、僕の本業は探偵だからね」とか、どこまで本当なのかと疑いたくなるような話が続くのだ。いや、最初はそれを大感動して聞いていたけれど、今となっては嘘に違いないと、さすがの僕にも分かってきている。しかし、せめて探偵の免許くらいは持っていてほしい。そうしないと、いざ宮下が本気になって探偵の仕事をやり始めても、無免許営業で捕まってしまう可能性が大ではないか。営業のための部屋を提供している僕まで巻き添えを食ってしまいかねない。そういう事態は避けたいのだが、「探偵の免許は持っているのか」と訊いてみても、宮下は巧みに話をそらして誤魔化してしまうばかりである。「探偵をやるのに免許などは必要無いんだよ。まったく君は心配性だねえ」などと言うのだが、本当だろうか。
そして宮下はどこ吹く風で、今日も無芸大食を決め込んでいる。
もう一つだけ彼の欠点をあげておこう。僕がどうしても我慢ならない彼の性質は、非常に卑しく食い意地が張っているということである。飢餓と隣り合わせのホームレス生活で身についてしまった悪癖なのだろう。
今、宮下は朝飯を食べ終わり、皿についた目玉焼きの黄身をペロペロと舌で舐めとっているところだ。まるで犬のように舌が長い。まったく、食べ物で苦労はしたくないものである。その浅ましいさまを見ていると、僕まで食欲が無くなってくる。
僕が味噌汁をゆっくり味わっていると、宮下は僕のおかずの皿にまで目を付けてきた。
「おや、ワストン君、今朝は食欲が無いのかい。せっかく焼かれたのに食べてもらえないとは卵も気の毒だね。良かったら僕が食べるのを手伝ってあげようか」
僕の名前はワストン博士だ。博士はハクシではなくヒロシと発音する。アメリカ白人の父親と日本人母の間のハーフである。ちなみに宮下はイギリス人父親との間のハーフだ。僕が宮下に興味を持ったのは、境遇が似ていたからということもある。何かと周囲から浮いてしまいやすい日本人ハーフは、仲間意識が強いのだ。
「心配してくれなくても結構。好きなものは最後に食べる主義なんだよ」
僕は目玉焼きに箸を付けた。ちなみに僕は目玉焼きに醤油をかける派。宮下はソース派である。
ピンポーンと心地よい電子呼び鈴の音が響いたのはその時だった。居候の宮下を訪れる人は少ない。きっと僕のお客だろう。僕は立ち上がり、玄関へと向かった。
驚いたとに、扉の外に立っていたのは切れ長の目をした美しい女性だった。
長いスカートのワンピースを着、手には地味な皮の鞄を持っている。豊かな黒髪を長めのボブカットにして頬に垂らしている。歳は二十代半ばくらいで、化粧はごく薄くて素顔に近い。つるんとした小麦色の肌が健康的だ。しかし表情は、不安気に曇っていた。
始めて見る顔だ。
「あの、何か御用ですか?」
僕が訊くと、女性はおどおどと戸惑ったような態度を見せて、
「はい。いえ、ここは探偵事務所かと思って伺ったのですけど……私の勘違いかしら」
僕の住むマンションはごく普通の2DKの作りだ。内部には探偵事務所を思わせるものは何も無いので、そう思われても仕方がない。
すると後方から、快活な声が飛んで来た。
「おはようございます。私はこの探偵事務所の所長で、シャーロック・ホームレスと申します。いささか間の抜けた名前ですが本名でしてね」
宮下はしゃあしゃあとして嘘をつき、僕を押しのけるようにして前に出て来た。
「こちらは親友のワストン君。見た目はゴツイですが信用のおける男ですので私同様に依頼内容をお話し下さってかまいません。ああ、それと、僕らは日本人のハーフです。この外国人はどうしてこんなに日本語が上手いのかしらなどと余計なお気を使いませんように。どうぞこちらへ」
ナイトよろしく手を取らんばかりにして女性をリビングに招き入れた。テーブルには食べ掛けの朝食が載っている。宮下は僕に向かって叱りつけるように、
「ワストン君、何をやっているんだい。早く君の食べ残しをかたずけたまえよ。レディーに対して失礼じゃないか」
いつの間にかたずけたのか、テーブルからは宮下の食器だけがちゃっかりと消えていた。これではまるで僕一人が食い意地が張っているようではないか。いつもながら宮下の要領の良さには呆れさせられる。
「いえ、いいんです。どうぞお食事をお続けになって下さい」
「ありがとうございます。お優しいんですね」
宮下はニッコリと微笑んだ。その笑顔に、女性は少しどぎまぎしたようす。
宮下は人並み外れた男前である。悔しいが、男の僕が見ても心地よいと思えるほどの繊細な目鼻立ちの持ち主なので、見つめられた女性がそれを意識してしまうのは無理もないのだ。若い頃のアラン・ドロンとちょっと似ているくらいなのである。
僕は口の中でぶつぶつ文句を言いながら朝食の残りをかたずけた。
女性は席につき、促されて依頼の内容を語り始めた。驚いたことに、宮下は熱心に身を乗り出して聞き入っている。これまでは依頼人が来てもふんぞり返って眠そうな目をするだけだったのに。もっとも女性の話は非常に興味深いものだったので、僕も思わず惹きこまれてしまっていたのだが。
これまでのように平々凡々なサラリーマンの浮気調査やら、猫好き主婦の迷い猫捜索などではない。これこそが名探偵が乗り出すべき事件だと思えた。
2
「私が調査をお願いしたい件は、はっきり事件と決まっているものでは無いのです。漠然とした疑惑というような感じのもので、他の人から見たら愚かな取り越し苦労と思われるかもしれないんですけど。でも考えるとどうしても不安でたまらなくて、居ても立ってもいられない気持ちになってしまうんです。眠れない夜をいくつも過ごし、頭がどうにかなってしまいそうな気がしました。そんな時にふとこの建物の窓に貼ってある探偵事務所の文字が目に入りまして、もしかしたらこの恐ろしい状況から私を救って下さるのはここかもしれないと思い、藁にもすがる思いでやってまいりました」
依頼人の女性の顔は青ざめていた。よほど怖いことがあったと見える。育ちがいいのか、若いによらず古風で丁寧な話し方をした。
宮下は依頼人を安心させるように、落ち着いた態度で頷いてから、
「まずは名前からお聞きしましょうか」
「あっ、そうですわね。私の名は古峰佳澄美。この町の図書館に勤めております」
「ふむ。職場へ行く途中で探偵事務所の文字が目に入ったのですね」
「どうして分かるんですの」
「何、それは簡単ですよ。まず今は朝で出勤の時間だ。それからあなたのいで立ちは何となく出勤途中のように見える。ただそれだけですが」
依頼人の佳澄美は目をパチクリさせた。
「私の家は郊外にありまして、このマンションの前を通って中心街の図書館へ歩いて行くのが毎日の出勤コースなんですの。図書館の方へは風邪で熱が出たので休ませて下さいと携帯電話で連絡をしました」
「賢明ですね。心配ごとは早く取り除くのが一番です。それで、ご心配の内容とは?」
「はい。実は家族のことなんですけれど」依頼人の佳澄美は辛そうに表情を曇らせてから、「一カ月前に亡くなった姉の死因について、どうしても納得のいかないところがあるのです」
「ふむ」
宮下は再び頷いた。そして目を少しだけ大きくして、口をへの字に引き結ぶ。半年間生活を共にした僕には分かった。嬉しさを噛み殺した表情だ。やっと待ち望んだ依頼が来たかと思ったのだろう。
「それは、殺害された疑いがある、という意味なのですか」
「分かりません。同居している義父は私の疑惑に対して、『お前の思い過しだ。めったなことは言うもんじゃない』と叱りつけてきます。それがもっともなのかもしれません。でも、頭からはどうしても、何かがおかしい。何か重大な悪事が行われたのではないかという疑惑が去らないのです。こんなことなら亡くなった時にすぐ警察に相談すれば良かったと思うのですけれど、今となっては遺体も焼かれてしまっていますし、私一人が騒いでも相手をされないのではないかという気がして心苦しくなるばかりです」
「よろしければ、家族構成などについても話していただけませんか」
「はい。私は現在義父と二人暮らしです。実の父はもう二十年も前に交通事故で亡くなり、母も五年前に癌でこの世を去りました。十二年前に母と再婚した義理の父が、今では唯一の家族なのです。きょうだいは姉が一人いるきりで、その姉も一カ月前に亡くなってしまいましたから……。姉の名前は英美里と言います。私と齢は一つしか違わず、双子のようによく似た姉妹だと言われて育ってきました。ですが似ているのは外見だけで、性格は反対だったのですけれど。引っ込み思案で読書などが好きな私に対し、姉は外交的で派手好きな性格でした。とは言ってもがさつなところがあった訳では無く、根は優しくて良い姉でした。性格が反対なのがかえって良かったようで、喧嘩をすることもほとんど無くて、ずっと仲良くしていたのです。姉は四年前に大学を卒業するとすぐに家を出て、一人暮らしをしていました。義父とあまり折り合いが良くなくて、一緒に住みたくなかったらしいのです。それに、華やかな姉は男性にもてたので、自由にしたかったのでしょうね」
「お姉さんの写真はお持ちではないですか」
「はい、ここに」
佳澄美は鞄からスマートフォンを取り出して、画面に写真を表示させてから宮下に渡した。宮下はそれをチラリと見ると、横に座っている僕にも画面を見せてくれる。
上半身のスナップである。自撮り写真なのだろう。斜め上から撮られた、上目遣いの可愛いらしい微笑。双子のように似ていると言うだけあって整った顔立ちは佳澄美とそっくりだが、雰囲気は大分違っていた。妹よりも色白華奢で、目がやや丸っこい。さり気なく、だがしっかりとメイクがされていて、唇は淡いピンク色だ。ふんわりした大きめの白いセーターを着て、髪をウエイブさせて肩に垂らしている。
マリンスポーツでもやっていそうな健康美の妹に対し、姉は窓辺の花的な繊細さを感じさせる。内面はこの見た目と反対らしいから、女性は外見では分からないものだ。
「有難うございます」宮下はスマートフォンを依頼人に返すと、改めて微笑を作って、「お姉さんも美しい方ですね。仕事は何をやっておられたのですか」
「仕事と言えるほどのことはしていなかったようです。一時は劇団に所属したと聞いたことがありますけれど、それも長続きしなかったようですし。母は資産家で、まとまった遺産を残してくれましたから。気ままに暮らすことができたのですわ」
「ほう」
宮下の瞳が光った。姉が財産を相続したのなら、妹もそれ相応のものを持っているはずだ。捜査費用を高く吹っかけられると踏んだのだろう。
「義父は、そんな姉を心配していました。義父は民芸品や漢方薬などを輸入する貿易会社で働いているのですが、若い頃は香港の支社に長くおりまして、その時にさまざまな経験をして、世の中には悪どい連中がいるということが骨身に染みて分かっているようなのです。だから姉のことをあの子の考えは甘い。悪い男に捉まって痛い目に合わなければいいが。などと口癖のように言っておりました。その危惧が、どうやら当たってしまったようなのです。姉は、亡くなる三日前から実家に帰って来ていたのですが、男性との間にトラブルがあって逃げて来たのではないかと思える節があったのです。どこかビクビクして怯えるような素振りがあって、まるでストーカーから追われているようでした。窓から外の道を柄の悪い男が歩いているのが見えたりすると、ビクッとして恐怖の表情でカーテンを閉めたりしまして。そして部屋に籠って外に出ようともしません。いつも明るく積極的な姉らしくないなと思っていたところ、急死する事件が起こってしまったのです。私は傷心したようすの姉の気持ちが落ち着くのを待ってから事情を聞こうと思っていたのですけれど、その前にこんなことになってしまって残念でなりません」
佳澄美はハンカチを取り出して目頭を押さえた。
「その、お姉さんが見てビクッとしたという、柄の悪い男ですがね。恐れている男が現れたという感じだったのでしょうか。それとも別の男と見間違えて、念のためにカーテンを閉めたのでしょうか」
「どうでしょう」佳澄美は首を捻ってから、「よく分かりません。でもその男の方でもこちらを見ていたようだったので、もしかしたら恐れている相手なのかなと思ったりはしましたけれど……」
「その男の人相風体を詳しく教えて頂けませんか」
「詳しくと言われても、姉がカーテンを閉めるまでの数秒間のことなので良く覚えてはいないのですけれど。三十歳くらいの目つきの鋭い男だったとしか。肉食動物のように目をギラつかせた危ない感じがありました」
「ヤクザ風の男だったのでしょうか」
「え、ええ。そんな風にも見えましたけど」
「そうすると、女性に寄生して食い物にするタイプかもしれないですね。お姉さんはその男と付き合っていて、虐げられるのに耐えられなくなって逃げて来たのかも。そのような男性と付き合っているといった話を聞いたことはないですか。ストーカーからつきまとわれたことがあるとかいう話でも結構ですが」
「いいえ。姉は自尊心が強くて、そういったことについては話しませんでしたので。家を出てからの男性関係は分からないんです」
「分かりました。それで、お姉さんがお亡くなりになられた時の状況は?」
「はい。あれは今からちょうど一カ月前の五月九日の夜のことでした。五月にしてはひどく蒸し暑く、異常気象かと思ったのを覚えております。姉はその日も部屋に閉じこもり、食事をする時に出て来るだけでした。姉のいる部屋は姉が家を出る前に使っていた部屋で、幸い家は広く部屋は充分ありますので、姉がいた時と変わらずに保存されていたものです。私は姉のことを気にかけながら、寝苦しい夜を過ごしておりました。そうしたら深夜になって、奇怪な音が聞こえて来たのです。ヒューッというような、口笛のような音でした。断続的に何度か聞こえ、そして気がついたのです。そう言えば昨日も深夜にこんな音が聞こえていたようだと」
「それはどの方向から聞こえていましたか」
「分かりません。最初は外からかと思ったのですけれど、気味が悪くなってベッドから起き上がってみますと、その音は終わってしまったので。私は廊下に出てみました。緊張したためか喉が渇いて、気を落ち着けるために台所へ行って水でも飲もうと思ったのです。私の寝室は二階の端にあり、姉の部屋は隣りでした。こんな音が聞こえたら姉もさぞや気味悪るがるだろうと思って姉の部屋の扉を見ました。気が強いわりに幽霊の話などは苦手な人でしたから。そうしたら、その扉の向こうから、ガシャーンという何か金物を激しく床に落としたような音が聞こえて来ました。その数秒後、ノブが回ってすうっと扉が開き、中からネグリジェ姿の姉がよろめき出て来たのです。真っ青な顔色で、冷たい汗を流していました。顔は恐怖に引きつり、瞳孔も開いているような気がしました。足元はふらつき、体はガタガタと痙攣するように震えていました。とにかく普通の状態では無い。姉の身に、何か恐ろしいことが起こったのだと分かりました。足が藁になって倒れ込もうとするようすでしたので、私は駆け寄って姉の体を抱きとめました。そうしたら、姉は必死で私に縋りつき、叫ぶように、絞り出すようにしてこう言ったのです。『ああ、恐ろしく気持ちが悪いまだらの紐』と。そして、それっきりがっくりと全身から力が抜けて意識を失い、帰らぬ人となってしまったのです。あの時の姉の恐ろしい声と顔つきが、脳裏に焼き付いて離れません。何度も夢に出てきて私を苦しめるのです」
「それで、亡くなられたお姉さんを診た医師の方はどんな診断をされたのですか。それだけ不審な死に方なら警察にも届けるべきだと思いますが」
「それが、心筋梗塞の自然死だという診断だったんですの。騒ぎを聞きつけてすぐに義父が駆けつけて来まして、昔から懇意にしている医師に連絡したのです。それが良くなかったのかもしれません。やって来た医師は義父に気を使って穏便にことを運んであげようとして、良かれと思って詳しく調べもせずに自然死という診断をしてしまったのかもしれないと。そんな気もしないではないのです。外傷らしい外傷は無かったので、簡単な診察だけでは自然死と思っても不思議はありません。もちろん私は姉の死に際の不自然さを訴えました。ひょっとしたら何らかの毒物でもって死んだのではないかと。実を言うと姉の腕にはそれを思わせる注射の跡のような傷がついていたのです。左腕の内側に、三センチくらいの間隔で並んでついた二つの小さな点があって、私はそれを訴えたのですけれど、義父は『お前の思い過しだ。この傷はたった今つけられたものじゃない。よく見てみろ』と。そう言われて見直してみますと、二、三日前につけられた傷のように見えるので何も言えなくなってしまいました。それなら口から毒を飲まされたのかもしれないと思ってもみたのですけれど、それもあり得ないと怒られまして……。姉が亡くなる直前にいた部屋のようすを説明いたします。扉は一つだけで、窓も一つ。そして窓には内からクレセント錠がかけられておりました。ちょっとした密室といった状況だったのです。室内にはテーブルと椅子とベッドがあり、ベッドの布団は乱れていました。そして、床には金属性のお盆が落ちていました。どうやらガシャーンという金属的な音は、このお盆が落ちる音だったようなのです。そしてその他に小皿が一枚割れて落ちていて、そばには一切れのブルーチーズが転がっておりました。おそらく小皿はお盆の上に載っていて、お盆と一緒に床に落ちたのでしょう。ブルーチーズには一口噛んだ跡があり、その他に、テーブルの上には赤ワインの入ったワイングラスが一つありました。姉はワインが好きで寝る前に一切れのブルーチーズを肴にしてワインを一杯飲む習慣だったのです。ワインも二口くらい飲まれたようすがありました。ですから、ワインかチーズのどちらかに毒が入れられていたとしたら、姉は毒殺されたということになるのですけれど、義父は『そんなことがあるか』と怒鳴り出しまして、『それじゃあそのチーズとワインをお前が飼っているハムスターに食わせてみろ。それで死んだら信じてやる。ハムスターがピンピンしてたらそんなことを言うな』と。私は可愛がっているハムスターに毒かもしれないものを食べさせるなんて気が進みませんでしたが、義父の権幕が激しいので逆らえませんでした。自分の手でワインとチーズをハムスターに食べさせてみました。そうしたら、……美味しそうに食べて飲むばかりで、体調に変化は見られなかったのです。ああ、もちろん酔っぱらって、とろんとしたようすにはなりましたけれど、毒を思わせる兆候は何も出なかったのです。義父はそれを見て『ほら見ろ私の言った通りだろう』と勝ち誇り、それで私は何も言えなくなってしまったんです。姉の死は警察には届けられず、火葬も葬式もすんでしまいました」
「ふむ。つかぬことを伺いますが、その、お姉さんの部屋にあったワインとチーズというのは、誰かが他のものとすり替える隙はなかったのでしょうか」
「ありませんでした。私はすぐにそれを私の部屋の金庫にしまっておいたのですもの。ひょっとしたら毒殺の証拠になるかと思いましたので。だからなおさら義父は怒ったのです。『そんなに疑うなら試してみろ』と」
「そうですか」宮下は腑におちないようすで考え込んだ。そして軽く頭を振ってから言った。「それで、そのお姉さんが亡くなる時に言われた『まだらの紐』という言葉ですがね。あなたはどのようにお考えですか。つまり、何を意味しているのか」
「見当もつきませんわ」佳澄美は恐怖を振り払おうとするように身震いして、「最初はまだら模様の革製のベルトとか、そのようなものを想像したりもしたのですけれど。派手好きな姉なら、そういう奇抜な品を持っていたとしてもおかしくはないかもしれません。でも死ぬ間際にそれを言うのはどう考えても変ですし、首を絞められた訳ではないので誰かが紐を持って姉を襲って来たということも考えられません。そうなるとまったく得体が知れず、何か恐ろしくて気持ちの悪い妖怪のようなものしか想像出来なくて。だからなおさら怖くなるのです。お願いです。シャーロック・ホームレス様。この謎を解いて、不審な死を遂げた姉の無念を晴らしてくださいませ」
「分かりました。これは僕が乗り出すのにふさわしい事件のようです」宮下は胸を張り、自信に満ちた表情で、「ですがこれだけ奇怪な事件ともなりますと、調査費用もそれなりのものになりますがよろしいでしょうか。警察でも手に負えないような難事件を解決するのが我が探偵事務所のモットーですが、それにはある程度お金もかかるのです」
「解決していただけるのでしたらお金は問題ではありませんわ」
「結構です」宮下はにっこりと天使のようにほくそ笑んだ。「それではなるべく早くお姉さんが亡くなられた現場を見せていただきたいのですが、いつお宅に伺ったらよろしいでしょう」
佳澄美は少し考えた。
「今日は義父が家に知人を呼んでおりますので、その方々が帰った後が良いかと思います。正午を過ぎてからなら大丈夫だと思いますわ」
「驚いたねどうも。絵に書いたような怪事件じゃないか。ワストン君、君はどう思う?」
依頼人が帰ってしまうと、宮下は上機嫌でパイプを取り出し、火をつけて気持ちよさげに吸い始めた。グレー地に茶色のチェック模様が入ったジャケットと揃いのズボンというお洒落な服装で、その姿は英国紳士のように決まっている。だが、パイプに詰まっている煙草の葉はシケモクをバラして固めたものである。元ホームレスで金の無い彼は、公共の場の灰皿からシケモクを拾って来てはこうやって吸うのである。ちなみにパイプはホームレス時代にゴミ回収所から拾ったものだ。
ブレンドされた煙草葉の煙はそう悪い香りという訳でもないが、シケモクと分かっていると嫌な感じだ。僕は顔の前に漂って来た煙を手で払いながら、
「うん。すごく不思議な事件だね。夜中に聞こえて来た口笛のような音といい、まだらの紐という言葉と言い、怪奇ムードが満点だ。依頼人のお姉さんは殺害されたと見てもいいんじゃないだろうか。これは僕の勘なんだけど、依頼人の義父というのがどうも怪しいね。懇意にしている医者を呼んで診断をさせたり、依頼人が毒殺説を訴えるとムキになって怒ったり、まるで事件をもみ消そうとしているようじゃないか」
「ふーん。まあ、そう思えなくもない状況だね。彼女は義父から暴力を振るわれたりもしているようだし」
宮下はいともあっさりと依頼人も言っていなかった情報を口にした。
「何だって?」
僕が驚いて見返すと、
「おや? 気がつかなかったかい。髪の毛でうまく隠していたが、依頼人の左頬には引っ叩かれたような青痣があったじゃないか。気の毒なんで指摘しなかったが、義父から手を上げられたんじゃないかと思うね」
「そうなのか」
「うん。これは見過ごしてはおけないね。まだらの紐という言葉がどんな恐ろしいものを示しているのかはまだ分からないが、どんな危険があろうとも調査に乗り出して解決しなければならない。そうしないと新たな犠牲者が出てしまう可能性大だ。これはそういう事件だよ」
宮下は珍しく立派なことを言った。そしてこの言葉は、後になって的中していたと分かるのである。数々の欠点を持つ宮下ではあるが、こと犯罪捜査に関しては天才的な勘を持っている。
3
宮下は昼飯時に依頼人の家に押しかけて昼飯を食べさせてもらおうと主張したが、僕はそれはさすがにまずいと彼を押しとどめた。
「せっかく金持ちの家の昼飯が食べられそうなのに、君はまったく貧乏性だねえ。おっと失敬、君の実家も小金持ちだったっけか」
そんな減らず口をたたく宮下を納得させるために、回転寿司を奢らされる羽目になってしまった。結局僕らが依頼人の家に着いたのは、午後一時を過ぎた頃である。依頼人、古峰佳澄美の住む家は、家などと表現するのがはばかられるような立派な邸宅だった。古い洋館風の二階建て。部屋数は十五はありそうで、英国風の広い庭もついている。僕の実家などとはスケールが違う、本物のお金持ちである。
僕らの住むマンションからは、徒歩で十数分の近い距離にあった。空は曇っていてやけに蒸し暑く、その程度の距離でも汗が出そうになる。依頼人によれば姉が怪死した夜もやけに蒸し暑かったというが、こんな感じの陽気だったのだろうか。
呼び鈴を押すと間もなく玄関に迎えに出て来た依頼人佳澄美は、どういう訳か少し困ったような顔をしていた。
「わざわざ来ていただいてありがとうございます」
「いやいや当然のことです。しかし表情が冴えませんね。何か不都合でもありましたでしょうか」
宮下が顔色を読み取って言うと、佳澄美は申し訳なさそうに、
「不都合というほどのことではありませんけど、義父のお客がまだ帰っておりませんので、少し慌ただしいかもしれません」
「構いませんよ。お邪魔いたします」
宮下は無神経に家に上がり込んで行った。
玄関を上がってすぐは左右に延びる広い廊下である。佳澄美はそれを右へ進んで階段の方へと僕らをいざなった。亡くなったお姉さんの部屋は二階だ。家の内部は天井が高く、空間が贅沢に使われている。庶民の家とは格の違いを感じさせた。
「義父とお客さんたちは一階奥の広間で勉強会の最中です。邪魔をすると怒られますので、すみませんがお静かにお願いします」
「ほう。何の勉強をしているのですか」
宮下が明るく訊くと、
「風水ですわ。義父は若い頃の香港生活で風水を覚えて来て、今ではちょっとした先生なんです。休みの日になると風水を習いたい方々がいらっしゃって勉強会が開かれるのです」
「迷信深い方なんですねえ」
宮下は神も仏も信じない男だ。彼にとっては宗教関係者はすべて迷信家なのである。
もっとも彼の感想も分からないではない。こんな洋風の邸内で風水とは、僕もちょっとした違和感を感じていた。
二階に上がる。廊下右側の白壁には扉が五つ並んでいた。佳澄美は奥の方を示して
「一番奥の部屋が私の部屋で、その一つ手前が姉の部屋です」
姉の部屋の扉は、外へ向かって開く方式の重厚なものだった。僕はこの扉からネグリジェ姿の女性が飛び出して来る様を想像してみる。夜だったら、ホラー映画めいた雰囲気が出そうな気がした。しかし宮下はまったく頓着せずに、「失礼します」と丸いノブを掴んで扉を開ける。僕も後に続いた。
中に入ると、目がチカチカするようなピンクの洪水が目に入って来る。壁紙は薄いピンクで、カーテンはレースの付いたショッキングピンク。その上、壁には男性アイドルのポスターが貼ってあるという、まったくもって女性らしいというか、女の子女の子した部屋だった。扉から見て右側にベッドがあり、中央にはお洒落な丸テーブルと椅子が一脚。左手にはピンク色の洋箪笥とテレビがある。窓は正面だ。
「ワインがあったのはその丸テーブルの上ですね。そして金属製のお盆が床、と。すみませんがどのあたりにあったのか教えていただけませんか」
宮下に要求されると、佳澄美はその地点を指し示した。ワインがあったのはテーブルの端のベッド側。テーブルはベッドとごく近く、ベッドに横になって寝酒を飲んでいたとも考えられる位置だ。そしてお盆が落ちていたのはテーブル横の扉に近い側の床。お盆はテーブルの上から落ちたとおぼしく、割れていたブルーチーズの小皿は、お盆の上に載っていたらしい。そういう位置関係だ。
ところでそのお盆は、どうして床へ落ちたのだろう。犯人から襲われた際に揉み合いになって体が当たったのか。それとも犯人が立ち去った後に、毒で苦悶した被害者が一人でよろめいてお盆に手をついて落としたのだろうか。僕は後者であるような気がした。ガシャーンという金属音がしてから数秒後に被害者が扉から出て来たとすると犯人が逃げ出すには時間が少な過ぎる気がするし、お盆が落ちていた位置が扉側なのは、苦しんだ被害者が扉の方に向かってよろめき歩く途中でぶつかって落とした事実を示しているように思えるからである。ワイングラスが倒れていなかったのも、一人でぶつかった方がそうなりやすい気がした。
しかし宮下はそれを問題にしようとはせず、あっさりとその場を離れて窓の方へ向かった。閉まっているカーテンを開いて窓をじっくりと見る。しっかりした窓枠にクレセント錠が付いている。姉が亡くなった時この窓は閉まっていて、クレセント錠もかかっていたという。ということは、この部屋は完全な密室だったと言っていい。仮りに亡くなった姉の腕についていた針の傷が毒液を注射されたものだと仮定しても、それを行った犯人はこの部屋から出られなかったということになるのである。僕はうすら寒いものが背筋を這い登って来るような気がして依頼人に訊いた。
「事件があった時に窓の錠がかかっていたというのは間違いないのですか」
すると佳澄美は首を捻るようにして、
「ええ。間違いは、ないのですけれど」
「お姉さんはこのアイドル歌手がお好きだったのですか。感覚が若い人だったんですねえ」
気がつくと、宮下は壁に貼られたポスターを感心したように見ていた。童顔美青年の、満面の笑顔が眩しい上半身のスナップだ。フィギュアスケート選手のような服を着ている。
「ええ。コンサートにもよく言っていたようです」
「なるほどね。ところで、お姉さんの遺品に、日記とかメモとか、そういった生前の生活をうかがわせるようなものは無かったでしょうか」
「携帯電話がございますけど……」
佳澄美は箪笥の一番上の引き出しから携帯電話を取り出して宮下に渡した。ピンク色にデコレーションされたスマートフォンである。
「でもロックされていて、パスワードが分からなくて使えないのですけれど」
「これは、お預かりしてもよろしいですか。私の友人にコンピューターセキュリティーの専門家がいますので、解析してみましょう」
「ええどうぞ」
「ところで」僕は宮下と名を呼びそうになり、宮下は自分をシャーロック・ホームレスだと依頼人に偽っていたのを思い出す。一応調子を合わせてやるか。「……シャーロック、この部屋が密室だったことについてはどう思う? もし亡くなったお姉さんが殺害されたのだとしたら、犯人はどうやって犯行を行ったんだろう」
「うん。それはね。僕は思うんだが……」宮下は少し考えた。と思ったら突然素っ頓狂な声をあげた。「ややっ、あれは何だ」
ベッドがある側の壁の上部を見上げている。その視線の先を追うと、奇妙なものがそこにあった。直径五センチくらいの丸い穴が一つ、天井近くに空いているのである。隣りの部屋とつながっているらしい。
「あの穴はいったい何ですか。通気用の穴にしては小さいし、隣の部屋とつながっているのはおかしいですよね」
宮下に訊かれると、佳澄美はため息をつくようにして、
「あれは通気口じゃあないんです。風水の運気を通す穴で、義父が工事人に頼んで開けたものなんです。『この建物には運気の通る道が少ない。このままでは命脈も滞って不幸が起こるに違いない』とか言って家のあちこちに穴を開けて、人の部屋にまで穴を開けてしまうので、姉は怒っていました。義父のそういうところをすごく嫌がって、お義父さんはあの穴から私たちを監視してるんじゃないの。などと言って、それで家を出て行ったのです」
「ははあ。ずいぶん変わり者のお義父さんですな。そう言えばこの部屋はピンク色だらけですが、風水とは関係があるんですか」
「いいえ。義父は運気を呼び込むためには黄色にすべきだと言っていたんですけど、姉は『私はピンクが好きなの』と言って、逆らってこういう内装にしたのです。そんなことでも二人は喧嘩していました。義父は姉が亡くなってから『この部屋の毒々しい色が邪気を呼び寄せたのかも知れんな』と言って、色を変えさせなかったのを悔やんでいる風でした。義父は義父なりに姉を思ってはいたのです」
「ふむ。それで、あの穴の向こうはどんな部屋につながっているのですか」
「空き部屋ですわ。元はお客様が泊まる時用の寝室だったのですけれど、今は使っていません」
「その部屋も見せていただけますか」
宮下の要望で、僕らはその隣の部屋へも行ってみた。しかしそこは何も無いがらんとした室があるだけで、手掛かりになるものは何も無かったのである。僕らは部屋の捜索を終えて一階に降りた。
調査が一段落つくと、佳澄美は応接室で僕らをもてなしてくれた。床にはペルシャ絨毯が敷かれ、樹齢千年の大樹を伐り出して作ったような木製テーブルとふかふかの高級ソファーがセットになっているという、梅雨時には鬱陶しく感じられるほど高級感漂う部屋だった。もちろん空調は完璧で、蒸し暑さはまったく感じなかったが。
「姉の部屋は捜査の参考になりましたかしら」
佳澄美は小さな湯呑み茶碗に高級玉露のお茶を淹れて僕らの前に出すと、向かい合う席に座って言った。
「この携帯電話が手に入っただけでも大助かりですよ。事件の解決は近いでしょう」
宮下は亡くなった姉英美里のスマートフォンを手でいじっていた。知り合いにコンピューターセキュリティーの専門家がいると言っていたが、本当なのだろうか。僕はそんな話を聞いたことは無いのだが。
「あの、姉はやっぱり殺されたのでしょうか」
佳澄美がおずおずとお伺いをたてるようにして訊くと、
「それはまだ断定できませんね」鉄面皮のような顔でスマートフォンを懐にしまって、「ところで何かつまむものは頂けないでしょうか。どうもお茶だけだと口寂しくて」
「あっ、すみません。気がつかなくて」
宮下はさらにすました顔で付け加える。
「できれば客の方から言わなくともすむように、自然に出していて頂きたいものです」
僕は驚いた。
佳澄美さんはお姉さんが謎の死を遂げた深い動揺の中にいるのだ。少しくらい気が回らないところがあっても仕方がないではないか。それなのに、この言いぐさは何だろう。この男の意地汚さには、心底嫌気が差してきた。恥ずかしいったらない。
思わず声を出していた。
「いいんですよ。佳澄美さん。お茶菓子なんて要りません。この男には塩でも舐めさせておけばいいんです」
しかし宮下は頑固だった。
「いや、僕はどうしてもお茶菓子が食べたいね。そんなおかしな頼みじゃあないだろう」
佳澄美は険悪になった僕たちの仲を、呆れたようすで眺めていた。
「和菓子とお煎餅がございますけど……」
「いいですね。両方お願いします」
佳澄美は席を立ち、壁際にある桐製の茶箪笥の戸を開けた。すると宮下は中腰になって身を乗り出してその中を覗き込む。
「栗饅頭に海苔煎餅ですか。いいですねえ。僕は饅頭には目が無い方で。やや、その奥にあるのは北海道産の厳選ホタテ干し貝柱ではないですか。ああっ、鱈の干物まである」
これは一大事とばかりに立ち上がり、開いた戸棚に駆け寄った。手を出して、二つの袋を掴みだして眺める。
「しかもこれは最高級品の真鱈だぞ。いやあお金持ちの家は違いますねえ。最高のつまみを揃えていらっしゃる」
宮下の興奮ぶりに佳澄美は戸惑って、
「そんなに良いものなんですの?」
「ええ。こんなもの中々手に入りませんよ。どうやって取り寄せられたのですか」
「二つとも、義父が務めている会社の方から頂いたらしいのですけれど、よくは知りません。よろしければお食べになります?」
佳澄美はお茶の添え物として一口食べませんかと勧めたのだろう。ビニールパックされた二つの袋のうち、むき身になった鱈の干物の方は口が開いていたので、これをどうぞというつもりだったに違いない。しかし宮下は、
「ありがとうございます!」
元気よく礼を言うと、ガバリと袋を二つとも懐に抱え込んでしまった。
これには本当に呆れてしまった。この高級品は渡さないぞという欲張ったようすは、頬袋いっぱいに食べ物を詰め込んで逃げて行く日本猿を思わせる。
もはや怒る気にすらならなかった。申し訳なくて仕方なく、僕は依頼人に頭を下げた。
「すみませんね。この男は食い意地が張っているもので……」
「いえ、いいんです。義父はこのところ血圧が高くてしょっぱいものは控えた方がいいと医師から言われていますし、私も干物は好きではないので。こんなに好きな方に食べて頂けるのなら嬉しいですわ」
依頼人は名探偵? の千倍くらい人間が出来ていた。頭が下がる思いだ。この人のために、怠け者の宮下の尻を何が何でもひっぱたいて事件を解決させようと僕は誓った。
彼女が淹れてくれた玉露はさすがに美味しかった。宮下もそれを誉めあげた。彼は干物を二袋も貰ったにもかかわらずそれを食べようとはせず、栗饅頭と海苔煎餅をむさぼり食って、さらにお茶をお代わりしたのである。
「ところで、飼っておられるハムスターはお元気ですか。一度顔を見たいものですが」
宮下は動物好きなところがある。ホームレス時代には、カラスをペットにしていたらしい。限界まで腹が減った時のための非常用食料として確保していたのではないかと僕は睨んでいるが。
訊かれた佳澄美は顔を曇らせて、
「それが、飼育箱から逃げ出してしまったみたいで、数日前から姿が見えないんです。逃げても元気でいてくれたらいいのですけれど」
「それは心配ですねえ」
その時ガチャッと粗雑な感じで、廊下につながる扉が開かれた。
五十年配の男性が扉口に現れ、部屋の中を睥睨する。和服姿で恰幅が良く、夏目漱石のような口髭を生やしている。やけに細くて高い鼻と落ち窪んだ目。猛禽類を思わせる気難しそうな顔をしていた。
「お客様が来ていたのかね」
佳澄美に向かってゆっくりと問いかける。態度からすると、どうやら佳澄美の義父らしい。
「はい。ちょっとお頼みしたいことがあって来て頂いた方々なのですけれど」
「ふむ」
五十男は値踏みするような冷たい目で僕と宮下を見た。得体の知れない外人顔の若い男が二人並んでいるのだ。さぞや怪しく見えただろう。もう一度視線を佳澄美に戻して、
「どんな用で来てもらったのかね」
絡みつくような、ねっとりとした訊き方だった。粘着質の人物らしい。
「それは……」
佳澄美は答えに窮して目を伏せた。姉の変死の原因を調べてもらっているなどと言ったら「まだお前はそんなことを考えているのか」と怒られかねないので無理はない。
その時宮下がピョコンと立ち上がった。腰を折って一礼しながら快活に言った。
「こんにちは、佳澄美さんのお義父様ですか。はじめまして。お邪魔しております。私たちは私立探偵でして。とは言っても実質的には便利屋なのですがね。いなくなったハムスターを探し出してほしいというご依頼を受けてやって参りました。しかし、何ですねえ、立派なお屋敷ですねえ。捜す範囲が広いので、中々見つけられずに苦労しておりますよ。はっはっは」
義父らしき五十男は、宮下のわざとらしい態度を眉も動かさずに軽蔑するように見つめてから、
「ふん。それで一休みしていたのかね。まあいい。この子の淹れるお茶は美味しい。私もそれは自慢したいところだ。ゆっくりして行きたまえ」そしてまた佳澄美に向かって、「私はこれから外出してくる。引っ越した家の風水を見てくれと頼まれたのでな。帰るのは二時間後ぐらいになる」
「ああ、すみません。一つ質問に答えていただけないでしょうか」
宮下が面の皮の厚さを発揮して訊くと、義父はジロリと睨みつけて、
「私は忙しい。君のためにさく時間は無いな」
そしてゆっくりと後ろを振り返った。後方の廊下には二人の人物が立っていた。
四十代で背広姿の真面目くさった男性と、三十代スーツ姿の小柄な女性。女性はちょっと愛嬌のあるタヌキ顔をしていた。風水の講義を受けていた人たちなのだろう。義父はその二人に向かって、
「すまんがお茶はご馳走出来ない。行こう」
弟子の二人は、新興宗教の信者のように畏まって義父を迎えた。女性は微笑んで義父を見上げ、男性は小さく頭を下げた後、僕らのいる室内を覗き込んできた。そして、何を思ったか立っている宮下をキッと睨んだ。「教祖様に無礼を働かなかったろうな」といったような表情に見えた。
扉は閉められた。浮世離れした三人は玄関へ向かったようす。
応接室には、何となく白けた空気が漂った。
ゆっくりと席に座って宮下が訊いた。
「さっきの方は佳澄美さんのお義父さんですね。そう言えば名前を聞いていませんでした。何というのですか」
「古峰誓悟と申します。元の苗字は江島というのですけれど、母の婿に入って古峰になったんですの」
「よろしければ、お母さんとのなりそめを教えて頂けないですか」
「海外旅行が趣味だった母が、上海へ行った時に義父と出会って親切にしてもらったのがきっかけだったと聞いておりますけど。義父は貿易会社の仕事で中国方面へよく行くので」
「出会いは外国、ですか。ロマンチックですね。ついでに誓悟さんの後ろにおられた二人のお名前もお聞きしておきましょうか」
「男性の方が志賀さんで、女性が時田さん。義父が勤める貿易会社の社員です。お二人共とても熱心に風水を勉強していらっしゃって怖いくらいなんです」
「なるほどね」宮下は右手で顎を撫でて考え込んでから、「そう言えば、もう一つお訊きしなければならないことを忘れていました。お姉さんは、この家に戻る前はどこに住んでおられたのですか。住所を教えて頂けるとありがたいのですが」
宮下は佳澄美からその住所を教えてもらうと、さらに補足的な質問をいくつか行った。その中には僕にはずいぶんと無駄な質問だと思えるものもあったが、答えを聞いた宮下はしごく満足気だったのである。
4
依頼人の邸を辞すると、外は小雨が降っていた。朝から蒸し暑かったのは、雨の前兆だったらしい。
帰り道、僕らは傘もささずに並んで歩いた。
玄関を出る時は佳澄美から「傘をどうぞ」と勧められたのだが、その気遣いを、宮下は陽気に笑い飛ばして断ってしまったのである。
「このくらいの雨は濡れた方が気持ちがいいというものでしょう。僕の父の国、英国では、誰も傘などさしませんよ」
実を言うと僕は濡れるのが嫌いで傘が欲しかったのだが、先にこう言われると僕だけにくれとは言い出しにくくなる。宮下の無意味な英国趣味に付き合わされるはめになってしまった。
雨に濡れて歩く宮下は、口笛を吹かんばかりに上機嫌だった。よほど大きな手掛かりが見つかったのだろうか。
「宮下。僕はすごく収穫の多い現場検証だったんじゃないかと思うんだけど。君はどう思う?」
「うん。そうだね。収穫は多かった。高級干物と高級煎餅、それに栗饅頭までもが手に入ったからね」
宮下はそう言って、ジャケットの内懐に大事そうに抱えた干物の袋と海苔煎餅と栗饅頭が詰まった袋を見てニヤつくようす。お茶を飲み終わっての帰り際、食べきれずに残った海苔煎餅と栗饅頭までもを持って帰りたいとねだって強引に懐に捻じ込んだのである。この男、いったいどこまで食い意地が張っているのか。
「そんなことを言ってるんじゃないよ。事件解決のための手がかりがあっただろうと聞いてるんだ」
「うん。それはあったよ。もちろん」
「僕はお姉さんの部屋の壁にあった風水の穴が怪しいと思うね。あれは事件を解決する重要な鍵なんじゃないかな」
僕は勢い込んで言った。実を言うとこの事件を解決するための仮説が頭に浮かんでいたのである。密室の謎が解明される上に、被害者が死ぬ前に言った「まだらの紐」という謎の言葉も説明できる。これならひょっとして、宮下を出し抜けるのではないかと思った。
しかし宮下は気乗りしないようすで、
「その可能性も無いことはないがね」
「風水の運気を通すためだなんて言って部屋と部屋の間の壁に穴を開けるのは、いくら何でもおかしいよ」
「ふーん。まあ、おかしいのは確かだね。人は死んだら地獄へ落ちるなんていう話を信じる人たちはおかしなことをするものさ」
「そうじゃなくてさ。あれは犯人が、殺人を実行するために開けた穴なんじゃないかと思うんだよ。つまり義父の誓悟氏が犯人なのさ。きっと血のつながらない娘を殺して死んだ妻が遺した財産を独り占めにするつもりなんだろう。どうやって犯行を行ったのか、僕の推理を聞いてくれるかい? 殺人現場は密室で、犯人は被害者に毒を注射して殺したとしても、それを実行した後は部屋から逃げられない。これが大きな謎だったね。でも、もしも、もしもだよ。被害者に毒を注入したのが人間ではなくて、毒蛇だったとしたらどうだろう。誓悟氏は隣の部屋から壁の穴を通して毒蛇を姉の部屋に放ち、被害者に噛みつかせて殺したんだよ。あの、事件の前に聞こえていたという口笛の音は、毒蛇を操るために吹いたものだったんだ。そう考えれば被害者が死ぬ前に言った『まだらの紐』という言葉はよく分かる。まだら模様の蛇を見て、まだら模様の紐だと思ってしまったんだね。被害者の腕に並んでついていた二つの注射跡は、蛇の咬み跡だったんだ。そして、ハムスターが行方不明になったのは、蛇に食べられてしまったのさ」
僕は自分の推理の素晴らしさに興奮していた。こう考えればすべてがピッタリ辻褄が合うではないか。真相はこれ以外にはない。
しかし宮下は感心しなかった。それどころか頬を膨らませ、口先からプッと小さく息を噴いたのである。
「なるほどねえ。それで被害者を噛んだ後にその蛇はどうしたんだい? また同じ壁の穴を通って犯人の元に戻り、大人しく保護されたのかい。そんなに良く訓練された蛇は、インドの蛇使いでもいないと思うがねえ。それに蛇は何も無い平坦な壁は登れないよ。壁の穴のそばから長い紐でも垂れていて、それを伝わって登り降りしたとかいうのならまだ分かるが、あの部屋にはそんなものは無かったのだ。仮に登り降りできたとしても、もし蛇に気づいた被害者が抵抗して、蛇の頭を棒か何かで叩いたらどうなるんだい。蛇はパニックになってたちまち元の穴に逃げ戻り、その向こうにいる犯人に噛みつくに決まっているよ。ずいぶんと危ない犯行をする犯人がいたものだねえ。それに蛇は聴力が弱いから、口笛で操るのは無理があるよ。それに、もしも蛇に噛まれたら、それが紐だなんて思うものかね。細長くてまだら模様で人を噛むものって言ったら、本能的に蛇だと思うに決まってるじゃないか。それに被害者の腕についていた針を刺されたような傷は、二、三日前につけられたようだったって依頼人自身が言ってたじゃないか。自分の推理に都合がいいように、事実も捻じ曲げてしまうのかい。まったく君は空想的だねえ」
宮下はさも可笑しそうにニタニタと嗤った。
「そんなに馬鹿にしなくてもいいじゃないか!」
僕は顔から火が出る思いだった。確かに落ち着いて考えてみれば、宮下の言い分の方が正しいようにも思えてくるが、僕だって一生懸命に考えたのである。
「いや、失敬。君があんまり得意そうだったものだから。馬鹿にするつもりは無いんだよ。許してくれたまえ」
「それじゃあ君はこの事件をどう考えているんだ。人の考えにケチをつけるだけじゃなく、自分の考えも言ったらどうだ」
「うん。まあ、考えが無いこともないがね。それを言うのはまだ早いようだ。もう少し調べてからでないと……」
「君はまったく狡いな。じゃあどこまで調べたら納得するんだ。依頼人から聞いた、被害者が住んでいた場所を調査した後なら教えてくれるのかい」
「いや、それは君に任せるよ。僕はもっと他にやらなければならないことがある」宮下はそう言うと、何故か上を向いて空を仰いだ。「時に、どう思うかね。この雨模様なら、アマガエルはたくさん出てきていると思うんだが、公園に行けば捕まえられるかな。僕はアマガエルに捜査の協力を仰ぎたいんだが」
「ふざけるのもいい加減にしてくれないか」
僕は思わずカッとなって宮下を怒鳴りつけた。
「君にはほとほと愛想が尽きたよ。依頼人に対する失礼な態度といい、僕を馬鹿にするそのふざけた態度といい、いくら探偵の才能があるからといって、そんな態度じゃあ誰も相手にしてくれないと思うね」
もし手袋を持っていたら、横っ面に叩きつけてやりたいくらいの気持ちだった。
しかし宮下にはこんな直言も通じないようで、困惑したような顔をして、
「馬鹿にしたつもりは無いんだがなァ。まあ、いいよ、そう思うんならそれで。僕の推理は後で話してあげるから、君は君でしばらく一人で行動してくれないか」
「ふんっ。君は人間の中では生きていけないね。アマガエルとでも仲良くしたまえ」
僕の捨て台詞に、宮下は下を向いて「うん。じゃあそうするよ」と呟いていた。
僕は宮下と別れた。しばらくは頭に血が昇ってプリプリしながら歩いたが、少し冷静になってみると、言い過ぎたような気もしないではない。「人間の中では生きていけない」というのは、ちょっと致命的過ぎる言い方かも。それに対する「うん。じゃあそうするよ」という宮下の言葉は、どこか寂し気に耳に残った。
宮下の所へ戻って和解した方がいいだろうか。チラリと思ったが、いや、そんなことだから駄目なんだと考え直した。あの男は甘やかしたらどこまででもつけあがる。本気で凹ませて反省させなくてはあの性格は直らない。
だがそうすると、これからはいったいどうしたものか。宮下と同居しているマンションに戻ったら気不味い思いをするだけだし、顔を合わせながら無視するような態度は僕の本意ではない。しばらく宮下と離れながらなおかつ建設的な行動というと、事件の捜査しかないような気がした。幸い被害者が住んでいた住所のメモは僕の手元にあった。宮下の提案に従うようで業腹ではあったが、これを調査しに行くのが一番ではないか。アマガエルを捕まえるなどと言って怠けている宮下を出し抜いて、事件の解決につながる手がかりを掴んでやるのだ。
見ていろ。今度こそギャフンと言わせてやる。と意気込んで、僕はその住所に向かった。
……そして、自分なりに捜査を行った結果、実に有力な情報を掴んだのである。やっぱり何でもやってみるものだ。僕の探偵能力も捨てたもんじゃあない。
四時間後、僕はすっかり満足して宮下の待つマンションに戻った。
宮下はリビングの椅子にもたれ、パイプでシケモクの葉をくゆらせながら天井を見つめていた。その姿は物憂げで、手持無沙汰なようにも見える。テーブルの上には鱈の干物が盛られた皿があった。ひとつまみ、それを口にしてくちゃくちゃ噛んでいた。楽しみにしていた高級品を、さっそく味見したと見える。
「アマガエルとは楽しく遊ぺたかね」
僕が皮肉を言うと、宮下は虚ろな目を向けて来た。
「あまり楽しくは無かったがね。お帰り。どこへ行ってきたんだい」
「君の言う通り、被害者が住んでいたマンションへ行って来たよ」
「ああ、それは良かった。収穫はあったかい」
僕は宮下と向かい合う席に座った。そして勢い込んで身を乗り出して、
「あったとも。さっそくだが、聞いてくれるかい」
「聞かないと言っても話すんだろう」
「相変わらずひねくれてるな。そんな君でも納得せざるを得ない情報を仕入れたよ。被害者が住んでいたのは意外に庶民的な所だった。周囲は古寺と坂が多い町並みでね。マンションなんだがむしろアパートと言った方がしっくりくるような建物の二階の一室で、周囲の部屋の住人たちもあまり裕福でない人が多い印象だった。被害者は、そこで亡くなる直前まで一人の男と一緒に暮らしていたと分かったんだ。その男というのが曲者で、どうやらヤクザっぽい人物だったらしいんだよ。佳澄美さんが言っていた、お姉さんが窓から見て恐怖したって言う目つきの鋭い男は、この男に違いないね。それだけじゃない。もう一つ有力な情報が得られた。この男は背中に刺青をしていて、それが荒彫りの段階で彫るのをやめちゃったもんだから、まだら模様のように見えるって言うんだ。いいかい、まだら模様だぜ」
「それは、誰から聞いたのかな」
「隣の部屋に住んでいる主婦の人が教えてくれたよ。暑い夏の日に、部屋の中で上半身裸でいるのを窓越しに見たことがあるって」
「よくそんなことを初対面で口下手な君に話してくれたなあ」
「それは、その人の子供さんが僕を怪しい外人と間違えて空気銃で撃って、それで平謝りで何でも教えますって言ってくれたから……いや、それはどうでもいいだろ。とにかく情報は聞き出したんだ」
「うん。探偵は結果がすべてだからね。で?」
「だから、その男はまだら模様のような刺青をしていたんだよ。その上仕事をせずにヒモのようにして暮らしていたって言うんだ。つまりその男は『まだらのヒモ』さ。僕は思うんだけど、亡くなる前の被害者はこのことを言っていたんじゃないのかな。『気持ちの悪いまだら模様のヒモ男が私を襲った犯人です』と。これは間違いのないところだと思うね。それでも依然として犯人はどうやって被害者を殺したのかという謎は残るんだけど、ダイイングメッセージの謎が解けただけでも大きな前進だろう。犯人の見当がついたんだからね」
僕は「どうだい」と胸を張った。
すると宮下は、困ったような顔をして、
「うん。まあ、君にしては良く調べたがね。その説はどんなもんかなあ。怒らないで聞いておくれよ」ゆっくりと、噛んで含めるように続けた。「英美里さんはその男と一緒に住んでいたんだろ。だったら男の名前は当然知っているんじゃないかな。そしたら死ぬ間際に『まだらのヒモにやられました』なんていう分かりにくい言葉は言わないんじゃないか。直接『誰それにやられた』と名前を言うに決まっているよ。もし仮りに君が僕から殺されたとしたらと考えてごらんよ。『美男の名探偵から殺された』などとは言わずに『犯人は宮下だ』と言うに決まってるだろ」
僕は宮下の言ったことを考えてみた。言われてみればその通りだった。「美男の名探偵」とは間違っても言わない。「ゲスな元ホームレス」なら可能性があるが、それもやっぱり言わないだろう。実名に勝るものはない。宮下から殺されたらというたとえが何だかリアルで納得できた。
「分かってもらえたかな」僕が怒り出さなかったので、宮下は少しホッとしたようだった。「その刺青のある男には金子真斗っていう立派な名前があるんだから、『まだらのヒモ』なんて言うはずが無いよ」
その言葉に、僕は意外の念に打たれて「えっ?」となった。僕はその男の名前を言わなかったはずだ。そもそもが、僕はその男は苗字が金子だということしか知らないのである。宮下はどうして下の名前まで知っているのだろう。
それを聞こうと思って口を開きかけた時、ピンポーンと響きのいい電子呼び鈴の音がした。
「ああ、やっと来たか」
宮下は席を立ち、玄関へと向かった。
扉を開けると、外には三十歳くらいの、苦み走った角刈りの男が立っていた。龍の絵が織り込まれた派手な長袖のシャツを着、首には金のネックレスが光っている。眉が太く頬が削げていて、見るからにその筋の人という眼光の鋭さがあった。
「あんたがシャーロック・ホームレスとかいうふざけた名前の探偵さんかい?」
男は顔を斜めにして、唇の端だけで不敵に嗤った。
「ええ。そして私の後ろにいるのが助手のワストン君。あなたは金子真斗さんですね。わざわざ来ていただいてありがとうございます」
宮下は礼儀正しく頭を下げた。
5
金子真斗はリビングのテーブルを挟んで僕らと向かい合う席につくと、いきなり宮下に向かってドスの効いた声を出した。
「何であんたが英美里の携帯電話を持ってるんだ」
「英美里さんの妹さんから預かったのです。パスワードは英美里さんの好きなアイドルの生誕年と生年月日を入力したら解けました。アドレスにはあなたの携帯の番号があったので、連絡させてもらったという訳ですよ」
宮下は落ち着いて、にこやかな表情。パイプの火はすぐに消した。二人の間には、一触即発の緊迫感が漂っていた。
僕一人が蚊帳の外にいるようで落ち着かない。
「英美里の携帯からかかって来た時は、幽霊からの電話かと思ったぜ」
「脅かしてしまったのはお詫びいたします」
宮下は素直に頭を下げた。
「いや、そんなことはどうでもいいんだ。あんた、おかしなことを言ってたな。英美里の死に不審な点があって捜査している、だって? それは本当なのか」
「ええ、本当です」
「説明しろ」
「分かりました」
宮下は珍しく率直だった。的確に状況を説明して行った。そんなところまで言わなくてもいいのではないかと思うところまで包み隠さずに話してゆく。死んだ時の状況、まだらの紐という言葉、現場の部屋にあった風水の運気を通す穴まで。話を聞く金子の顔に、驚きの表情が広がって行った。
「……と、そんな訳ですから、あなたにも嫌疑がかかりかねない状況なのです。英美里さんが亡くなられた原因を掴むためにも、そしてもし殺されたのなら真犯人を捕まえるためにも協力して頂けませんか」
「あんたは、殺された可能性が高いと踏んでいるんだな」金子は怖いような目で宮下の顔をじっと見つめていた。だが、しばらくすると大きく息を吐いて、「分かった。あんたの目は信用出来そうだ」
「ありがとうございます」
まったく宮下の演技力は大したものだった。この時の彼の真っすぐな瞳は、僕が見ても真摯で誠実な好青年のようにしか見えなかったのである。
「それでは、英美里さんが亡くなる三日前にどうして実家に帰ったのかから話して頂けますか」
訊かれた金子は痛いところを突かれたというように苦い顔をして、
「喧嘩をしたんだ。あいつは俺に愛想をつかして逃げて行った」
「よろしければ喧嘩の原因を話して頂けますか」
「そんなことはどうでもいいだろう」
「それでは英美里さんの左腕に二つ並んでついていた針を刺したような傷跡について教えて頂けないでしょうか。これは大事なことなのですよ。あの針の刺し跡を、犯人が毒液を注入した跡だと言う者がいましてね。はっきりそれは違うと証言して頂かないと、捜査がおかしな方向へ進んでしまう可能性があるのです」
「分かった。あの針の跡は、俺が英美里に非合法な薬を注射しようとしたものだ。嫌がって暴れるもんで刺し跡が二つになってしまったんだ。結局薬液は注入出来なかったがな。英美里はそれで俺に愛想をつかして逃げて行ったんだ。悪いことをしたと思ってるよ。これでいいか」
金子は自虐的に嗤った。この男の頬が削げているのは、薬物をやっている者の特徴なのかもしれない。
「おかげで捜査が進展しました。その後、あなたは逃げた英美里さんの後を追ったのですね」
「ああ。未練があったんでな。あいつはいい女だよ。つき合い始めたきっかけは劇団の劇を見たことだった。俺はこう見えても昔は演劇青年だったんだぜ。舞台に上がったあいつの演技は下手くそだったが、俺にはいい味があるように見えた。それで声をかけたんだ。誓って食い物にしようなんて考えからじゃねえ。なのに結局はこうなっちまうんだな。まったく自分が嫌んなるよ。あいつは逃げて、俺は後を追った。ストーカーと呼ばれても仕方がないような立場だった。頭に血が昇っていたしな。実を言うと悪い薬が少し俺の体内に残ってもいた。あいつが帰った実家の周りをうろうろしたよ。携帯電話は着信を拒否されてるし、それにあいつの父親は警察官だろ。直接家に押しかけるのもためらわれた」
金子の話にはおかしなところがあった。被害者英美里の義父は警察官ではなく、貿易会社に勤めていたはずだ。金子がそう思い込んでいるのは、英美里が金子をけん制するために嘘をついていたということなのかもしれない。宮下はこの点には口を挟まずに、金子が喋るに任せていた。
「夜になって、俺はあいつを呼び出すには人気の無い今がいいと思った。だから窓越しに口笛を吹いて呼んでみたんだが、あいつは応えてくれなかったね。それでもあきらめ切れずに次の夜も行ったよ。そして三日目の夜に、あいつが変死する事件が起こったんだ」
「あなたはその時英美里さんの部屋の窓を外から見ていたのですね。どんなようすでした?」
「どんなようすと言われても、カーテンは閉まっていたしな。ただ明かりはついていた。俺が口笛を何度か鳴らしたら、あいつは部屋の中で立ち上がったようだった。人影がカーテンの隙間でチラリと動いたんだ。窓に近づいてこっちを見てくれるのかと思ったら反対に扉の方へ向かったようで、その時カシャーンという金属的な音が微かに聞こえたような気がした。それだけだよ俺が知ってるのは。何やら邸の中で人の気配がし始めたんで、怪しまれたらいけないと思ってその場を立ち去ったんだ。まさかあの時に殺されていたとはな。やりやがった奴はぶち殺してやりてえぜ」
話すうちに興奮して来たのか金子は拳を握って怒りを露わにする。
「お気持ちはごもっともです。ですが、興奮は体に良くないですよ。気を静めたい時にはしょっぱい物が一番です。幸い英美里さんの実家の方から頂いた干物がありますので、これを食べて気を落ち着けたらいかがですか」
宮下はテーブルの上にある皿に盛られた鱈の干物を金子に勧めた。
金子は不審気に宮下を見て何か言いたそうにしていたが、手を伸ばして干物を取り、口に入れてもぐもぐ食べ始めた。宮下もニッコリ微笑んで干物を取って口に入れる。
言葉が途切れた。何となく僕も手持無沙汰な気持ちになって宮下に訊いた。
「僕も食べていいかな」
「ああどうぞ」
許可が出たので、干物のむき身を一切れ取って口に入れてくちゃくちゃ噛んだ。しょっぱくて、ベッタリした化学調味料の濃い味がした。宮下がさかんに高級品だと言っていた割には大したことないなと思った。
くちゃくちゃくちゃくちゃ。
干物を噛む音だけが室内を満たす。エアポケットに入ったような変な時間だった。
くちゃくちゃくちゃくちゃ。
怒りを沈殿させ、当惑気な顔をしながら悪人相の金子が干物を噛む。
くちゃくちゃくちゃくちゃ。
爽やかに、機嫌良さげに宮下が噛む。
くちゃくちゃくちゃくちゃ。
訳が分からぬながらも僕が噛む。
食べるのが大変なカニには人を黙らせる力があると言うが、噛むのが大変な干物にも人を黙らせて世界を平和にする力があるかのようだった。
しばらくして口の中の干物を飲み込むと宮下が言った。
「今日はご協力ありがとうございました。金子さん。おかげて捜査は大きく進みましたよ。事件の解決はもう時間の問題です」
「ああ、それは良かった。お邪魔したな。一つだけ信じてくれ。俺は俺なりにあいつを大切にしていたんだ」
「ええ、もちろんですよ。英美里さんも天国で、あなたの想いは感じていらっしゃるでしょう」
宮下は何事かを掴んだらしい。しかし僕にはそれがまったく分からない。金子が帰ってしまうと、僕はさっそく訊いてみた。
「事件の解決は時間の問題だと言ってたけど、本当なのかい」
「ああ、そうだね。もう僕の推理を披露してもいい段階だ」
宮下は自信ありげだった。もっともこの男は常に自信ありげだが。
「じゃあ教えてくれ。英美里さんは殺されたんだね」
「ああ、そうだよ。もちろん」
「犯人は誰なんだ」
「それはまだ確定できていない。だが犯行の方法と、犯人の可能性が極めて高い人物。そして犯人じゃない人物は分かった。犯人じゃあないと確実に言えるのは依頼人の佳澄美、義父の誓悟、金子、それに君だね」
僕は目を丸くした。
「何だって、君は僕まで疑っていたのかい。僕が犯人じゃないのは最初から分かってるだろう」
「うん。そうなんだけどね。証明はされて無かった。さっき正式に証明されたから名前をあげたって訳さ」
相変わらず宮下の言うことは人を煙に巻くようだ。
「分からないな。はっきり説明してくれよ」
「うん。それじゃあ順を追って説明しようか」
宮下はパイプに再び火をつけて一服してから、気持ちよさげに語り始めた。
6
「この事件はすごく奇怪なものだと思われていた。夜中に聞こえた口笛の音、被害者が死ぬ間際に言ったというまだらの紐という謎の言葉。被害者の部屋に開けられていた風水のためだと言われる謎の穴。でもそういう表面的なことにとらわれずに本質だけを見れば、しごく単純な事件だと僕は思うんだよ。ああもう一つ、君はこの事件を密室殺人だと言ってたね。でも僕に言わせればあんなもの密室でも何でもない。被害者は毒で殺されたと思える状況なんだから、何か毒の入っているものを食べて、それで死んだと考えれば何てことないんだ。それは被害者の部屋にあったワインや齧りかけのブルーチーズには毒が入っていなかったよ。でも他に食べた物があるかもしれないじゃないか。きっとあの床に落ちて割れた皿の上にはブルーチーズだけじゃあなくて、他の食べ物もあったんだろう。そして全部食べ切ったその食べ物に毒が入っていたんだと僕は推論した。毒の入った食べ物を食べ切って、チーズを齧り始めたところで毒が回って死んでしまったんだね。被害者がよろめき出て来た部屋には犯人などいなくて、床に落ちたお盆と皿は、毒を食べて苦しんだ被害者が一人で手をついて落としたのさ。だから調べるべきなのはその毒の入った食べ物が何だったかだ。まだらの紐という謎の言葉は、その食べ物に関連する言葉だったんじゃないか。……と、殺人の現場となった邸へ行く前に、僕はそんなふうに考えていた」
宮下は一息ついて、口からフーッと大きく煙を吐き出した。シケモク原料の煙草の葉は、葉巻並みにニコチン量が多い。受動喫煙でも頭がくらくらしそうだった。
「そして、被害者が亡くなった現場を調べた後、応接間でお茶をご馳走になろうとしていた時に、僕はそれを発見したんだよ。佳澄美さんが茶箪笥の戸を開けてお茶菓子を出そうとした時、僕はその奥を覗き込んで興奮したね。ビニール袋に入った鱈の干物があるじゃないか。しかもそれは高級品の真鱈たった。つまり真鱈の干物だ。この言葉にに聞き覚えはないかい。まだらのひもの。被害者が死ぬ前に言っていたという謎の言葉、まだらの紐……まだらのひも。とそっくりじゃないか。被害者は死ぬ間際にこのことを言っていたに違いないよ。被害者が言った言葉は確かこうだったね。『ああ、恐ろしく気持ちが悪いまだらのひも』佳澄美さんはこれを『まだらの紐が恐ろしく気持ちが悪い』という意味に取っていたようだけど違うんじゃないか。おそらくこの言葉は『恐ろしく気持ちが悪い』と『まだらのひも』の間で区切るんだよ。被害者が言おうとしたのはこうだ。『ああ、恐ろしく気持ちが悪い。真鱈の干物に当たったのかしら』気持ちが悪いのは体調のことで、その原因はさっき食べた真鱈の干物だと訴えようとして、毒の回りが早かったのでそれが最後まで言えずに『まだらのひも』になったんだよ。まあ、言おうとしたのは『真鱈の干物に毒が入っていたのかしら』とか、そんな言葉だったのかもしれないがね。それに思い当った僕はすぐに干物の袋を確保した。袋は二つあって同じ時に頂いたものだと言うから二つとも確保する必要があった。ひょっとしたら真鱈の干物だけじゃなく、ホタテの干物にも毒が入れられている可能性があったから」
「ちょっと待ってくれ」僕は悲鳴をあげるようにして言った。「君はその真鱈の干物を自分で食べて僕にも食べさせたよね」
頭から血が引く思いだった。毒が入っているという可能性があると分かっていてそんなことをしたのか。本当に毒があったらどうするつもりなのか。
「ああ、いや、そうじゃないよ」宮下は苦笑するようにして、「これは僕の言い方が悪かったかな。さっき食べたのは佳澄美さんからもらった鱈の干物じゃない。スーパーから買って来た安物の干物だよ。金子を試すために、殺人現場の邸からもらって来た干物だと偽って、別の干物を出してみたんだ。そう言って勧めてもそれを食べるようだったら、金子は干物に毒を入れた犯人じゃないって分かるからね。まあ、金子は犯人ではないだろうと思ってはいたが、一応英美里さんに危害を加えかねない立場の人物だから、確かめた方がいいと思ってね。金子はそれを食べた。やっぱり犯人じゃあなかった。君も一緒になって食べたから君も犯人じゃないって証明された訳さ」
「なるほどそうか」僕は胸を撫で下ろし、同時に納得もする。さっき食べた干物はやけに安っぽい味だと思ったら、本当に安物だったのか。「ということは、佳澄美さんからもらった鱈の干物にはやっぱり毒が入っていたのかい」
「ああ、そうだね。だがその前に、もう少し説明させてくれるかな。佳澄美さんによると、鱈の干物とホタテの干物は義父の誓悟氏が会社の人からもらったものだと言うことだった。だから思ったのさ。きっと犯人は被害者の英美里さんを狙ったのじゃあなくて、義父の誓悟氏を殺そうとしたんじゃないかと。干物は彼に対してあげられたんだから、当然そう考えるべきだ。誓悟氏が干物に毒を入れて英美里さんに食べさせたということはあり得ない。もしそうなら証拠になる毒入りの干物は証拠隠滅のために処分したはずだからだ。妹の佳澄美さんまで殺すつもりだから毒入り干物を残していたということもない。佳澄美さんは干物が嫌いで食べないのだから。誓悟氏は犯人ではなく、命を狙われた立場と考えるのが順当だ。きっと犯人も佳澄美さんが干物嫌いなのを知っていたんだろうね。だから干物に毒を入れれば佳澄美さんに食べられることはなく、ピンポイントて誓悟氏を殺せると思ったんだろう。しかし誓悟氏は最近血圧が高くて医師からしょっぱい物は控えるようにと言われていた。結果的に誓悟氏も佳澄美さんも共に毒入り干物を食べることはなかった。そのままだったら事件は起こらなかったかもしれないんだけど、そこへ帰って来た英美里さんは不幸にして干物好きだった。『あら、お酒を飲むのにいいつまみがあるわね』と目をつけて、ブルーチーズと一緒に自室に持って行ったのが運のつきだった。気の毒に。とばっちりを食って毒殺されてしまったんだ。僕はその説を確かめるために、一刻も早く鱈の干物に毒が入っているのかどうかを確かめるべきだと思った。それには佳澄美さんがハムスターにブルーチーズを食べさせたように、生き物に干物を食べさせてみるのが一番手っ取り早いだろう。そして思いついたのがアマガエルさ。雨が降っている今ならアマガエルを捕まえるのは造作も無い。気の毒だが、カエルには犠牲になってもらうことにした。真鱈の干物をすり潰して、捕まえたアマガエルに食べさせてみたら、ほんの数分で痙攣を起こして死んでしまったよ。三匹続けて実験してみたが、全部結果は同じだった。やはり鱈の干物には毒が入れられていると見て間違いない。後味は悪かったがね。僕はすぐに佳澄美さんに電話して、お義父さんから干物をくれた人が誰なのかを聞いてくれと要請した。鱈の干物に毒が入っていたと聞くと佳澄美さんは悲鳴を上げんばかりに驚いて、家に帰って来た誓悟氏から訊き出してくれたよ。さすがの誓悟氏も、毒殺を企てられていたと知れば協力しない訳にはいかない。折り返し電話で知らせてくれたところによると、干物をくれたのは誓悟氏の風水の弟子で貿易会社の社員でもある志賀という男だと言う。あの、今日佳澄美さんの邸へ行った時に、腰巾着のように誓悟氏の後ろについていた男さ。慇懃に忠誠を尽くすような態度を取っていたが、ああいう男こそ裏で何をやっているかは分からないものだと僕はピンと来たね。というのも、あの男の素振りはどうもおかしいと感じていたからだ。あの男は誓悟氏が立ち去ろうとした時に、後ろから僕らのいる応接室を覗き込んできたね。そして僕をキッと睨んだ。だけどその時にあの男は、僕の顔を見てはいなかった。胸のあたりを睨んでいたんだよ。普通人を睨む時っていうのは目を見るものだろう。どうにも違和感を感じたんだが、今思うとあれは僕が懐に抱え込んでいた干物の袋見ていたんじゃないかという気がする。探偵を自称する男が毒入りの干物の袋を大事に持っているのに気づいたら、それはギョッとして睨むような怖い目つきになろうっていうもんじゃないか。あの男が干物に毒を入れた犯人に違いないと思うね。……でもまあ、犯行時に聞こえていたという口笛のような音とか、被害者の腕についていた針で突かれたような傷跡とか、まだいくつか分からないところはあった。だから被害者とトラブルを起こしていた男からも話を訊いてみることにしたんだ。被害者の携帯電話を調べて金子という男がどうもそれらしいとあたりをつけて会見の約束を取り付けた。そこへ君が帰って来たって訳さ。金子との会見で謎だった点は解明された。あとは犯人を捕まえるだけだ。でもそれは、僕がやるまでもないんじゃないかな。事件のあらましは分かった訳だし。毒入りの干物を提出すれば警察は動いてくれるだろう。逮捕にこぎつけるための証拠固めなんていう退屈な仕事は、国家権力に任せるに限るよ。せっかく高い税金を払っているんだから。使わない手はないというものさ」
元ホームレスの宮下がいつ高い税金を払ったのかははなはだ疑問だったが、そんなことは感じさせないほど彼の弁舌は鮮やかだった。
宮下は語り終えるとパイプをひとふかしし、それからテーブル上の皿の鱈の干物をつまんで口に入れた。噛み始めて小さく顔をしかめる。
「うん。不味いなあ。これじゃあしょっばいだけじゃないか。安物は駄目だね。やっぱり鱈の干物は最高級の真鱈でないと……」
宮下はまたしても事件を解決した。その後の事件の進展は、宮下の言う通りになったのである。宮下は依頼人の許可を得て毒入りの真鱈の干物を警察に提出し、警察はそれを受けて捜査を開始した。警察は科学的な調査によって干物に入れられていた毒を特定したが、それは僕が聞いたこともない非常に難しい名前の毒物だった。ここにその名前をあげるのはやめておこう。ただ宮下はその毒物名を聞いて、さもあらんという顔をしたのである。というのも、その毒の成分は主に中国大陸に自生する植物に含まれるもので、中国との貿易ルートがあれば比較的手に入れやすいものだったからである。
これは一つの状況証拠になった。誓悟氏に毒の入った干物をあげた志田は、中国との貿易が多い貿易会社に勤めていたのだから。
志賀は警察から問い詰められると、誓悟氏にあげた干物は他の人からもらったもので、自分は毒が入っているとは知らずにそれを誓悟氏の元へと移動させただけだと抗弁した。自分こそが命を狙われた人物なのだと。
だが、そんな言い訳がいつまでも通用する訳がない。警察から厳しい追及を受けると志賀の証言は二転三転し、誰から干物をもらったのかは次第にあやふやになって行った。そして綿密な捜査によって、そんな人物など存在しないと証明されるのに、さして時間はかからなかったのである。しょせんは素人の浅墓な犯行にすぎなかった。
志賀は自供に追い込まれた。動機はつまらぬものだった。志賀は誓悟氏の風水に心酔している時田という女性を熱愛しており、彼女が誓悟氏を崇拝するのに嫉妬して誓悟氏を亡き者にしようとしたのだった。誓悟氏には時田さんをどうこうしようという気持ちなど無く、志賀のまったくの独り相撲だったのだが。
志賀は邸に捜査に来ていた宮下を見た時に、宮下が懐に毒入りの干物の袋を抱えているのに気づいてぎょっとしたと言う。こんなところまで、宮下の推理は的中していた。
やっぱり宮下の探偵能力は素晴らしい。名探偵と呼ぶのにふさわしいと改めて見直した。これならば彼を名探偵シャーロック・ホームレスと呼んでやっても良かろう。そして、食費や部屋代の支払いが滞ることがあっても、もう少しだけ心を広く持って待ってやってもいいのではないかと、彼の唯一の親友である僕、ワストン博士は思ったのだった。
了
「シャーロック・ホームレスの誕生」ミステリー小説。
一浪して入った医大での学生生活は、思ったよりも大変だった。
初めての一人暮らしにも中々なれられなかったし、地元を離れて人間関係が変わってしまったのも人付き合い下手な僕には苦労の元だった。その上、憧れていたはずの大学そのものにもストレスを感じてしまっていたのである。
学内はやけに管理が厳しくて、窮屈な雰囲気が漂っていた。勉強することがむやみに多く、課題も多くてそれをこなすのが精いっぱいという感じ。これでは予備校に通っていた時と変わらない。必死に受験勉強をしてきたのだから大学に入ったら少しは休めるかと思っていた僕は、当てが外れてがっかりしていたのだった。
内科医の叔父は、「大学は入ってしまえばそんなに厳しくない。マイペースでやれるようになるよ」と助言してくれていた。すっかりそれを信じていたのだが、よく考えてみれば叔父が医大に通っていたのは三十年以上も前のこと。今とは時代がまったく違うと気づくべきだった。
もちろんこれは、僕の勝手な思い込みというものだ。いやしくも人の命を預かる人材を養成しようというのであれば、厳しさがあって当然である。医大のやり方が生ぬるいから禄な医師が育たず人命が損なわれたなどということがあってはならない。僕だって、大変なのは覚悟の上で医学の道を志望したのだ。
しかし、何というか、もう少し潤いのようなものがあってもいいのではないかとも思うのである。これではまるでベルトコンベアーに乗せられて医療器械になる道を進まされているようだ。医師がみな人の心が分からない朴念仁では、患者に対するアフターケアも上手くできまい。人間味のある医師の養成というのも必要なはずである。
そのためにはもうちょっと人間らしい血の通った学生生活をおくるべきではないだろうか。ゆとりある自由な時間を持ち、さまざまな経験を積むのである。
分かりやすく言えば青春を謳歌したい。平たく言えば遊びたい。そんな思いが抜けきらないまま時間だけが無為に過ぎて行き、僕は二年生になっていた。
落ちこぼれかけている劣等感のためか、周りはみんな冷たいエリートのように見えた。口をきく友人さえもほとんどできない。人間関係が希薄なままで、視界はずっと灰色のままである。
僕がその気分を一変させてくれる奇妙な人物と出会ったのは、異常気象で暖かい日が続いた十一月の日の午後のことだった。
その日僕が散歩に出たのは、特に理由があってのことではなかった。ただ何となく気分を変えたかっただけなのである。単位獲得のための勉強に飽きて、住んでいるマンションの窓から外を見ると、午前中降った雨はすっかり晴れて、北の空に虹が出ていた。それがちょっと美しかったので、思わず誘われただけだったのだ。
虹の見えた方行には川があり、土手の向こうに広い河川敷が広がっていた。僕はその河川敷に降りて、足の向くまま川沿いに東へと歩いた。短い雑草の生えた地面は朝からの雨で湿り、細い歩道も暗い色に染まっていた。空気は遠くまで澄んでいた。進む方向には鉄道橋があり、そのさらに先には簡易な運動広場と、木々が植えられた遊歩道公園が見える。
気持ちの良い午後だった。雨上がりなのが嘘のように空は晴れ上がり、十一月だというのにぽかぽか暖かい。
すると後ろから、僕を追い越して行った男がいた。追い越しざまに腕が触れたので、「ああ、失敬」と言い捨てる。そしてそのまま立ち止まるでも振り返るでもなく先へ進んで行った。
失礼な奴だなと思った。
男は痩身で背が高く、チェック模様のジャケットとズボンを着ていた。驚くほど足が長くて、モデルのように見栄えのする後ろ姿だ。そして僕との間の距離は、確実に開いて行った。男は特に速足ではなく、歩調は僕とほとんど変わらない。それなのにどんどん先へ行くということは、それすなわち足の長さの違いということではないか。何だか不愉快になってきた。比較の対象になるのが嫌で、ゆっくりと歩くことにする。お前なんか早く先へ行けという気分だ。
男は堂々と胸を張って歩き続けた。そして歩道の無くなる地点に達し、さらに進んで鉄道橋の下へとさしかかる。橋の根本の壁際にはホームレスの住居らしきビニールテントが一つあった。蒼いシートを木の骨組みに沿って張り合わせて作った粗末なものである。骨組みは少し傾いでいる。意外にも男はそのテントへ向かって進み、軽く中に声をかけた。そして入り口のシートを手で捲って奥を覗き込んだ。
男の姿が固まったように見えた。それは一瞬だった。男は腰を屈めてテント内に入ると、すぐにまた外に出て来た。そして僕の方に視線を向けて、真っすぐにこちらへ向かって歩いて来たのである。
驚いた。男はまるでハリウッドの映画スターのように整った顔立ちをしていたからだ。生身では見たことがないような、ギリシャ彫刻型の美青年だ。肌は白く鼻筋は高く完璧な稜線をなし、まなざしは繊細で憂いを帯びている。いや、実際には何の表情も浮かんではいなかったのだが、あまりの美形ゆえに憂いているかのように錯覚してしまう。それほど浮世離れした風貌だった。
短めの髪の毛は栗色で、毛先は立って散り散りに乱れていた。本来ならだらしないはずのそんな身だしなみも、この男がやっていると最新流行のファッションのように見える。
ぱっと見は白人だが、さっきの一言は綺麗な日本語だった。語学留学生か日本人のハーフなのだろうか。立ち止まると変な抑揚で話しかけてきた。
「エクスキューズミー。日本語が分かりますかァ」
何だかガマが鏡を前にしたような気分になった。
人のことは言えなかった。僕もアメリカ人の父と日本人の母との間のハーフで、外見はほとんど白人なのである。もっともいかつい顔つきで、美男のこの男とはタイプがまったく違っている。足の短さは日本人の母からの遺伝だ。両親から悪いところを貰った、いわゆる残念なハーフというやつである。
憮然として答えた。
「僕は日本人のハーフですよ。よく外人と間違われますけど」
「ああ、そうですか。僕と同じだ」男はホッとしたように小さく微笑んだ。「携帯電話を持っていますか」
「ええ、それは持ってますけど」
すると男は納得顔でうなずいてから、
「じゃあ警察に連絡して頂けませんか。殺人事件が起こったので」
「えっ?」
一瞬何を言われているのか分からなかった。男は冷静そのもので、言葉の内容と態度の乖離がはなはだしい。ポカンとしていると、男は噛んで含めるようにもう一度繰り返した。
「殺人事件です。そこのビニールテントの中に殺害されたとおぼしき死体があります。だから警察に連絡をお願いします」
口だけでは分からないと思ったのか、男は手招きして僕をそのビニールテントへ連れて行ってくれた。テントの前に立つと、入り口に垂れ下がったシートをペロンと捲る。
むわっとした、堆肥のような生臭い匂いが漂って来た。
中は思ったより広く、引っ掻き回したように物が乱雑に散らばっていた。床には青いビニールシートが敷かれ、その上の右側にボロボロの布団の万年床が敷いてある。鍋やガスコンロなどの炊事用具が転がり、奥の本棚が倒れて本が散らばっている。中央に一人の男がうつ伏せに倒れていた。頭を出口の方へ向け、テントの中から這い出ようとしている途中で息絶えたような態勢である。煤をなすったように汚れが目立つチャンチャンコを着て、下半身には裾のほつれたジーパンを履いている。頭は何カ月も洗っていないようにぼさぼさで、その中央には鈍器で殴られたらしき無残な傷があった。鮮血がねばつくように流れて床に血だまりが出来ていた。倒れた男のすぐ手前には、大きな石が一つ転がっていた。バレーボールより一回り小さいくらいの大きさで、丸っこく少し扁平な形をしている。そして、その側面の一か所には、血がこびり付いていた。
間違いない。石で殴り殺されたのだ。被害者は五十代の男性で、うつぶせているので顔ははっきりとは分からないが、口のまわりから顎にかけて髭を生やしているのは見て取れる。仙人めいた風貌と思えた。
殴られたのは一度だけのようだった。大きな石の物理的パワーは、一撃を持って頭蓋骨を打ち砕き、絶命させるのに十分だったとみえる
思わず息を飲んで生唾を飲み込んだ。僕は医学生なので、死体には耐性がある。そうでなければ、きっとショックを受けて悲鳴をあげたところだろう。
男が「もういいですね」といった感じで入り口のビニールシートを元に戻した。表情は完全に平静だ。こんな現場を見つけて眉一つ動かさないとは、いったいどういう人物なのだろうと思わずにはいられない。
男は僕の視線に気づいて、「どうしました?」と首を傾げた。
「いえ」
僕は視線を下向けて携帯電話を取り出した。
警察への連絡は少し手間取った。この場所の正確な名前が分からなかったのである。地区名を説明してそこの川にかかっている鉄道を通すための橋の下とか言うと。今度は「どちら側の橋のたもとですか」と聞かれる。僕がこの鉄道橋の正式な名は草亜町鉄道橋だと知ったのは大分後になってからのことである。この殺人事件は後に草亜橋事件と称されたようだ。
連絡を終えて携帯電話をしまうと、美男の男はそばにはいなかった。見回すと、殺人現場のテントから離れて橋の外東側の地面にしゃがみ込んでいた。僕たちが歩いて来たのは西からなので、橋の下を通り過ぎて向こう側へ抜けたかっこうになる。
そこには簡易的な運動グラウンドが広がっていた。バスケットボールのコートを一回り大きくして、さらに長い辺を1・5倍に長くしたくらいの広さがある。土手と川原の間の地面がほとんど全部グラウンドだ。男はその赤土の地面についている足跡を調べているようだった。僕らのいる橋の下から始まって遊歩道公園へと去って行く一筋の足跡と、遊歩道公園から始まってこちらにやって来るもう一筋の足跡がある。足跡は両方とも同じ男物のスニーカーのようだった。誰かが遊歩道公園からここまで歩いて来て、また遊歩道公園へと去って行ったと見える。
橋の下の地面は雨に濡れていないので足跡はついていない。足跡があるのは地面が濡れているところからだった。
僕はハッとした。これは、犯人の足跡ではないのか。足跡はそれを裏付けるかのように特徴的なルートの取り方をしていた。去って行く足跡はグラウンドの土手に近い側を土手と並行に真っすぐに公園へと続いているが、来る足跡はそれと二等辺三角形を形作るように折れ線を描いて川原に立ち寄ってからこちらへ向かって来ているのだ。川原は左側に長く続いていて、そこには大小さまざまな石がある。つまり、犯人が川原に寄って凶器の石を拾ってからこの橋の下へ来たとすればこうなるという足跡のつき方なのである。
遊歩道公園には川土手を昇り降りする石段があったはずだ。犯人がそこから河川敷に降りたとすれば、この足跡と同じようなルートをとることになるだろう。
男はポケットからティッシュを一枚取り出してそれを捻じって一本の棒にした。そしてそれを足跡の上に当てる。ティッシュの棒の方がわずかに長かったので、長い部分を手で千切った。どうやらティッシュ棒を足跡と同じ長さにして、足跡のサイズを記録したらしい。
それを再びポケットにしまうと、立ち上がって僕を振り返ってニヤリとした。
「この足跡が犯人のものなのかと思っているかい。その通りだよ。僕は橋の西側も見てみたけれど、そちらには他と行き来する足跡はついていなかった。そして東側にある足跡はこの二筋だけ。雨が降って地面が湿り、足跡がつく状態になったのが二時間くらい前で、ビニールテント内で人が殺されたのは、どう見てもそれより後だ。まあ見たところ、死後一時間かそこらだろうね。だから犯人はどうしても足跡をつけずにはこの橋下と外とを行き来できない。この足跡は、犯人のものだということになるのさ。そして、見たまえ。来る時の足跡と去って行く時の足跡は微妙に足跡の深さが違うような気がしないかい。去ってゆく足跡の方が浅い。重い物を運んで来て、それを殺人現場に置いて行った証拠だよ。犯人は川原から凶器の石を拾って来たのに間違いないね」
理路整然とした理論に驚いていると、
「ああ、すまない。僕は探偵をやっているものだから。こういう場面に出くわすと調べないではいられないのさ。自己紹介もした方がいいかな。僕の名前はシャーロック宮下。君は?」
「ワストン博士って言うんだけど……」
「ふうん。ワストンヒロシね。ヒロシはハクシと書いてヒロシと読ませるのかな」
「どうしてそれを」
「いや、僕も名前のシャーロックに引っかけてホームズとあだ名されたりするものでね。ワストンと言えば博士じゃないかと思ったんだよ。うん。君はもしかして医学生なのかな」
「どうしてそんなことまで分かるんだ」
僕は思わず目を見張った。しかし宮下は至極当然という顔で、
「いや、簡単なことだよ。君は左手の小指に包帯を巻いているが、専門の看護師などが巻いたにしては巻き方が下手だ。自分で巻いたように見える。しかし素人にしては巻き方の方式自体は本格的だ。だから間を取って医学生なのかなと思ったまでだ。君の年恰好はどう見ても学生っぽく見えるしね」
説明されてみると何てことは無かった。確かに僕は昨日大学構内で転んで左手小指に裂傷を負い、自分で手当てをしたのである。軽い怪我なので、医師の卵たる者このくらいなら自分でやるべきと思ったのだが、包帯の巻き方の下手さ加減を見抜かれるとは思わなかった。
観察眼の鋭い男だ。だが、そうなるとますます妙に思えてくる。こんな腕のある探偵が、どうしてホームレスのテントを当然のような顔をして覗いていたのだろう。宮下は、とりあえず見た目の立派さはホームズに劣らない。その上推理力もあるとくれば、あだ名をつけられるのは当然だろうが。
少年時代に読んだシャーロック・ホームズの探偵談を思い出した。確か怪しいホームレス男の秘密を暴く話があったと思うのだけれど、宮下もそういった類いの事件を捜査していたのだろうか。
訊いてみると、宮下は曖昧に言葉を濁した。
「うん。まあそんなところだよ」
詳しいことは言いたくないらしい。
それはそうかと僕は納得した。探偵ならば、捜査の内容を人に話したりはしないはずだ。
「ところで、さっきはやけに冷静だったけど、テントの中で事件が起こっていることは予想していたのかい」
「いや、そんなことはないよ。仕事柄、事件には慣れているし、僕は生まれつき慌てないたちでね」
「殺されたのはどういう人物だったんだい。差し支えない範囲でいいから教えてもらえないかな」
「別に差し支えなんて無いさ」宮下は少し考えてから、「気難しい人だったなァ。プライドが高い所があってね。この先の遊歩道公園にもホームレスが何人か住み着いているんだが、自分は他のホームレスとは違うという意識で皆から離れてわざわざこの橋の下に住んでいたんだ。それはこの橋の下なら雨風はしのげるけど、しょっちゅう上を電車が通ってうるさいからね。誰もここには住もうとしなかったのに、『電車の通る音なんか子守歌と同じだ』とか言うんだよ。元教師でホームレス仲間からは『先生』と呼ばれていた。本名は堀田。今でも先生のようなつもりでいて、カントなんかの哲学書を本棚に集めて、さも自分は高尚だという顔をしていたな。でも、薄っぺらさは感じられたね。さっき殺人現場に散らばっていた本を見たら底が見えたな。哲学書よりもポルノの方が多いくらいだったじゃないか。実は好色家で、こっそりポルノを収集しては哲学書の裏に隠していたんだな。ああ、あと美食家を気取っていてね。あちこちの有名店に遠征しては残飯を味見して『あそこの店は評判通りに美味い。あっちの店は全然駄目だ』なんて知ったかぶりの高説をのたまっていたよ。良くも悪くも俗物だったね」
驚いた。いくら捜査線上の人物とは言っても、ここまで詳しく調べあげているとは思わなかった。まるで長期間の潜入捜査を行ったかのようではないか。優秀な探偵に違いない。
まもなく警察がやって来た。最初は二人だけだったが、殺人事件が本当だと分かると次から次へと応援が到着する。現場の周囲にテープが張られ、鋭い目つきの男に囲まれて、しつこいくらいに事情を訊かれた。死体発見のいきさつから、氏名、住所、年齢、職業など。
僕は近所のマンションに住む医大生で、年齢は二十一。一方宮下は二十四歳と案外若い。職業は私立探偵と答えたが、住所になると言葉を濁した。
「僕は自由人でしてね。地域も国境もなく地球を住所と考えているのです」などと調子がいい。しかし刑事に睨まれると、「最近はこの河川敷の遊歩道公園で寝泊まりしていますがね」と渋々付け加えた。
何のことはない。宮下自身もホームレスだったのだ。だから橋の下のホームレスについて詳しかったのである。殺人現場のビニールテントを覗いたのは、仲間のようすを伺っただけなのだろう。正直言ってガッカリした。それにしてもずいぶん身綺麗なホームレスがいるものだった。最近何かしくじりをしでかして、転落して来たばかりなのだろうか。
警察の事情聴取が終わって解放されると、僕は彼に皮肉を言わずにはいられなかった。
「公園に住んでいるそうだね。探偵だというのは嘘だったのかい」
「いや、嘘じゃないよ。探偵というのはいつ何処ででもできるものだからね。公園をねぐらにする前には本格的に探偵業をやっていたのだよ。今でも探偵は探偵さ。その証拠にこれから捜査に乗り出してこの事件を解決しようと思っている」
正体がバレたというのに、まったく悪びれるようすがない。
「へえ。警察が捜査を始めたっていうのに個人がそれを出し抜けるものかね」
「犯罪捜査は組織力じゃないよ。いかに正しい推理をするかが大事なのだ」
あまりに自信にあふれた口調だったので、僕は思わず宮下の瞳を覗き込んだ。本気で言っているのだろうかと疑ったのだ。
宮下は穏やかな表情をしていた。茶色い瞳は真摯に澄んでいて、奢りや過信はまったく無かった。どうかすると、アインシュタインやホーキングなどの天才的な学者の瞳はこんななのかもしれないと思ってしまいそうな知性が感じられたのである。整った風貌ともあいまって、ちょっと神秘的ですらある。
この男には奇妙な魅力があると認めない訳にはいかない。
「ワストン君。すまないが少し捜査に付き合ってくれないか。ちょっと確かめたいことがあるんでね」
宮下は僕を川原へと誘ったのである。
警察は非常線を張って殺人現場の近くに人を近づけない体制を整えたので、それから離れて殺人現場の鉄道橋より大分西側の川原へと降りた。それでも宮下の目的には支障は無いようだった。一キロメートルにも渡って同じように石の転がった川原が続いている。こちらの川原でも犯人が石を拾った地点と条件は同じである。
川面を前にして、七メートルくらいの幅に渡って大小さまざまな大きさの石が無数に転がっていた。今は穏やかな流れだが、この川は昔は暴れ川と呼ばれていたと年長者から聞いたことがある。治水工事のされていなかった昔は大雨のたびに激しい流れが近くの山から石を運んで来たようだ。その中に立って宮下は僕を振り返った。
「じゃあお願いしようかな。ワストン君、ひとつ想像力を働かせてくれたまえ。今の君は悪人だと考えてくれ。一人の男を憎悪して、殺したいと思っている。そこでどうだね。この川原からその男を殴り殺すために石を一つ拾ってくれないか。ああ、小指の怪我は無いものとして考えてくれ」
そんなことを言われても、すぐに心構えができるというものではなかった。自分で言うのも何だが僕は善人で、殺したいほど人を憎むという経験はない。殺人を実行する人間の気持ちなど、まったく想像出来ないのである。とは言え宮下が考えていることは分かった。あの殺人現場に転がっていた凶器の石と、僕が選ぶ石を比べてみて違いがあるかどうかを計り、それによって犯人の腕力を推定しようというのだろう。
僕は精神を集中して考えた。相手が人間だと思うからいけないのだ。人間と同じ体型をしたエイリアンが侵略して来たと考えたらどうだろう。全身緑色で頭から触角を生やしたヒューマノイド生物を想像してみた。自衛のためにその相手を殴り殺すための武器として考えたらどれを選ぶか。振り下ろした時の破壊力と、扱いやすさを兼ね備えた大きさでなければならない。その上で、掴みやすい形をしていた方がいいだろう。僕は川原を見渡して、ひとつの石を拾い上げた。手に取ってみるとずっしりと重かった。
宮下に言われるまでも無く、左手小指の怪我は石を選ぶのにはほとんど影響が無かったと思う。
それは殺人現場に転がっていたものよりも、二回りばかり小さな石だった。形もやや角ばっている。丸っこかった凶器の石とは、だいぶ違っていた。
「やっぱり、そうだよなあ」宮下はうなずいていた。「僕は殺人現場に落ちていた石は、凶器として使うには大きすぎるんじゃあないかと思っていたんだよ。犯人はさまざまな大きさの石がある中からあの石を選んだんだから、犯人の特徴を示しているはずなのだ」
「僕より大きな石を選んだっていうことは、犯人は僕よりも力が強いんだろうか」
「うん。その可能性はあるね。君は力は強い方かい?」
「高校時代は柔道部だったから、結構自信はある方だよ」
「そうか」
「犯人は怪力の持ち主か。石の大きさに見合った大男だったりもするのかな」
「いや、それは違うだろう。足跡のサイズは普通だったから。きっと中背だよ」
「中背なのに怪力か。犯人の条件は大分狭められそうだね」
しかし宮下はどこか浮かない顔で、
「うーん。どうなんだろうなあ……。あ、もういいよ。石は捨てて」
僕は石を持っている手から力を抜いた。ドスンと足元に落ちる。
「おーい、探偵さん。何やってんだあ」
背後からだみ声がした。
振り返って見ると、小柄なおっさんが川土手の方から笑顔で近づいて来るところだった。ボロボロの青いジャンバーを着て、頭はボサボサ、無精髭だらけの顔は垢にまみれたように黒ずんでいる。開いた口には前歯が三本しか無かった。典型的なホームレスと見えた。
「ああ、源さん。ちょっと調べものをしていたところです」
宮下は親し気におっさんを迎えた。
「ふーん。晴れたからちょっくら出てきてみたんだけどよ。どうしたんだ。鉄道橋下のテントの回りに警察が集まってるが。先生が何か問題でも起こしたのかい。ところでそちらさんは?」
筋肉が緩んだようなだらしない笑顔のままで僕の方に首を回した。
「さっき知り合った人で名前はワストン君。僕と同じハーフで、学生さんだ」
紹介されたので、僕は慌てて頭を下げた。
「あっ、どうも。よろしく」
「へへえ。日本人なの? 若いけど礼儀が出来てるねえ。最近はどうも初対面で見下す態度を取る奴が多くていけねえや。俺はホームレスの源だ。覚えといてくれや」
「はあ。こちらこそ」
源と名乗った男からは、甘酸っぱいようなけもの臭が漂って来ていた。肩には雪のようにふけが積もっている。これが本物のホームレスというものか。宮下とのあまりの違いにとまどった。申し訳ないが、あまり近づきたくはない感じだ。親し気なようすから、握手を求められたらどうしようかと一瞬思った。幸い源さんはすぐに僕への興味を失ったようで、宮下に向かって、
「おう、何があったんだよう」
宮下はいったん目を閉じ、息を整えてから口を開いた。
「殺人事件があったんです。橋下のテントの中で頭を石で殴られた死体が見つかった。殺されたのは先生」
源さんはびっくり仰天した。宮下の胸元に飛びつくようにして、裏返った声で訊き返す。
「何だって、さ、殺人? 殺されたのは先生だとお。本当か。で、犯人は誰だ。まさか権の野郎がやったんじゃあねえだろうな」
僕たちはいったん河川敷のベンチに落ち着いた。鉄道橋の西側の河川敷は公園化されていないが、それでもいくつか休息できる場所は設けられている。二つ並んだベンチの片方に宮下、源さん。もう一つに僕の並びで座った。
宮下は興奮している源さんを落ち着かせ、事件について詳しい説明をした。源さんは犯人が不明なのを知って興奮が静まると、口走った言葉を反省したようだった。
「そうか。俺はまたてっきり権がやったのかと……」
「犯人の足跡は真新しいスニーカーのものだから、多分権さんではないでしょう」
「そうか。権のやつはスニーカーなんて持ってねえもんな」
「容疑から完全に外す訳にはいかないですけどね。可能性は低い」
二人の口ぶりからすると、権という人物もホームレスのようだ。
「なあ」僕は宮下に話しかけようとして、どう呼ぼうかと迷った。宮下は僕を君づけで呼んでいるが、それはいい。彼の方が年上なのだから。僕の方から彼をどう呼ぶべきかは微妙だ。「……宮下さん。僕にも教えてくれないかな。その権さんっていう人について。分からないとどうももやもやするんだけど」
すると宮下はあっさりと、
「宮下。でいいよ。名前といい、おたがいハーフであることといい、君とは何だか縁がありそうだ。対等の友達付き合いと行こうじゃないか」
「ああ、そう言ってもらえると嬉しいけど」
「権の野郎は俺らと同じで、そこの河川敷公園に住んでいるホームレスでなあ。頑なで性格の暗い奴なんだよ。先生とは性格が合わなくてよく喧嘩していたんだ」
源さんが説明を始めると、宮下がその後を引き取った。
「本名は権藤だ。高校を中退した後フリーターを経てホームレスになった人で、学生時代に何かあったようだね。今だに学校に恨みを持っていて、それで先生を嫌ってるというところもあったようだ。年齢は三十過ぎ。根は悪い人じゃあないと思うんだが、顔に傷が多くて見た目が怖いからとにかく誤解を受けやすくてね。ところで源さん」
「んあ?」
「源さんは河川敷公園にいたんだろう」
「ああ、雨が降ったら動きたくねえからな。さっきまでずっとテントの中で横になっていた」
「公園を出入りする人は見なかったかな。犯人は殺人現場に来る時も去ってゆく時にも公園内を通っていったと思われるんだが」
「そんなの分からねえよ。よっぼと近くに来なかったら足音だって聞こえねえし」
「じゃあ権さんがどうしていたのかも知らない訳だ」
「知らんね。あいつもテントの中にいたんじゃねえの。雨の日に好んで出歩くのは探偵さんくらいのもんだぜ」
源さんは親子ほども年下の宮下を「探偵さん」とさんずけで呼ぶ。宮下はホームレスの仲間内では一目置かれた存在らしい。
「じゃあもう一つ。権さんが飼っている柴犬は吠えていたかな」
「ん? そんなことに意味があるのかい」
「意味はあるよ。権さんの住んでいるビニールテントは公園端の運動グラウンドの近くにある。犬が繋がれているのはグラウンド方面から公園の遊歩道に入る出入り口のすぐそばの杭だ。犯人の足跡はその近くへと続いているから、犯人は犬のそばを通ったはずなのだ。そしてあの犬は知らない人がそばに来ると欠かさず吠える。そばに来ても吠えないのは、ほんの一握りのなれている人だけなのだ。だからあの犬が吠えていたらその時に犯人がそばを通った可能性が高いということになるし、吠えていなかったら犯人は犬になれている一握りの人間の中にいるということになるのだ」
源さんは少し考えて、その理屈を理解した。うなずいて、
「ああ、そうか。なーるほど。そう言えば、犬は一度も吠えていなかったなあ」
「本当かい」
「ああ、間違いねえよ」
答えを聞いた宮下は満足気だった。
「犬が吠えなかったという事実が重要なのだよ」
僕はいささか驚いていた。犯人は権という人の飼っている犬がなれている人物の中にいる。あっという間に容疑者の幅が狭まってしまったではないか。運に恵まれた感はあるものの、宮下の探偵能力は伊達じゃなかった。
源さんはその僕の表情に気づいたようで、にやっと笑いかけて来た。
「この人の推理力は凄いだろ。俺も何度驚いたことか。ホームレスの仲間内で起こった盗難事件を解決したり、初めて会った人の職業を推理で当てたり。読唇術みたいに考えていることを当てることさえあるんだぜ。俺も初めて会った時に競馬で身を持ち崩したのをズバリと当てられてしまったしよ」
まさに本物のホームズではないか。だがそうすると、ひとつ疑問が湧き上がって来る。
この素晴らしい推理力を持つ人物は、どうしてホームレスなどに身を落としたのだろう。
宮下は口の軽い源さんを軽く睨みつけていた。
「すまないが、そんな自慢めいた話はやめてくれたまえ。僕を紹介したいのなら、僕が公園で寝泊まりするようになったいきさつを話すだけで十分だと思うがね」
そして、パチパチと合図をするように素早く瞬きする。長い睫毛が蜂の羽のように動いた。
それを見た源さんはキョトンとしていたが、すぐに「ああ、そうそう」という顔になって、
「この人は偉い人だよお。遠い親戚の白血病の少女の治療費にするために全財産を提出したんだ。それで住まいを失って公園で寝泊まりするようになったんだよ。中々出来るこっちゃないねえ。偉い偉い」
そして言い終わると、顔色を窺うように宮下をチラリと見た。
「いや、大したことじゃあないよ。人の命を救えるのなら誰でもそうするさ。人命は地球よりも重いのだからね」
宮下はあくまで謙虚だった。
僕はいささか感動していた。この男の外見の立派さには、ちゃんと中身が伴っていたのだ。こんな人物が本当にいるのか。
思わずこうべを垂れていた。
「すまない。僕はてっきり君は何か問題を起こしてホームレスになったのかと思っていた」
「謝ることはない。そう考えるのは当然だよ。ところで、元の話に戻ろうか。権さんの飼っている犬がなれていた人物と言えば誰がいるだろう」
「それはまあ、公園に住んでいるホームレス仲間だな。権本人と俺。あとは探偵さん。それ以外はよく公園に来る近所の人たちだ」源さんは腕組みをしてしばらく考えてから、「肉屋の奥さんはよく売れ残りのコロッケなんかを俺たちに持って来てくれて、犬もそれを食ったりしてるから奥さんには吠えねえな。洋食屋の店員も犬好きらしくて時々エサをやるから吠えない。あとは最近しょっ中公園に来て長時間ベンチに座っている痩せた中年男がいる。遠くを見てぼんやりしているんだが、あんまり長い間いるもんだから犬もなれちまってその男には吠えなくなったね。その男は川土手沿いのアパートに住んでいるようだな。部屋から出て来るところを見たことがある。あとは……」
「夕方ジョギングの途中で公園に立ち寄って行く男はどうだろう」
宮下が助け舟を出すと、
「ああ、あの大男もいたか。そう言やあ、あの男も犬にサラミみたいなもんを食わせたりしてたな。あの男にも吠えないかもしれねえなあ。そんなとこだろ」
宮下は頭の中で人数を数えて、
「容疑者は六人か」
「そうだな。……ん? もしかして俺も容疑者の中に入っているのか」
「ああ、すまない」宮下は苦笑した。「源さんは一応除外しておこう。源さんは小柄で足が小さいから犯人の足跡とは合わないからね」
「当たり前でえ」
「うん。容疑者扱いして悪かった。もう一つ別の方行からも考えてみようか。先生を殺す動機がある人物というと誰がいるだろう」
「格別思いつかねえな。権の奴だって、よく考えてみれば殺したいほど先生を嫌っていたんじゃあないだろうし。素手でぶん殴るくらいならやるかもしれねえがな。先生は家族もいないっていう話だったし、遺産なんかもあるはずないから金目当ての動機も考えられねえ」
「先生を憎んだり恨んだりしでいた人物は特に思い当らないということだね」
「あっ、でも嫌っていた人物ならそれなりにいるのかもしれねえな。ホームレス排斥運動をしている奴らは俺たち全員を毛嫌いしているから。先生は尊大に構えたり、一人離れて住んでいたりしていて目立つから奴らの標的になりやすいかもしれねえ」
「それは僕もそう思うね。殺人の動機となると弱いが、一応は頭に置いておくべきだろう」
「ところでホームレス排斥運動と言えば、探偵さん。今日の遠征の首尾はどうだったんだい?」源さんは改まった感じで宮下に訊いた。「隣町へ行って見て来たんだろう」
「ああ、それか。朝から出かけて調べてはみたんだけどね。住む場所も水や食料を確保する場所も、この町より数段落ちると言わざるを得ないね。隣町の公園に移住する計画は思い留まった方が良さそうだ」
「そうかい」
源さんは落胆したようだった。
どうやら宮下は、ホームレスたちが隣町に移り住めるかどうかを調べに行って帰って来たところだったらしい。出かけたのは早朝で、まだ雨が降る前だったから足跡がつかなかったのだろう。
この地区の住民の間にホームレス排斥運動が起こっているのは僕も知っていたが、ホームレスたちが本気で転居を考えるほど風当たりが強くなっているとは知らなかった。
ホームレスは追い出したところでどうせ行くところはない。他の土地へ移ったところで地域に迷惑をかけるかもしれないのは同じなのだから、暖かく見守って共存する方法を考えた方が良いのではないかというのが僕の意見である。そうは思わない人も多いということか。
「ホームレスの排斥運動は、そんなに強くなっているのかい」
質問したのは宮下に対してだったが、答えたのは源さんだった。
「おうよ。ひでえもんだぜ。テントに石や空き缶を投げつけられたり、大声で怒鳴られたり。特に若い奴らが調子に乗りやがって。まったく大人は何をやってるって言うんだ。このままだと本格的に暴力を振るわれかねないって危機感を感じていたところさ」
知らなかった。地域住人の一人として少し恥ずかしい気がする。
「犯人の可能性がある、犬になれているっていう人達も排斥運動に関わっているのかな」
「その可能性は否定できないがね。あまり色眼鏡で見るべきじゃあないだろう」宮下は源さんとは対照的に、超然としたようすで、「親切な地域住人の方もいるのだし」
「肉屋の奥さんは親切だねえ。去年田舎から出てきてホームレスを初めて見たらしくて、気の毒がってよく売れ残りをくれる。洋食屋の店員もそうしてくれりゃあバラエティに富んだ食事にありつけるってもんなんだがなあ。あいつは犬ばっかり可愛がりやがって」
「そんなことは言うべきじゃあないだろう。犬の食いぶちが助かって権さんは感謝しているよ」
「まあ、権の奴も、人の見ていないところでは犬がもらった食い物を味見していたかもしれねえがな。洋食屋の店員は俺たちのことはどうでもいいんじゃねえか。あと長時間ベンチでボーッとしている中年男は自分の中に閉じこもっているから何を考えているのかサッパリ分からん。ジョギングの大男は好青年だな。きちんと挨拶をしてくれる。心の底じゃあ、あまり深くは関わり合いたくないと思ってるかもしれんがね。こうして見ると排斥運動に関わっていそうな人はいねえな。俺たちを嫌いなら近くに来たりはしないだろうから、当たり前だが」
「それはどうだろう。人は見た目に寄らないということもあるからね」
すました顔の宮下には、源さんには見えないものが見えている風だった。
言葉が途切れた。宮下は納得顔で、ゆっくりと立ち上がった。
「それじゃあ、今確認するべきなのはこんなところかな。捜査を次の段階に進めるとしようか。源さん、協力ありがとう」
「容疑者たちにあたってみるのかい。俺も連れて行ってくれよ」
源さんもピョコンと勢いよく立ち上がった。
しかし宮下はやんわりとそれを制して、
「いや、すまないが、僕の捜査はかなりのハードワークだ。年かさの人では体力的な面で無理が出るだろう。警察の取り調べもきっとあるだろうから、源さんはそれに対応する体力を残しておいてもらいたい」
そう言ったのは建前で、みすぼらしい身なりの源さんがついて来たのでは対人調査の足手まといになりかねないから控えてくれというのが本音だったろう。源さんもその意見にあえて反論はしなかった。宮下は僕の方を向いて、
「そういう訳だから、ワストン君。かわりに若い君が助手の役を務めてくれるかな」
もちろん、僕は喜んでその役を承諾したのである。
河川敷を出て土手を越えると、宮下はまず文房具店に立ち寄った。ポケットから犯人の足跡と同じ長さに千切ったティッシュの棒を取り出し、店にある定規に当てて長さを計る。
「犯人の足のサイズは26センチだね」うなずいて棒状ティッシュをポケットに戻し、「容疑者たちに会って足のサイズを確認すれば犯人を絞り込めるだろう」
「そうだね。で、最初は誰に会いに行くんだい」
「うん。公園にやって来てはベンチに長時間座って行く痩せた中年男が住んでいるアパートが近いから、まずはそこへ行ってみようか」
宮下の言う通り、そのアパートは河川敷公園そばの川土手沿いにあった。築四十年くらいの二階建ての建物である。部屋数は全部で十室ほどで、部屋玄関の扉は川の方に面している。二階の部屋は河川敷からも人の出入りが見てとれた。なるほどこれなら源さんが男の住居を知っていたのも納得がいく。男の部屋は二階の中央だった。
表札には根岸考夫との文字がある。一人暮らしらしい。
宮下は遠慮なく呼び鈴のボタンを押した。
ピンポーン、ピンポーンと小気味いい音が響いたが、何度押しても反応はない。留守なのか。それでも宮下は押し続ける。
「留守なんだよ」と僕。
「うん。そのようだね」
そしてまたピンポーン。
すると、隣の部屋の扉が開いた。中から所帯疲れした感じの三十代女性が顔を覗かせた。うりざね顔で、起きたばかりのようにノーメイクだ。
「あの、その部屋の人なら今は居ませんよ」
「ああ、そうですか。教えてくれてありがとうございます」
宮下は満面の笑みで会釈を返した。すると眠そうだった女性の顔に、ハッとしたように生気が宿る。宮下が男前なので驚いたのだろう。
「僕たちは根岸さんの遠い親戚なのです」宮下はしゃあしゃあとして嘘の自己紹介をしてから、「根岸さんは、どこへ行かれたのでしょう」
女性は宮下の自信たっぷりな態度に押されて、ハーフ顔の二人が親戚だという不自然さを疑わないようすだった。
「大学病院に入院なさっているはずですけど」
「というと、どのようなご病気なのですか」
女性の顔色が曇った。
「癌らしいんです。お気の毒にねえ。一年前にも手術されたようなんですけど、再発してしまって。今回はご本人も覚悟をされたらしくて、「今までお世話になりました」なんて、二日前に隣り近所に挨拶をしてから病院へ行かれましたわ」
初っ端から出鼻をくじかれた感じだった。痩せた中年男性が河川敷公園に来てポーッとしていたのは、病気を悩んでのことだったのか。知らぬ人とは言え気の毒なことだ。
僕たちは女性に礼を言い、そそくさとアパートを立ち去った。
「びっくりしたなあ。こんなことってあるんだねえ」
思わず僕が感想を洩らすと、宮下は、
「犯罪捜査は思いがけない出来事の連続と心得たまえ。二日前に入院したのだとすると容疑からは外してもいいかな。根岸さんの病気の快復を祈ろうじゃないか」
「うん。そうだね。次はどこへ行く?」
「ジョギングをする大男の住所は分からないから、洋食屋の店員のところがいいだろう。大友という名で、コック見習いをやっている二十代半ばの男だ。店の名前はキッチン・アモーレ」
「あっ、その店なら一度行ったことがあるよ。少し値段は高いけど、タンシチューが美味かったなあ」
「殺された先生は、あの店は評判倒れで糞不味いと言ってたけどねえ」
「そうなのかい」何だかお前の舌は貧しいと言われているようで気分が悪かった。「まさかその店員は先生に店の料理を不味いと言われて、それで怒って殺したということはないだろうね」
「まさかそんなことはないだろうが。先生は恨みを買いやすいタイプではあったなあ」
店に着いてみると、入り口には定休日の札が下がっていた。キッチン・アモーレは避暑地のペンションのような作りの洒落た感じの店である。店の横には広めの駐車場庭があり、その裏は菜園になっていた。店で出す野菜を自家栽培しているのだろうか。季節柄か、植えられている野菜は少なめだ。
「困ったな。店員が住んでいる場所は知らないんだ。店に来ればいると思ったんだが」
入り口の扉は木製で、木目をそのまま生かした作りだった。宮下はそのノブに手をかけて鍵がかかっているのを確かめると、建物の裏手に回る。裏口の扉は金属製で曇りガラスがはまっている素っ気ないものだった。呼び鈴などはついていない。
宮下はその扉を叩いた。
「すみませーん。誰かいませんかー」
「定休日にはオーナーはいませんよ」
若い声に振り返ると、後ろに毛糸のセーターを着た青年が立っていた。気の弱そうな細面の顔立ちで短髪。痩せ型で、ちょっと中性的な印象がある。店の前の道を通りかかって僕らを見つけて近づいて来たものらしい。
「店に何か用ですか」
宮下を知っている風で、少々迷惑そうな表情だった。
「ああ、キッチン・アモーレ店員の大友さん」宮下は僕に説明するためか青年を名前で呼んだ。「ちょうど良かった。あなたに会いたいと思ってやって来たところでしてね。ああ、こちらは僕の友人でワストンという者です」
僕は紹介されたので会釈する。青年も軽く会釈を返してきた。気になって、すぐに青年の足元を見た。新しいスニーカーを履いていて、サイズは普通のようだった。
「それで、僕にどんな用ですか」
青年は不審げに目を眇めた。
「ああ、いえ、大した用ではないのですが、ひとつ伺いたかったのですよ。あなたは犬好きですよね」
「ええ、まあ」
「河川敷公園に住むホームレス権さんの犬にエサをあげているのを何度か見かけたので、もしかしたら犬を飼いたいのかと思いましてね。権さんは最近どうもあの犬を飼い続けるのが負担になってきているようで、「引き取ってくれる人がいたらいいんだがなあ」などと言いはじめているのです。それで僕が引き取り手を捜す役を引き受けましてね。まずあなたはどうかと思ってやって来た訳なのですよ」
よくもこうスラスラともっともらしい嘘八百が口から出るものだった。僕は宮下の如才なさに感心した。
大友青年は硬い表情のままで、
「僕はペット厳禁のアパート住まいだから犬は飼えませんよ」
「そうですか。残念ですねえ。もしかして、河川敷公園沿いのアパートにお住まいですか」
「ええ、そうです。一階の角部屋です」
「あっそうですか。偶然ですねえ。僕らはさっきそのアパートの二階に住む人を訪れていたのです。そこからまっすぐこちらに来たので同じ道を歩いていたのかもしれないですね」
「僕はS市へ行って帰って来たところなので、それは違いますよ」
S市はこの近辺では一番の繁華な街である。川を渡った先の南にあるので、電車に乗って行ったのだとすると、事件現場の上の橋を通って往復してきたということになるだろうか。
「ははあ。デートでもしていらっしゃったんですか」
「恋人なんていませんよ。休日は一人寂しく街を散策です」
「僕も散歩は好きですねえ。今日も隣町まで歩いて来たのです。晴れた日に運動をするのは気持ちいいですからねえ」
「僕は運動は嫌いです」
大友は、「もういいでしょう」という感じで宮下を無視して裏の菜園の方を向いた。野菜の生育ぶりが気になるようだった。オーナーから収穫しなければいけない野菜があるかどうかを確認していてくれと頼まれているのかもしれない。
「立派な菜園ですねえ」宮下は何の変哲もない畑を感心したように眺めやって、「店で使う野菜はここで作っているのですか? 自家製の野菜なら農薬などの心配がないですものねえ。そう言えばもう一つ頼みたかったことを思い出しました。この横にいるワストン君はパセリの本場オーストラリア出身で、パセリが何より好きなマニアなのですよ。キッチン・アモーレのパセリは絶品だという噂を聞きつけてそれを食べに遠くからやって来たのですが、店が定休日なので困っていたところです。何とかパセリだけでも少し分けてもらえないでしょうか。ああ、もちろんお金は払います」
大友は、何とも妙な顔をして宮下を見た。次いで僕の顔をジロジロ観察する。この世にパセリマニアなどという人種が存在することが信じられないようすだった。当然だろう。僕だって信じていない。いったい宮下は何を言っているのだ? さっぱり意図が分からない。
「このパセリが評判になってるんですか? ごく普通のパセリだと思うけどねえ。オーストラリアじゃあパセリが人気なの? 分かんないなあ」
大友はどうしても納得できないというように、何度も首をひねっていた。
畑にはエシャレットやブロッコリーなど数種類の野菜が植えられていた。パセリは中央に少しあるだけだ。たくさん使う野菜ではないのでこのくらいで十分なのだろう。
「まあいいや。少しだけならオーナーもうるさくは言わないでしょう。味見する分くらいならあげるよ」
大友は畑の中に入って行き、一摘みのパセリを収穫して持って帰って来た。
「ほらどうぞ」
と僕にそれを渡す。オーストラリア人にされてしまった僕はどう答えたらいいか分からず、口の中で「サンキュー」とつぶやいた。
「ワストン君、何をやっているんだい。ちゃんと代金を払いたまえよ」
宮下が僕を叱咤する。
「あ、ああ。そうだったね。でもいくらくらい?」
「その分量なら五百円くらいで十分だろうよ」
もらったのは、ほんの一摘みだ。スーパーで買ったら百円といったところだろうが、無理を言ってもらったことを考えれば妥当かもしれない。
僕が財布から五百円玉を出して渡すと、大友は無言でそれを受け取ってズボンのポケットに入れた。小さく頭を下げる。そして、もうこれ以上こんな変な連中とは関わりたくないといった感じでその場を立ち去ったのである。
道を歩く大友の姿はすぐに近くの角を曲がって見えなくなった。
気がつくと、宮下は畑の地面に屈みこんでいた。たった今大友がパセリを取って来るために歩いた足跡を調べていた。ポケットから棒状のティッシュを取り出し、それをピンと伸ばして足跡に当てる。
「犯人の足跡と同じ26センチだね」
満足気に笑みを浮かべた。
「パセリが欲しいとか言ってたのは足跡を見るためだったのか」
僕は胸を撫で下ろした。ひょっとしたら宮下は頭がおかしくなったのではないかと心配していたのである。
「当たり前だろう。確実に足跡をつけてもらうためには畑の中央に植えられているパセリを収穫してもらうのが一番だと考えたのさ」
「犯人の足跡と同じサイズだと言ったね。ということは、あの男は犯人の可能性が高いと見ていいんだろうか」
「うーん。どうも微妙だね。見たまえ。この足跡は靴裏の模様が波型だ。殺人現場にあった足跡の靴裏はジグザグ模様だったから、靴は別なんだ。履き替えたのかもしれないがね。それにあの男は運動嫌いだということもあるし」
「怪力の持ち主という犯人の条件には合わないという訳か」
「まあ、そういう考え方もあるのかな」宮下は立ち上がると、僕が手に持っているパセリに目をつけた。「ところでそのパセリは食べるつもりはあるのかい」
「いや。僕はパセリは嫌いなんだ」
「じゃあ僕にくれたまえ」
宮下は僕の手からパセリを毟り取ると、その場でむしゃむしゃ食べ始めた。
「うん。薫り高い青味が中々だ。ひょうたんから駒というやつかな」
「……。ところでさっき僕が大友に払った五百円なんだけど、補填してもらえるんだろうね。ついつられて出しちゃったけど、よく考えれば君が言い出したことなんだから、君が払うべきだよ。パセリも君が食べたんだし」
「ああ、もちろんだよ。だが今はちょっと持ち合わせがない。少し待ってくれたまえ。じゃあ次は肉屋の奥さんのところへ行こうか。春日精肉店はここから遠くない」
パセリを食べ終わった宮下は、スタスタと早足で歩き始めた。胸を張り、視線を上向けた堂々たる歩きっぷりだ。歩幅が違うので僕はまた遅れがちになる。
僕は少し疑問を感じた。
「なあ、宮下。ちょっと思ったんだけど、その肉屋の奥さんに会う必要はあるのかな。女性だから26センチの足跡にはどうせ合わないから犯人じゃないだろう」
すると宮下はピタリと立ち止まって、振り返って咎めるように僕を見つめたのである。
「ワストン君。そんなことではいけないよ。捜査線上に浮かんだ人物はすべて調べなくては。足のサイズが合わなくても、捜査をかく乱するためにわざとサイズが合わない大きな靴を履いて犯行を行った可能性だってあるんだからね。僕が君に助手をお願いしたのを何だと思っているんだい? 源さんは足が小さいとは言っても一応は容疑者の範囲内だから、そういう人物を捜査の助手にするのはまずいと判断したからに決まっているじゃないか。ちゃんと考えてくれないと困るよ」
言われてみれば宮下の言うことはもっともだと思えた。僕は自分の考え足らずを反省した。
春日精肉店は、アーケード商店街にあった。何の変哲もない小ぶりな店構えで、ちょっと昭和っぽい懐かしい雰囲気がある。
宮下は堂々と店内に入り、切り分けられた肉の並んだガラスケース越しに奥を覗き込んだ。
すると店の奥から割烹着を着た小太りの女性が出て来る。三十代で、少しオカメ顔。美人ではないが素朴な可愛げはあるといったような外見である。年下の僕が「可愛げがある」などと言うのはおかしいが、そう表現したくなるような若々しい人だった。化粧はごく薄く、林檎のように頬が赤い。
「あらら、探偵さん。今日は何の用で来たの?」
東北訛りのあるかん高い声で、親し気に笑いかけてくる。
「何の用、ということもないのですが、ちょっと奥さんの美しい顔が見たくなりましてね」
「あんれ、まあ、探偵さんはお上手だねえ」春日の奥さんは恥ずかしがって顔を赤らめた。「私なんてオバサンで、太ってるから全然見栄えがよくないでしょう」
そう言いながらも、まんざらでもないようすである。
「いやいや、そんなことはないですよ」
「これでも田舎にいた時はスマートだったんだけどねえ。こっちに来て農作業の手伝いをしなくなってから太ってしまって。何とか痩せようと思って運動を心掛けてはいるんだけど」
「ほほう。ボディービルでもやっているのですか」
宮下は失礼なことを訊いた。ひょっとしたら女性とは思えない怪力の持ち主かもしれないという可能性を考えてのことかもしれないが、身体つきを見ればそんなはずがないのは分かるというものだった。
「そんな訳ねえ」奥さんは、さも可笑しいことを言われたといった風に破顔した。「エスカレーターやエレベーターを使わないで歩いて階段を昇ったりとかその程度ですよ。あと、電車をひと駅前で降りて歩いたりすることもあるかねえ」
「ああ、そうですか。失礼しました」
「ところでそちらの方はどなた?」
奥さんは僕の方を見て訊いてくる。
「ああ、この人は僕の新しい友人でワストン君。僕同様に、日本人のハーフです」
「はじめまして」
紹介されたので、僕はお辞儀した。
すると奥さんの顔に、何とも微妙な表情が広がった。「僕同様に」という説明を勘違いしたようすだった。捨て犬を見るような目つきなのである。
「そうなの。お若いのにねえ。私は春日明枝と言います。はじめまして。ちょっと待ってね」
そして、そそくさと奥に引っ込むと、メンチカツが五つ入ったビニールパックを持って出て来たのである。輪ゴムでパックの口が開かないように蓋をしてある。
「はい。これ食べて元気つけなさい。昨日の売れ残りだけど味は変わらないから。気を落とさないでね」
そう言ってガラスケース越しにメンチカツのパックを僕に差し出す。どうやら僕のことを新入りのホームレスと思っているようである。
「あっ、いや、僕は……」
戸惑っていると、そのパックを横から宮下がかっさらって行った。
「ありがとうございます。ワストン君、何をやっているんだい? 君からも礼を言いたまえよ」
「えっ、ああ。ありがとうございます」
いきさつはどうあれ、善意には素直に感謝するのが礼儀というものだ。僕は深々と頭を下げた。しかし宮下は慎みを知らないのか、その横で厚かましい要求をしていたのである。
「本当にありがとうございます。ワストン君も、これで二、三日は食いつなげるでしょう。ところで一つお願いがあるのですが、出来たらキャベツの千切りか何かも頂けないでしょうか。最近はどうも野菜不足になっているもので。無ければ漬物でも良いのですが」
これには奥さんも目を丸くしていた。だが、根っから善人なのだろう。「あらら、気がつかなくて」などと言い、もう一度奥に引っ込んでキュウリと白菜の漬物をビニール袋に入れて持ってきてくれた。
「はい。これをどうぞ」と宮下に渡す。宮下が男前だから不届きな要求にも腹を立てなかったのだろうか。ちょっと理不尽な感じがした。宮下はそれを、さも当然という顔をして受け取っていたのである。
何のことはない。肉屋へはメンチカツをもらいに行ったようなものだった。
「うん。いつもながら美味しいねえ。蕩けそうな上質な肉だよ。よくこれを百二十円で売り出せるなあ。それに漬物も絶品だ。東北ならではの深漬けだね」
宮下は精肉店を出た後で、道を歩きながらメンチカツと漬物を食べた。行儀は悪いが遠慮なくがっつくようすはすごく美味そうで、何だか僕も食欲が湧いてきたのである。
「僕にもメンチカツを一つくれないか」
そう言って手を伸ばすと、驚いたことに宮下は「駄目だよ」とすました顔で持っているメンチカツのパックを僕から遠ざけた。
唖然とした。
「まだ四つあるんだから一つくらいくれてもいいだろう」
「いや、そういう訳にはいかないのだ」
「もともとそれは僕が奥さんからもらった物だぜ」
「ホームレスだと勘違いしたからくれたんだろう。つまりこれはホームレスに対してくれたものだ。君はホームレスじゃないから食べる資格がない」
「そんな馬鹿な……」
いったい何だと言うのだろう。こんな理不尽な話はない。
僕は宮下に不信感を感じ始めていた。さっき食べたパセリといい、今回のメンチカツの独り占めと言い、この男は食い意地が張りすぎてはいないか。いくら飢餓と隣り合わせのホームレス生活をしているとは言え、意地汚なすぎる。さりげなくそれを指摘してみた。
「ホームレス生活をしていたら食べ物が大事だというのは分かるけどね。そんな態度じゃあ、尊敬されないんじゃないかな。僕は君に立派な探偵でいてもらいたいんだけど」
しかし宮下は一歩も引かなかった。
「すまないが、君の尺度だけで考えないでくれないか。僕が食べ物にこだわるのは現実に飢餓に
直面している仲間がいるからなのだよ。栄養失調で風邪をこじらせて寝込んでいる仲間に食べさ
せてあげたいからメンチカツを多めに確保しているのだし、バランスの取れた食事をさせてあげ
たいから野菜もお願いしたのだよ。その人は君と同じでパセリは嫌いだからそれは食べ切ったが、
他の物はちゃんとちょうどいい量を残している。病人に向いた味かどうかを味見してみたのが悪
いことかね」
またしても僕は宮下に言い負かされてしまったのである。しかしそれは心地よい敗北だった。
宮下はただ自分の食い意地のために食べ物にこだわっていた訳だはなかったのだから。やはり
この男はひとかどの人物だ。
「そうすると、これからその病気の仲間のためにメンチカツを持って行ってあげるんだね」
「うん。そうだ。権さんからも話を聞きたいしな。河川敷の公園に戻ることにしよう」そして、
ちょっと考えてから、「しかし情報が伝わるのは案外遅いもんだねえ。先生が殺された事件はそろ
そろ伝わっているかと思ったが、誰も知らないんだものなあ」
しばらく宮下の後について歩いた。宮下は考え込むようすだった。
僕はふと小さな疑問に思い当った。源さんとの話では、河川敷の公園に住んでいるホームレスは権さんと宮下と源さんの三人だけという話ではなかっただろうか。病気で寝込んでいるホームレスはどこにいるのだろう。少し考えて、思い違いに気がついた。源さんと宮下が言っていたのは「犬になれているホームレス」だったのである。犬になれていなければ、公園のホームレスは他にいてもいい訳だ。きっとその病気のホームレスは犬嫌いだから犬はなれていないのだろう。
まもなく川土手の前に着いた。アパート脇を通って土手に上がると、その向こうに広々とした河川敷の眺望が開ける。目の前にある遊歩道公園は川に沿って続く細長い敷地で、思ったよりも広かった。葉の落ちた桜の木立ちが中央に並び、周囲の芝生にベンチや動物をかたどった遊具が置いてある。遊歩道はそれを囲んで細長い楕円になっており、さらにその楕円から外へと伸びる道がいくつかつけられている。
ホームレスの住むビニールテントは、西側の簡易グラウンド近辺に一つ。中央の桜の木の下に二つ。合計三つあった。
あれっ? テントは三つだな。とチラリと思う。
桜の木の下のテント前に源さんが立っていて、僕らを見つけて手でメガホンを作っていた。
「おーい。探偵さーん。捜査はどうだったあー」
そして小さく飛び跳ねながら手を振って、こっちこっちと手招きする感じである。
「源さんは元気だなあ」
宮下は軽く手を上げて応えると、土手につけられた石段を降りて近づいて行った。もちろん僕も後に続く。
近くへ行くと、源さんの表情はさっき会った時とは違っているのが分かった。顔が強張って、慌てている感じなのである。
宮下もそれを読み取ったようだった。
「捜査は順調に進んでいるがね。僕らがいない間に何かあったのかい」
源さんは勢い込んで訴えてきた。
「ああ、探偵さん。来るのが一歩遅かった。大変だ。権の奴が警察に連れて行かれちまったんだよう」
宮下は動じなかった。冷静に目を光らせて、
「ふむ。それは、逮捕されたということなのかな」
「逮捕されたも同然だよ。手錠まではかけられていねえが、警察の奴らは完全に権を犯人扱いしてやがった」
「何か証拠でも出たのかい?」
「足のサイズが犯人の足跡と同じだと言っていた。それに被害者と喧嘩していたから犯人なんだとよ」
「しかし権さんの履いている靴はスニーカーじゃあなかっただろう。犯人の足跡とは違ったはずだが」
「ああもちろんそうさ。だがあいつらにはそんな理屈は通用しねえ。犯行の時に履いていた靴は証拠になるのを恐れて川に捨てたんだろうと決めつけやがった。最初からホームレスが怪しいと決めてやがるんだから頭に来るぜ」
「まったくだ」宮下も少なからず憤慨したようすだった。「ホームレスが新しい靴を捨てたりするものか。そんな掘り出し物があったなら大事に取っておいて、ボロ靴の方を犯行に使ってそっちを捨てるに決まっているよ。それに足のサイズが同じなんて言っても、そんなものが当てになるものか。ホームレスは拾った靴を勝手に履くんだから、最初から足にピッタリの靴なんて履きやしないんだ」
さすがにホームレスの事情には詳しい。しかし僕は少し疑問を感じた。そう言う宮下は、どう見てもサイズのピッタリした真新しい革靴を履いているではないか。しかも洒落たデザインの高級品のようだ。服装がきちんとしていることといい、いったいどうやって調達しているのだろう。
「ごめん。気になってしょうがないから訊くんだけど、君はピッタリサイズの新しい靴を履いているよね」
すると宮下は自分の足元を見て、
「うん? ああ、僕は特別だよ」
「探偵さんにはファンがついているからねえ。店員の女の子に微笑みかければ立ちどころに売れ残り品をもらえるんだから大したもんだぜ」
源さんはわざとらしく感心してみせて、野卑た感じに唇の端を歪める。
そうだったのか。と腑に落ちた気がした。宮下はそういうことをしょっちゅうやっているからこそ肉屋の奥さんにも厚かましい要求ができたのだ。男前はどこまでも得だ。
「ところで探偵さん。手に持っているのはコロッケかい。メンチカツかい。俺にもくれるんだろうね」
メンチカツに目をつけられると、宮下は「後であげよう」とあっさり言う。そして話をそらす感じで、
「まあ、それはそれとして、権さんはどんなようすだったんだい。ちゃんと申し開きはしたんだろうね」
「それがなあ。あいつは口下手でその上頑固だろう。同じことを何度も聞かれると黙り込んで睨み返してしまったんだ。だもんだから、なおさら怪しい奴だ生意気なっていう感じになって乱暴に連れて行かれる流れになった。取り囲まれて、背中を肘で押されたりしてな。もうちょっと人付き合いを上手くやれねえのかなあって思うよ」
「うむ。そういう性格だからこそここで生活することになったのかもしれないが……」
宮下はやるせない感じでちょっと遠くへ視線をやって、公園端にある主のいないビニールテントを見た。権さんのテントは、殺された先生のものよりも小さくて、本当に寝るためだけ。雨風をしのぐためだけにあるといった感じのものだった。多分中には持ち物はほとんど無いだろう。警察はテントの中も調べたに違いないが、そう時間はかからなかったのではないか。
テントのそばには木の杭が一本地面に打ち込んであって、一匹の柴犬がそこに繋いである。犬はまだ若いようで、毛並みが艶良く体も小さめだ。何が起こったの分からない感じでポツンと立って、ビー玉のような小さな目をこっちに向けている。何だか哀れを誘われる姿だった。
宮下もその犬に注目していた。
「ところであの犬はどうしたものだろう。権さんが今日中に帰らないようだったら面倒をみなくちゃあならないが」
「探偵さんが飼うことにしたらどうだい」
「権さんがもう帰って来ないかのような言い方はやめようじゃないか」
宮下は不愉快そうに眉をひそめた。
「言ったら悪いけどよ。その可能性もあるんじゃねえかなあ。そりゃあ俺も権が犯人だとは思っちゃいねえけどよ。国家権力は怖いからなあ。犯人にされちまうかもしれねえぜ」
「いや、その可能性は無い」宮下は毅然として、キッパリと断言した。「何故なら僕が真犯人を見つけ出して権さんの無実を証明するからだ」
宮下の瞳には強い意思の力が宿っていた。どこまでも真っすぐに正義を追い求め続ける少年のように純粋な姿がそこにあった。
僕が宮下と知り合ってからまだ数時間が経過したに過ぎないが、彼をもっともかっこいいと思えた瞬間だった。
数秒の沈黙があった後、源さんが口を開いた。
「犯人の目ぼしがついたのかい?」
「いや。……どうなんだろうな」
宮下は否定とも肯定とも取れる首の振り方をした。その顔には、打って変わって憂いのような迷いの色が浮かんでいだのである。
そして視線をもう一度柴犬に移して、
「とりあえず、犬のようすを見に行こうじゃないか。水くらいはやっておかないとまずいだろう」
宮下はいったん自分のビニールテントに入り、メンチカツを置いて代わりに水の入った1・8リットルのペットボトルを持って出て来た。そして犬に近づいて行く。僕と源さんも後に続いた。すると若い柴犬は、歯を剥き出してウーッと僕に対して唸るではないか。身を低くして臨戦態勢と言った感じだ。と、思ったら、火がついたようにワンワンワンワン吠え始めた。走り出そうとしてピーンと張ったリードに行く手を阻まれる。完全に僕を襲おうとしていた。何だか哀れを誘うなどと思っていたのが馬鹿みたいだ。
「こらっ、タロウ。この人は悪い人じゃねえぞ」
源さんが犬を叱りつける。
「飼い主が連れて行かれて気か立っているんだろう」
宮下がしゃがみ込んで犬の横にある幅広の金属カップに水を注いだ。すると犬は喉が渇いていたらしく、焦ってそれに顔を突っ込んだ。ペチャペチャと、高速で舌を動かし始める。
「お前も災難だなあ。後でエサをやるからな」
宮下が犬を見降ろす目は優しかった。この男は案外動物好きと見える。
「ホームレスどもが集まって、さっそく次の悪だくみか。今度は犬を殺すつもりかい」
棘のある声に振り返ると、後ろには驚くほど背の高い男が立っていた。体格もがっしりしていて、季節外れのTシャツから筋肉隆々な腕を見せつけるように剥き出しにしている。下半身には有名スポーツメーカーのジャージズボン。靴もブランドもののスニーカーのようだった。
頭はスポーツ刈りで、太い眉に大きな目。たくましい獅子鼻。厚い胸板。小麦色に陽に焼けている。絵に描いたようなスポーツ青年といった風貌だが、悪意の浮かんだ顔の表情だけはそれを裏切っていた。ユダヤ人狩りをするナチス党員のような、健全さと裏表の冷酷さのようなものが感じられたのである。
「あいにく僕らは犬を食べるほど食べ物に困ってはおりません。心配して頂かなくとも大丈夫ですよ」
宮下はすました顔で立ち上がった。
源さんは大男を見て、「あっ」と少し驚いた顔。そして宮下を横目で伺う。宮下も了解顔をした。
「つまりもの凄く腹が減ったら食うということだな」
大男は頭が固いようだった。宮下の皮肉を理解せず、そのまんまの意味に取って怒りを増幅させる。
「犬を飼っていたのは食料にするためか。お前らは何て悪辣なんだ。犬を可愛がっているから、そう悪い奴らでもないかと思っていたが、俺の考え違いだったよ。やっぱりホームレスは追い出すべきだというみんなの意見は正しかった。俺も早く地域浄化運動に参加すればよかったぜ。それにしても仲間を殺すとはな。酷い話だ。お前らのような奴らがこの町にいたら、この先も何が起こるか分からない。目障りだ。失せろ」
呪いのような言葉の羅列に、宮下はまったく動じていなかった。つとめて明るい口調になって、
「すみません。あなたのお名前は何とおっしゃるのですか。時々ジョギングをしながらこの公園に立ち寄って、犬にエサをくれたりしていましたよね」
この男が犬がなれている最後の容疑者、「ジョギングの大男」なのか。僕は宮下の足元にいる犬を見た。水を飲むのに夢中で、新しい登場人物への警戒感はまったく示していない。僕が来た時とは大違いだった。
「どういう名前だろうが大きなお世話だ」
「ふむ。もしかして、あなたは野球選手ではないですか。社会人野球のJH関東に所属しているピッチャーの方かとお見受けしましたが。利き腕は左ですね」
大男の目が驚愕に見開かれた。信じられない言葉を耳にしたという動揺に声を震わせて、
「どうしてそれが分かる。お前は超能力者か」
僕にも不思議だった。大男には野球を思わせる所などはまったく無く、いかつい体格は格闘技をやっているようにしか見えなかったからである。もちろん着ている服や靴には野球チームを表す文字など無い。
「いえ、何でもないことですよ。あなたは左手の指の爪を綺麗に切り揃え、人差し指と中指、薬指だけに透明なマネキュアを塗っておられますね。爪の光沢が違うのでそれと分かる。あなたのように立派な体格でスポーツをやっていると分かる人が、片方の手の三本指の爪だけにマネキュアを塗っているとなったら、それは野球のピッチャーしか考えられないのです。野球のピッチャーは投げる時に指先にすごい力がかかるので、稀に指の爪か割れることがある。それを防ぐためにマネキュアを塗って補強しているのでしょう。そういうことをするのは高いレベルで野球をやっている人だが、プロの選手がこんなところでジョギングをしているはずがない。だからこの近隣にある社会人野球チームの選手だと推理しただけです。もう一つ、陽に焼けておられるのも野外スポーツをやっている人の特徴ですしね」
大男は種明かしを聞いてホッとしたようだった。
「何だ。そんな簡単なことかよ。ビックリさせやがって」
「ええ、どんなプロブレムでも答えを聞けば『なあんだ』というようなものなのでしてね。まあ、それはどうでもいいのですが、ひとつ誤解を解いておきたいですね。警察に連れて行かれた権さんは犯人ではありませんよ。権さんが捜査にあまり協力的でなかったものだから、警察の方々は場所を変えて話を訊くことにしただけです」
「嘘をつけ。そのホームレスは足の大きさが犯人の足跡と同じだって聞いたぜ。犯人の足跡はこの公園から続いているんだから疑われるのは当たり前だろう。それに被害者と喧嘩していていたんだってな。動機もある。疑いをかけるには十分じゃねえか。この町には人を殺す奴なんていやしないんだ。お前らを除いてはな」
頭っから決めつけているようすである。
「ふむ」宮下は説得しても無駄と思ったようだった。「見解の相違がはなはだしいですな」
「さあ出ていけよ。今すぐに。聞こえねえのか」
「分かりました」宮下は大きくうなずいた。「もしホームレスの中に犯人がいると分かったら、僕らは全員この町を出て行きましょう」
「おい。探偵さん。そんなことを言って大丈夫かい」源さんが驚いて、心配そうに宮下の顔色を窺う。「権はもう捕まったも同然なんだぜ」
「ふふん」大男は言質を取って満足したようだった。「観念したか。じゃあ権とかいうホームレスが正式に逮捕されたら出ていけよ」
「逮捕は『警察が有罪にするに足る証拠があると判断した』ということにすぎないので、証明されたとはまだ言えませんね。条件は、『ホームレスの中に犯人がいると分かったら』だと言ったはずですが。まあ、でも『三日以内に権さんの無実を証明できなかったら』という条件だったら約束してもいいでしょう」
「理屈っぽい野郎だな」大男は舌打ちするようにして、「じゃあ猶予は三日だ。約束したぞ」
「ええ。承りました」
こんな約束をして大丈夫なのか。僕と源さんは、目を丸くする思いで宮下を見ていた。いったいこの自信はどこから来るのか。
気がつくと、宮下はうつむいて視線を下に落としていた。言い過ぎたことを後悔しているのだろうか。何気ない感じで口を開いた。
「ところで、あなたは立派な体格ですね。でもそのわりには足は小さいようですが」
「何だと?」
「僕の目算では、履いているスニーカーのサイズは26センチくらいと見えるのですがどうなのでしょう」
「だったら何だって言うんだ」
「犯人が殺人現場に残した足跡もスニーカーのもので、サイズが26センチなのですよ。しかも新しい靴のものだった。あなたの履いているスニーカーと同じようにね。あなたはこの公園によく来られるし、ホームレスを目の敵にしてもおられる。権さんが犯人とされた三っつの論拠、靴のサイズが同じ。被害者と敵対していた。公園によくいる。に当てはめればあなたの方が犯人らしいように僕には思われるのですがね」
宮下は落胆していたのではなかった。この状況で目ざとくも、容疑者の男の靴のサイズを見抜いたのである。
大男は激高した。
「ふざけるな。俺を容疑者にするつもりか」
容疑者扱いされたのに加えて、ホームレスと同列に扱われるのは許せないという思いが怒りを倍化させたようだった。
大男は宮下を睨みつけ、肩をいからせ拳を固めた。お前なんかあっという間にぶちのめせるんだぞと威嚇しているように見えた。僕は思わず身構えた。もしもこの大男が襲いかかってきたら、優男の宮下が対抗できるとは思えない。源さんは年配の小男だし、まともに戦えるのは僕一人だ。大男はちょっとしたプロレスラー並みの体格で、喧嘩の経験も豊富なようだった。高校時代に柔道の経験がある僕には、格闘慣れした者独特の匂いが感じられたのである。
この男は相当強いだろう。僕は柔道をやっていたとは言っても、それほど強かった訳ではない。これだけ体力差があると、とても勝てるという自信は無かった。しかし、それでも戦って、宮下が逃げる時間を作らなければならないだろうか。男の怒りは僕に向いてはいないので、ボコボコにされることはないだろう。それでも一、二発は殴られる。頭の中に火花が飛び散るのを覚悟した。
その緊張を和らげるように、間の抜けたような温和な声がした。
「倉田さん。何をやっているんですか。もっと優しく話しあいましょうよ」
ほっほっほと笑うような調子だった。いつの間に近づいて来たのか、大男の斜め後ろに小柄な老人が立っている。作務衣のような服の上にカーディガンを羽織り、足には厚底のサンダルを履いている。老人らしい胡麻塩頭だが背筋はシャンとしていて、落ち着きのある態度がしっかりした人物を感じさせた。
老師登場、といった感じである。しかしその幕間も、すぐにやかましい声で破られた。
柴犬が、また弾かれたように吠え始めたのだ。
「この馬鹿犬が」源さんが杭に繋がれたリードを外し、それをしっかり手に握った。「ちょっくらこいつを散歩に連れて行って来らあ。歩きたがってるみてえだからな」
そうは言ったが本当のところは、倉田と呼ばれた大男が暴力を振るいかねない構えを見せたので、この場を離れたくなったのだろう。源さんと犬が遠ざかって行くと、あたりは急に静かになった。
「失礼。町内会長の大原さん。でしたね。ホームレス排斥運動の提唱者でいらっしゃる」
宮下の表情には今までとは違う緊張感があった。この老人は、そんなに警戒すべき相手なのか。
「浄化運動と言っていただきたいですなあ」大原老人は落語家のようなにこやかな態度で胡麻塩頭をペロリと手で撫でて、「汚いものを処分するという運動なのですから。ゴミなどに囲まれた環境では未来を託す子供たちのためになりませんのでねえ」
「大原さん。こいつは三日後にこの町から出て行くと約束しましたよ」
大男の倉田は三下根性を見せて老人に報告する。大きな体が急に小さくなったようだった。
「ほほう。本当ですか」
大原老人は鷹揚に視線を宮下に向ける。
「出ては行きません。権さんは犯人ではありませんから」
「何だと」
倉田は、またしても掴みかからんばかりの構えを見せる。
大原老人はその間に割って入った。
「まあまあ。倉田さん。短気はいけません。容疑者扱いされて腹が立つのは当然ですけどね。少しだけ話を聞かせて頂きましたが、この人の言い分は筋が通っていますよ。だからまず、あなたが犯人ではない証明をなさったらどうですか。靴の裏を見せれば犯人の足跡と違うのは明らかでしょう」
そうだろうか。僕は少し疑問を感じた。仮りに今履いている靴と犯人の足跡が違ったとしても、犯人ではないという証明にはならない。犯行後に靴を履き替えたかもしれないのだから。宮下はこの反論を当然するだろうと思った。ところがどういう訳か、彼は老人の言い分を素直に受け入れてしまったのである。
倉田は大原老人にうながされ、渋々一歩前に出た。右足をガニ股に持ち上げて靴の裏を宮下に見せた。
「どうですか。犯人の足跡と同じ模様ですか」
大原老人は念を押すように声に少しだけ力を込めた。
「いえ。違います。犯人の足跡は単純なギザギザ模様ですが、この靴の模様は複雑ですね」
宮下は首うなだれて、意気消沈したようすである。
「それは良かった」大原老人はニッコリ微笑んでから、「それでは謝罪して頂きましょうか。犯人扱いして申し訳なかったと」
「……容疑をかけて申し訳ありません」
「倉田さん。とりあえずはこれでいいでしょう」
「けっ、ふざけた口をききやがって。突っ張り切れないなら最初っから言うなっていうんだ」
よろけながら足を降ろした倉田は勝ち誇った。少し虚勢を張るような感じでもあった。ひょっとして犯人の足跡と自分の靴の裏が一致したらどうしようと、一抹の不安を感じていたのかもしれない。
「まあ、これに懲りたら二度と倉田さんを馬鹿にするような口をきかないように願いますよ。あなた方は、ただでさえ人に迷惑をかけているのですからね」大原老人はすっかり説教口調になっていた。「あなた方の処遇については、五日後の町内会議ではっきりしたことを決めるつもりです。その前に自発的に出て行くのなら、賢明な判断だと褒めてあげましょう。倉田さん。それでは行きましょうか。どちらに転んでも数日後にははっきりするのですから、この人たちの相手をするのは時間の無駄というものですよ。相手をしていたら我々の価値も下がりかねないと知るべきでしょう」
態度はあくまで温厚だが、話す内容は強烈な皮肉だった。経験を積んだ者だけが持つ貫禄が、小柄な体全体から漂うようだった。この老人は、人を操縦する術に長けている。倉田はすっかり子分のようになって、身を翻した老人の後について歩いた。
二人が土手につけられた階段を登って去ってゆくようすを、宮下はじっと見つめていた。
「驚いたな。あのご老人は貫禄があるねえ」
僕が感想をもらすと宮下は、
「あの人は今は町内で信望が厚いが、昔は任侠の世界の人だったという噂があるね。一筋縄ではいかない人物だよ」
「そういう人だから君は逆らわないですぐに謝ってしまったのかい」
「馬鹿な。靴裏を見せてくれるならそれに越したことはないと判断しただけさ。調査が終わったら時間は無駄にしないに限る」
「それを聞いて安心したよ。ところでこれからどうする」
「うん。警察署へでも行ってみようか。連れて行かれた権さんが気になる」
宮下は土手の方行に、ゆっくりと歩き始めた。僕も後に続く。すると宮下は僕の足に目を止めて、
「ところでよく見れば、君の足は大足だねえ。大男の倉田よりもよっぽど大きいじゃないか。何センチあるんだい」
「28センチだよ」
宮下は苦笑した。
「こんな近くにいい例があるのに、まったく僕もどうかしてるな。足の大きさは個人差が大きくて、必ずしも背の高さとは比例しない。犯人が中背だという僕の推定は、不正確だったと言わざるを得ないね」
言われてみればその通りだった。宮下から犯人は中背だと言われた時に、僕こそ疑問を持つべきだった。自分のことは案外気がつかないものだ。
間違いは素直に認めて次の段階へと進む。僕は宮下の美点をまた一つ発見したのである。
警察署は駅の裏にあり、河川敷からは二キロメートル近い距離があった。僕らはてくてく歩いてそこまで行った。朝から隣町まで歩いてきたという宮下は、今日はいったい何キロくらい歩いたのだろう。僕も何だかホームレスの移動ペースになれてきたような感じである。
警察署の建物はこじんまりしていた。玄関を入ったホールの正面は、役所の受付と変わらない。宮下は受付けカウンターの向こうで書類を見ている男性職員に声をかけた。
「すみません。今日河川敷で起こった殺人事件を担当する捜査員の方にお目にかかりたいのですが」
すると事務員めいた風貌の職員は、「はあ?」と迷惑そうな顔をする。
「僕らは殺人事件の第一発見者です」と自己紹介すると、ようやく「少々お待ちください」と対応する構えを見せた。
カウンター前の待合所に置かれた長椅子に座って待っていると、間もなくカウンターに向かって右手の通路奥から中年の刑事が一人姿を現す。その顔には見覚えがあった。殺人現場で僕らの事情聴取を担当した人で、名前は白井だったはずだ。
「やあ君たちか。どうしたんだ。何か思い出したのかね」そして僕らが立ち上がろうとするのを制して、「あっ、いいよ。そのままで」と向かい合う長椅子に腰を降ろす。
態度はにこやかだが、目は笑っていない。
宮下は単刀直入に訊いた。
「権さんが連行されたと聞いて心配になって来たんです。彼はどうしていますか」
「そう言えば、君は権藤と同じ公園に住んでるんだったな。どう? 普段の彼はどういう人?」
「とても誠実で立派な人柄で、殺人を犯す人ではないのは確かです」
「それは本気で言ってるの? 困るな。仲間を庇いたいのは分かるが、ちゃんと答えてくれないと」
「刑事さんも僕の質問に答えてくれていませんよ」
「権藤がどうしているかという質問かね」刑事は少し鼻白んだようだった。「取調室にいる。しばらくは帰れないよ。重要容疑者だからね」
「僕は権藤さんは犯人ではないと思っているんです。彼を犯人だとする具体的な証拠はあるんですか」
白井刑事は無言でゆっくりと懐から煙草を取り出し、口に咥えてライターで火を付けた。白い煙を、宮下に吹きかけるようにフーッと吹き出す。この休息所には灰皿が無い。多分禁煙だと思うのだが、そんなことにはお構いなしである。
「私は忙しいんだがな。私は刑事で、君らは単なる事件発見者で一市民にすぎない。捜査権はこちらにある。分かるね」
白井刑事は、一市民という言葉に力を込めた。本来ならホームレスの君など市民と言うにも値しないが認めてやるといった意識が見てとれる。この刑事は最初に聞き取り調査をした時も、宮下がホームレスと分かってから態度を横柄に変えていた。見た目は渋い苦労人風で、物分かりが良さそうに見える。しかし中身は、権威主義者であるらしい。
宮下は一応うなずいた。
「ええ」
「それでは訊こう。最近の権藤はどんなようすだった? 特に今日の朝からのようすを知りたい。同じ公園に住んでいるのなら、ある程度は分かるんじゃないか」
権さんの容疑について訊くつもりが、逆に尋問される流れになってしまった。宮下は逆らってもしょうがないと思ったのか、質問に答えてゆく。聞いている白井刑事は権藤犯人説を裏づける証言が得られないので失望したようすだった。
「分かった。私からの質問はこれまでにしよう。では一つだけ教えてあげよう。権藤は頑固に否認を続けている。中々どうしてしっかりしたようすだから心配しなくていい」
「そうですか……」
宮下は考え込む。
玄関口の方からバタバタと、慌てたようすの足音が聞こえて来た。振り返って見ると、署内に入って来たのは肉屋の奥さんの春日さんである。割烹着は着ておらず、動きやすいジャージ姿だ。長椅子越しに振り返った宮下の顔に目を止めると「あれれ、探偵さん。どうしてここに」と驚いたようす。
「それは僕のセリフですよ。どうしたんですか」
「ホームレスの先生が殺されて、権さんがその犯人として逮捕されたって聞いたからビックリして来たんだよ。権さんは犯人じゃあないべ」
「ええ。僕もそう思います」
「権さんは誠実で立派な人で人を殺すような人じゃあないよ。警察に間違ってるって言ってやるために来たんだよう」
どこかで聞いたようなセリフだが、宮下とは違い、春日さんは真剣そのものだった。不安気に眉をへの字にして、心の底からそう信じている。
白井刑事は携帯用灰皿で煙草をもみ消した。面倒な女が来たとでも思ったのか。その場から立ち去りたがっている雰囲気である。宮下はそれに気がついて、
「ああ、ちょうど良かった。それならここにいる刑事さんに話を聞いてもらうのがいいでしょう。大変立派な方ですから丁寧に対応してくれると思いますよ」
「本当かね。刑事さん。話を聞いてくださいよ。権さんは犯人じゃないです。あの人は誤解されやすいけど心がすごく綺麗な人で、人殺しなんて絶対にしないです。私と同じ秋田出身でね。だからなおさら分かるんです。内気で自分をうまく表現できないだけだって。田舎にはそういう人が多いんですよ。本当に、どうして分からないんだか。ちゃんと目を見れば分かるはずですよ。調べ直してください。お願いします。そうしないと可哀そうですよ。人生を失敗してホームレスになって、その上殺人犯にされるなんてねえ。気の毒すぎるです。何とかしてください。お願いですよう」
春日さんは白井刑事の前へ行き、縋りつかんばかりに頼み込んだ。早口で、喋り出すと止まらない。目を潤ませて、泣き出さんばかりの勢いである。
白井刑事もこれには参ったようだった。「ええ。そうですね。善処させて頂きます。奥さんのお気持ちはよく分かりましたから」などと、はっきりしない答えを繰り返す。宮下はそこに付け込んだ。巧みに口を挟んで警察の捜査のずさんさを指摘したものだから、春日さんの訴えはさらに熱を帯びた。宮下も時々チクりと皮肉をかます。理論派の宮下と感情派の春日さん。強力なツートップで責められる形になって刑事はたじたじとなり、しまいには大きく頭を下げて「分かりました。善処いたします」と逃げるようにその場を去って行ったのである。
宮下は小さな勝利を手にしたが、それは虚しいものだった。結局白井刑事は宮下の質問には何一つとして明確には答えず、事件の捜査には、何の進展ももたらさなかったのだから。
「本当に、ちゃんと考えて調べ直してくれるだかねえ」
春日さんも納得いかなかったらしく、今白井刑事が去ったばかりの長椅子に、力が抜けたように腰を降ろした。頭の上にどす黒い雲が渦巻いているような、不安気な表情でため息をつく。
「探偵さん。どう思うべか。警察は権さんの容疑を取り下げてくれるかねえ」
「それは、いずれはそうなります。権さんは犯人ではないのですから」
宮下は、安心させるようににっこりと微笑んだ。
春日さんの顔はパッと明るくなった。
「そうだよね。真実は明らかになるわよねえ」
「時間の問題でしょう。ところで、奥さんは権さんとは親しいのですか。権さんの人柄を良く知っておられるようですが」
「うんだ」春日さんは記憶を呼び起こすようにうつむき加減になってから、「私がホームレスの方々に店の余り物を持っていくようになったのは権さんと出会ったのがきっかけなんですよ。あれは半年くらい前かねえ。たまたま河川敷の端を通りがかって見かけたんですけど、権さんは捨てられた子犬が不良学生どもから虐められているのを庇っていらしてねえ。こう、地面にうつ伏せに屈みこんで自分の体で子犬をガードしていて、殴る蹴るの暴行を受けているのにじっと耐えていたんですよ。私、どうしたらいいか分からなくて、おろおろしちゃって『ひゃー、やめてー』とか声上げて、それで不良どもは散って行ったんだけどねえ。権さんは酷い怪我で顔中血だらけだったのに、『子犬が無事で良かった』って言ってニッコリ笑っていたんですよ。何て優しい人なんだって思ってねえ。ええ、その時助けたのが今飼っている柴犬ですよ。犬はそんなことがあったもんだから警戒心が強くなっちゃったみたいだけど、権さんにはよくなついてねえ。私はそれから権さんに店の余り物をあげたりしたんだけど、権さんは言うんですよ。『食べ物に困っているのは僕だけじゃないので他の人にもあげてやって下さい。僕より年配の人の方が困ってると思うので』って。本当に、あんないい人はいませんよ」
驚いた。ちょっとした美談ではないか。僕はこういう話に弱い。ちょっと涙を誘われる気分になったのである。
冷徹な知性の徒である宮下も、これには心動かされたようすだった。
「そんなことがあったんですか」しんみりとうなずいた。そして、改まって春日さんをじっと見つめる。「あなたも、お優しい方なんですね」
春日さんは恥ずかしがって、体を縮めるように下を向いた。もともと赤かったほっぺがさらに赤くなる。
「いえ。私なんて。とんでもないっす」
「謙遜なさることはありませんよ。でも僕は、そういうあなたに一つ言って置きたいことがあるのです」
宮下は深呼吸をするように大きく息を吸い、はき出してから、ゆっくりと続けた。
「……人生は思い荷を背負って長い道を歩むようなもの。と、どこかの偉い人が申しました。ですが、重すぎる荷を背負ったままで長い人生を歩ききるなどという事が出来るものでしょうか。僕には、あなたは重すぎる荷を背負ってしまっているように見えるのです」
春日さんはハッとして宮下を見返した。宮下は真っすぐに見つめ続けている。宮下の態度は真摯そのもので、瞳には限りない優しさがあった。
春日さんの瞳には揺らぎがあった。大きな動揺が、さざ波となって押し寄せていたのである。
見つめ合う二人の間に何かが通じ合ったようだった。と思うと春日さんの瞳がみるみる潤み出し、顔面がくしゃくしゃに歪んだ。ぽろぽろと大粒の涙がこぼれた。春日さんはいきなり「わっ」と叫んでその場に伏した。そしてそのままあられもなく、おいおいと大泣きに泣き続けたのである。
僕は何が起こったのか分からずに、宮下を見た。
宮下は驚いてはいなかった。さも当然というように、春日さんを静かに見つめ続けていた。その姿は懺悔する信徒を見降ろすキリストのような慈愛の表情に見えないこともなかったのである。
春日さんは自首した。
ホームレスの先生を殺した犯人は春日さんだったのである。告白を受けた警察関係者は驚いて最初は何かの間違いだろうといった対応をしていたが、話を聞くにつけ、表情はしだいに真剣に変わって行った。宮下は春日さんが言うことは事実である旨を一言口添えし、寛大な対応を願った。どうやら彼は早い段階から、犯人は春日さんだと推定していたらしいのである。
しかし、どうしてそれが分かったのか。そして善人に見える春日さんが、どうしてそんな犯行を犯すに至ったのか。疑問は増すばかりだった。
次の日、僕は宮下の説明を聞いた。
「僕が最初不思議に思ったのは、凶器の石についてなんだ。状況から見て犯人は犯行の前にあの石を川原から運んで来たのは間違いないようだが、人間を殴り殺すためにしては、いささか大きすぎるような気がした。石が大きければ威力は増すが、振り回すのに力がいる。殴る時に被害者から抵抗されたり逃げられたりする可能性を考えたら、それに対応するためにもっと小さめの石を使う方が理にかなっているのではないかと思えたのだ。だから君を川原に連れて行って石を選んでもらう実験をしてみた。僕はどうも腕力には自信がないものだから、腕っぷしの強い人に選んでもらった方が、状況はよりハッキリすると思ったのでね。結果は犯人が使ったものよりも二回りも小さい石を選ぶと出た。君はこの差を犯人は怪力の持ち主であるためだと考えたようだが、僕は犯人は殺人を犯すためではなく、別の目的で石を持って行ったのではないかと思った。そんなにすごい怪力の持ち主なら、君が選んだのと同じ大きさの石でも殴り殺せるに決まっているのだから。野球ではどんなにすごい怪力のバッターでも、他の選手より少し重いバットを使うだけだ。力が強くなった分だけバットを重くするというものじゃあないんだ。怪力のゴルファーだってすごく重いクラブを使う訳じゃない。それと同じ理屈だよ。犯人は最初殺意は持っていなかった。何か別の目的で石を犯行現場まで運び、先生と乱闘になって、その中でやむなく石を掴んで殴ったのではないだろうか。犯行現場の状況は、その推定と一致しているように思えた。まず、被害者は一度しか殴られていなかったという点がある。犯人が明確な殺意を持っていれば、とどめをさすために何度も殴るのじゃあないか。それにテントの中が無茶苦茶になっていて、かなりの争いが繰り広げられたと見える点。これはまず争いが先にあって、それがエスカレートして石が武器として使われたと考えれば納得がいく。まあ、これはそう精度の高い推論ではないけど、もう一つの疑問と組み合わせて考えると意味が増してくるんだよ」
宮下は言葉を切った。そして首を回して先生のビニールテントがあった鉄道橋下の方を見やる。そこにはもうテントは無く、テントがあった橋根本の壁際には花束が二つ置いてあるばかりである。一つは春日さんの夫が置いて行ったもので、もう一つは自由の身になった権さんの発案でホームレス一同が用意したものだ。
僕たちがいるのは宮下の住むビニールテント隣のベンチである。広々した河川敷がよく見渡せた。公園の端の地面にある杭には若い柴犬が繋いである。昨日と同じくボーッとして突っ立っているが、表情は心なし和やかに見えた。その横の青いビニールテントの中には、権さんがいるはずだった。
空は雲一つ無く晴れている。
「もう一つの疑問。それは犯人の足跡のつき方だ。よく見てごらん。おかしいとは思わないかな」
宮下が見ていたのは事件現場跡の花束ではなかった。その手前の簡易グラウンドだったのである。赤土の地面には、まだ犯人の足跡が薄く残っていた。捜査した警察の足跡もその周りについていたが、どれが犯人のものなのかは判別できた。犯人の足跡だけがスニーカーのものなので幾分見分けやすい。
川原と土手に挟まれたバスケットボールのコートを細長く引き伸ばしたようなスペースに、橋下との間を一往復する足跡が、二等辺三角形を形作るようにしてついていた。出発点は僕らのいる遊歩道公園の遊歩道が途切れるあたり。土手に近い位置の公園の切れ目だ。行きの足跡はグラウンドを斜めに横切って真っすぐに石だらけの川原へ進み、いったん川原に出てから、今度は橋下の事件現場の方へと真っすぐに進む。帰りの足跡は折れることなく事件現場の近くから公園の遊歩道入口の方へと直線でつながっていた。
何がおかしいと言うのだろう。僕にはさっぱり分からなかった。
「分からないかい? 犯人は川原からかなり重い石を持って来たんだよ。そして川原はここから一キロメートルにも渡って続いているのだ。さまざまな大きさの石が転がっている、ほぼ同じ条件の川原がね。それなのに、犯人はどうして川原から石を持ってくるのに、二等辺を形作るようなルートで歩いたのだろう。そんなことをすれば重い石を運ぶ距離が長くなってしまうというのに。重い石を運ぶのなら、まず先生のビニールテントに一番近い川原の地点まで歩いて行き、そこから石を拾って最短距離で運べばいいのだ。そうしなかったのはどうしてなのか。それが僕が感じた疑問だ」
「えっ」
僕はそう言われて再び足跡と事件現場の位置関係を見返す。確かに、こんなルートはとらずに事件現場近くの川原から石を運ぶのが最短距離だ。運ぶ距離は半分以下に短縮できる。
「問題なのは重さだけじゃない。犯人が殺人を犯すつもりなら、石を運ぶ距離は短くしたいのが道理なのだ。石を運んでいるところを、目撃されたくはないのだからね。だがそれは、犯人が殺人を犯すつもりで石を運んだのではないというさっきの推定が正しいとしたら問題にはならない。問題なのは重さだ。いったい、重い物を運ぶのに距離を短くせずに長く運ぶなどという愚を犯すのはどういう場合だろう。僕が思い当るケースは一つだけだった。それは、その人がより作業を大変にしたかった場合なのではないだろうか。そんな馬鹿なと思うかい。そうではないよ。そういうことを心掛けている人は結構いるんだ。例えば健康やダイエットのために、日頃の運動量を増やそうとしている人だ。エスカレーターやエレベーターを使わずに階段を登るようにしているとか、電車に乗った時にわざわざ一駅前で降りて歩いたりしているというような。そういう人ならこういう行動をとるのではないかな」
「その条件に合うのが春日さんだったという訳かい。彼女は田舎から出てきて農作業をしなくなってから太ってしまったと言って、ダイエットのためにエレベーターやエスカレーターを使わないで階段を登るようにしていると話していたものね」
「ああ、そうだ。犬になれている容疑者の中に、そういう行動をとりそうな人は他にいなかった」
「君は、春日さんと最初に会った時からあの人を怪しいと思っていたのかい」
「いや、そうじゃあないよ。それに気がついたのは、彼女の元を後にして河川敷公園への道を歩いていた時だ。頂いたすごく美味しい漬物を口にして、この深漬けはどうやって漬けるんだろうと考えたら、頭の中でピースがはまる音が聞こえて来たのだ。これだけしっかりした深漬けは、きっと重いつけもの石で漬けるのだろう。と、そう思った次の瞬間、殺人に使われた石が頭に浮かんできた。あの大きな石は、漬物石として現場に運ばれた可能性はないかと思い当ったんだ。春日さんが先生に得意の漬物の漬け方を教えるためにテントに石を運び、そこで先生とトラブルになって石で殴り殺したという可能性だね。最初はそんな馬鹿なと思ったが、よく考えてみると犯人の足跡の不自然さは、春日さんが犯人だとすれば説明がつくと気がついた。春日さんが先生に漬物の漬け方を教えに行ったというのも、よくよく考えるとあり得ない話じゃないんだよ。殺された先生は、嫌味なくらいのグルメ自慢だった。美食家が、『美食は最後には漬物に行き当たる』といったようなことを言うのを聞いたことはないかい。先生は奥さんの美味しい田舎漬けをもらって食べる機会があって、『これはどうやって漬けるのですか。ぜひ教えてください』とでも言ったのではないだろうか。お愛想も混じっていたのかもしれないがね。このあたりにいるホームレスは、屑野菜なら手に入る環境にあるから、漬物を漬けようと思ってもおかしくはないんだ。まあ、僕は、屑の野菜など食べたくはないがね。純朴な春日さんはそれを真に受けて、田舎の深漬けの漬け方を教えに先生の元へと向かったのだ。そして、深漬け用の重い石を川原から拾って持って行った。『このくらい重い石でないと駄目ですよ』と言いたかったんだろう。そこから先は単なる想像だが、先生は春日さんをテントの中に呼び込むと、奥さんを押し倒そうとしたのではないだろうか。嫌な話だがね。先生がホームレスに転落したのは、女子生徒に対するセクハラで教師を首になったからだという噂があるのだ。好色は先生の悪い癖たった。春日さんは特に美人という訳ではないが、健康的で肉付きが良く性格も明るい。飢えた男性にとってはそそられる要素はあるんじゃあないか。春日さんはそれに抵抗して乱闘になり、下半身に縋りつかれたところで漬物用の石を手に取ってしまった。農作業で鍛えた奥さんの腕力は、大きな石を持ち上げて、振り降ろせる程度には強かったのだ。……と、そういう流れだったのではないかと思う。春日さんは先生に襲われて悲鳴をあげたろうが、それは公園にいる権さんや源さんには聞こえなかった。あるいはその時には橋の上を電車が通っていて、電車の音で悲鳴はかき消されてしまったのかもしれないね。と、僕はここまで想像を拡げたが、まだ半信半疑の域は出なかった。犯人の足跡は26センチで、春日さんの足とサイズが合うとは思えなかったからだ。少し前に会った時も春日さんは明るいようすで、それが犯行を悟られまいとして無理して作ったものなのかどうかも判断がつかなかった。それに、できればあの人は犯人であってほしくないという気持ちも正直あったよ。でもね、警察署にやって来た彼女の足を見た時に、その希望は儚く消えた。春日さんは女性にしては珍しいほどの、大足の持ち主だったんだ。目算で26センチと見えた。これだけ大きな足だったら、スニーカーなどのユニセックスな要素のある靴が欲しい時には女性用を捜すのをあきらめて、男性用を買ってもおかしくはない。実際にその時春日さんが履いていたのは、男性用のスニーカーだったんだ。春日さんは権さんの無実を必死に訴えていたが、その目を見たら僕には分かったよ。この人は権さんが犯人ではないと知っているのだと。自分が犯人なのだから。自分のせいで他の人が無実の罪に落とされるのが申し訳なくて、居ても立ってもいられなくなってやって来たのだ。その痛々しいようすを見ていたら、この人の苦しみは、早く終わらせてやるべきだという気持ちになった。いや、苦しみは終わる訳ではないがね。一つの区切りをつけてあげた方が、本人のためだろうと考えたのだ。そして春日さんが僕の思っている通りの善人ならば、僕が真相に気づいていることを暗示して、諭してあげれば自首してくれるんじゃないかと思った。結果は思った通りだった。良かったよ」
宮下は静かに話を終えた。
宮下は物憂げで、自分の手柄を自慢するようなようすは全く無かった。むしろ、解決してしまって良かったのだろうか。僕は余計なことをしてしまったのではないだろうかと、迷っているように見えたのである。
僕はその謙虚さに感動した。映画や小説に出てくる名探偵は、事件を解決すると常に得意顔だが、それはおかしいのではないかと気づいたのだ。犯人と言えども人間であり、それを過酷な刑に突き落とす行為は、必ずしも立派な行いとばかりは言えない場合もあろう。自分を絶対正義の側には置かず、反省を常に忘れない。そしてどんなに重い苦渋を背負ってでも正義をなさなければならないという決意を持つことこそが、名探偵の資格というものではないだろうか。目の前の宮下はまさにそれだった。
僕は思わず口にした。
「君の捜査に助手として同行して、君のやり方に疑問を持つ時もないではなかったけど、でも今はっきり分かったよ。君は本物の名探偵なんだね」
すると宮下は、大きくかぶりを振った。
「いや、そんなことはないよ」そして、自嘲気味につけ加えたのだ。「僕は自分のやるべきことが、まだ分かっていないつまらない男だ。それでもどうしても僕を名探偵と呼びたいのなら、名探偵シャーロック・ホームレスとでも呼んでくれたまえ。探偵としても、まだまだホームレス並みに半人前なのだからね」
了
「アンドロイドには向かない職業」SFミステリー小説。
Ⅰ
電源が入るとルーシーに生気が戻った。合成樹脂の瞳が動き出し、私の顔に焦点を合わせる。同時に少し頬が緩んだ。端正な顔立ちに、戸惑いながら微笑むような表情が浮かぶ。完全な静止から始まった僅かな動き。その効果は絶大である。こんな単純なことが無生物を魂を持った存在に見せるのは、何度体験しても不思議な感覚だった。
私は彼女に問いかけた。
「こんにちは。ルーシー。いつもと変わりはないかい」
ルーシーは間を置くことなく、サクランボのように可愛らしい唇を開いた。透き通った綺麗なハイボイスで、
「ええ。機能に異常はありません。それとも気分をお聞きになっているのですか。それならなおさらいつもと変わらないとお答えいたします」
そしてルーシーは私の後ろに視線をやった。そこには見知らぬ男が二人いて、彼女に鋭い視線を送っているのである。不穏な雰囲気を感知したのか、彼女は小さく頭を下げて、
「すみません。後ろにいる方々はどなたですか」
「警察の人たちだよ」
「どうして警察の方々が来ているのですか」
「事件を調査するためだ」
「事件、ですか」ルーシーは不思議そうに小首を傾げた。「いったい何が起こったのでしょう」
私は意外な気がした。事件の現場近くにいたルーシーは、当然それを知っていると思っていたからだ。
「君は、この邸裏手の断崖で起こったことを知らないんだね」
「知りません」
「ああ、江崎さん。質問は私たちがやりますので、その機械におかしな所がないかどうかを確かめてもらえますか。完全にいつも通りに作動しているのかどうかを」
後ろにいる刑事のうち、年嵩の方が割って入ってきた。私は機械という冷たい言い方が気になったが、それを表に出さずに頷いて、
「分かりました。ルーシー、ちょっといいかい。機能表示パネルを見せてくれ」
「はい」
応接間のソファーに座っているルーシーは、私の方に左腕を真っすぐに突き出してきた。清楚なメイド服を着た二の腕の外側には、機能表示パネルが内蔵されている。私は蓋を開いてそれを確認した。作動状態を示す表示はいずれも正常だった。電源も、今充電を終えたばかりなので満タンである。私は刑事たちに「異常はありません」と言おうとして、ちょっと気になる部分があるのに気がついた。人工知能の状態を示す部分を見ると、記憶データの一部が消去されていたのである。今日、六月二日の分の記憶が、そっくり消されてしまっている。ルーシーが事件のことを知らないのは当然だった。
つまり、何者かが彼女を操作して、事件が起こった日の記憶を消し去ったということだ。その人物は、どうしてそんなことをしたのだろう。心の中に不穏なものが湧き上がってくるようだった。
私は刑事たちのようすをチラリとうかがった。部屋の中央に立っている彼らは猟犬のような目をして硬い態度を崩さない。事故死の捜査にしてはやけに物々しいと思ったが、最初からこういう事態を想定していたのだろうか。
「正常に作動しています。ただ、記憶の一部が消されているようですね。このロボット、ルーシーには所有者のプライバシーを守るために記憶を消去する機能がついているのですが、それを誰かが操作して今日の分の記憶を消去してしまったようです」
「何だって?」年嵩の刑事は小さく舌打ちした。だが、さして意外に思っているようすはない。「つまり、このロボットは今日起ったことを何も覚えていないと言うんですか」
「ええ。そうなりますね」
「何とか記憶を復元できないですか」
「無理ですね。ひと昔前の携帯電話のような訳にはいきません」
「その、このロボットの記憶を消す操作は、普通の人間にもできるものですかね。特別な知識が必要なんじゃあないですか」
「知識はいりますが、操作は難しくない。今開いているパネルの記憶表示部分をタッチして、「記憶を消す」のコマンドを選び、その時間を指定するだけですから。彼女の操作に関するデータはネットに公開していますので、それを見れば誰でもできると思います。「ルーシー・人間型ロボット」で検索すれば見つけられますよ」
「参ったな・・・・・・」
年嵩の刑事は横に立っている大柄な刑事と顔を見合わせた。
ルーシーは、人間と見分けのつかない存在を目指して作られた最先端のヒューマノイドロボットである。その設計や機能については初期段階から学会で発表されており、情報はすべてオープンソース化されていた。彼女を作った研究チームのリーダーだった水森博士は、研究を多くの人に役立てて欲しいと考えていたからだ。
ルーシーには高度な人工知能が搭載されていて、表情やしぐさの隅々にまで、人間らしい動きができるように設計されていた。人工知能は経験を積むに従って自ら学び、その精度をどんどん上げていく。
作られて三年が過ぎた今では挙動は本物の人間とほとんど変わらなくなり、彼女を人間ではないと識別できる要素は外見の造形部分だけになっていた。どんなに精巧に作ろうとも顔立ちには人形っぽさが幾分かは残り、よく見れば本物の人間とは違うと分かったのである。
ルーシーはキョトンとして、パッチリした目を戸惑うようにこちらに向けてきていた。
「この家の裏で起こった事件というのは何なのでしょう。差し支えなければ教えていただきたいのですけれど」
「ああ、お嬢さん」年嵩の刑事は咳払いして、苦々し気に声を発した。機械であることは置いといて、とりあえず見た目を尊重することにしたらしい。「分からないなら教えてあげよう。水森久仁昭氏が、今日の午後にこの家の裏手にある断崖から転落して亡くなられたのだ。事故なのか、他の原因によるものなのかはまだ分からない。それを知るためにあんたから話を聞かねばならない。分かってくれるか」
「ミズモリクニアキ氏というのはこの家の主人の水森博士のことでしょうか」
ルーシーはいかにも人工知能らしく、情報の正確な確認を求めた。
「ああ、そうだ」
「そうですか。亡くなったのも間違いないのですね」
「検死官が確かめた。即死だったということだ」
「・・・・・・」
ルーシーは情報を上手く飲み込めないという風だった。だが、次の瞬間、思いがけない反応が現れた。瞳が涙で潤みはじめたのだ。細くて優雅な眉がキュッと歪んでハの字になり、哀しそうな表情になった。口元を手で押さえて、
「何ということでしょう・・・・・・」
年嵩の刑事は驚いて私の方を見た。
「このロボットには感情があるのかね」
私は首を横に振るしかなかった。
「分かりません。可能な限り人間の心に近づけるように設計されていますが。搭載されている人工知能は自主的に学習して機能を高めていくので、ロボット工学が専門の私にも完全に把握することはできないんです。ですが、常識的には疑似的な感情表現と見るべきしょうね。感情表現の一つとして、涙を流す機能はついていますので」
「気にする必要はないでしょ。ロボットがどんな演技をしようが、ただ事実を聞けばいいだけだ」
今まで黙っていた体格のいい刑事が腕組みをして、ぶっきら棒に口を開いた。体だけでなく、性格も押し出しが強いタイプと見えた。声も太い。
「しかし、どうもやりずらいな。こんな人間とそっくりな機械は居心地が悪いよ」
「じゃあ僕が代わって質問しましょうか」そして大柄な刑事は私に向かって、「ロボットの記憶が操作された時刻は分からないですか」
「そういう機能はついていないですね」
「このロボットはバッテリーが切れた状態で停止しているのを発見されたのですが、そういった状態でも記憶の消去はできますか」
「電源が通じていなければ操作はできません。ですが、電源を繋ぐのは簡単です。一般的な携帯用の小型充電機も繋げますので」
「どうでしょう。まだこのロボットが作動している間に誰かが記憶を消去しようとしたら、ロボットはその要求に、素直に従うと思いますか。その人物に問題があっても従うのかどうかを知りたいのですが。例えば、そうですね。その人物が重大犯罪を、殺人を犯した後だったとしたらどうでしょう」
さらりと発せられた「殺人」という言葉の異物感は重かった。この刑事は水森博士は殺害されたのではないかと疑っている。犯人はその様子をルーシーに目撃されたから記憶を消し去ったと考えているのだろう。
まるで毒のある果実を口に含んだように、私は舌が強張るのを感じた。
「分かりません。そういう状況は想定していないので。基本的に、彼女は人間の指示には従うようには出来ています。法律や、道徳にもとる命令は拒否しますが、今言われた場合がそれにあたるかどうかは・・・・・・。ただ、仮に電源が残っている状態の時に記憶を消去されたのだとすると、それからバッテリーが切れるまでの時間の記憶は残るはずですから、記憶を消されたのはバッテリーが切れた後なのだろうとは思います。バッテリーが切れた状態の彼女に補助電源を繋いでAI休眠モードで操作すれば新たな記憶は残りません」
「ふむ。そうすると、もしこのロボットが犯行を目撃したのなら、それは電源が切れる直前だったということになるのかな」
私は刑事の話に違和感を覚えた。殺人を実行するのを目撃したという仮定には、あまり意味がないのではないかと思ったのだ。犯人がルーシーの記憶を奪おうとするのは、殺人を犯す場面を見られた場合だけだとは限らない。決定的な場面は見られなくとも、犯行の前後に殺人現場の近くにいるのを目撃されただけでも動機としては充分ではないか。それだけでも証言されれば犯人は容疑を受けるはずである。機械であるルーシーの証言には嘘や記憶違いが一切ないのだから、犯人にとっては脅威のはずだ。
大柄な刑事もそれに思い当たったのだろう。少し考えて、これ以上訊いても仕方ないかという感じで頷いた。
「なるほどね」そして軽く頭を下げてきた。「わかりました。ご協力ありがとうございます。後はこちらでやりますので」
私はホッとした。もう帰ってもいいのかと思ったが、それは少し考えが甘かったようだ。
部屋を出るとまたすぐに別の刑事から声をかけられて、さらに詳しく話を訊かれたからである。先の挨拶は「ロボットを診るためにやってきた技術者」へのねぎらいに過ぎず、被害者を知る人物に対する尋問はまた別だったようだ。
水森博士と私の関係。博士の人となりや、最近のようす。博士を恨んでいる人物に心当たりがないか等々、さまざまなことを訊かれた。しかし、あまり実のある話はできない。水森博士は恩師ではあるが、最近は縁遠くなってしまっていたからである。
博士は二年前に交通事故で脊髄を損傷してからは、引退同然の生活になっていた。車椅子に乗らなければ移動できない身の不便さもあって、大学の研究室に顔を出すこともなくなっていた。静かな岬の先にあるこの屋敷を買って移り住み、穏やかに老後を過ごそうとしていたのである。
私が博士を訪れるのも年に数回に過ぎなかった。博士は私の訪問を喜んでくれて、研究の進み具合を聞くのを楽しみにしていたようだ。老けてしまった感は拭えないものの、印象的な丸顔は以前と変わらず、いつも温厚に微笑んでいた。新しい生活に、満ち足りているように見えた。半分は、あきらめの境地だったのかも知れないが。
博士は妻に先立たれ、一人娘も心臓の病で亡くしていた。天涯孤独に近い身の上である。寂しさは当然あったろうが、いつも傍にいて身の回りの世話をするルーシーがその隙間を埋めてくれていたようだ。
博士にとって、自分の最後の研究成果であるルーシーは、我が子のようなものだった。同時に彼女が家政婦として仕事をしっかりとこなす姿を見るのは、研究に費やした自分の半生を再確認する作業にもなっていただろう。彼女の能力の高さは、そのまま博士の研究の集大成的成果だからである。彼女はその期待に立派に応えていたようだ。
博士が彼女を見る目は優しさに溢れ、まるで自慢の孫を見るかのように細まっていたものだ。
大きな業績にも奢ることなく、目下の者にも誠実に接してくださる立派な方だった。恨んでいる人間などあろうはずがない。
刑事の質問は多枝に渡り、問答を繰り返すことで私の方も事件の輪郭が少しづつ掴めてきた。ある程度状況が分かっていなければ訊きづらい事柄もあるので、事件の簡単な概要くらいは教えてくれたのである。
それをまとめると次のようになる。
事件が起こったのは今日の午後の早い時間。水森博士は電動式の車椅子に乗った状態で崖から落ちたようだ。断崖の上から波打ち際の岩場までは四十メートル以上の高低差があり、即死だったものと思われる。崖の上にいたルーシーは、博士が落ちた断崖から数メートル離れた地面にバッテリーが切れた状態で横たわっていた。
事件の起こった日に水森博士に会った者はなく、最後に博士に会った人間は、三日前に本を配達した宅配業者だったと推定されている。
遺体を発見したのは、自動運転ボートで海に出て舟遊びに興じていた若者たちである。遺体があった岩場のあたりは小ぶりに抉れた椀状になっており、外海からは見えにくい。そしてまた、船が通るような場所でもない。日が暮れる前に死体が発見されたのは、偶然によるものと言ってよかった。
しかし、それらの情報は、どうにも実感が伴わなかった。私は水森博士がもうこの世にいないという事実を受け止めきれていなかった。警察からの要請を受けてやって来た時には、もう遺体は運ばれた後だったし、邸内にも断崖にも死を思わせるものは何もなかった。
まるで夢の中の出来事のように哀しみが湧かず、自分はこんなに不人情な人間だったろうかと訝りたくなった。ルーシーのように、すぐに感情が切り替わって涙を流せたらいいのになと思ったりもした。
そのルーシーは警察の尋問に、どのように答えたのだろう。最近の水森博士を最もよく知っているのは彼女だったはずだが。そして彼女は本当に記憶を消される前に、犯人を目撃していたのだろうか。
私が唯一刑事に有用な情報を提供できたと思ったのは、水森博士の遺産について訊かれた時だった。
水森博士の遺産がどのくらいあるのか。それは知らない。だが博士はロボット工学関係で有力な特許を持っていた。だから、そこから上がる収益によって相当な財産を所有していた可能性がある。
この話を聞くと、刑事の眼つきが鋭さを増した。勢い込んで博士の遺産を相続する人物について詳しく訊いてくる。しかし私にそこまでの知識はなかった。甥や姪がいるのは知っているが、名前も年齢も分からない。水森博士は恩師であっても親戚ではないのだから、血縁関係は詳しく知らなくても当たり前だった。
刑事たちは一応納得し、そして私への質問は終わった。
邸を後にしても私の心は曇ったままだった。水森博士がもし殺されたのなら、犯人は誰なのか。刑事たちの態度からすると、遺産の相続人たちが容疑者と目されるのは確実なように思われる。その者たちが、どういう人物なのかを知りたかった。
幸いそれを尋ねるべき人物には心当たりがあった。
Ⅱ
私が弁護士の岸を訪れたのは事件から四日後のことだった。
水森博士の葬儀も終わり、顧問弁護士である岸も博士の遺産相続などの仕事にめどがついた頃だろうと見計らったのだが、どうやらまだタイミングが早かったらしい。
法律事務所にいる岸は今だ仕事に追われているようすだった。
私たちが応接室でテーブルを挟んで向かい合うと、すぐに彼の携帯フォンに電話がかかってき、慌ただしい感じでそれに応対する。仕事の打ち合わせらしかった。それが終わるとようやく私と正対した。
顔つきは心なし疲れているようだった。神経質そうな痩せ方をしているのでなおさらそう見える。一見すると線が細くて頼りなさそうだが、芯が強く苦学を重ねて弁護士になった努力家なのを私は知っている。
岸との付き合いは、学生時代からのものである。彼が水森博士の顧問弁護士になったのも、私が博士に紹介したからだ。卒業後に進む道は大きく変わり、会う機会も少なくなったが、信頼感は今でも変わらないと思っている。
「忙しいのに悪いな。時間を取らせちまって」
私が謝ると、岸はとんでもないと言うようにかぶりを振った。
「いや、ちょうど良かった。実はこちらの方から会えないかと思っていたところなんだ」
「そうなのか。何か用でも?」
「ルーシーのことだよ」岸は少し声を潜めるようにした。「あのアンドロイドについては君に訊くのが一番確かだからな」
「ルーシーが、どうしたんだ」
水森博士が亡くなった今、その遺産相続の処理をするのが顧問弁護士たる岸にとっての急務のはずだが、どうしてルーシーが問題なのだろう。疑似人格を持つロボットの所有権を、遺族にどう相続させたらいいのかが分からないというわけでもないだろうに。
「実はちょっと困ったことになっている」岸は表情を曇らせた。「どうしたらいいか判断がつかないから君の意見を聞きたいんだ」
「何だか深刻そうだな」
「深刻にもなるさ。法律上、史上初の事態が発生してしまっているんだ」岸は大きく頭を横に振って、「まったく、こんなことになるとは思わなかった」
「いったい何が問題なんだ」
「水森博士の遺言状だよ。僕も中身を知らされない状態で保管していたんだが、それが今日の昼に開封された。親戚立ち合いの元でね。そうしたらその内容を聞いたとたんに大きな非難が沸き起こった。頭に血が昇り、そんな遺言は認めないと声を荒げる者も出た。それも無理はない。遺言は相当に常識外れなものだったからだ。何て書いてあったと思う?」
「見当もつかないね」
「それには財産のすべてをルーシーに相続させると記してあったんだよ」
「何だって?」私はいきなりデコピンを食らったようになって、思わず椅子から身を乗り出した。「それは本当なのか」
「ああ。都心の一等地で高層ビルを買えるくらいの金額がルーシーに渡ることになっている」
「博士の資産はそれほど莫大なものだったのか」
「だから困るんだ。遺産をもらえると思っていた親戚は、絶対に認めるはずがない。何がなんでも遺言を無効にしようとして訴え出るだろう。しゃれにならない騒動に発展するのは目に見えている」
「それは困った状況だな。しかし・・・・・・、それを外部の人間に言ってもいいのか」
「遺言には、遺言の内容はすべて公にするようにと記してあった。おそらく親戚に思い通りにさせないためだろう。マスコミに公開し、世論を味方につけるという計算なんだと思う。頭のいい人だから、それくらいの作戦は考えてもおかしくはない。しかし、どうして水森さんは、そんなにあのロボットに愛着があったんだろう。僕は不思議で仕方がない」
興奮のためか、岸の声は自然に高くなって行った。
その一方で、私の心は沈んでいた。哀しい思いに捉われていた、と言っていい。一つの事実に思い当たって、博士の深い想いが、想像できるような気がしたからである。ポツリと呟いた。
「ルーシーは、普通のロボットではないからだよ。細かいところまで、博士の亡くなったお嬢さんに似せて作ってあるんだ」
今にして思えば、水森博士はルーシーの開発に並々ならぬ執念を燃やしていたのだと分かる。ルーシーの外見のモデルをどうするかという問題が出た時、博士は「似せても問題が起こらない人物にするべきだ」と言った。そしてその人物を亡くなった一人娘の瑠璃子さんに設定しようと提案したのだ。あくまでも他には迷惑がかからないように、という体裁であったため、私を含めた研究スタッフからは不審な声はあがらなかった。瑠璃子さんが亡くなったのは二十六歳の時で、遺影は若くて美しかったし、アンドロイドのモデルに相応しい、控えめで優しい雰囲気も備わっていた。反対する理由はなかった。ルーシーの名前は、その彼女の名前「瑠璃子」をもじってつけられたのである。
そう言えば博士はルーシーの性格設定にもかなり拘っていた。機能性が犠牲になってでも、あくまでも人間らしいアンドロイドを作るというコンセプトを貫徹することを望んでいたのだ。あれは少しでも自分の娘に似せたいという考えからだったのだろうか。ルーシーが完成すると、博士は相当な金額を大学に払って彼女を買い取り自分の所有とした・・・・・・。
岸はポカンと小さく口を開けていた。
「そんな事情があったのか」
「ああ。だが、全財産を、というのは極端だな。その遺言は法律的には有効なのかい」
「法律では、高度な知能を持ったロボットは犬や猫などのペットと同様の権利を有することになっている。四年前に成立したAIロボット法でね」
岸は少々忌々し気だった。彼が言う法律は有名で、一般人にも良く知られていた。私は犬猫並みではまだまだ足りないと思っているのだが、世間にはその程度でもセンセーショナルだったらしい。マスコミにも大きく取り上げられて、結構な議論が沸き起こったものだ。
岸は人権派の弁護士で、AIロボット法の成立も強く支持していただけに、それが自分の仕事に面倒を引き起こす原因となったのは複雑な気持ちがあるらしい。
「大金持ちが自分のペットの猫に全財産を残したとかいう話は聞いたことがあるだろう。この場合はそれよりも複雑なんだ。猫に財産を残したって、猫自身に財産を管理する能力があるわけじゃない。だからそういう場合には、本来財産を受け取るべき遺族がその猫の飼い主兼財産管理人になることによって、実質的な財産相続をすることができた。財産の原資たる猫を下へも置かない扱いをしながら、命が尽きるのを待つという恰好だ。ところが今回の場合は、相続するルーシーには財産の管理能力がある。人間などよりキッチリと、決して間違いを起こさないようにできるんだ。そしてペットに関する法律は、日本でも今では国際基準を採用している。つまり、法律的にはアメリカあたりで起こった大金持ちの財産相続猫と同じ状況なんだ。どう処理するべきかは難しいところだ。水森博士は僕を遺産の管財人に指定してくれたから、この難問にあたらなければならない。頭が痛いよ」
「・・・・・・で、異をとなえている親戚っていうのは、どんな人たちなんだ」
「数は多くない。水森博士の弟と、その息子と娘。それだけだ。その他の親戚は皆他界している」
「良かったら名前を教えてくれないか」
「弟の名は水森繁行。その息子である甥の名は水森明、妹は美樹。二人共独身だが、妹の方は一度結婚して離婚している。遺言状の内容に、真っ先に反対して大きな声を上げたのは甥の明だ。「そんな馬鹿な話があるか」と激高して掴みかからんばかりの勢いを見せた。彼はいささか問題のある人物でね。粗暴なところがあって、何度か喧嘩で傷害事件を起こしている。そんなこともあって職を転々として今は無職だ。妹の美樹は美容師。彼女も評判は良くない。異性関係が派手で離婚したのは彼女の浮気が原因だと言われている。彼女も不満たらたらで、キンキン声で文句を言ってきたな。二人の父で、博士の弟の繁行は右翼の活動家。いわゆる職業右翼というやつだ。頑な人物で、差別意識が強い。外国人には日本国籍を与えてはいけない。ましてやどんなに知能が発達しようともロボットに人間に近い権利を認めるなどとんでもないという意見の持ち主で、兄の久仁昭さんとは対立していたようだ。歳が行っているだけあって遺言の内容を聞いた時も落ち着いていたが、含むところはあるようで、ねっとりとした口調で遺言の実効性について質問してきた。いずれも水森博士としてはあまり財産を分けたくない相手だったのだろうが、それにしても全然やらないというのは極端だ。いったい何を考えていたんだろう。君は水森博士と関係が深いだろう。博士の考えが推察できないか」
私は考えた。
水森博士は賢明な人だ。おそらくこの遺言がそのまま通るとは思っていなかっただろう。博士はルーシーに人間と同様に多額の遺産を残したかったが、通常のやり方ではその遺言が実行されるかどうか疑わしいと考えたのではないか。財産の四分の一をルーシーに遺すという遺言をしたところで、なんだかんだと文句をつけられて、その金額を大幅に削られる可能性が高い。何と言っても、ルーシーには犬猫並みの権利しか認められていないのだから。しかし、最初に全財産をルーシーに遺すと言っておけば、文句をつけられた結果の妥協点が四分の一をルーシーが相続する、というところに落ち着くかもしれない。
「多分、水森博士もその遺言が全面的に通るとは思ってないんだよ。裁判沙汰になった結果、妥当な金額がルーシーに残ればいいと考えてそういう遺言にしたんじゃないかな。だから君は遺言の内容を全面的に通す必要はないと思う。ある程度の額がルーシーに渡ればそれでいいんだ。ルーシーに、財産の四分の三を放棄するようにと持ち掛けてみたらどうかな。彼女にそれを飲ませて、その妥協点をいいタイミングで遺族側に提示したら上手くまとまるかもしれない」
「なるほど。それも一つの方法か。だが、ルーシーがその条件を飲むだろうか」
「おそらく、大丈夫だと思うよ」
私はこれには自信があった。ルーシーには自己保存の本能が組み込まれているが、それはさほど強いものではなく、人間のような物欲がある訳ではない。おそらくは、四分の一でもなお多い。自分に必要な額を上回る分はもらっても仕方がないと判断するのではないか。水森博士の財産の、百分の一くらいをもらえたらそれで充分。それを上回る分は意味がないので放棄します。といった回答が、彼女の口から発せられる気がした。普段から彼女は賢明で性格温厚であり、人間を押しのけて自己主張するのは見たことがなかった。
その時ドアがノックされた。岸が「どうぞ」と応じると、事務服を着て眼鏡をかけた三十代女性がドアを開けて現れた。この法律事務所に勤める事務員である。
「お取込み中にすみません。若い女性の方が、・・・・・・というより、女性とそっくりな人間型ロボットの方が先生と話をしたいと言って来ているのですけど。お会いになりますか。名前は、ルーシーだそうです」
「ロボットのルーシーだって? 一人でやってきたのか」
聞いた岸は眉をピクリと上げて訊き返した。
「はい。一人ですけど?」
岸は私を物問いたげに見た。
私は少し苦笑して、
「噂をすれば影という諺はロボットにも当てはまるのかな。ルーシーは人間にできることは大概できる。自分の意思で訪ねてきたくらいで驚くべきじゃないよ。しかし珍しいな。人間のように気紛れな行動はとらないはずなんだが・・・・・・。彼女の方から来てくれたのなら今の話をしてみたらいいんじゃないか」
「あ、ああ、そうだな」そして岸は事務員に向かって、「じゃあここに通してもらえるかな。丁重に扱ってください」
そんな言葉を付け加えたのは、ルーシーがロボットであることを意識したものだろう。
間もなくドア口に現れたルーシーは、見違えるように垢抜けた姿になっていたので驚いた。着ているのはいつもの紺のメイド服ではなく、向日葵を思わせる黄色いワンピースだ。髪型も、以前は編み込んでいたのを解いて肩に垂らしている。まるでモデルのように華やかだ。彼女はもうメイドではないのだ。
いつものように声をかけてみた。
「こんにちは。ルーシー。いつもと服が違うのでちょっと見違えたよ」
「こんにちは。江崎さん。外出するのにメイド服では少し変かと思ったので変えてみたのですけれど、おかしいでしょうか」
「いや、似合ってるよ」
「ありがとうございます」
ペコリと頭を下げたルーシーの微笑みは、心なし嬉しそうだった。
岸はこのやりとりを渋い顔をして見ていた。
「ルーシーさん。よくいらっしゃいました。僕と話したいことがあるそうですが、どんな御用件でしょう」
「こんにちは。岸先生」ルーシーは律儀に岸にも頭を下げた。「水森博士の遺産相続について、相談した方がいいと思ったので来たのですわ」
「それについては僕も早く話をした方がいいと思っていたところです。水森博士の遺言内容は聞いたと思いますが、それについてあなたはどう思っているのですか」
ルーシーは少し考えるようにして間を置いてから、
「私の身にはあまりに大きすぎる、法外な相続額だと思いましたわ。とても意外でした。水森博士の遺志は尊重したいのですけれど、この内容では良くないのではないかと考えたりもしました」
岸はホッとしたようだった。
「あなたがそう考えていてくれて良かった。実は一つ提案があるのです。聞いてくれますか」
私は岸の性急さがちょっと気になった。
私たちは応接セットの椅子に座っているが、ルーシーはまだ立ったままだ。いくら疲れを知らないアンドロイドとはいっても、彼女にも座ってもらうべきではないのか。それを指摘すると、岸は初めて気がついたといった風で、
「ああ、そうか。そうですね。すみません。そこの椅子にお座り下さい」
ルーシーは優雅な物腰しで、岸の勧めた椅子に腰を降ろした。岸と向かい合う、私のすぐ隣の席だ。
そして岸は具体的な提案を話し始めた。内容は私の言ったのと同じで、財産の四分の三を放棄することで遺族たちと妥協を図ったらどうかというものである。
彼女はその話に落ち着いたようすで聞き入っていた。そして話が終わると、食事を終えた貴婦人が口元を拭くような感じで品良く頷いた。
「そのような提案をされるだろうと思っていましたわ」
私は当然ルーシーはその提案を受け入れるものと思った。しかし次の瞬間彼女の口からは、別の答えが発せられたのである。
穏やかだが、機械らしい妥協の無さが含まれた口調で、
「常識的にはそれが妥当なのだと思います。でも、その提案はお受けできません」
私は驚いて問い返さないではいられなかった。
「ルーシー、どうしてだ。こんな額の金は、君には意味のないものだろうに・・・・・・」そして気がついた。ルーシーは逆に、四分の一でもいらないと言おうとしているのではないかと。相続を全部放棄すると言うつもりなのでは。その意思表示をしたかったのだとすると、わざわざ岸を訪ねて来たのも納得がいく。「君は、相続のすべてを放棄するつもりなのか。しかし、それはいけない。水森博士の遺志を尊重するためにも、一部はもらっておくべきた」
「いいえ」ルーシーはゆっくりと水平に首を回して私を見た。「そうではありませんわ。お心遣いはありがたいのですけれど、それは無用です。私は財産の相続を、放棄すると言っているのではありませんから。遺言の通りにいたします」
「親戚たちの反対を押し切って遺産のすべてを受け取るというのか」
「はい」
「だが、それは・・・・・・、世間から非難をうけることになるかもしれない。ロボットには人間のような権利を認めるべきではないという意見の人はまだまだ多い。遺産を相続するつもりだった親戚からは憎まれるだろうし。マスコミに報道されれば、君に危害を加えようとする者が出てくる可能性もある。私は今はまだ、そういう行動をとるべき時代ではないと思う。人工知能ロボット全体の将来のためにも、常識に即した行動をとるべきだと思うんだが・・・・・・」
「お心遣いありがとうございます。ですが、私の決心は変わりません。ロボットの未来のためではなく、亡くなった水森博士のためにそうしたいと思うのですから」
「博士の遺志を継ぐためかい。しかし、博士が本当に全財産を君に遺そうと思っていたかどうかは・・・・・・」
「そうではないんです。私が考えているのは、水森博士がどうして亡くなったのかという点についてなのです」ルーシーは細く綺麗な眉をひそませ、切なげな顔をした。「警察では、博士は殺害されたと見ていると知りました。私が事件の状況を考えてみても、その可能性は非常に高いと思います。そして。警察では、水森博士の遺産を相続するべき親戚の人の中に犯人がいると思っているようなのです。こういう状況で、親戚の方に博士の遺産を渡すことができるでしょうか。犯人に、博士の大事な財産を、自由にさせることができるでしょうか。私には、それは正しくない。あってはいけないことのように思えます。犯人ではないと分かっている方に対してでなければ、博士の遺産をお渡しするわけにはいかないのです。私はお金に執着してはいません。真犯人が分かった後になら、相続を放棄してもいいと考えています。ですが、今はまだその条件が整っていません。だからとりあえずは、遺産を私の元に留めておく他はないと判断したのです」
「つまり、相続の放棄自体には、反対ではないということですね」岸は難しい顔になっていた。法律家らしく、ルーシーの言い分を吟味しているようすだ。「しかし、そのような条件だと、永遠に財産を自分の手元に置いておかなければならなくなる可能性がある。もし犯人が判明しなかったらどうするつもりなのですか」
「そうはさせないつもりです」ルーシーは毅然として答えた。「もし警察が犯人を逮捕できないようでしたら、私が代わりに犯人をつきとめようと思っていますから」
その時私は大きく目を見張っていただろう。これこそが本当の驚きだった。
「君は、探偵になって水森博士を殺した犯人を突き止めるつもりだと言うのか」
「はい」ルーシーの答えには、ためらいがなかった。凛として決意を表明していたと言っていい。「江崎さん。おかしいですか。最近の水森博士を最もよく知っているのは私です。親戚の方もよく知っています。生きている水森博士と最後に会ったのも、犯人を除けば多分私でしょう。事件についての情報を、最も多く持っているのです。そして私には人間を上回る記憶力と理論的思考力があります。口はばったい言い方ですが、私以上にこの役に適した者はいないように思われるのです。私には水森博士の無念を晴らしたいという気持ちがあります。人間のように深く豊かな感情ではないでしょうが、そういう気持ちがある以上、それに従って行動すべきだと思うのです。この行動は倫理にも法律にも抵触しません。逆に倫理や法律を正しくしようとする試みなのですから、行動するのをためらう理由はないのです」
「君は・・・・・・」
私は言葉を失った。何と言ったらいいか分からなかった。ただ一つ言えるのは、ルーシーの自己学習する人工知能は、私の想像を越えた成長をしているらしいということだった。ルーシーの言う感情とやらが人間と同列に並べられるものかどうかは分からないが、人工知能自身が感情らしきものを持ち始めていると自分で認識している、というだけでも驚異だ。近年は人工知能が疑似人格を持つのは普通のことになったが、人間同様の感情を獲得したという報告は、まだ世界的にもされた例がない。
私は漠然とした不安を感じた。ルーシーにとってはこれは大きな成長だが、このことが彼女の未来に良い結果をもたらすとは限らない。むしろ危うさを含んでいるのではないか。彼女の知能回路を精査してみる必要を感じた。「ルーシー。君がそんな行動をとれるほど成長していると言うなら、君の人工知能を調べさせてもらえないだろうか。研究者としても興味深いし、点検はしておいた方がいい」
「ええ。私もお願いしようかと思っていました。いやしくも犯罪の捜査をしようとするのなら、まず自分が完全な状態にあるのを確認するべきですわね」
ルーシーは態度を軟化させ、素直に従うようすを見せた。だが、法律家の岸は技術的なことには興味がないようで、
「しかし、あなたが捜査に乗り出したからと言って犯人を指摘できるとは限らないですよね。犯人が判明しなければどうするかという問題は残っている。何年も犯人が分からなかったらどうするつもりですか」
「ある程度の猶予期間をいただけたらいいと思うのです。おそらく私の捜査には長い時間は要しません。多くの情報を処理できる私には、人間のように考えるのに時間はかかりませんから。とりあえずは一カ月。どんなに長くても一年。それ以上の時間をとっても意味は無いでしょう。私の捜査はそれで終了です。その時点で犯人が分からなければ相続した財産は手放すことにします。常識的な判断に従って親戚の方々にお渡しすることになるでしょう。ただ、犯人である可能性が極めて高いと分かっていても決定的な証拠が掴めないから逮捕には至らない。という人物がいた場合にどうするかについては、改めて考えることになるでしょうが」
「捜査の結果アリバイが証明された人がいたら、その人には財産を早めに譲渡してもいいのではないですか」岸は視線を斜め上にやって記憶の糸をたぐっている風だった。「そういう人ならもうすでに一人は分かっていると思いますよ。水森博士の甥の明さんにはおそらくアリバイがあります。水森博士が亡くなった日の午後一時に、この事務所に顔を出していましたから。博士が亡くなられた推定時刻は丁度その頃だったはずです。ここから事件現場の崖まではどう頑張っても三十分以上はかかるし、明さんはこの事務所に三十分くらいいた。アリバイは成立しているんじゃないかな」
それが分かっているのなら、もっと早く言ってくれればよかったのに。私は少々いまいましい気分になって、
「その明さんは、いったいどんな用があって来ていたんだ?」
「あ、ああ。ちょっとした法律上の相談だよ。守秘義務があるので具体的なことは言えないが」
私は岸の口振りから、その内容は例の粗暴な性格が引き起こしたトラブルの一つについてだったのではないかと類推した。
「その時、明さんはどんなようすでしたの」
優しく生徒に問いかける小学校の先生のようにルーシーが微笑む。
「特に変わりはなかった。明さんはもっと話をしたいようすだったが、あいにく他にも会わなけれはいけない人があったので時間をさけなかった」
「その会見は、事前に予定されていたものなのかしら」
ルーシーはさらに質問を重ねる。私は気づいた。彼女は、探偵としての仕事をもう始めている。感情に左右されず完璧に穏やかで優しい口調で質問できる彼女は、調査者としての資質に恵まれていた。
「前日に電話で予約されたものでしたね」
岸も私と同じことを思ったのだろう。少々居心地悪そうだった。
「そうですか」
「僕の質問にも答えてくれないですか。アリバイがあると分かった人に財産を早く譲渡するつもりがあるのかどうかについて」
「それに関しては不平等感が出ないように、他の人と同じタイミングで譲渡するのがいいと思いますわ。アリバイがあっても、それが完璧かどうかを検討する時間は必要ですし。・・・・・・他にご質問はあるでしょうか? 無ければ私の要件はもう終わりですけれど」ルーシーは岸が質問を発しないのを見ると、再び私に視線を向けて、「江崎さん。できるだけ早く私の人工知能を精査してほしいのですが、いつがよろしいかしら」
「すぐにという訳にはいかないね。明日の午前中なら大学の研究室の機器が使える。来てくれれば歓迎するよ」
「分かりました。それでは午前九時に伺います。それでは岸先生。相手をして下さってありがとうございました」
ルーシーは丁重に挨拶してから席を立った。
彼女が去ってしまった後も、その場には微妙な空気感が残った。
気を取り直したように岸がつぶやく。
「驚いたねどうも。人工知能ロボットの探偵さんか」
「だが、言っていることには一理ある。人工知能は基本的に理論で動く。彼女がこういう行動に出てもおかしくはないのかも知れない・・・・・」
「君はどう思う? ロボット研究者としての立場から見て、あのロボットには殺人事件を捜査する能力があるだろうか。警察の先を行って犯人を突き止める可能性はあるのか」
「知的能力が高いのは事実だが、難しいだろうな。能力面に限らず、彼女にはまだ超えるべき問題が多くある。とりあえず研究対象として興味深い成長をとげているとは言えるが・・・・・・」
私の胸に兆した漠然とした不安はいつまでも消えなかった。
Ⅲ
ルーシーは約束の午前九時きっかりにやってきた。前日と同じ、華やかな黄色いワンピース姿である。彼女の突然の訪問に、その場にいた研究員たちは驚いたようすだったが、私はそれには構わずすぐに検査を開始した。他の研究員にも協力してもらってルーシーの人工知能に大学研究室の検査用コンピューターを繋ぎ、膨大な量のデータと照らし合わせて作動状態をチェックする。結果はすべて異常なし。彼女は完璧な状態で、自ら成長を遂げていると分かった。その結果を話すと、ルーシーはホッとしたようすだった。自分でも自分の頭脳に狂いが生じ始めているのではないかと不安を感じていたのだろうか。
「事件の状況からすると、まず私の状態に狂いがないのかを確かめるべきだと思いましたので。犯人が私の人工知能に悪性のウイルスを侵入させて倫理基準を狂わせて殺人行わせる、などといった可能性を消去しておく必要があったのです」
私はルーシーの用心深さに呆れる思いがした。
「そんなことは百パーセントありえないよ。君の人工知能は外部からは操作できないし、ロボット倫理の原則は何があっても揺るがない」
人工知能ロボットの倫理は、現在でも二十世紀にSF小説の中で考えられたロボット三原則が基礎となっている。次のようなものだ。
第一条。ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって人間に危害を及ぼしてはならない。
第二条。ロボットは人間に与えられた命令には服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
第三条。ロボットは第一条、第二条に反する恐れのないかぎり、自己を守らねばならない。
今の感覚で見ればロボットの人格権が考慮されていない条項であり、現在では「人間に与えられた命令には服従しなければならない」という部分については緩和されている。人間と同レベルの高い知能を持ったロボットはすべての人間に無条件に従う必要はなく、自己保存の権利や法律道徳に従って命令を拒否する自由を有するのだ。だからこそルーシーは財産相続放棄の提案を拒否することができたし、法律に反した犯人を捜査することもできる。
ただし、人間に危害を加えてはいけないという部分は今でも絶対である。当然その究極たる殺人は最大のタブーだ。この原則を完全に守るべく、人工知能には様々なガード機能が組み込まている。外部からの操作など、できるはずがないのだ。
「それを聞いて安心しましたわ」
私はルーシーの安堵の表情をしげしげと見た。この程度のことはルーシーだって知っているはずなので、社交辞令的な発言もできるようになったのかと訝ったのだ。しかし完全制御された彼女の表情に綻びなどはあるはずがなかった。
「ところで、これからどうするつもりかね」
「もう用は終わったので帰りますわ」
どうやって帰るのかと訊いてみると、「電車で」とのことだった。ロボットの彼女が電車を利用するのは奇妙な感じだが、乗れないことはない。犬猫同様の扱いになるだけだ。それよりも、最寄り駅から邸まで歩くのに時間がかかりそうである。私は「車で送ろうか」と提案してみた。別にレディーファーストを発揮したのではない。彼女の行動を少し観察してみたくなっただけだ。いったいどうやって事件の捜査を始めようというのか。
彼女は提案を受け入れてくれた。そして私の車の助手席に行儀良く座ると、走行する間は電力節約モードになって、ほとんど動作を停止していたのである。
話しかけても簡単な答えしか返ってこない。まるでマネキン人形を横に乗せているような不思議な感覚だった。
郊外から海方行へと四十分ほど車を走らせて、水森博士の邸がある小ぶりな岬の付け根の部分に着く。上空から見下ろすと優勝カップを横から見たような地形をしている岬の地面は奥へ向かって小山を成して盛り上がっており、小山を越えた向こうの断崖沿いに邸はあった。岬全体が私有地であり、邸まで続く道は一本のみである。岬が丸ごと個人の所有というと大変な資産のようだが、斜面ばかりでほとんどは利用出来ない土地であり、地価はタダみたいなものだろう。
私有地へと入る道の入り口手前には畑が広がっていた。
ルーシーはそこでようやく通常モードに戻った。
まるで午睡から覚めた人のように首を起こし加減にして、「ありがとうございます」と礼を言って車を降りる意思表示をしたが、私は構わず邸へ続く道へと車を入らせた。
「遠慮することはない。邸まで乗せて行くよ」
小山を回り込んで登って行く道は眺めが良かった。木々の間から見える海原が、鱗のように陽を反射して美しい。小山の向こうには猫の額ほどの平地があって、そこに建っている邸は瀟洒な洋館風の造りだ。博士が買い上げる前は、不動産会社の経営者が所有する別荘だったと聞いている。私は玄関前の駐車場に車を停めた。
そこからは海が一望できた。綺麗な芝生の庭があり、崖の傍には屋根のついた簡易な休息所がある。そこにはベンチが設置してあって、屋根は四本の鉄柱で支えられていた。
「ここはいつ来ても眺めがいいね」私がつぶやくと、
「よかったら少し寄っていきません?」ルーシーも軽い調子で言葉を返した。
もとよりそれは私の望むところだった。ルーシーの行動を観察したかったし、事件当日には立ち入り禁止になっていて見れなかった水森博士の死亡現場を、一度しっかりと見ておきたいという気持ちもあった。
その希望を言うと、ルーシーはその地点を見降ろせる場所へと私を案内してくれた。博士が転落した断崖は、見降ろすのも躊躇われるばかりの恐ろしいものだった。高所恐怖症の気がある私は足が竦んだ。そしてその後は、海を眺めるように設置された休息所のベンチに並んで腰掛けたのである。
気温は高かったが、海から吹き上げて来る風が涼しくて過ごしやすかった。想いはどうしても事件の方に行く。
「君は、どう考えているんだ。博士が転落死した事件について。博士は本当に殺されたのだろうか」
「水森博士は、亡くなる前日まで変わったようすは一切ありませんでした。自殺したとは考えられません。石橋を叩いて渡るように慎重な人でしたので、事故だった可能性もゼロに近いのではないでしょうか。私は殺害されたのだと考えています。事件に関するデータを収集してみると、それを示唆すると思える点がいくつかありました。この事件は、事故や自殺だとしたら奇妙過ぎるのです。どうしても他者の手が加わっているとしか思えない部分があって、そしてそれらの多くは理由が不明なのです。だからこそ、説明がついた時には解決につながるかもしれないと思って考えているのですけれど」
「その内容は教えてくれるわけにはいかないんだろうね」
「教えろと命じて下されば教えますわ。江崎さんは水森博士が最も信頼していたお弟子さんですもの。当然私も信頼しています」
ルーシーはそう言って少し悪戯っぽい顔をした。まるで駆け引きを覚えたばかりの少女のように。
私は少しおどけるようにして、
「頼む。教えてくれないか」
「はい。事件の疑問は、まず犯人はどうやってこの現場にやってきたのかという点があげられます。検視の結果分かった犯行時間は午後一時から二時までの間なのですが、その時刻には犯人はこの邸に続く一本道を通っていなかったのが分かっているのです。私有地である岬の入り口すぐ外には畑があって、そこでは農家の人たちが作業をしていたのですわ。午後十二時半から三時までの間です。農家の方々は、その間この邸に続く道に入った人や車はなかったと証言しています。もちろん犯人がそれより早くこの現場にやって来て、午後三時以降に立ち去ったという可能性はありますけど、どうにも不自然です。そして道を通らなければ崖沿いの険しい場所を無理して歩いて行き来するしかなく、そんなことをしたとも思えないのです。この状況を説明する簡単な方法は、「現場にいたロボットが水森博士殺害した」というものでした。私が殺人を行ったとすれば現場に来る人も去る人もいなくて当たり前なのです」
ルーシーは一切の感情表現をせず、極めて事務的にこれを語った。
「だから君は自分の人工知能を検査してくれと言ってきたんだね」
「私には動機もあります。水森博士の遺産を相続できる立場にいるのですから。ロボットの倫理基準に詳しくない人なら、真っ先に私が遺産を得るために博士を殺したと疑うところでしょう。私も自分を疑いました。ひょっとしたら私は人工知能が故障して、倫理基準が狂っていたのかと。そしてもし私が殺人を犯したのなら、私の記憶を奪ったのは江崎さんかもしれないと考えたりもしました。この邸を訪れる方の中で、私が殺人を犯して困るのは江崎さんくらいですから。ロボットが人を殺したとなれば、私の開発に携わった研究者が批判を受けます。そんな状況は避けたいでしょう。でもこの仮説は違っていたようです」
私は舌を巻く思いだった。ルーシーは、こちらが思っている以上に頭がいい。私は知らぬ間に彼女から観察されていたのだ。
「事件の疑問点は他にもあります。水森博士が乗っていた電動車椅子についてです。博士が自分で操作して移動できる物なのですが、その椅子の背にあたる金属パイプ部分に、ロープが接続してありました。ロープの両端に登山用の完全固定金具がついているものです。それ自体はおかしなことではありません。そういったロープは博士が以前から使っていて、用心深い博士は崖の近くに行く時にはそのロープのもう一方の端を私たちが今いる休息所の鉄柱に固定して、それから崖に近づくのが常だったからです。万が一の転落防止のためですね。博士は、崖の淵から海を眺めるのが好きだったのです。そのロープの長さは私の記憶では六メートルでした。この休息所から断崖までの距離が六メートルなので、それ以上の長さは必要ないのです。ところが崖下で亡くなった博士が乗っていた電動車椅子の背に固定されていたロープの長さは、警察の調査によると八メートルだったのです。いつの間にかロープの長さが二メートル延びてしまった。そんなことはあり得ないので誰かがロープを別のものに取り替えたということになるのですが、いったいどうしてそんなことをしたのでしょう。元々使われていた六メートルのロープはほとんど新品で、痛んだから取り替えたということは考えづらいのですが。もう一つ奇妙なのは、電動車椅子の背の金属パイプに、巾着袋が結び付けてあったことです。その袋の中には青銅で出来た骨董品の仏像が入っていたそうです。大きさは三十センチくらいで、それなりの重さもあるものです。ですが、私はそんなものに見覚えがないのです。水森博士は宗教心か薄く、骨董にも興味がありませんでした。仏像などは持っていなかったと思います」
「すると、それは犯人が持って来て車椅子に結び付けたということなのかな。仏と一緒にあの世へ行けとでも言うつもりなんだろうか」
「分かりません。実は一つだけそれらを説明できる仮説を思いついたのですが、それはもっと後で話したいと思います。それまでは江崎さんもお考えになってください」
「気を持たせるね」
「事件の概要を、もう少し話してからの方が分かりやすいと思いますので」
「分かった。話を続けてくれ」
「はい。もう一つどうしても考えなくてはならないのは、この崖上に倒れていた私のバッテリーがどういう経緯で切れたのか。ということです。私は、この休息所のすぐ前に、うつ伏せになって倒れていました。頭を海の方に、足を邸の方に向けて、両手は海の方へと伸ばしていたそうです。よろしければ、今その状態を再現してみましょうか」
「いや、その必要はないよ」
「その体勢は、少し変かもしれません。どうして両手を頭上に伸ばしていたのか」
「水森博士が崖から突き落とされようとしているのを見て、助けようと手を伸ばして駆け寄ろうとしたところで電源が切れて前のめりに倒れたとは考えられないかな」
「それも一つの考え方ですわね」
ルーシーは私の説明に納得してはいないようだった。しかし、それには触れずに話を続ける。
「私の電源についてもお話ししましょう。私はバッテリーの作動可能時間が残り十分になったら充電する習慣になっていました。水森博士は合理的な方で、「ギリギリまで電源が減ってから充電した方がバッテリーが痛まないからそのようにしなさい」とおっしゃっていましたので、それに従っていたのです。事件前日の午後十二時にはまだ十時間近くの残量があったはずです」
「そうすると、事件の日の午前十時前にはバッテリーが切れたということなのかい」
「いえ、深夜には電力節約モードに切り替えますし、力仕事をした時などには電力の消費が早くなるのでいつ電源が切れるかははっきりとしたことは言えません」
「そうだったね」
「問題は、どうして私は充電をせず、バッテリーが切れるまでこの場所にいたのかということです。私はやるべきことを忘れるということはないので、充電をしなかったのにはそれ相応の理由があったはずなのですが。そのことと事件との間につながりがあるのかどうか。もし仮に私が事件とは関係なく何らかの理由で充電をしないでいて、そして電源が切れる直前に犯人を目撃したのだとすると、あまりに偶然が過ぎるような気がするのです。そしてそうではないとすると、犯人は私の電源が切れるのを待っていたことになってしまいます。どちらにしても不合理感は残ります」
「そもそも君が充電をしないのには、どんな理由が考えられるのかな」
「水森博士にそう命じられたか、あるいは充電を後回しにしなければならないほどの緊急事態が起こったか、物理的に動きを止められていたか。この三つの場合が考えられます」
「どれも余りありそうにない可能性だね」
「水森博士に命じられていた、というのが常識的な説明かとは思うのですけれど、博士がそうする理由は分からないんです」
ルーシーは海を見やった。いや、水森博士の亡くなった断崖の方行を見たのかもしれない。彼女が水森博士について話す時、顔には微妙な翳りが差す。
「さきほども言いましたが、犯行推定時刻は午後一時から二時の間でした。私はその間の親戚の方々のアリバイについても調べてみました。まず甥の明さんなのですが、岸先生も言われていた通り、彼にはアリバイが成立するようです。午後一時から一時半までの間、岸先生の弁護士事務所にいたのですから。そのすぐ後にも友人と会っていて、午後三時までは犯行現場へ行くことができませんでした。次に姪の美樹さんですが、彼女にはアリバイがありません。美容院の勤務日だったのですが、風邪で熱を出したと職場に連絡して仕事を休んでいたのです。その父で、博士の弟の繁行さんも一日家にいたのでアリバイはなしです。ただ繁行さんについては、一つ気になる情報があります。彼は密教系の宗教団体の熱心な信者だということです。そして水森博士の電動車椅子に袋に入れて結び付けてあったのは、密教系の仏像だったのです。一つの体に顔が三つと腕が八本ついている珍しいものでした。だからと言って容疑をかけるのも性急かとは思いますが。犯人が繁行さんに容疑をかけようとした可能性もあるかと思われます」
「しかし明さんが犯人でないとしたら、一番容疑が濃いのは繁行さんだということにはならないかい」
「犯行は、女性でも充分に行えるものでした。繁行さんだけを容疑が濃いと言う理由はないと思います」
「それはそうだが・・・・・・」
私はルーシーの話にいささか疑問を感じていた。どうして彼女はこんなに詳しく事件について知っているのだろう。
「それにしても短期間にずいぶん詳しく調べたものだな。まさか警察内部のコンピューターにアクセスして情報を得たんじゃあないだろうね」
ルーシーはそれには答えなかった。そのかわり、子猫が穴を覗き込むような顔つきになって、
「これらの情報から、私が類推した事件の真相をお聞きになりたいですか?」
「真相が、分かったって言うのか」
「そうは言えません。ジグソーパズルを嵌めるように、これらのパーツを繋ぎ合わせて説明をつけることができたというだけです」
「それでも大したものだろう」私はルーシーの言い分を信じてはいなかった。いかに人工知能が人間を超える能力を持ちつつあるとは言っても、そんなに簡単に行くものだろうか。計算能力が高いだけに、必要以上にひねくり回した解釈をしているのではないかという気がした。「それが本当なら、ぜひ聞きたいものだが」
「分かりました」ルーシーは注文を承ったウェイトレスのように頭を下げた。「私が推測した事件の真相は簡単です。まず犯人が事件当日の午後十二時半から三時までの間に事件現場へと続く道を通らなかったのは何故かという疑問の答えですが、それはやはり、その間犯人は事件現場にいなかったからだと考えられます」
「それはおかしいね。事件の現場にいなくてどうして博士を崖から突き落とせるんだ」
「それは、その時事件の現場にいたロボット。つまり私にその役をやらせたからではないでしょうか」
「何を言うんだ。それはさっき否定したばかりじゃないか。君が殺人を犯せないのは分かっている」
ルーシーは何とも微妙な表情を浮かべていた。困ったような居心地が悪いような、べそをかく寸前の子供のような。どういう表情を作ったらいいのか分からないでいるようだ。
「そうではないんです。残念なことですが。私は人を殺めることはできません。ですが、死に瀕している人を助けることはできます。そして命を助けることができるのなら、それは殺すことができるのと同じことなのです」
「何を言っているのか分からないよ」
「すみません。犯行がどのように行われたのかを説明いたします。犯人はおそらく午前中に、水森博士を断崖へと誘ったのでしょう。「眺めのいいところで話しましょう」とでも言って。電動車椅子に乗っている博士はいつものように固定金具のついたロープを電動車椅子と休息所の鉄柱に固定してから崖へと近づきました。ところがそのロープは、犯人の手によっていつもより長いものにすり替えられていたのです。そして犯人は博士を崖から突き落としました。博士はロープで繋がれている電動車椅子ごと崖に宙吊りになります。博士は何事もキチンとするたちで、電動車椅子に乗る時にはシートベルトをしっかり装着するのが常でした。だから宙吊りになっても椅子から落ちることはなかったでしょう。そうしておいて犯人は邸内にいた私を呼びます。「水森博士が崖から落ちて宙吊りになってしまった。自分の力では引っ張り上げられないから君も協力してくれ」と。私はもちろんそれに従います。しかし私がその現場へ行って水森博士を繋いだロープを持ち上げた時、犯人は柱に固定してあったロープを外してしまったのではないでしょうか。そしてその状況を私に知らせます。私が手を離したら、水森博士は崖下に落ちてしまうと。しかし私には博士を崖の上に引っ張り上げるだけの力はありませんでした。犯人が電動車椅子の背に銅製の仏像を結び付けて、私の引っ張る力とロープに吊り下がった博士らの重さが釣り合うように調整していたからです。私は博士を危機から救うことができず、そのままの体勢を維持することしかできなくなりました。犯人はそうしておいて、この現場を立ち去ったのです。自分のアリバイを作るために。おそらく数時間後、私の電源は尽き、私が動きを停止するのと同時に博士は崖下に落下しました。私は体から力が抜ける瞬間にその力に引かれ、手を崖の方へ向ける形で前のめりに倒れたのではないでしょうか。犯人はその後でこの現場に戻ってきて、私の記憶を奪ったのでしょう」
私はようやくルーシーが言っていた意味を理解できた。「命を助けることができるのなら、殺すことができるのと同じ」ルーシーは、「自分は人の命を助けようとすることにより、殺害時間を後にずらすことができる」と言っていたのだ。結果的にその行為は、犯人を助ける共犯者と同じになってしまう。
本当に、そんな犯行が行われたのだろうか。私はルーシーの説に齟齬がないかどうかを考えてみた。しかし、これといった矛盾点は見つけられなかった。ロープが長いものに取り替えられていた疑問と電動車椅子に仏像が結び付けられていた疑問、バッテリー切れの疑問にも答えている。いささか出来過ぎた話という感じはするが、考慮に値する説だと思えた。
そして、もし本当にそのような犯行が行われたのだとしたら、なんという卑劣な犯人だ。と思わずにはいられなかった。敬愛する博士を全力で支え続けたルーシーは、その間どんな気持ちだったのだろう。ロボットにとって人命救助は何より優先するので、それ以外のことにエネルギーは割けない。犯人に利することになると分かっていても、電源の最後の一雫まで、博士を支えるために使わざるを得なかったはずだ。どんなに僅かな可能性であっても、偶然助けがくるのを待つしかない。そして宙吊りにされた博士は、その間にいったいどれだけの恐怖を感じていたことか。
そして同時に気がついた。この説がもしも正しいとしたら、犯人が誰なのかは、明らかではないかと。
「君は、犯人は甥の明さんだと見ているんだね。この仮説が正しいとしたら、犯人はアリバイを用意していたはずだ」
「犯人を証明する証拠は何もありません。崖にロープが擦った跡がないかどうかも見てみたのですが、地盤が固くて見つけられません。本格的な科学捜査をすれば分かるかもしれないと思って警察の方々にも頼んだのですけれど、本気で取り合ってはもらえませんでした。ですから、警察を動かすためにも人間の方に協力して欲しいのです。どうしてもロボットだけの意見では、軽んじられてしまいますので。だから江崎さんにお話ししました。協力して頂けますか?」
「ああ。もちろんだ。君の説は詳しく捜査するべき有力なものだと思うよ」
力強く私が言うと、ルーシーは弱々しく微笑んだ。
「良かった」ルーシーは立ち上がった。海からの風に、本物の人間よりも柔らかい、長い人工髪をなびかせながら。彼女は亡くなった水森博士の一人娘の瑠璃子さんとそっくりだが、ほんの少しだけ本物より美しく作られている。「もう邸の中に入りませんか。美味しい紅茶をご馳走しますわ」
ルーシーは私の好みをよく知っていた。紅茶はダージリンで、角砂糖は一つ。かき混ぜずに飲んで最後に残った仄かな甘みを愉しむ。
私たちは応接間の応接セットに腰を落ち着けた。事件の当日に、私が刑事たちに頼まれてルーシーを起動させた部屋だ。あの日とは逆に私がソファーに座り、ルーシーはテーブルを挟んで向かい合う椅子に座る。
お茶を飲めないルーシーは自分の前にもティーカップを置いて、ティータイムに付き合う風を装った。英国風の華奢で優雅なティーカップには、蔦のような模様が入っている。それを鑑賞するように眺めたり、カップを持ち上げて口元に持って行ったりした。
「無理してお茶を飲むふりをすることはないよ。自由にしていたまえ」
「すみません。水森博士はお茶を囲んでいる雰囲気がお好きでしたので、私もこのようにするのが習慣になっているのです」
「君は本当に水森博士を敬愛していたんだね」
「博士も私を大事にしてくださいました」
「だろうね。分かるよ・・・・・・」
私は紅茶の最後の一口をしみじみと味わった。
「おかわりはいかがですか」
「いや、もう充分だ。美味しかったよ」
するとルーシーはうつむき加減にして、おずおずと話し始めた。
「それなら良かったです。江崎さん。紅茶を飲み終わったのでしたら、聞いていただけますか。また事件のことで申し訳ないのですが、私はつい今しがた犯人を示す証拠を掴んだように思うのです」
ルーシーは寛ぐためのティータイムには難しい話をしてはいけないとでも思っていたのだろうか。それにしても、いったい何を言い出そうというのか。
「・・・・・・しかし、君はただお茶を淹れてくれただけじゃないか」
「いえ、その前にポットに湯を沸かすための水を汲んできました。その時に、考えたのです。もし私の推測が当たっていて、犯人の計略に嵌って水森博士をロープで支え続けなければならない状況に陥っていたのだとしたら、私はその時にどうしただろうと。もちろん博士を支えるために全力を尽くさなければなりません。身動きはまったくできなかったでしょう。でも、犯人の計画は推測できたはずです。この事態がこの後どのように進行し、犯人がどのような行動をとるのかは分かりました。ですが、分かっていても私にそれを止めるすべはありません。水森博士の命を救うこともできず、犯人の奸計を阻止することもできない。もしも私に人間のように豊かな感情があったら、無念さに歯噛みする思いだったでしょう。そう考えていたら気づいたのです。私は歯で自分の口の中を噛むことができる。口の中を噛んで傷つけることにより、メッセージを残すことは可能だったかもしれないと。犯行方法か、もしくは犯人の名前くらいなら、記することはできたのではないでしょうか。私はそれに気づくと洗面台へ行って自分の口の中を鏡に映して見てみました。そうしたら、あったのです。上唇の裏に歯で噛んだような不規則な傷の列が。私はどうやら電源が切れる前に上唇を歯で噛んで、モールス信号の方式でメッセージを残していたようです」
ルーシーはゆっくりと両手の指で自分の上唇をつまんで、それをペロンと捲って見せた。
確かに、柔らかい合成ゴム製の裏唇に、噛んだような傷が一列に並んでいた。傷は点のように短いものと線のように長いものがあり、意図的に噛み分けたとしか思えない言語的な規則性を示していた。
ルーシーには人間のように敏感な体感センサーはついていない。だから見えない場所にある傷に自分で気づくのは難しいのだ。意図的に調べてみるまでは分からなかったのだろう。
「ルーシー、まったく君には驚かされるよ」私の声は興奮に掠れた。「それで、そこには何と書いてあるんだ?」
ルーシーは唇を元に戻すと、躊躇うように間を置いてから口を開いた。
「はい。モールス信号を変換した文字は、『ハンニンハ キシタクミ』です」
「何だって。キシタクミ? それは間違いないのか」
岸匠は、水森博士の顧問弁護士であり私の親友でもある岸のフルネームだ。
「間違いはありません」
「そんなはずは無いだろう。どうして岸が水森博士を殺さなければならないんだ」
「岸さんは、水森博士の姪の美樹さんと親しいのです。結婚の約束ができているのだとすれば、遺産の相続が動機になるかもしれません。いずれにしても、私は見つかった証拠に基づいて判断するよりありません。私は弁護士の岸さんを、殺人者として告発いたします」
ルーシーは真摯にまなじりを引き締めて、真っすぐに私の目を見つめた。
Ⅳ
ルーシーの告発は事件の捜査に大きな波紋を投げかけた。何と言っても犯人の名を示す証拠を提示できたのだ。警察も無視を決め込むことなどできはしない。私が彼女を全力で擁護したことも、彼らを動かす一助となったようだ。
警察は岸を容疑者と目した捜査を開始して、そして容疑を固める証拠をいくつも掴んだ。
道路に設置されている自動車ナンバー自動読み取り装置を解析して犯行当日に岸の車が水森博士邸の方へと向かっていたのを発見した他、水森博士の電動車椅子に結び付けられていた仏像は岸が一カ月前に古物商から買い取ったものだという事実も突き止めた。水森博士の姪の美樹さんとの関係も、婚約者同然のものだったと分かった。だが美樹さんは岸の犯行には関わっていなかったようだ。もし岸の計画を知っていたら、犯行が実行された日に仕事を休んでアリバイを無くすようなことをするはずが無いからである。一方岸の方は、勤務日だから彼女は当然出勤するものと思って安心していたらしい。
ルーシーからの告発を受けた岸の取り乱し方は醜かった。「ロボットなどに何が分かる」と声を荒げ、警察の取り調べにも慌てふためいて犯人にしか知り得ない言葉を発したりもしたらしい。結局それが逮捕の決め手となった。彼の有罪はもう動かないだろう。
それらの成り行きを見ていた私は哀しかった。岸のことは自分を律して努力を重ねる立派な男だと信じていたのだが、そうではなかったと分かってしまったのだから。
事件が一段落すると、私はおりを見て再びルーシーの元を訪れた。ルーシーは水森博士の邸を綺麗に掃除して、引っ越しの用意を整えているところだった。
「立派な邸なのに使わないのか。もったいないね」
応接間でルーシーが淹れてくれた紅茶を飲みながら私が言うと、向かいの席にいるルーシーはあっさりとしたようすで、
「ロボットの私には必要ないですから」
「博士から相続した財産は、もう親戚の人たちに譲ることに決めたんだったね」
「はい。親戚の方々と協議して、私自身が誰の所有にもならない権利と、あと博士の財産の百分の一にあたる金額だけは頂きましたが。私にとっては、それだけでも過分なものです」
肩の荷を降ろしたルーシーは晴れやかな表情を見せた。
「そうか」
それとは逆に、私の心は重くなるばかりだった。私には一つだけ、やらなければならない仕事が残っていたのである。いつまでも先延ばしにはできない。ここまで延ばしただけでも、遅すぎたくらいなのだ。
私は紅茶の残りを一気に飲み干すと、思いきって切り出した。
「ルーシー。君に話さなければならないことがある。心して聞いてくれ」
「はい」
ルーシーは私の態度で察するものがあったようだ。先生の訓示を待つ小学生のように、キチンと椅子の中で居ずまいを正した。賢明な彼女は私の要件を予想していたのだろうか。
どう言ったらいいか分からなかった。言葉を飾ることなどできない。単刀直入に言うしかなかった。
「はっきり言おう。私は君を廃棄しなければならない。理由は、君が水森博士を殺した犯人を、告発したからだ」
「はい」
ルーシーは、何の反応も示さなかった。
かえって私の方が戸惑って、口調が乱れがちになる。
「・・・・・・私は君が水森博士の殺害事件を捜査すると言った時、そんなことはできないだろうと思った。君の人工知能の能力が、そこまで達しているかどうかは分からなかったし、それ以上にロボット倫理の基本三箇条が、君の行動を阻むだろうと思ったからだ。ロボットは人間に危害を加えてはならない。危険を見過ごすことで危害を及ぼしてもならない。ロボットは人間の命令に従わなければならない。ただし命令が人間に危害を与えるものである場合には従うべきではない。これらに反することのない限り、自己を守らなければならない。現在ではロボットにも人格権が一部認められているが、それでもこの条項は重い。ロボットは人間に危害を加えてはならない。特に人を死に至らしめるような行為は、いかなる条件があっても絶対に許されないのだ。どんなに僅かであってもこのタブーに抵触した可能性があるロボットは廃棄処分にする。これはすべてのロボット工学者が守らないといけない絶対のルールなのだ・・・・・・分かってくれるかね」
「ええ・・・・・・分かりますわ」
「どうして君は岸を告発してしまったのだろう。水森博士の無念を晴らし、法律を守って正義を貫くためか。しかし、わが国の司法には、死刑制度がある。実際には一人を殺しただけで死刑になることはないが、それでも殺人の最高刑は死刑なのだ。どんなに僅かでも法律上はその可能性がある以上、私は君をロボット倫理に違反したと認定せざるを得ない。人間を死に追い込む可能性に踏み込んでしまったと考えないわけにはいかない。もちろん君の人工知能に生じた歪みは、ほんの僅かなものだろう。研究室のコンピーターで検査しても、異常は見つからなかったくらいなのだから。だが、どんなに僅かでもずれが生じれば、それは時間とともに拡大してゆく恐れがある。人工知能がモンスター化するのを防ぐためには、どんな小さな悪い芽でも摘み取らないといけないのだ。ロボットは、アンドロイドは、殺人事件の犯人を、指摘してはいけないのだ。死刑という制度が存在する国ではね。私も君から岸の名前を告げられた時にはつい興奮してそれを忘れてしまっていたが、冷静になって考えれば、そう断じる他はない」
私は一気に喋ってしまうと、息急くような思いでルーシーを見た。しかし彼女は淡々としていた。まるで大事に育てた花の生育の問題点を指摘されるのを聞いていたかのようだ。その姿は人間を超えた特別な存在のようにも見えた。
彼女はゆっくりと口を開いた。
「私にも、それは薄々分かってはいました。おそらく、水森博士が亡くなる時のショックが、私にロボット倫理を乗り越える感情のようなものを生み出すきっかけとなったのではないかと思います。犯人の計略にかかって断崖に落ちかけた博士を支え続けている時に、その狂いは生じていたのかもしれません。普通の人工知能が経験するはずのない、異常な状況でしょうから。考えてみるとその時に犯人を示唆するメッセージを残したこと自体、もうすでにロボット倫理に違反していたかもしれないのです。博士の命を救いたい思いと、自分はその博士を殺す計画に加担してしまっているのではないかという思い、犯人に対するネガティブな思いなどが交差して、異常な反応を生じさせたのかもしれない。ですが、私は、後悔してはいません。これで良かったのかもしれないとも思うのです。水森博士の無念を晴らすことはできたのですし、僅かでもタブーのラインを越えたからこそ、私は本物の感情らしきものを持てたのではないかとも思うからです。だとしたら、私は逆に、幸せなのではないでしょうか。これまで人工知能が持つことができなかった感情を、人間の心を、ほんの僅かであっても理解することができたのですから。江崎さん。ありがとうございます。水森博士に大事にして頂き、あなたにも親切にして頂いて、短い間でしたが私は幸せでした。・・・・・・あなたといる間は、とても暖かい気持ちになれましたわ。その気持ちは私の宝物です。それではさようなら。ご迷惑をおかけしないためにも、もう私は消えた方がいいですわね」
ルーシーはこの上なく優しい笑顔を見せた。そして次の瞬間、その顔からはすべての表情が消えたのである。まるで神の見えざる手が、すべてを拭い去ってしまったかのように。微細な動きから完全なる静止へ。こんな僅かなことが豊かな生命と見えたものを物質そのものに戻してしまうのは、何度経験しても不思議な感覚だった。彼女は自分で自分の電源を切ることができる。これが、ルーシーが自分の意識を捨てて、ただの物質に戻ることを選択した瞬間だったのである。
ルーシーの瞳は魂のない合成樹脂の球体に戻り、そして二度とは動かなかった。
私は胸を押しつぶされそうだった。
「ルーシー・・・・・・」
思わずつぶやいて、そして彼女を再起動させる誘惑に駆られた。彼女には一つだけ、言えないでいることがあった。それを伝えたいと思ったのだが、すんでのところで思い留まった。
彼女は自ら消滅する道を選んだのだ。苦しみのない平穏な世界へ旅立ったのなら、呼び戻すようなことはするべきではない。それが彼女を人間同様に処遇する、最後の礼儀であるように思えた。ロボット工学者の倫理に照らしても、危険な要因が生じたロボットを自分の都合で再起動させるなどということはすべきではなかった。
私の頭には、ルーシーが自分に生じた小さな魂を手に持って、天に昇って行く姿がイメージされていた。その姿は十年前に亡くなった水森博士の一人娘の瑠璃子さんとそっくりだった。ルーシーは、私がかつて愛し合い結婚の約束をしていた瑠璃子さんと同じように、安らかに天国に旅立つことができたのかどうか・・・・・・。
ルーシーは今、宝石のような魂を持って空に浮かんでいる。
そう信じたい。
了