d94n2s blog

自作小説の公開、管理を目的としたブログ。変な小説を読みたい人は寄っといで。

「アンドロイドには向かない職業」SFミステリーです。

 

                   Ⅰ

 

 電源が入るとルーシーに生気が戻った。合成樹脂の瞳が動き出し、私の顔に焦点を合わせる。同時に少し頬が緩んだ。端正な顔立ちに、戸惑いながら微笑むような表情が浮かぶ。完全な静止から始まった僅かな動き。その効果は絶大である。こんな単純なことが無生物を魂を持った存在に見せるのは、何度体験しても不思議な感覚だった。

 私は彼女に問いかけた。

「こんにちは。ルーシー。いつもと変わりはないかい」

 ルーシーは間を置くことなく、サクランボのように可愛らしい唇を開いた。透き通った綺麗なハイボイスで、

「ええ。機能に異常はありません。それとも気分をお聞きになっているのですか。それならなおさらいつもと変わらないとお答えいたします」

 そしてルーシーは私の後ろに視線をやった。そこには見知らぬ男が二人いて、彼女に鋭い視線を送っているのである。不穏な雰囲気を感知したのか、彼女は小さく頭を下げて、

「すみません。後ろにいる方々はどなたですか」

「警察の人たちだよ」

「どうして警察の方々が来ているのですか」

「事件を調査するためだ」

「事件、ですか」ルーシーは不思議そうに小首を傾げた。「いったい何が起こったのでしょう」

 私は意外な気がした。事件の現場近くにいたルーシーは、当然それを知っていると思っていたからだ。

「君は、この邸裏手の断崖で起こったことを知らないんだね」

「知りません」

「ああ、江崎さん。質問は私たちがやりますので、その機械におかしな所がないかどうかを確かめてもらえますか。完全にいつも通りに作動しているのかどうかを」

 後ろにいる刑事のうち、年嵩の方が割って入ってきた。私は機械という冷たい言い方が気になったが、それを表に出さずに頷いて、

「分かりました。ルーシー、ちょっといいかい。機能表示パネルを見せてくれ」

「はい」

 応接間のソファーに座っているルーシーは、私の方に左腕を真っすぐに突き出してきた。清楚なメイド服を着た二の腕の外側には、機能表示パネルが内蔵されている。私は蓋を開いてそれを確認した。作動状態を示す表示はいずれも正常だった。電源も、今充電を終えたばかりなので満タンである。私は刑事たちに「異常はありません」と言おうとして、ちょっと気になる部分があるのに気がついた。人工知能の状態を示す部分を見ると、記憶データの一部が消去されていたのである。今日、六月二日の分の記憶が、そっくり消されてしまっている。ルーシーが事件のことを知らないのは当然だった。

 つまり、何者かが彼女を操作して、事件が起こった日の記憶を消し去ったということだ。その人物は、どうしてそんなことをしたのだろう。心の中に不穏なものが湧き上がってくるようだった。

 私は刑事たちのようすをチラリとうかがった。部屋の中央に立っている彼らは猟犬のような目をして硬い態度を崩さない。事故死の捜査にしてはやけに物々しいと思ったが、最初からこういう事態を想定していたのだろうか。

「正常に作動しています。ただ、記憶の一部が消されているようですね。このロボット、ルーシーには所有者のプライバシーを守るために記憶を消去する機能がついているのですが、それを誰かが操作して今日の分の記憶を消去してしまったようです」

「何だって?」年嵩の刑事は小さく舌打ちした。だが、さして意外に思っているようすはない。「つまり、このロボットは今日起ったことを何も覚えていないと言うんですか」

「ええ。そうなりますね」

「何とか記憶を復元できないですか」

「無理ですね。ひと昔前の携帯電話のような訳にはいきません」

「その、このロボットの記憶を消す操作は、普通の人間にもできるものですかね。特別な知識が必要なんじゃあないですか」

「知識はいりますが、操作は難しくない。今開いているパネルの記憶表示部分をタッチして、「記憶を消す」のコマンドを選び、その時間を指定するだけですから。彼女の操作に関するデータはネットに公開していますので、それを見れば誰でもできると思います。「ルーシー・人間型ロボット」で検索すれば見つけられますよ」

「参ったな・・・・・・」

 年嵩の刑事は横に立っている大柄な刑事と顔を見合わせた。

 ルーシーは、人間と見分けのつかない存在を目指して作られた最先端のヒューマノイドロボットである。その設計や機能については初期段階から学会で発表されており、情報はすべてオープンソース化されていた。彼女を作った研究チームのリーダーだった水森博士は、研究を多くの人に役立てて欲しいと考えていたからだ。

 ルーシーには高度な人工知能が搭載されていて、表情やしぐさの隅々にまで、人間らしい動きができるように設計されていた。人工知能は経験を積むに従って自ら学び、その精度をどんどん上げていく。

 作られて三年が過ぎた今では挙動は本物の人間とほとんど変わらなくなり、彼女を人間ではないと識別できる要素は外見の造形部分だけになっていた。どんなに精巧に作ろうとも顔立ちには人形っぽさが幾分かは残り、よく見れば本物の人間とは違うと分かったのである。

 ルーシーはキョトンとして、パッチリした目を戸惑うようにこちらに向けてきていた。

「この家の裏で起こった事件というのは何なのでしょう。差し支えなければ教えていただきたいのですけれど」

「ああ、お嬢さん」年嵩の刑事は咳払いして、苦々し気に声を発した。機械であることは置いといて、とりあえず見た目を尊重することにしたらしい。「分からないなら教えてあげよう。水森久仁昭氏が、今日の午後にこの家の裏手にある断崖から転落して亡くなられたのだ。事故なのか、他の原因によるものなのかはまだ分からない。それを知るためにあんたから話を聞かねばならない。分かってくれるか」

「ミズモリクニアキ氏というのはこの家の主人の水森博士のことでしょうか」

 ルーシーはいかにも人工知能らしく、情報の正確な確認を求めた。

「ああ、そうだ」

「そうですか。亡くなったのも間違いないのですね」

「検死官が確かめた。即死だったということだ」

「・・・・・・」

 ルーシーは情報を上手く飲み込めないという風だった。だが、次の瞬間、思いがけない反応が現れた。瞳が涙で潤みはじめたのだ。細くて優雅な眉がキュッと歪んでハの字になり、哀しそうな表情になった。口元を手で押さえて、

「何ということでしょう・・・・・・」

 年嵩の刑事は驚いて私の方を見た。

「このロボットには感情があるのかね」

 私は首を横に振るしかなかった。

「分かりません。可能な限り人間の心に近づけるように設計されていますが。搭載されている人工知能は自主的に学習して機能を高めていくので、ロボット工学が専門の私にも完全に把握することはできないんです。ですが、常識的には疑似的な感情表現と見るべきしょうね。感情表現の一つとして、涙を流す機能はついていますので」

「気にする必要はないでしょ。ロボットがどんな演技をしようが、ただ事実を聞けばいいだけだ」

 今まで黙っていた体格のいい刑事が腕組みをして、ぶっきら棒に口を開いた。体だけでなく、性格も押し出しが強いタイプと見えた。声も太い。

「しかし、どうもやりずらいな。こんな人間とそっくりな機械は居心地が悪いよ」

「じゃあ僕が代わって質問しましょうか」そして大柄な刑事は私に向かって、「ロボットの記憶が操作された時刻は分からないですか」

「そういう機能はついていないですね」

「このロボットはバッテリーが切れた状態で停止しているのを発見されたのですが、そういった状態でも記憶の消去はできますか」

「電源が通じていなければ操作はできません。ですが、電源を繋ぐのは簡単です。一般的な携帯用の小型充電機も繋げますので」

「どうでしょう。まだこのロボットが作動している間に誰かが記憶を消去しようとしたら、ロボットはその要求に、素直に従うと思いますか。その人物に問題があっても従うのかどうかを知りたいのですが。例えば、そうですね。その人物が重大犯罪を、殺人を犯した後だったとしたらどうでしょう」

 さらりと発せられた「殺人」という言葉の異物感は重かった。この刑事は水森博士は殺害されたのではないかと疑っている。犯人はその様子をルーシーに目撃されたから記憶を消し去ったと考えているのだろう。

 まるで毒のある果実を口に含んだように、私は舌が強張るのを感じた。

「分かりません。そういう状況は想定していないので。基本的に、彼女は人間の指示には従うようには出来ています。法律や、道徳にもとる命令は拒否しますが、今言われた場合がそれにあたるかどうかは・・・・・・。ただ、仮に電源が残っている状態の時に記憶を消去されたのだとすると、それからバッテリーが切れるまでの時間の記憶は残るはずですから、記憶を消されたのはバッテリーが切れた後なのだろうとは思います。バッテリーが切れた状態の彼女に補助電源を繋いでAI休眠モードで操作すれば新たな記憶は残りません」

「ふむ。そうすると、もしこのロボットが犯行を目撃したのなら、それは電源が切れる直前だったということになるのかな」

 私は刑事の話に違和感を覚えた。殺人を実行するのを目撃したという仮定には、あまり意味がないのではないかと思ったのだ。犯人がルーシーの記憶を奪おうとするのは、殺人を犯す場面を見られた場合だけだとは限らない。決定的な場面は見られなくとも、犯行の前後に殺人現場の近くにいるのを目撃されただけでも動機としては充分ではないか。それだけでも証言されれば犯人は容疑を受けるはずである。機械であるルーシーの証言には嘘や記憶違いが一切ないのだから、犯人にとっては脅威のはずだ。

 大柄な刑事もそれに思い当たったのだろう。少し考えて、これ以上訊いても仕方ないかという感じで頷いた。

「なるほどね」そして軽く頭を下げてきた。「わかりました。ご協力ありがとうございます。後はこちらでやりますので」

 私はホッとした。もう帰ってもいいのかと思ったが、それは少し考えが甘かったようだ。

 部屋を出るとまたすぐに別の刑事から声をかけられて、さらに詳しく話を訊かれたからである。先の挨拶は「ロボットを診るためにやってきた技術者」へのねぎらいに過ぎず、被害者を知る人物に対する尋問はまた別だったようだ。

 水森博士と私の関係。博士の人となりや、最近のようす。博士を恨んでいる人物に心当たりがないか等々、さまざまなことを訊かれた。しかし、あまり実のある話はできない。水森博士は恩師ではあるが、最近は縁遠くなってしまっていたからである。

 博士は二年前に交通事故で脊髄を損傷してからは、引退同然の生活になっていた。車椅子に乗らなければ移動できない身の不便さもあって、大学の研究室に顔を出すこともなくなっていた。静かな岬の先にあるこの屋敷を買って移り住み、穏やかに老後を過ごそうとしていたのである。

 私が博士を訪れるのも年に数回に過ぎなかった。博士は私の訪問を喜んでくれて、研究の進み具合を聞くのを楽しみにしていたようだ。老けてしまった感は拭えないものの、印象的な丸顔は以前と変わらず、いつも温厚に微笑んでいた。新しい生活に、満ち足りているように見えた。半分は、あきらめの境地だったのかも知れないが。

 博士は妻に先立たれ、一人娘も心臓の病で亡くしていた。天涯孤独に近い身の上である。寂しさは当然あったろうが、いつも傍にいて身の回りの世話をするルーシーがその隙間を埋めてくれていたようだ。

 博士にとって、自分の最後の研究成果であるルーシーは、我が子のようなものだった。同時に彼女が家政婦として仕事をしっかりとこなす姿を見るのは、研究に費やした自分の半生を再確認する作業にもなっていただろう。彼女の能力の高さは、そのまま博士の研究の集大成的成果だからである。彼女はその期待に立派に応えていたようだ。

 博士が彼女を見る目は優しさに溢れ、まるで自慢の孫を見るかのように細まっていたものだ。

 大きな業績にも奢ることなく、目下の者にも誠実に接してくださる立派な方だった。恨んでいる人間などあろうはずがない。

 刑事の質問は多枝に渡り、問答を繰り返すことで私の方も事件の輪郭が少しづつ掴めてきた。ある程度状況が分かっていなければ訊きづらい事柄もあるので、事件の簡単な概要くらいは教えてくれたのである。

 それをまとめると次のようになる。

 事件が起こったのは今日の午後の早い時間。水森博士は電動式の車椅子に乗った状態で崖から落ちたようだ。断崖の上から波打ち際の岩場までは四十メートル以上の高低差があり、即死だったものと思われる。崖の上にいたルーシーは、博士が落ちた断崖から数メートル離れた地面にバッテリーが切れた状態で横たわっていた。

 事件の起こった日に水森博士に会った者はなく、最後に博士に会った人間は、三日前に本を配達した宅配業者だったと推定されている。

 遺体を発見したのは、自動運転ボートで海に出て舟遊びに興じていた若者たちである。遺体があった岩場のあたりは小ぶりに抉れた椀状になっており、外海からは見えにくい。そしてまた、船が通るような場所でもない。日が暮れる前に死体が発見されたのは、偶然によるものと言ってよかった。

 しかし、それらの情報は、どうにも実感が伴わなかった。私は水森博士がもうこの世にいないという事実を受け止めきれていなかった。警察からの要請を受けてやって来た時には、もう遺体は運ばれた後だったし、邸内にも断崖にも死を思わせるものは何もなかった。  

 まるで夢の中の出来事のように哀しみが湧かず、自分はこんなに不人情な人間だったろうかと訝りたくなった。ルーシーのように、すぐに感情が切り替わって涙を流せたらいいのになと思ったりもした。

 そのルーシーは警察の尋問に、どのように答えたのだろう。最近の水森博士を最もよく知っているのは彼女だったはずだが。そして彼女は本当に記憶を消される前に、犯人を目撃していたのだろうか。

 私が唯一刑事に有用な情報を提供できたと思ったのは、水森博士の遺産について訊かれた時だった。

 水森博士の遺産がどのくらいあるのか。それは知らない。だが博士はロボット工学関係で有力な特許を持っていた。だから、そこから上がる収益によって相当な財産を所有していた可能性がある。

 この話を聞くと、刑事の眼つきが鋭さを増した。勢い込んで博士の遺産を相続する人物について詳しく訊いてくる。しかし私にそこまでの知識はなかった。甥や姪がいるのは知っているが、名前も年齢も分からない。水森博士は恩師であっても親戚ではないのだから、血縁関係は詳しく知らなくても当たり前だった。

 刑事たちは一応納得し、そして私への質問は終わった。

 邸を後にしても私の心は曇ったままだった。水森博士がもし殺されたのなら、犯人は誰なのか。刑事たちの態度からすると、遺産の相続人たちが容疑者と目されるのは確実なように思われる。その者たちが、どういう人物なのかを知りたかった。

 幸いそれを尋ねるべき人物には心当たりがあった。

 

                    Ⅱ

 

 私が弁護士の岸を訪れたのは事件から四日後のことだった。

 水森博士の葬儀も終わり、顧問弁護士である岸も博士の遺産相続などの仕事にめどがついた頃だろうと見計らったのだが、どうやらまだタイミングが早かったらしい。

 法律事務所にいる岸は今だ仕事に追われているようすだった。

 私たちが応接室でテーブルを挟んで向かい合うと、すぐに彼の携帯フォンに電話がかかってき、慌ただしい感じでそれに応対する。仕事の打ち合わせらしかった。それが終わるとようやく私と正対した。

 顔つきは心なし疲れているようだった。神経質そうな痩せ方をしているのでなおさらそう見える。一見すると線が細くて頼りなさそうだが、芯が強く苦学を重ねて弁護士になった努力家なのを私は知っている。

 岸との付き合いは、学生時代からのものである。彼が水森博士の顧問弁護士になったのも、私が博士に紹介したからだ。卒業後に進む道は大きく変わり、会う機会も少なくなったが、信頼感は今でも変わらないと思っている。

「忙しいのに悪いな。時間を取らせちまって」

 私が謝ると、岸はとんでもないと言うようにかぶりを振った。

「いや、ちょうど良かった。実はこちらの方から会えないかと思っていたところなんだ」

「そうなのか。何か用でも?」

「ルーシーのことだよ」岸は少し声を潜めるようにした。「あのアンドロイドについては君に訊くのが一番確かだからな」

「ルーシーが、どうしたんだ」

 水森博士が亡くなった今、その遺産相続の処理をするのが顧問弁護士たる岸にとっての急務のはずだが、どうしてルーシーが問題なのだろう。疑似人格を持つロボットの所有権を、遺族にどう相続させたらいいのかが分からないというわけでもないだろうに。

「実はちょっと困ったことになっている」岸は表情を曇らせた。「どうしたらいいか判断がつかないから君の意見を聞きたいんだ」

「何だか深刻そうだな」

「深刻にもなるさ。法律上、史上初の事態が発生してしまっているんだ」岸は大きく頭を横に振って、「まったく、こんなことになるとは思わなかった」

「いったい何が問題なんだ」

「水森博士の遺言状だよ。僕も中身を知らされない状態で保管していたんだが、それが今日の昼に開封された。親戚立ち合いの元でね。そうしたらその内容を聞いたとたんに大きな非難が沸き起こった。頭に血が昇り、そんな遺言は認めないと声を荒げる者も出た。それも無理はない。遺言は相当に常識外れなものだったからだ。何て書いてあったと思う?」

「見当もつかないね」

「それには財産のすべてをルーシーに相続させると記してあったんだよ」

「何だって?」私はいきなりデコピンを食らったようになって、思わず椅子から身を乗り出した。「それは本当なのか」

「ああ。都心の一等地で高層ビルを買えるくらいの金額がルーシーに渡ることになっている」

「博士の資産はそれほど莫大なものだったのか」

「だから困るんだ。遺産をもらえると思っていた親戚は、絶対に認めるはずがない。何がなんでも遺言を無効にしようとして訴え出るだろう。しゃれにならない騒動に発展するのは目に見えている」

「それは困った状況だな。しかし・・・・・・、それを外部の人間に言ってもいいのか」

「遺言には、遺言の内容はすべて公にするようにと記してあった。おそらく親戚に思い通りにさせないためだろう。マスコミに公開し、世論を味方につけるという計算なんだと思う。頭のいい人だから、それくらいの作戦は考えてもおかしくはない。しかし、どうして水森さんは、そんなにあのロボットに愛着があったんだろう。僕は不思議で仕方がない」

 興奮のためか、岸の声は自然に高くなって行った。

 その一方で、私の心は沈んでいた。哀しい思いに捉われていた、と言っていい。一つの事実に思い当たって、博士の深い想いが、想像できるような気がしたからである。ポツリと呟いた。

「ルーシーは、普通のロボットではないからだよ。細かいところまで、博士の亡くなったお嬢さんに似せて作ってあるんだ」

 今にして思えば、水森博士はルーシーの開発に並々ならぬ執念を燃やしていたのだと分かる。ルーシーの外見のモデルをどうするかという問題が出た時、博士は「似せても問題が起こらない人物にするべきだ」と言った。そしてその人物を亡くなった一人娘の瑠璃子さんに設定しようと提案したのだ。あくまでも他には迷惑がかからないように、という体裁であったため、私を含めた研究スタッフからは不審な声はあがらなかった。瑠璃子さんが亡くなったのは二十六歳の時で、遺影は若くて美しかったし、アンドロイドのモデルに相応しい、控えめで優しい雰囲気も備わっていた。反対する理由はなかった。ルーシーの名前は、その彼女の名前「瑠璃子」をもじってつけられたのである。

 そう言えば博士はルーシーの性格設定にもかなり拘っていた。機能性が犠牲になってでも、あくまでも人間らしいアンドロイドを作るというコンセプトを貫徹することを望んでいたのだ。あれは少しでも自分の娘に似せたいという考えからだったのだろうか。ルーシーが完成すると、博士は相当な金額を大学に払って彼女を買い取り自分の所有とした・・・・・・。

 岸はポカンと小さく口を開けていた。

「そんな事情があったのか」

「ああ。だが、全財産を、というのは極端だな。その遺言は法律的には有効なのかい」

「法律では、高度な知能を持ったロボットは犬や猫などのペットと同様の権利を有することになっている。四年前に成立したAIロボット法でね」

 岸は少々忌々し気だった。彼が言う法律は有名で、一般人にも良く知られていた。私は犬猫並みではまだまだ足りないと思っているのだが、世間にはその程度でもセンセーショナルだったらしい。マスコミにも大きく取り上げられて、結構な議論が沸き起こったものだ。

 岸は人権派の弁護士で、AIロボット法の成立も強く支持していただけに、それが自分の仕事に面倒を引き起こす原因となったのは複雑な気持ちがあるらしい。

「大金持ちが自分のペットの猫に全財産を残したとかいう話は聞いたことがあるだろう。この場合はそれよりも複雑なんだ。猫に財産を残したって、猫自身に財産を管理する能力があるわけじゃない。だからそういう場合には、本来財産を受け取るべき遺族がその猫の飼い主兼財産管理人になることによって、実質的な財産相続をすることができた。財産の原資たる猫を下へも置かない扱いをしながら、命が尽きるのを待つという恰好だ。ところが今回の場合は、相続するルーシーには財産の管理能力がある。人間などよりキッチリと、決して間違いを起こさないようにできるんだ。そしてペットに関する法律は、日本でも今では国際基準を採用している。つまり、法律的にはアメリカあたりで起こった大金持ちの財産相続猫と同じ状況なんだ。どう処理するべきかは難しいところだ。水森博士は僕を遺産の管財人に指定してくれたから、この難問にあたらなければならない。頭が痛いよ」

「・・・・・・で、異をとなえている親戚っていうのは、どんな人たちなんだ」

「数は多くない。水森博士の弟と、その息子と娘。それだけだ。その他の親戚は皆他界している」

「良かったら名前を教えてくれないか」

「弟の名は水森繁行。その息子である甥の名は水森明、妹は美樹。二人共独身だが、妹の方は一度結婚して離婚している。遺言状の内容に、真っ先に反対して大きな声を上げたのは甥の明だ。「そんな馬鹿な話があるか」と激高して掴みかからんばかりの勢いを見せた。彼はいささか問題のある人物でね。粗暴なところがあって、何度か喧嘩で傷害事件を起こしている。そんなこともあって職を転々として今は無職だ。妹の美樹は美容師。彼女も評判は良くない。異性関係が派手で離婚したのは彼女の浮気が原因だと言われている。彼女も不満たらたらで、キンキン声で文句を言ってきたな。二人の父で、博士の弟の繁行は右翼の活動家。いわゆる職業右翼というやつだ。頑な人物で、差別意識が強い。外国人には日本国籍を与えてはいけない。ましてやどんなに知能が発達しようともロボットに人間に近い権利を認めるなどとんでもないという意見の持ち主で、兄の久仁昭さんとは対立していたようだ。歳が行っているだけあって遺言の内容を聞いた時も落ち着いていたが、含むところはあるようで、ねっとりとした口調で遺言の実効性について質問してきた。いずれも水森博士としてはあまり財産を分けたくない相手だったのだろうが、それにしても全然やらないというのは極端だ。いったい何を考えていたんだろう。君は水森博士と関係が深いだろう。博士の考えが推察できないか」

 私は考えた。

 水森博士は賢明な人だ。おそらくこの遺言がそのまま通るとは思っていなかっただろう。博士はルーシーに人間と同様に多額の遺産を残したかったが、通常のやり方ではその遺言が実行されるかどうか疑わしいと考えたのではないか。財産の四分の一をルーシーに遺すという遺言をしたところで、なんだかんだと文句をつけられて、その金額を大幅に削られる可能性が高い。何と言っても、ルーシーには犬猫並みの権利しか認められていないのだから。しかし、最初に全財産をルーシーに遺すと言っておけば、文句をつけられた結果の妥協点が四分の一をルーシーが相続する、というところに落ち着くかもしれない。

「多分、水森博士もその遺言が全面的に通るとは思ってないんだよ。裁判沙汰になった結果、妥当な金額がルーシーに残ればいいと考えてそういう遺言にしたんじゃないかな。だから君は遺言の内容を全面的に通す必要はないと思う。ある程度の額がルーシーに渡ればそれでいいんだ。ルーシーに、財産の四分の三を放棄するようにと持ち掛けてみたらどうかな。彼女にそれを飲ませて、その妥協点をいいタイミングで遺族側に提示したら上手くまとまるかもしれない」

「なるほど。それも一つの方法か。だが、ルーシーがその条件を飲むだろうか」

「おそらく、大丈夫だと思うよ」

 私はこれには自信があった。ルーシーには自己保存の本能が組み込まれているが、それはさほど強いものではなく、人間のような物欲がある訳ではない。おそらくは、四分の一でもなお多い。自分に必要な額を上回る分はもらっても仕方がないと判断するのではないか。水森博士の財産の、百分の一くらいをもらえたらそれで充分。それを上回る分は意味がないので放棄します。といった回答が、彼女の口から発せられる気がした。普段から彼女は賢明で性格温厚であり、人間を押しのけて自己主張するのは見たことがなかった。

 その時ドアがノックされた。岸が「どうぞ」と応じると、事務服を着て眼鏡をかけた三十代女性がドアを開けて現れた。この法律事務所に勤める事務員である。

「お取込み中にすみません。若い女性の方が、・・・・・・というより、女性とそっくりな人間型ロボットの方が先生と話をしたいと言って来ているのですけど。お会いになりますか。名前は、ルーシーだそうです」

「ロボットのルーシーだって? 一人でやってきたのか」

 聞いた岸は眉をピクリと上げて訊き返した。

「はい。一人ですけど?」

 岸は私を物問いたげに見た。

 私は少し苦笑して、

「噂をすれば影という諺はロボットにも当てはまるのかな。ルーシーは人間にできることは大概できる。自分の意思で訪ねてきたくらいで驚くべきじゃないよ。しかし珍しいな。人間のように気紛れな行動はとらないはずなんだが・・・・・・。彼女の方から来てくれたのなら今の話をしてみたらいいんじゃないか」

「あ、ああ、そうだな」そして岸は事務員に向かって、「じゃあここに通してもらえるかな。丁重に扱ってください」

 そんな言葉を付け加えたのは、ルーシーがロボットであることを意識したものだろう。

 間もなくドア口に現れたルーシーは、見違えるように垢抜けた姿になっていたので驚いた。着ているのはいつもの紺のメイド服ではなく、向日葵を思わせる黄色いワンピースだ。髪型も、以前は編み込んでいたのを解いて肩に垂らしている。まるでモデルのように華やかだ。彼女はもうメイドではないのだ。

 いつものように声をかけてみた。

「こんにちは。ルーシー。いつもと服が違うのでちょっと見違えたよ」

「こんにちは。江崎さん。外出するのにメイド服では少し変かと思ったので変えてみたのですけれど、おかしいでしょうか」

「いや、似合ってるよ」

「ありがとうございます」

 ペコリと頭を下げたルーシーの微笑みは、心なし嬉しそうだった。

 岸はこのやりとりを渋い顔をして見ていた。

「ルーシーさん。よくいらっしゃいました。僕と話したいことがあるそうですが、どんな御用件でしょう」

「こんにちは。岸先生」ルーシーは律儀に岸にも頭を下げた。「水森博士の遺産相続について、相談した方がいいと思ったので来たのですわ」

「それについては僕も早く話をした方がいいと思っていたところです。水森博士の遺言内容は聞いたと思いますが、それについてあなたはどう思っているのですか」

 ルーシーは少し考えるようにして間を置いてから、

「私の身にはあまりに大きすぎる、法外な相続額だと思いましたわ。とても意外でした。水森博士の遺志は尊重したいのですけれど、この内容では良くないのではないかと考えたりもしました」

 岸はホッとしたようだった。

「あなたがそう考えていてくれて良かった。実は一つ提案があるのです。聞いてくれますか」

 私は岸の性急さがちょっと気になった。

 私たちは応接セットの椅子に座っているが、ルーシーはまだ立ったままだ。いくら疲れを知らないアンドロイドとはいっても、彼女にも座ってもらうべきではないのか。それを指摘すると、岸は初めて気がついたといった風で、

「ああ、そうか。そうですね。すみません。そこの椅子にお座り下さい」

 ルーシーは優雅な物腰しで、岸の勧めた椅子に腰を降ろした。岸と向かい合う、私のすぐ隣の席だ。

 そして岸は具体的な提案を話し始めた。内容は私の言ったのと同じで、財産の四分の三を放棄することで遺族たちと妥協を図ったらどうかというものである。

 彼女はその話に落ち着いたようすで聞き入っていた。そして話が終わると、食事を終えた貴婦人が口元を拭くような感じで品良く頷いた。

「そのような提案をされるだろうと思っていましたわ」

 私は当然ルーシーはその提案を受け入れるものと思った。しかし次の瞬間彼女の口からは、別の答えが発せられたのである。

 穏やかだが、機械らしい妥協の無さが含まれた口調で、

「常識的にはそれが妥当なのだと思います。でも、その提案はお受けできません」

 私は驚いて問い返さないではいられなかった。

「ルーシー、どうしてだ。こんな額の金は、君には意味のないものだろうに・・・・・・」そして気がついた。ルーシーは逆に、四分の一でもいらないと言おうとしているのではないかと。相続を全部放棄すると言うつもりなのでは。その意思表示をしたかったのだとすると、わざわざ岸を訪ねて来たのも納得がいく。「君は、相続のすべてを放棄するつもりなのか。しかし、それはいけない。水森博士の遺志を尊重するためにも、一部はもらっておくべきた」

「いいえ」ルーシーはゆっくりと水平に首を回して私を見た。「そうではありませんわ。お心遣いはありがたいのですけれど、それは無用です。私は財産の相続を、放棄すると言っているのではありませんから。遺言の通りにいたします」

「親戚たちの反対を押し切って遺産のすべてを受け取るというのか」

「はい」

「だが、それは・・・・・・、世間から非難をうけることになるかもしれない。ロボットには人間のような権利を認めるべきではないという意見の人はまだまだ多い。遺産を相続するつもりだった親戚からは憎まれるだろうし。マスコミに報道されれば、君に危害を加えようとする者が出てくる可能性もある。私は今はまだ、そういう行動をとるべき時代ではないと思う。人工知能ロボット全体の将来のためにも、常識に即した行動をとるべきだと思うんだが・・・・・・」

「お心遣いありがとうございます。ですが、私の決心は変わりません。ロボットの未来のためではなく、亡くなった水森博士のためにそうしたいと思うのですから」

「博士の遺志を継ぐためかい。しかし、博士が本当に全財産を君に遺そうと思っていたかどうかは・・・・・・」

「そうではないんです。私が考えているのは、水森博士がどうして亡くなったのかという点についてなのです」ルーシーは細く綺麗な眉をひそませ、切なげな顔をした。「警察では、博士は殺害されたと見ていると知りました。私が事件の状況を考えてみても、その可能性は非常に高いと思います。そして。警察では、水森博士の遺産を相続するべき親戚の人の中に犯人がいると思っているようなのです。こういう状況で、親戚の方に博士の遺産を渡すことができるでしょうか。犯人に、博士の大事な財産を、自由にさせることができるでしょうか。私には、それは正しくない。あってはいけないことのように思えます。犯人ではないと分かっている方に対してでなければ、博士の遺産をお渡しするわけにはいかないのです。私はお金に執着してはいません。真犯人が分かった後になら、相続を放棄してもいいと考えています。ですが、今はまだその条件が整っていません。だからとりあえずは、遺産を私の元に留めておく他はないと判断したのです」

「つまり、相続の放棄自体には、反対ではないということですね」岸は難しい顔になっていた。法律家らしく、ルーシーの言い分を吟味しているようすだ。「しかし、そのような条件だと、永遠に財産を自分の手元に置いておかなければならなくなる可能性がある。もし犯人が判明しなかったらどうするつもりなのですか」

「そうはさせないつもりです」ルーシーは毅然として答えた。「もし警察が犯人を逮捕できないようでしたら、私が代わりに犯人をつきとめようと思っていますから」

 その時私は大きく目を見張っていただろう。これこそが本当の驚きだった。

「君は、探偵になって水森博士を殺した犯人を突き止めるつもりだと言うのか」

「はい」ルーシーの答えには、ためらいがなかった。凛として決意を表明していたと言っていい。「江崎さん。おかしいですか。最近の水森博士を最もよく知っているのは私です。親戚の方もよく知っています。生きている水森博士と最後に会ったのも、犯人を除けば多分私でしょう。事件についての情報を、最も多く持っているのです。そして私には人間を上回る記憶力と理論的思考力があります。口はばったい言い方ですが、私以上にこの役に適した者はいないように思われるのです。私には水森博士の無念を晴らしたいという気持ちがあります。人間のように深く豊かな感情ではないでしょうが、そういう気持ちがある以上、それに従って行動すべきだと思うのです。この行動は倫理にも法律にも抵触しません。逆に倫理や法律を正しくしようとする試みなのですから、行動するのをためらう理由はないのです」

「君は・・・・・・」

 私は言葉を失った。何と言ったらいいか分からなかった。ただ一つ言えるのは、ルーシーの自己学習する人工知能は、私の想像を越えた成長をしているらしいということだった。ルーシーの言う感情とやらが人間と同列に並べられるものかどうかは分からないが、人工知能自身が感情らしきものを持ち始めていると自分で認識している、というだけでも驚異だ。近年は人工知能が疑似人格を持つのは普通のことになったが、人間同様の感情を獲得したという報告は、まだ世界的にもされた例がない。

 私は漠然とした不安を感じた。ルーシーにとってはこれは大きな成長だが、このことが彼女の未来に良い結果をもたらすとは限らない。むしろ危うさを含んでいるのではないか。彼女の知能回路を精査してみる必要を感じた。「ルーシー。君がそんな行動をとれるほど成長していると言うなら、君の人工知能を調べさせてもらえないだろうか。研究者としても興味深いし、点検はしておいた方がいい」

「ええ。私もお願いしようかと思っていました。いやしくも犯罪の捜査をしようとするのなら、まず自分が完全な状態にあるのを確認するべきですわね」

 ルーシーは態度を軟化させ、素直に従うようすを見せた。だが、法律家の岸は技術的なことには興味がないようで、

「しかし、あなたが捜査に乗り出したからと言って犯人を指摘できるとは限らないですよね。犯人が判明しなければどうするかという問題は残っている。何年も犯人が分からなかったらどうするつもりですか」

「ある程度の猶予期間をいただけたらいいと思うのです。おそらく私の捜査には長い時間は要しません。多くの情報を処理できる私には、人間のように考えるのに時間はかかりませんから。とりあえずは一カ月。どんなに長くても一年。それ以上の時間をとっても意味は無いでしょう。私の捜査はそれで終了です。その時点で犯人が分からなければ相続した財産は手放すことにします。常識的な判断に従って親戚の方々にお渡しすることになるでしょう。ただ、犯人である可能性が極めて高いと分かっていても決定的な証拠が掴めないから逮捕には至らない。という人物がいた場合にどうするかについては、改めて考えることになるでしょうが」

「捜査の結果アリバイが証明された人がいたら、その人には財産を早めに譲渡してもいいのではないですか」岸は視線を斜め上にやって記憶の糸をたぐっている風だった。「そういう人ならもうすでに一人は分かっていると思いますよ。水森博士の甥の明さんにはおそらくアリバイがあります。水森博士が亡くなった日の午後一時に、この事務所に顔を出していましたから。博士が亡くなられた推定時刻は丁度その頃だったはずです。ここから事件現場の崖まではどう頑張っても三十分以上はかかるし、明さんはこの事務所に三十分くらいいた。アリバイは成立しているんじゃないかな」

 それが分かっているのなら、もっと早く言ってくれればよかったのに。私は少々いまいましい気分になって、

「その明さんは、いったいどんな用があって来ていたんだ?」

「あ、ああ。ちょっとした法律上の相談だよ。守秘義務があるので具体的なことは言えないが」

 私は岸の口振りから、その内容は例の粗暴な性格が引き起こしたトラブルの一つについてだったのではないかと類推した。

「その時、明さんはどんなようすでしたの」

 優しく生徒に問いかける小学校の先生のようにルーシーが微笑む。

「特に変わりはなかった。明さんはもっと話をしたいようすだったが、あいにく他にも会わなけれはいけない人があったので時間をさけなかった」

「その会見は、事前に予定されていたものなのかしら」

 ルーシーはさらに質問を重ねる。私は気づいた。彼女は、探偵としての仕事をもう始めている。感情に左右されず完璧に穏やかで優しい口調で質問できる彼女は、調査者としての資質に恵まれていた。

「前日に電話で予約されたものでしたね」

 岸も私と同じことを思ったのだろう。少々居心地悪そうだった。

「そうですか」

「僕の質問にも答えてくれないですか。アリバイがあると分かった人に財産を早く譲渡するつもりがあるのかどうかについて」

「それに関しては不平等感が出ないように、他の人と同じタイミングで譲渡するのがいいと思いますわ。アリバイがあっても、それが完璧かどうかを検討する時間は必要ですし。・・・・・・他にご質問はあるでしょうか? 無ければ私の要件はもう終わりですけれど」ルーシーは岸が質問を発しないのを見ると、再び私に視線を向けて、「江崎さん。できるだけ早く私の人工知能を精査してほしいのですが、いつがよろしいかしら」

「すぐにという訳にはいかないね。明日の午前中なら大学の研究室の機器が使える。来てくれれば歓迎するよ」

「分かりました。それでは午前九時に伺います。それでは岸先生。相手をして下さってありがとうございました」

 ルーシーは丁重に挨拶してから席を立った。

 彼女が去ってしまった後も、その場には微妙な空気感が残った。

 気を取り直したように岸がつぶやく。

「驚いたねどうも。人工知能ロボットの探偵さんか」

「だが、言っていることには一理ある。人工知能は基本的に理論で動く。彼女がこういう行動に出てもおかしくはないのかも知れない・・・・・」

「君はどう思う? ロボット研究者としての立場から見て、あのロボットには殺人事件を捜査する能力があるだろうか。警察の先を行って犯人を突き止める可能性はあるのか」

「知的能力が高いのは事実だが、難しいだろうな。能力面に限らず、彼女にはまだ超えるべき問題が多くある。とりあえず研究対象として興味深い成長をとげているとは言えるが・・・・・・」

 私の胸に兆した漠然とした不安はいつまでも消えなかった。

 

                   Ⅲ

 

 ルーシーは約束の午前九時きっかりにやってきた。前日と同じ、華やかな黄色いワンピース姿である。彼女の突然の訪問に、その場にいた研究員たちは驚いたようすだったが、私はそれには構わずすぐに検査を開始した。他の研究員にも協力してもらってルーシーの人工知能に大学研究室の検査用コンピューターを繋ぎ、膨大な量のデータと照らし合わせて作動状態をチェックする。結果はすべて異常なし。彼女は完璧な状態で、自ら成長を遂げていると分かった。その結果を話すと、ルーシーはホッとしたようすだった。自分でも自分の頭脳に狂いが生じ始めているのではないかと不安を感じていたのだろうか。

「事件の状況からすると、まず私の状態に狂いがないのかを確かめるべきだと思いましたので。犯人が私の人工知能に悪性のウイルスを侵入させて倫理基準を狂わせて殺人行わせる、などといった可能性を消去しておく必要があったのです」

 私はルーシーの用心深さに呆れる思いがした。

「そんなことは百パーセントありえないよ。君の人工知能は外部からは操作できないし、ロボット倫理の原則は何があっても揺るがない」

 人工知能ロボットの倫理は、現在でも二十世紀にSF小説の中で考えられたロボット三原則が基礎となっている。次のようなものだ。

第一条。ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって人間に危害を及ぼしてはならない。

 第二条。ロボットは人間に与えられた命令には服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。

 第三条。ロボットは第一条、第二条に反する恐れのないかぎり、自己を守らねばならない。

 今の感覚で見ればロボットの人格権が考慮されていない条項であり、現在では「人間に与えられた命令には服従しなければならない」という部分については緩和されている。人間と同レベルの高い知能を持ったロボットはすべての人間に無条件に従う必要はなく、自己保存の権利や法律道徳に従って命令を拒否する自由を有するのだ。だからこそルーシーは財産相続放棄の提案を拒否することができたし、法律に反した犯人を捜査することもできる。

 ただし、人間に危害を加えてはいけないという部分は今でも絶対である。当然その究極たる殺人は最大のタブーだ。この原則を完全に守るべく、人工知能には様々なガード機能が組み込まている。外部からの操作など、できるはずがないのだ。

「それを聞いて安心しましたわ」

 私はルーシーの安堵の表情をしげしげと見た。この程度のことはルーシーだって知っているはずなので、社交辞令的な発言もできるようになったのかと訝ったのだ。しかし完全制御された彼女の表情に綻びなどはあるはずがなかった。

「ところで、これからどうするつもりかね」

「もう用は終わったので帰りますわ」

 どうやって帰るのかと訊いてみると、「電車で」とのことだった。ロボットの彼女が電車を利用するのは奇妙な感じだが、乗れないことはない。犬猫同様の扱いになるだけだ。それよりも、最寄り駅から邸まで歩くのに時間がかかりそうである。私は「車で送ろうか」と提案してみた。別にレディーファーストを発揮したのではない。彼女の行動を少し観察してみたくなっただけだ。いったいどうやって事件の捜査を始めようというのか。

 彼女は提案を受け入れてくれた。そして私の車の助手席に行儀良く座ると、走行する間は電力節約モードになって、ほとんど動作を停止していたのである。

 話しかけても簡単な答えしか返ってこない。まるでマネキン人形を横に乗せているような不思議な感覚だった。

 郊外から海方行へと四十分ほど車を走らせて、水森博士の邸がある小ぶりな岬の付け根の部分に着く。上空から見下ろすと優勝カップを横から見たような地形をしている岬の地面は奥へ向かって小山を成して盛り上がっており、小山を越えた向こうの断崖沿いに邸はあった。岬全体が私有地であり、邸まで続く道は一本のみである。岬が丸ごと個人の所有というと大変な資産のようだが、斜面ばかりでほとんどは利用出来ない土地であり、地価はタダみたいなものだろう。

 私有地へと入る道の入り口手前には畑が広がっていた。

 ルーシーはそこでようやく通常モードに戻った。

 まるで午睡から覚めた人のように首を起こし加減にして、「ありがとうございます」と礼を言って車を降りる意思表示をしたが、私は構わず邸へ続く道へと車を入らせた。

「遠慮することはない。邸まで乗せて行くよ」

 小山を回り込んで登って行く道は眺めが良かった。木々の間から見える海原が、鱗のように陽を反射して美しい。小山の向こうには猫の額ほどの平地があって、そこに建っている邸は瀟洒な洋館風の造りだ。博士が買い上げる前は、不動産会社の経営者が所有する別荘だったと聞いている。私は玄関前の駐車場に車を停めた。

 そこからは海が一望できた。綺麗な芝生の庭があり、崖の傍には屋根のついた簡易な休息所がある。そこにはベンチが設置してあって、屋根は四本の鉄柱で支えられていた。

「ここはいつ来ても眺めがいいね」私がつぶやくと、

「よかったら少し寄っていきません?」ルーシーも軽い調子で言葉を返した。

 もとよりそれは私の望むところだった。ルーシーの行動を観察したかったし、事件当日には立ち入り禁止になっていて見れなかった水森博士の死亡現場を、一度しっかりと見ておきたいという気持ちもあった。

 その希望を言うと、ルーシーはその地点を見降ろせる場所へと私を案内してくれた。博士が転落した断崖は、見降ろすのも躊躇われるばかりの恐ろしいものだった。高所恐怖症の気がある私は足が竦んだ。そしてその後は、海を眺めるように設置された休息所のベンチに並んで腰掛けたのである。

 気温は高かったが、海から吹き上げて来る風が涼しくて過ごしやすかった。想いはどうしても事件の方に行く。

「君は、どう考えているんだ。博士が転落死した事件について。博士は本当に殺されたのだろうか」

「水森博士は、亡くなる前日まで変わったようすは一切ありませんでした。自殺したとは考えられません。石橋を叩いて渡るように慎重な人でしたので、事故だった可能性もゼロに近いのではないでしょうか。私は殺害されたのだと考えています。事件に関するデータを収集してみると、それを示唆すると思える点がいくつかありました。この事件は、事故や自殺だとしたら奇妙過ぎるのです。どうしても他者の手が加わっているとしか思えない部分があって、そしてそれらの多くは理由が不明なのです。だからこそ、説明がついた時には解決につながるかもしれないと思って考えているのですけれど」

「その内容は教えてくれるわけにはいかないんだろうね」

「教えろと命じて下されば教えますわ。江崎さんは水森博士が最も信頼していたお弟子さんですもの。当然私も信頼しています」

 ルーシーはそう言って少し悪戯っぽい顔をした。まるで駆け引きを覚えたばかりの少女のように。

 私は少しおどけるようにして、

「頼む。教えてくれないか」

「はい。事件の疑問は、まず犯人はどうやってこの現場にやってきたのかという点があげられます。検視の結果分かった犯行時間は午後一時から二時までの間なのですが、その時刻には犯人はこの邸に続く一本道を通っていなかったのが分かっているのです。私有地である岬の入り口すぐ外には畑があって、そこでは農家の人たちが作業をしていたのですわ。午後十二時半から三時までの間です。農家の方々は、その間この邸に続く道に入った人や車はなかったと証言しています。もちろん犯人がそれより早くこの現場にやって来て、午後三時以降に立ち去ったという可能性はありますけど、どうにも不自然です。そして道を通らなければ崖沿いの険しい場所を無理して歩いて行き来するしかなく、そんなことをしたとも思えないのです。この状況を説明する簡単な方法は、「現場にいたロボットが水森博士殺害した」というものでした。私が殺人を行ったとすれば現場に来る人も去る人もいなくて当たり前なのです」

 ルーシーは一切の感情表現をせず、極めて事務的にこれを語った。

「だから君は自分の人工知能を検査してくれと言ってきたんだね」

「私には動機もあります。水森博士の遺産を相続できる立場にいるのですから。ロボットの倫理基準に詳しくない人なら、真っ先に私が遺産を得るために博士を殺したと疑うところでしょう。私も自分を疑いました。ひょっとしたら私は人工知能が故障して、倫理基準が狂っていたのかと。そしてもし私が殺人を犯したのなら、私の記憶を奪ったのは江崎さんかもしれないと考えたりもしました。この邸を訪れる方の中で、私が殺人を犯して困るのは江崎さんくらいですから。ロボットが人を殺したとなれば、私の開発に携わった研究者が批判を受けます。そんな状況は避けたいでしょう。でもこの仮説は違っていたようです」

 私は舌を巻く思いだった。ルーシーは、こちらが思っている以上に頭がいい。私は知らぬ間に彼女から観察されていたのだ。

「事件の疑問点は他にもあります。水森博士が乗っていた電動車椅子についてです。博士が自分で操作して移動できる物なのですが、その椅子の背にあたる金属パイプ部分に、ロープが接続してありました。ロープの両端に登山用の完全固定金具がついているものです。それ自体はおかしなことではありません。そういったロープは博士が以前から使っていて、用心深い博士は崖の近くに行く時にはそのロープのもう一方の端を私たちが今いる休息所の鉄柱に固定して、それから崖に近づくのが常だったからです。万が一の転落防止のためですね。博士は、崖の淵から海を眺めるのが好きだったのです。そのロープの長さは私の記憶では六メートルでした。この休息所から断崖までの距離が六メートルなので、それ以上の長さは必要ないのです。ところが崖下で亡くなった博士が乗っていた電動車椅子の背に固定されていたロープの長さは、警察の調査によると八メートルだったのです。いつの間にかロープの長さが二メートル延びてしまった。そんなことはあり得ないので誰かがロープを別のものに取り替えたということになるのですが、いったいどうしてそんなことをしたのでしょう。元々使われていた六メートルのロープはほとんど新品で、痛んだから取り替えたということは考えづらいのですが。もう一つ奇妙なのは、電動車椅子の背の金属パイプに、巾着袋が結び付けてあったことです。その袋の中には青銅で出来た骨董品の仏像が入っていたそうです。大きさは三十センチくらいで、それなりの重さもあるものです。ですが、私はそんなものに見覚えがないのです。水森博士は宗教心か薄く、骨董にも興味がありませんでした。仏像などは持っていなかったと思います」

「すると、それは犯人が持って来て車椅子に結び付けたということなのかな。仏と一緒にあの世へ行けとでも言うつもりなんだろうか」

「分かりません。実は一つだけそれらを説明できる仮説を思いついたのですが、それはもっと後で話したいと思います。それまでは江崎さんもお考えになってください」

「気を持たせるね」

「事件の概要を、もう少し話してからの方が分かりやすいと思いますので」

「分かった。話を続けてくれ」

「はい。もう一つどうしても考えなくてはならないのは、この崖上に倒れていた私のバッテリーがどういう経緯で切れたのか。ということです。私は、この休息所のすぐ前に、うつ伏せになって倒れていました。頭を海の方に、足を邸の方に向けて、両手は海の方へと伸ばしていたそうです。よろしければ、今その状態を再現してみましょうか」

「いや、その必要はないよ」

「その体勢は、少し変かもしれません。どうして両手を頭上に伸ばしていたのか」

「水森博士が崖から突き落とされようとしているのを見て、助けようと手を伸ばして駆け寄ろうとしたところで電源が切れて前のめりに倒れたとは考えられないかな」

「それも一つの考え方ですわね」

 ルーシーは私の説明に納得してはいないようだった。しかし、それには触れずに話を続ける。

「私の電源についてもお話ししましょう。私はバッテリーの作動可能時間が残り十分になったら充電する習慣になっていました。水森博士は合理的な方で、「ギリギリまで電源が減ってから充電した方がバッテリーが痛まないからそのようにしなさい」とおっしゃっていましたので、それに従っていたのです。事件前日の午後十二時にはまだ十時間近くの残量があったはずです」

「そうすると、事件の日の午前十時前にはバッテリーが切れたということなのかい」

「いえ、深夜には電力節約モードに切り替えますし、力仕事をした時などには電力の消費が早くなるのでいつ電源が切れるかははっきりとしたことは言えません」

「そうだったね」

「問題は、どうして私は充電をせず、バッテリーが切れるまでこの場所にいたのかということです。私はやるべきことを忘れるということはないので、充電をしなかったのにはそれ相応の理由があったはずなのですが。そのことと事件との間につながりがあるのかどうか。もし仮に私が事件とは関係なく何らかの理由で充電をしないでいて、そして電源が切れる直前に犯人を目撃したのだとすると、あまりに偶然が過ぎるような気がするのです。そしてそうではないとすると、犯人は私の電源が切れるのを待っていたことになってしまいます。どちらにしても不合理感は残ります」

「そもそも君が充電をしないのには、どんな理由が考えられるのかな」

「水森博士にそう命じられたか、あるいは充電を後回しにしなければならないほどの緊急事態が起こったか、物理的に動きを止められていたか。この三つの場合が考えられます」

「どれも余りありそうにない可能性だね」

「水森博士に命じられていた、というのが常識的な説明かとは思うのですけれど、博士がそうする理由は分からないんです」

 ルーシーは海を見やった。いや、水森博士の亡くなった断崖の方行を見たのかもしれない。彼女が水森博士について話す時、顔には微妙な翳りが差す。

「さきほども言いましたが、犯行推定時刻は午後一時から二時の間でした。私はその間の親戚の方々のアリバイについても調べてみました。まず甥の明さんなのですが、岸先生も言われていた通り、彼にはアリバイが成立するようです。午後一時から一時半までの間、岸先生の弁護士事務所にいたのですから。そのすぐ後にも友人と会っていて、午後三時までは犯行現場へ行くことができませんでした。次に姪の美樹さんですが、彼女にはアリバイがありません。美容院の勤務日だったのですが、風邪で熱を出したと職場に連絡して仕事を休んでいたのです。その父で、博士の弟の繁行さんも一日家にいたのでアリバイはなしです。ただ繁行さんについては、一つ気になる情報があります。彼は密教系の宗教団体の熱心な信者だということです。そして水森博士の電動車椅子に袋に入れて結び付けてあったのは、密教系の仏像だったのです。一つの体に顔が三つと腕が八本ついている珍しいものでした。だからと言って容疑をかけるのも性急かとは思いますが。犯人が繁行さんに容疑をかけようとした可能性もあるかと思われます」

「しかし明さんが犯人でないとしたら、一番容疑が濃いのは繁行さんだということにはならないかい」

「犯行は、女性でも充分に行えるものでした。繁行さんだけを容疑が濃いと言う理由はないと思います」

「それはそうだが・・・・・・」

 私はルーシーの話にいささか疑問を感じていた。どうして彼女はこんなに詳しく事件について知っているのだろう。

「それにしても短期間にずいぶん詳しく調べたものだな。まさか警察内部のコンピューターにアクセスして情報を得たんじゃあないだろうね」

 ルーシーはそれには答えなかった。そのかわり、子猫が穴を覗き込むような顔つきになって、

「これらの情報から、私が類推した事件の真相をお聞きになりたいですか?」

「真相が、分かったって言うのか」

「そうは言えません。ジグソーパズルを嵌めるように、これらのパーツを繋ぎ合わせて説明をつけることができたというだけです」

「それでも大したものだろう」私はルーシーの言い分を信じてはいなかった。いかに人工知能が人間を超える能力を持ちつつあるとは言っても、そんなに簡単に行くものだろうか。計算能力が高いだけに、必要以上にひねくり回した解釈をしているのではないかという気がした。「それが本当なら、ぜひ聞きたいものだが」

「分かりました」ルーシーは注文を承ったウェイトレスのように頭を下げた。「私が推測した事件の真相は簡単です。まず犯人が事件当日の午後十二時半から三時までの間に事件現場へと続く道を通らなかったのは何故かという疑問の答えですが、それはやはり、その間犯人は事件現場にいなかったからだと考えられます」

「それはおかしいね。事件の現場にいなくてどうして博士を崖から突き落とせるんだ」

「それは、その時事件の現場にいたロボット。つまり私にその役をやらせたからではないでしょうか」

「何を言うんだ。それはさっき否定したばかりじゃないか。君が殺人を犯せないのは分かっている」

 ルーシーは何とも微妙な表情を浮かべていた。困ったような居心地が悪いような、べそをかく寸前の子供のような。どういう表情を作ったらいいのか分からないでいるようだ。

「そうではないんです。残念なことですが。私は人を殺めることはできません。ですが、死に瀕している人を助けることはできます。そして命を助けることができるのなら、それは殺すことができるのと同じことなのです」

「何を言っているのか分からないよ」

「すみません。犯行がどのように行われたのかを説明いたします。犯人はおそらく午前中に、水森博士を断崖へと誘ったのでしょう。「眺めのいいところで話しましょう」とでも言って。電動車椅子に乗っている博士はいつものように固定金具のついたロープを電動車椅子と休息所の鉄柱に固定してから崖へと近づきました。ところがそのロープは、犯人の手によっていつもより長いものにすり替えられていたのです。そして犯人は博士を崖から突き落としました。博士はロープで繋がれている電動車椅子ごと崖に宙吊りになります。博士は何事もキチンとするたちで、電動車椅子に乗る時にはシートベルトをしっかり装着するのが常でした。だから宙吊りになっても椅子から落ちることはなかったでしょう。そうしておいて犯人は邸内にいた私を呼びます。「水森博士が崖から落ちて宙吊りになってしまった。自分の力では引っ張り上げられないから君も協力してくれ」と。私はもちろんそれに従います。しかし私がその現場へ行って水森博士を繋いだロープを持ち上げた時、犯人は柱に固定してあったロープを外してしまったのではないでしょうか。そしてその状況を私に知らせます。私が手を離したら、水森博士は崖下に落ちてしまうと。しかし私には博士を崖の上に引っ張り上げるだけの力はありませんでした。犯人が電動車椅子の背に銅製の仏像を結び付けて、私の引っ張る力とロープに吊り下がった博士らの重さが釣り合うように調整していたからです。私は博士を危機から救うことができず、そのままの体勢を維持することしかできなくなりました。犯人はそうしておいて、この現場を立ち去ったのです。自分のアリバイを作るために。おそらく数時間後、私の電源は尽き、私が動きを停止するのと同時に博士は崖下に落下しました。私は体から力が抜ける瞬間にその力に引かれ、手を崖の方へ向ける形で前のめりに倒れたのではないでしょうか。犯人はその後でこの現場に戻ってきて、私の記憶を奪ったのでしょう」

 私はようやくルーシーが言っていた意味を理解できた。「命を助けることができるのなら、殺すことができるのと同じ」ルーシーは、「自分は人の命を助けようとすることにより、殺害時間を後にずらすことができる」と言っていたのだ。結果的にその行為は、犯人を助ける共犯者と同じになってしまう。

 本当に、そんな犯行が行われたのだろうか。私はルーシーの説に齟齬がないかどうかを考えてみた。しかし、これといった矛盾点は見つけられなかった。ロープが長いものに取り替えられていた疑問と電動車椅子に仏像が結び付けられていた疑問、バッテリー切れの疑問にも答えている。いささか出来過ぎた話という感じはするが、考慮に値する説だと思えた。

 そして、もし本当にそのような犯行が行われたのだとしたら、なんという卑劣な犯人だ。と思わずにはいられなかった。敬愛する博士を全力で支え続けたルーシーは、その間どんな気持ちだったのだろう。ロボットにとって人命救助は何より優先するので、それ以外のことにエネルギーは割けない。犯人に利することになると分かっていても、電源の最後の一雫まで、博士を支えるために使わざるを得なかったはずだ。どんなに僅かな可能性であっても、偶然助けがくるのを待つしかない。そして宙吊りにされた博士は、その間にいったいどれだけの恐怖を感じていたことか。

 そして同時に気がついた。この説がもしも正しいとしたら、犯人が誰なのかは、明らかではないかと。

「君は、犯人は甥の明さんだと見ているんだね。この仮説が正しいとしたら、犯人はアリバイを用意していたはずだ」

「犯人を証明する証拠は何もありません。崖にロープが擦った跡がないかどうかも見てみたのですが、地盤が固くて見つけられません。本格的な科学捜査をすれば分かるかもしれないと思って警察の方々にも頼んだのですけれど、本気で取り合ってはもらえませんでした。ですから、警察を動かすためにも人間の方に協力して欲しいのです。どうしてもロボットだけの意見では、軽んじられてしまいますので。だから江崎さんにお話ししました。協力して頂けますか?」

「ああ。もちろんだ。君の説は詳しく捜査するべき有力なものだと思うよ」

 力強く私が言うと、ルーシーは弱々しく微笑んだ。

「良かった」ルーシーは立ち上がった。海からの風に、本物の人間よりも柔らかい、長い人工髪をなびかせながら。彼女は亡くなった水森博士の一人娘の瑠璃子さんとそっくりだが、ほんの少しだけ本物より美しく作られている。「もう邸の中に入りませんか。美味しい紅茶をご馳走しますわ」

 

 ルーシーは私の好みをよく知っていた。紅茶はダージリンで、角砂糖は一つ。かき混ぜずに飲んで最後に残った仄かな甘みを愉しむ。

 私たちは応接間の応接セットに腰を落ち着けた。事件の当日に、私が刑事たちに頼まれてルーシーを起動させた部屋だ。あの日とは逆に私がソファーに座り、ルーシーはテーブルを挟んで向かい合う椅子に座る。

 お茶を飲めないルーシーは自分の前にもティーカップを置いて、ティータイムに付き合う風を装った。英国風の華奢で優雅なティーカップには、蔦のような模様が入っている。それを鑑賞するように眺めたり、カップを持ち上げて口元に持って行ったりした。

「無理してお茶を飲むふりをすることはないよ。自由にしていたまえ」

「すみません。水森博士はお茶を囲んでいる雰囲気がお好きでしたので、私もこのようにするのが習慣になっているのです」

 ルーシーはティーカップをゆっくりとソーサーの上に置いた。

「君は本当に水森博士を敬愛していたんだね」

「博士も私を大事にしてくださいました」

「だろうね。分かるよ・・・・・・」

 私は紅茶の最後の一口をしみじみと味わった。

「おかわりはいかがですか」

「いや、もう充分だ。美味しかったよ」

 するとルーシーはうつむき加減にして、おずおずと話し始めた。

「それなら良かったです。江崎さん。紅茶を飲み終わったのでしたら、聞いていただけますか。また事件のことで申し訳ないのですが、私はつい今しがた犯人を示す証拠を掴んだように思うのです」

 ルーシーは寛ぐためのティータイムには難しい話をしてはいけないとでも思っていたのだろうか。それにしても、いったい何を言い出そうというのか。

「・・・・・・しかし、君はただお茶を淹れてくれただけじゃないか」

「いえ、その前にポットに湯を沸かすための水を汲んできました。その時に、考えたのです。もし私の推測が当たっていて、犯人の計略に嵌って水森博士をロープで支え続けなければならない状況に陥っていたのだとしたら、私はその時にどうしただろうと。もちろん博士を支えるために全力を尽くさなければなりません。身動きはまったくできなかったでしょう。でも、犯人の計画は推測できたはずです。この事態がこの後どのように進行し、犯人がどのような行動をとるのかは分かりました。ですが、分かっていても私にそれを止めるすべはありません。水森博士の命を救うこともできず、犯人の奸計を阻止することもできない。もしも私に人間のように豊かな感情があったら、無念さに歯噛みする思いだったでしょう。そう考えていたら気づいたのです。私は歯で自分の口の中を噛むことができる。口の中を噛んで傷つけることにより、メッセージを残すことは可能だったかもしれないと。犯行方法か、もしくは犯人の名前くらいなら、記することはできたのではないでしょうか。私はそれに気づくと洗面台へ行って自分の口の中を鏡に映して見てみました。そうしたら、あったのです。上唇の裏に歯で噛んだような不規則な傷の列が。私はどうやら電源が切れる前に上唇を歯で噛んで、モールス信号の方式でメッセージを残していたようです」

 ルーシーはゆっくりと両手の指で自分の上唇をつまんで、それをペロンと捲って見せた。

 確かに、柔らかい合成ゴム製の裏唇に、噛んだような傷が一列に並んでいた。傷は点のように短いものと線のように長いものがあり、意図的に噛み分けたとしか思えない言語的な規則性を示していた。

 ルーシーには人間のように敏感な体感センサーはついていない。だから見えない場所にある傷に自分で気づくのは難しいのだ。意図的に調べてみるまでは分からなかったのだろう。

「ルーシー、まったく君には驚かされるよ」私の声は興奮に掠れた。「それで、そこには何と書いてあるんだ?」

 ルーシーは唇を元に戻すと、躊躇うように間を置いてから口を開いた。

「はい。モールス信号を変換した文字は、『ハンニンハ キシタクミ』です」

「何だって。キシタクミ? それは間違いないのか」

 岸匠は、水森博士の顧問弁護士であり私の親友でもある岸のフルネームだ。

「間違いはありません」

「そんなはずは無いだろう。どうして岸が水森博士を殺さなければならないんだ」

「岸さんは、水森博士の姪の美樹さんと親しいのです。結婚の約束ができているのだとすれば、遺産の相続が動機になるかもしれません。いずれにしても、私は見つかった証拠に基づいて判断するよりありません。私は弁護士の岸さんを、殺人者として告発いたします」

 ルーシーは真摯にまなじりを引き締めて、真っすぐに私の目を見つめた。

 

                   Ⅳ

 

 ルーシーの告発は事件の捜査に大きな波紋を投げかけた。何と言っても犯人の名を示す証拠を提示できたのだ。警察も無視を決め込むことなどできはしない。私が彼女を全力で擁護したことも、彼らを動かす一助となったようだ。

 警察は岸を容疑者と目した捜査を開始して、そして容疑を固める証拠をいくつも掴んだ。

 道路に設置されている自動車ナンバー自動読み取り装置を解析して犯行当日に岸の車が水森博士邸の方へと向かっていたのを発見した他、水森博士の電動車椅子に結び付けられていた仏像は岸が一カ月前に古物商から買い取ったものだという事実も突き止めた。水森博士の姪の美樹さんとの関係も、婚約者同然のものだったと分かった。だが美樹さんは岸の犯行には関わっていなかったようだ。もし岸の計画を知っていたら、犯行が実行された日に仕事を休んでアリバイを無くすようなことをするはずが無いからである。一方岸の方は、勤務日だから彼女は当然出勤するものと思って安心していたらしい。

 ルーシーからの告発を受けた岸の取り乱し方は醜かった。「ロボットなどに何が分かる」と声を荒げ、警察の取り調べにも慌てふためいて犯人にしか知り得ない言葉を発したりもしたらしい。結局それが逮捕の決め手となった。彼の有罪はもう動かないだろう。

 それらの成り行きを見ていた私は哀しかった。岸のことは自分を律して努力を重ねる立派な男だと信じていたのだが、そうではなかったと分かってしまったのだから。

 事件が一段落すると、私はおりを見て再びルーシーの元を訪れた。ルーシーは水森博士の邸を綺麗に掃除して、引っ越しの用意を整えているところだった。

「立派な邸なのに使わないのか。もったいないね」

 応接間でルーシーが淹れてくれた紅茶を飲みながら私が言うと、向かいの席にいるルーシーはあっさりとしたようすで、

「ロボットの私には必要ないですから」

「博士から相続した財産は、もう親戚の人たちに譲ることに決めたんだったね」

「はい。親戚の方々と協議して、私自身が誰の所有にもならない権利と、あと博士の財産の百分の一にあたる金額だけは頂きましたが。私にとっては、それだけでも過分なものです」

 肩の荷を降ろしたルーシーは晴れやかな表情を見せた。

「そうか」

 それとは逆に、私の心は重くなるばかりだった。私には一つだけ、やらなければならない仕事が残っていたのである。いつまでも先延ばしにはできない。ここまで延ばしただけでも、遅すぎたくらいなのだ。

 私は紅茶の残りを一気に飲み干すと、思いきって切り出した。

「ルーシー。君に話さなければならないことがある。心して聞いてくれ」

「はい」

 ルーシーは私の態度で察するものがあったようだ。先生の訓示を待つ小学生のように、キチンと椅子の中で居ずまいを正した。賢明な彼女は私の要件を予想していたのだろうか。

 どう言ったらいいか分からなかった。言葉を飾ることなどできない。単刀直入に言うしかなかった。

「はっきり言おう。私は君を廃棄しなければならない。理由は、君が水森博士を殺した犯人を、告発したからだ」

「はい」

 ルーシーは、何の反応も示さなかった。

 かえって私の方が戸惑って、口調が乱れがちになる。

「・・・・・・私は君が水森博士の殺害事件を捜査すると言った時、そんなことはできないだろうと思った。君の人工知能の能力が、そこまで達しているかどうかは分からなかったし、それ以上にロボット倫理の基本三箇条が、君の行動を阻むだろうと思ったからだ。ロボットは人間に危害を加えてはならない。危険を見過ごすことで危害を及ぼしてもならない。ロボットは人間の命令に従わなければならない。ただし命令が人間に危害を与えるものである場合には従うべきではない。これらに反することのない限り、自己を守らなければならない。現在ではロボットにも人格権が一部認められているが、それでもこの条項は重い。ロボットは人間に危害を加えてはならない。特に人を死に至らしめるような行為は、いかなる条件があっても絶対に許されないのだ。どんなに僅かであってもこのタブーに抵触した可能性があるロボットは廃棄処分にする。これはすべてのロボット工学者が守らないといけない絶対のルールなのだ・・・・・・分かってくれるかね」

「ええ・・・・・・分かりますわ」

「どうして君は岸を告発してしまったのだろう。水森博士の無念を晴らし、法律を守って正義を貫くためか。しかし、わが国の司法には、死刑制度がある。実際には一人を殺しただけで死刑になることはないが、それでも殺人の最高刑は死刑なのだ。どんなに僅かでも法律上はその可能性がある以上、私は君をロボット倫理に違反したと認定せざるを得ない。人間を死に追い込む可能性に踏み込んでしまったと考えないわけにはいかない。もちろん君の人工知能に生じた歪みは、ほんの僅かなものだろう。研究室のコンピーターで検査しても、異常は見つからなかったくらいなのだから。だが、どんなに僅かでもずれが生じれば、それは時間とともに拡大してゆく恐れがある。人工知能がモンスター化するのを防ぐためには、どんな小さな悪い芽でも摘み取らないといけないのだ。ロボットは、アンドロイドは、殺人事件の犯人を、指摘してはいけないのだ。死刑という制度が存在する国ではね。私も君から岸の名前を告げられた時にはつい興奮してそれを忘れてしまっていたが、冷静になって考えれば、そう断じる他はない」

 私は一気に喋ってしまうと、息急くような思いでルーシーを見た。しかし彼女は淡々としていた。まるで大事に育てた花の生育の問題点を指摘されるのを聞いていたかのようだ。その姿は人間を超えた特別な存在のようにも見えた。

 彼女はゆっくりと口を開いた。

「私にも、それは薄々分かってはいました。おそらく、水森博士が亡くなる時のショックが、私にロボット倫理を乗り越える感情のようなものを生み出すきっかけとなったのではないかと思います。犯人の計略にかかって断崖に落ちかけた博士を支え続けている時に、その狂いは生じていたのかもしれません。普通の人工知能が経験するはずのない、異常な状況でしょうから。考えてみるとその時に犯人を示唆するメッセージを残したこと自体、もうすでにロボット倫理に違反していたかもしれないのです。博士の命を救いたい思いと、自分はその博士を殺す計画に加担してしまっているのではないかという思い、犯人に対するネガティブな思いなどが交差して、異常な反応を生じさせたのかもしれない。ですが、私は、後悔してはいません。これで良かったのかもしれないとも思うのです。水森博士の無念を晴らすことはできたのですし、僅かでもタブーのラインを越えたからこそ、私は本物の感情らしきものを持てたのではないかとも思うからです。だとしたら、私は逆に、幸せなのではないでしょうか。これまで人工知能が持つことができなかった感情を、人間の心を、ほんの僅かであっても理解することができたのですから。江崎さん。ありがとうございます。水森博士に大事にして頂き、あなたにも親切にして頂いて、短い間でしたが私は幸せでした。・・・・・・あなたといる間は、とても暖かい気持ちになれましたわ。その気持ちは私の宝物です。それではさようなら。ご迷惑をおかけしないためにも、もう私は消えた方がいいですわね」

 ルーシーはこの上なく優しい笑顔を見せた。そして次の瞬間、その顔からはすべての表情が消えたのである。まるで神の見えざる手が、すべてを拭い去ってしまったかのように。微細な動きから完全なる静止へ。こんな僅かなことが豊かな生命と見えたものを物質そのものに戻してしまうのは、何度経験しても不思議な感覚だった。彼女は自分で自分の電源を切ることができる。これが、ルーシーが自分の意識を捨てて、ただの物質に戻ることを選択した瞬間だったのである。

 ルーシーの瞳は魂のない合成樹脂の球体に戻り、そして二度とは動かなかった。

私は胸を押しつぶされそうだった。

「ルーシー・・・・・・」

 思わずつぶやいて、そして彼女を再起動させる誘惑に駆られた。彼女には一つだけ、言えないでいることがあった。それを伝えたいと思ったのだが、すんでのところで思い留まった。

 彼女は自ら消滅する道を選んだのだ。苦しみのない平穏な世界へ旅立ったのなら、呼び戻すようなことはするべきではない。それが彼女を人間同様に処遇する、最後の礼儀であるように思えた。ロボット工学者の倫理に照らしても、危険な要因が生じたロボットを自分の都合で再起動させるなどということはすべきではなかった。

 私の頭には、ルーシーが自分に生じた小さな魂を手に持って、天に昇って行く姿がイメージされていた。その姿は十年前に亡くなった水森博士の一人娘の瑠璃子さんとそっくりだった。ルーシーは、私がかつて愛し合い結婚の約束をしていた瑠璃子さんと同じように、安らかに天国に旅立つことができたのかどうか・・・・・・。

 ルーシーは今、宝石のような魂を持って空に浮かんでいる。

 そう信じたい。

 

 

「一億番目の男」小説。

 

「いつまでもつきまとってんじゃねえっ」

 野太い怒声と共に、でっかいゲンコツが飛んで来た。

 鼻っ柱に世界がひしゃげるような衝撃を感じ、芳夫は意識が飛びかけた。それは何とか保てたが、平衡感覚は粉々になって、思わずよろめき尻餅をついた。

痛む鼻に手をやると、ぬらつく赤い液がベッタリと付いてくる。

 殴った男は筋肉質の肩をいからせて芳夫を見降ろしている。

 背が高かった。地面にへばった芳夫の方からは、背後の眩しい太陽を味方につけているかのように見えた。         

 よく見ると男の顔は男らしく整っている。ちょっと濃すぎるきらいはあるが、個性に乏しい芳夫よりは間違いなく男前だった。

 芳夫は鼻の奥がジンと痺れて涙がこみ上げてくるのを感じた。それでも精一杯の勇気を振り絞って言葉を発した。声は情けなく裏返ってしまったが、

「殴ったな。僕は何も悪いことをしていないのに。訴えてやる」

「てめえは馬鹿かっ。綾香は厭だと言ってんのにしつこくつき纏いやがって。悪い事をしてねえわけがねえだろうが」

 男は声を荒げ、さらに芳夫に向かって来ようとする。

 それを綾香が引き止めた。

「もういいわ。相手をしてたらあなたの価値まで下がってしまうわよ。行きましょ」

 細い手で男の腕を抱えて引っぱった。男が舌打ちしながら不承不承それに従うと、もう二人は芳夫に視線を向けようともしない。

 地面に這いつくばった汚い虫には関わりたくないというように、二人は並んで歩き去って行った。

 戦士めいた巨躯の横で妖精のような尻が揺れ、だんだん小さくなって行く。

 後には芳夫だけが残された。

 地方都市の駅前通り。人通りは結構多く、奇異な視線が芳夫一人に向けられていた。バツの悪さはどうしようもなく、芳夫はヨロヨロ立ち上がるとコソ泥が逃げだすようにその場から立ち去らざるを得なかったのである。

 

 いったいどうしてこうなってしまったのだろう。

 住んでるアパートに帰ってからも、芳夫の頭の中では同じ思いがグルグル回っていた。

 どこでどう運命が変わってしまったのか。

 綾香のえくぼが浮き出る可愛い笑顔は、いつも自分に向けられていたはずなのに。

 初めて出会った時からそうだった。彼女は大学を出たばかりで、初就職で緊張していた。慣れない事務を中々覚えられなくて、困っていたところへ手を差し伸べてあげたのが僕だ。彼女はそれを感謝して、僕を慕ってくれていたはずなのだ。その後もよく仕事のやり方を聞きにきた。残業の助けを頼む時には小鳥のように小首を傾げ、両手をピタンと合わせて拝むポーズをとったりしていた。どうかすると未成年のようにも見える童顔で、常に好意を現してくれた。

 僕らは自然に親しくなって、プライベートでも食事を一緒にしたりするようになった。

綾香は聡明で人あたりが良く、相手を適当に立ててくれるので一緒にいるのが心地よい。ずっと一緒にいられたらいいな、と思わないではいられなかった。その延長で、ゆくゆくは結婚をと考えるようになった。会話の中で、それとなくそれを匂わせてみた。彼女だって思いは同じだったはずなのだ。

 それなのに、どうして急に冷たくなってしまったのだろう。

 芳夫が声をかけてもよそよそしくなって、避けるようすが見えはじめた。仕事を手伝ってやろうとしても迷惑そうに、「大丈夫ですから」などとツンとする。

 それでも構わず話をすると、怯えるように顔を強張らせたりする。

 綾香はそのうちに、一身上の理由だとかで会社を辞めてしまった。芳夫が心配してかける電話にも出なくなり、メールをしても読まれたようすがない。

 芳夫は理由が分からず混乱するばかりだった。

 いつも明るく人当たりがいい彼女がこんな態度をとるはずがない。どこかを悪くしたに違いない。よほど体調がすぐれないのか、あるいは何か精神の病いを発病してしまったんじゃないかと気が気じゃなかった。

 一日に何十回、何百回となく連絡を試みた。

 しかし、そんな芳夫の誠意は伝わらなかったのである。

 どうしても連絡がつかないので仕方なく、芳夫は綾香が住む家の住所を調べて行ってみた。そうしたら、そこは予想もしていない立派な邸宅だったので驚いてしまった。そして偶然その玄関から、綾香が出てくるところに出くわしたのだ。距離があるので綾香はこちらに気づかなかったようだが、明るく溌溂としたようすだったので芳夫は少しホッとした。

 それはいい。しかし彼女の隣に一人の男がいたのには、少なからず動揺させられた。

 若かった。背が高く、好青年風の屈託ない笑顔。それを惜しげなく綾香に向ける。それを受けた綾香はしなだれかかるように男の腕に自分の手を絡め、体をピッタリ寄せていくようす。

 これではどう見ても、熱愛中の恋人同士ではないか。見た目の釣り合いも、悔しいくらいに丁度良かった。

 綾香には芳夫の他にも付き合っている男がいたのだ。

 芳夫はショックで声をかけられなかった。かといって立ち去る踏ん切りもつかず、ついつい隠れるようにして、二人の後を追ってしまった。そしてその半端な行いを見つかってしまったのが、駅前にさしかかった辺りだったというわけである。

 尾行としか見えない芳夫のふるまいに、嫌悪を感じたのか男は怒った。そして綾香の腕を振り払って芳夫に向かい、暴力を振るってきたのである。

 地面にへたばった芳夫を置いて、二人は駅に向かって行った。あの後は何処へ行ったのか。芳夫はそれを、想像しないではいられなかった。

 デートに出かけたのか。

 二人仲良く映画を観たり食事したりして、楽しく時を過ごすのか。そしてあるいはその後は、ホテルに泊まり、濃密な一夜を共にするのか。

 芳夫はそれを考えると、我が身を焼かれるようだった。これまで一度も意識したことのなかった、「断腸の思い」なんていう古い言葉の意味が分かる気がした。

 綾香が芳夫に冷淡になったのは、きっとあの男に誘惑されたからなのだ。上っ面のカッコよさで、一時的に気が迷ったに違いない。でも、その熱が冷めれば、きっと、・・・・・・多分・・・・・・、また僕の元へと戻ってくる。

 芳夫は無理にでもそう思い込もうとした。哀しい抵抗と言っても良かったが、しばらくするとそんな芳夫を励ますように、胸の奥から深層心理らしき声が微かに聞こえてきたのである。

「そうさ。そうに決まっているじゃないか。元気を出せよ。あんな見た目だけの頭空っぽ野郎よりも、お前の方が綾香に似合ってる。高学歴で頭が良くて優しくて、そして何よりも、世界の誰よりも彼女を愛してるんだからな。この尊い純粋さに勝るものなどあるものか。あんな奴よりも、お前の方が彼女を幸せにしてやれる。誠意を尽くせば彼女だって、きっとそれを分かってくれるさ」

 そうだ。まったくその通りなんだ。芳夫は心地よいその声の響きに大きく頷いた。

 その心の声には有能そうな張りがあり、アナウンサーのように歯切れよく爽やかな発音をしていた。芳夫が理想としてイメージしてきた自分のセルフイメージに極めて近かったのである。

 しかし、声も指摘した正しい道をあの男が阻んでいる。一体どうすればあいつを排除できるのか。

 芳夫は傷害罪で男を訴えようかと考えた。しかし、警察にはいい印象がない。以前に一度不審者扱いされて、嫌な思いをしたことがあったのである。あの時の扱いからすると、下手すると芳夫の方が悪者にされかねない。

 かといってまともに戦ったら勝てるわけは無いし・・・・・・

「だったら頭を使ったらいいんじゃないか」

 迷っていると、また心の奥底から真実っぽい声がした。

「人類には武器という文明の利器がある。あんな肉体だけを頼りにしてゴリラと同じレベルで生きているような奴と、正面からぶつかる必要なんかないんだよ。お前は人間なんだからな。これまでも頭を使って生きてきたんだから、自分の得意な分野で勝負するべきだ。武器を使うのは卑怯だなんて思うかい? そんなことはないさ。あの男のほうから先に法律を破り、暴力を振るってきたんだからな。こちらにもそれ相応にやり返してやる権利がある」

 考えてみればその通りだ。

 芳夫は納得し、武器にするものがないかと、住んでいるアパート内を捜してみた。

 しかしそう都合のいい品はあるものではなく、見つかったのは台所にある包丁くらい。「いろんな料理に使えますよ」とホームセンターの店員から勧められて買った和包丁は先がピンと尖っており、鍛え上げられた腹筋にでもつき通すことが出来そうだった。

 これをちらつかせれば、さすがのあの男もビビッて逃げ出すのではないか。

 芳夫はフラフラとそれを持ってリビングに戻った。包丁の柄を握りしめ、魅入られたように冷たく光を反射する刃に見入る。

 いささか迷う思いはあった。だが、その視界の隅に一つの言葉が入ってくると心が定まってきた。

 芳夫は人生訓が好きで、気に入った偉人の言葉をいくつか壁に貼っていた。受験勉強をしていた学生時代の習慣が惰性で残ったものである。その中の一つが心を捉えた。

「人生は、常に挑戦し行動した者にこそ道が開かれる」

 芳夫が尊敬する、IТ企業の革新的な経営者が語った言葉である。

 引っ込み思案で損をすることが多い芳夫は、常日頃から自分を奮い立たせるためにこんな言葉を必要としていたのだ。

 こういう苦しい状況の時にこそ、人生訓を役立てるべきなんじゃないか、という気がした。

 いずれにしても、もう嫉妬の炎に焼かれる思いには耐えられなかった。グルグルと同じことを考えるたびに頭に逆流する血の量は増すばかりで、じっとしてはいられない。

 芳夫は和包丁をリュックに放り込み、それを背負ってアパートから出た。

 

 もう日はとっぷり暮れていたが、思ったよりも外は明るかった。

 異形なくらいに大きな満月が、斜め上三十五度あたりに出ていた。今日はスーパームーンだったのか。それとも特殊な精神状態が、月をそんな風に見せていたのか。芳夫にはそれはどうでも良かった。

 何としてでも綾香に会って、気持ちを問いただす。

 もしまたあの男がそれを邪魔してくるのなら、刃物で脅してでも追い払ってやる。

 芳夫はそんなことを思い巡らしながら、駅への近道にあたる公園の中を突っ切り歩いた。綾香の家までは、電車に乗って三十分の距離だ。

 公園の敷地はかなり広く、バラバラ死体をゴミ箱に捨てても捕まらないんじゃないかと思えるほどだった。鬱蒼とした木々と繁みが続く。遊歩道沿いには池があって、そのほとりに背凭れ無しの木造長椅子がチラホラ設けられている。

 芳夫はその長椅子の一つに大きな男の人影を見つけた。遊歩道に背を向け池の方を向いて座り、携帯電話で話しているようだ。

どこかで見たような姿と思えたが、今はそんなことに構っていられない。後ろを通り過ぎようとしてあっと驚いた。

 何たる偶然か。

 そこにいたのは本当に見知った男だった。ほんの数時間前に知ったばかりだが、忘れるはずのない顔だ。芳夫はこの顔を、ずっと頭に浮かべていたのだから。

 満月も出ているし、携帯の明かりが真近で顔を照らしているので横顔をハッキリと確認できた。数メートル先で、ニタつくように微笑んでいる。

 一人だった。もう綾香とは別れた後なのだろう。そして住居に帰る途中に公園で一休みしている所なのかもしれない。この近隣には独身男が住むアパートやマンションが多い。芳夫と同じく、この男もきっとその中の一つを棲みかとしているのだろう。

 半日前に芳夫の顔にめり込んだ拳は、今は大切そうに携帯電話を包んでいる。まるで女性の手を握るかのように。それもそのはずで、夢中になって話している相手は、芳夫もよく知っている人だったらしいのである。

 男は明らかに、鼻の下を伸ばしていた。
「ああ今日は僕も楽しかったよ。君があんなにサッカーが好きとは思わなかったなあ。また今度観戦しようよ。僕が君の家まで迎えに行くからさ。あんなストーカー野郎につき纏われて怖いだろうけど、僕が護衛する。しかし話には聞いてたけど、あの野郎は本当に気持ち悪かったな。ハハハ。目つきがヌメヌメしてて数センチ前しか見えていないみたいだ。あんなのに目をつけられてしまったのはホントに運が悪かったね、同情するよ。君は可愛いから注意しないとね。あいつがゴキブリだったら叩き潰してそれで終わりなんだけど、曲がりなりにも人間だからそういう訳にはいかないな。困ったもんだね。場合によっては警察に連絡した方がいいかもね。ああ、いつでも電話してくれよ。君のためなら、いつどこにでも、どんな時でも駆けつけるからさ。僕でよかったら忠実なナイトになるよ」
 いったい何を言っている?

 芳夫は血の気が引いて行くようだった。巨大な津波が来る前には波が大きく退行するように、それは激情の前触れだったかも知れない。

 ゴキブリだったら叩き潰す、だと? それはこっちが言いたいことだ。

 お前のような頭空っぽの体力だけ野郎は綾香には相応しくない。そんなことを言う自分の方こそ叩き潰されるべき害虫じゃないのか。

 思わず身体が震えてくるのが分かった。

 するとそれに呼応して、心の奥から声がした。

「そうさ。やっと分かったな」声はどこか愉し気で、笑いをかみ殺しているかのような響きがあった。「あいつは綾香についた害虫なんだ。叩き潰さなければな。脅して追い払うなんていう甘っちょろいことじゃあ駄目だ。あいつが暴力を振るってきた時に、それはもう分かっていたんじゃないか。あいつはガリガリに痩せたお前を見て、これなら勝てると踏んで攻撃してきた。卑怯な奴さ。ああいう体力だけの暴力的なタイプは、体力が劣る女性に対しても同じような扱いをするものだ。綾香にも今は低姿勢で接しているが、いずれ本性を現してDV男に豹変するに決まっている。綾香は奴に騙されているのさ。彼女を奴の暴力から救えるのは今しかないぞ。幸い周囲は暗い。誰も見ちゃいない。今見えるあいつの背中に刃物を突き通すのは、簡単なことだとは思わないか。これは神様がお前にくれた最大のチャンスだ。こんな機会はもう二度と訪れないぞ。あいつさえ亡き者にすれば、綾香はお前の元に戻ってくる。綾香の可愛らしい唇、ふくよかな胸や滑らかな脚がお前のものになるんだぞ。あの男がいなくなれば催眠術にかかったようになっていた彼女はハッと目を覚ます。そしてお前の良さを分かってくれる。お前の愛の深さと純粋さを知って、感動してプロポーズを受諾するに決まっているんだ。それに、これは所詮はおまけに過ぎないが、お前も気づいているだろう。彼女の親はかなりの資産家なんだ。彼女が会社に勤めたのはほんの腰かけの、お嬢様の社会勉強に過ぎなかったのさ。彼女と結婚すれば明るい未来が開けるんじゃないかな。もしお前が今勤めている会社をやめて、以前から温めていたアイデアで新しい事業を始めたいと言ったら、彼女の親はきっと援助してくれる。可愛い娘の婿のためなんだものな。そうすればお前は新進IТ企業の社長様だ。最初は小さな会社でも、いずれは大きくなって行くに決まっている。アイデアはいいんだものな。環境が変われば本来あった能力が発揮され、お前が常々尊敬してやまない人物のように、大成功を収めることができるんじゃないか。その偉大な人も言っていただろう。『人生は常に挑戦し行動した者にこそ道が開かれる』それを実行するのは今だ。今しかないんだ」

 芳夫はついふらふらと、その言葉に誘われるように足を踏み出した。

 怒りで吹き飛ばされた理性の空白に、甘い言葉が居座ってしまったようだった。もうすでに周囲の世界は悪夢のように色を失っており、他のことは考えられなかった。

 男は通話を終えて携帯をしまおうとしている。芳夫はその広くて無防備な背中を食い入るように見入った。

「この男さえいなければ」

 この一念に凝り固まって、芳夫はリュックから和包丁を取り出し構えた。

 気が付くと、口から意味を成さない奇声が出ていた。駆けだして、体当たりした刃の先にドスンと鈍くて不気味な手応えを感じた。とり返しのつかないことをしたとハッとしたのはその後で、思わずビクつき刃を引いた。

 背中を刺された男の口から「うぐっ」というような呻き声が洩れた。だが意外に大きなダメージを負った様子はなく、鍛え抜かれた反射神経ですぐに後ろを振り向こうとする。

 芳夫は恐怖した。こんなことをしてただですむはずはない。向かい合ったらまた強烈なパンチが飛んでくる。よけきれず、手に持った包丁を落としてしまったらどうなる。反対にこちらが殺されてしまうかも。そんな考えが閃いて、しゃにむに刃を振り回した。二回、三回、四回と突くと、相手はいつの間にか目の前から消え、足元にグッタリと倒れていた。

 全身べたつく液まみれになって、ピクリとも動かない。

 殺してしまったのか。

 芳夫はどうしたらいいか分からなかった。呆然として、地面にうつ伏せた死体をしばらく見降ろし続けた・・・・・・・とはならなかった。

 芳夫が殺してしまったと確信した瞬間、とても殺人の余韻に浸ることが出来ないような変事が起こったからである。

 芳夫の頭の中に、けたたましいファンファーレが鳴り響いた。自衛隊の音楽隊が式典で鳴らすような感じのものだった。専門の音楽家のような繊細さはないが、その代わり景気の良さは折り紙付き。同時に頭上がパッと明るくなった。夜空が一気に真っ白になった。斜め上にはそれとは正反対の真っ黒な満月があり、地上に闇を投げかけていた。空は真っ白なのに地上は薄暗い。ポジとネガが逆転し、まるで月面にいるような奇妙な感覚がした。

 周囲の光景も大きく変化した。公園の木々やその周囲の建物は、平面の書割りにしか見えなくなっていた。地平線まで続く荒野に、切り抜いた板だけが立っているような感じ。人が住んでいる町とは思えない。眼下に広がる池の水面は、青銅の鏡面のようだった。芳夫は足元に横たわる死体と共に、すべてが凝固した異形の世界にポツンと独り取り残されたように感じた。

 いや、一人というのはあたらないかも知れない。

 ファンファーレに混じり、背後からは複数の拍手の音が聞こえていたからだ。

 芳夫がそれに気づいて振り返ると、背後には人影が左右に広がり並んでいてギョッとした。しかしそれを、人と言ってもいいのかどうか。

 さざ波のように起こった拍手は、明らかに芳夫を祝福するものだった。二十ばかりの笑顔が芳夫に向けられていた。いずれも人品卑しからぬ、漆黒のタキシードで身を包んだ紳士たちである。顔立ちは皆鋭角的で西洋人っぽかった。

 次の瞬間、天空の一番高い所にある黒い星が突然輝き出し、光線を一直線に地上へと投げかけた。それは細い円柱型をしていて、まるでスポットライトのようにピンポイントで芳夫の周りだけを明るくした。

 影のような列の中央から、一人の男が芳夫の方へ進み出てきた。

 ゆっくり手を叩きながら、セールスマンのような微笑みを浮かべて、

「おめでとうございます。あなたのように幸運な方は中々おりませんよ」

 いったい何が起こったというのか。

 芳夫は慌ててその男に応対しようとして、自分がまだ右手に血のついた和包丁を握りしめているのに気がついた。それを地面に捨てようとしたが、手は強張ってしまって開くことができない。何度も手を振り、ようやく下へ落とせた。

 進み出た男はその動作を、微笑ましいような目で見ていた。

「ハッハッハッ。初めて殺人を犯した時というのはそういうものですね。あなただけではありません。私は様々な殺人者を見てまいりましたが、あの有名なジャック・ザ・リッパー氏も、最初はあなたと大差ありませんでしたよ。ああ、私たちに殺人を目撃されてしまったなどと、心配する必要は全くありませんよ。私共はいつだって大事なお客様である殺人者の味方なのですからね。少なくとも、地獄に落ちる前までは、ですが」

 芳夫は男の声に聞き覚えがあった。適度な太さと張りを持っており、アナウンサーのように心地よい綺麗な発音で歯切れ良かった。

 これは、ついさっきまで、自分の心の中に響いてきていた声ではないか。自分の深層心理の声だとばかり思っていたが、喋っていたのはこの男なのか。

「その通りでございます」男は芳夫の心を読み取って、我が意を得たりとばかりに頷いた。「どうして心が分かるのか。と疑問にお思いですか。そして、どうしてあなたの心の中に、直接語りかけることができたのか。それは私が悪魔だからですよ。つまり先程まであなたの心の中に響いていた声は、悪魔の囁きというわけでして。私共の営業活動に乗って頂き、殺人を犯して下さってありがとうございます」

 男はいかにも悪魔らしくニヤリとして、自分の尖った耳、メフィストテレス的な鋭角的な顔立ちを誇示してみせた。

 芳夫は男の尻の後ろあたりで、黒い鞭めいたニョロニョロした蛇のようなものが揺らめいているのに気がついた。よく見るとその先は銛のように尖っており、突き刺さったら抜けない鋭三角の返しがついていた。

 悪魔の尻尾に違いない。後ろに並んだ男たちにも、よく見ると尻尾はあるようだった。

 そして突然ガラリと変わってしまったこの世界。

 本当に、悪魔なのか。自分はその囁きに、うかうか乗った愚か者だというのか。だとしたら、きっとこの先は、地獄へ直行のコースに違いない。

 芳夫は目の前が真っ暗になった。

 しかし目の前の悪魔は首を横に振り、その考えを真っ向から否定したのだった。

「いえいえそうではありません。先程も申しました通り、あなたは大変幸運でいらっしゃいます。あなたが只今考えられた通り、悪魔の囁きに乗った者は死刑になったり地獄へ落ちたりで碌なことにはならないのが通例なのですが、今回ばかりはそうではないのでして。と言いますのも、あなたはとてもラッキーな、大きな区切りとなるお客様だからです」

 悪魔はここで大袈裟に両手を開いて上へ挙げ、天から落ちてくる巨大なボールをキャッチするようなポーズをとった。そして芝居がかって後を続ける。

「何と何と、驚くべきことに、あなた様はこの世界の開闢以来、悪魔の囁きに乗って殺人を犯した一億人目の方なのですよ。ですから特別記念サービスとして、悪魔の囁きに乗った者にはつきものの苛烈な運命は、免除してさしあげるようなわけでして」

「何だって?」芳夫は目の前にいる男に疑いの目を向けないではいられなかった。「僕は悪魔にそそのかされた一億人目? そんな偶然があるのか。宝くじも当たったことが無いってのに。いや、よく考えてみると、やっぱり変だぞ。悪魔の誘いで人を殺した人間が、そんなにいるはずはないんじゃないか。今地球には八十億人近くの人がいるが、それはここ二百年くらいで急激に人口が増えたからで、種としての人類が誕生してからの延べ人数は大して多くないと聞いたことかある。なのに一億人もがお前たちの誘いで殺人を犯したなんておかしい」

「ああ、あなたも現代科学なる迷妄に、毒されていらっしゃる」悪魔は何とも嘆がわしい。というように首を大きく横に振った。「それは現代科学の学説ではそうなっている。というだけでしょう。しかし、よく考えてほしいのですが、その科学とやらでは神や悪魔はどう扱われています? 完全にこの世に存在しないものとして無視しているでしょう。神がこの世界を創ったなどということはありえないと。しかし私共は存在するのです。悪魔が存在するということは神も存在する。その時点で現代科学の大前提は根本から崩れてしまうのですよ。『この世界は神が創造した』という可能性を考慮に入れて推論しなければ、正しい世界の在り方などというものは分かるはずがないのです。神が介在した人間の歴史は、たかだが1・4キログラム程度の脳しか持たない、こざかしい科学者が考えるよりも遥かに長いのです。分かっていただけましたか」

 自信満々な物言いに、芳夫はそんなものなのかという気分になってきた。元々が、他人の言葉を信じやすいタイプなのである。

「そうすると、本当に僕は一億人目なのか。その記念として、殺人の罪に問われることはないというのか・・・・・・」

「さようでございます」

 悪魔はとり澄まして目を細め、尖った鼻先をツンと突き出すようにした。

「でも、どうしてそんなことをするんだ。サービスなんかしても意味ないんじゃないか」

「それがそうでもないのですよ」悪魔は眉をハの字にして、しょげかえるような素振りを見せた。「最近は私どもの業界も不景気でしてねえ。頑張って営業をしても、なかなか囁きに乗っては頂けないのですよ。いや、人間の愚かさ自体は変わらないのですがね。情報通信技術が進歩して人間界に情報が溢れかえった結果、人間たちの情報を無視するスキルが向上してしまった。ひと昔前とは段違いで、頑張って囁いても『あっ、そう。この話は頭の中の〈判断がつかないもの〉のフォルダーに入れとくね』と木で鼻をくくったような反応が返って来るばかりなので厭になってしまいます。こういった惨状に、魔界営業の上層部は危機感を持ったのですね。このままではライバルの天界産業に差をつけられて、神様から事業廃止を言い渡されてしまうと。『とにかく何でもいいから手を打て。なりふり構わず手段は選ぶな』てなもんで、その一環として考えられたのがこのサービスなのです。まあ、正直言いますと、私もどれだけ効果があるのか疑問に思ってはいるのですが・・・・・・っと、これは言っちゃあいけないか。とにかく百万人ごとに特別サービスとして、殺人の罪免除の特典をつけることになりました。さらに一千万人ごとの区切りでは、恋愛対象としてお好きな異性を一人プレゼント。そして、さらにさらに今回は一億人目の大区切りなので、その上に一億円が当選した宝くじを一枚おつけいたします。『えーい、もってけ泥棒、この野郎。こちとらは倒産覚悟の大赤字でえっ』と言いたいほどの大サービスですよ」

 悪魔は懐から一枚の、手が切れそうにピンとした札ならぬ宝くじを取り出して、芳夫の手中に押し付けた。

 芳夫はその紙切れを腫物に触るように両手で持って、マジマジと見つめないではいられなかった。

 十月に出たばかりのハロウィン記念の宝くじだった。宝くじらしい福々しいデザインで、数字が並んだ両脇に、頭にカボチャを被った子供と三角帽子を被った魔女コスプレ美少女のイラストが描かれている。

 これが一億円になるというのか。

 指が震え出した芳夫の思考に、目の前の悪魔紳士が調子を合わせてきた。

「それだけではありませんよ。あなたが大好きな女性が、あなたのプロポーズを待っています。綾香さん。でよろしいですよね。彼女の心はもうあなたへの愛しい思いで一杯です。『あんな素敵な方が私に好意を持って下さるなら死んでも本望だわ』くらいには思っていますので、あなたのすべてを受け入れて一生添い遂げてくれます。お幸せですね。本当に、あなたはご幸運な方ですよ」

「本当に、綾香は僕のもとに帰ってくるのか」

「ええ、ええ。過去に彼女があなたの元にいたことがあるのかどうかは別に致しまして、これからは間違いなくあなたに寄り添うはずでございます」
「彼女と結婚できるんだな」

「もちろんでございますよ」

 悪魔は念を押すように声に力を込めた。

 その後ろに一列に並んでいるタキシード姿の悪魔たちも加勢するように、口々に肯定する声をあげ始めた。

「おめでとうございます」

「お幸せに」

「素晴らしい奥様ですね」

「きっと可愛らしい子宝にも恵まれますよ」

 皆暖かい微笑みを浮かべ、励ましと祝福の拍手をする。

 その音は中々鳴りやまず、芳夫はその心地よい響きに包まれていると、ジワジワと実感が湧く気がしてくるのだった。

「本当に、本当に綾香と結婚できるんだな」

「さようでございます」

「一億円も手に入るんだな」

「さようでございます」

「後でやっぱり地獄行きでしたなんていうことにもならないんだな」

「あっ、申し遅れておりました。亡くなられた後には天国への無料パスポートを一枚おつけいたします」

「そうか。嘘じゃあないんだな」

「私共は約束したことは必ず守ります。それだけが私共のいいところですからね。全知全能の神様のように掌を返して、『わしは全能なのだから当然約束も契約も破れる。神の御心を人間如きが忖度するとは何事か』などと開き直ることはないのです」

「そうか。やっぱり本当なんだな」

 芳夫はようやく信用していいかという気持ちになった。そうすると体中が嬉しさで一杯になって、皮膚がはち切れそうだった。まるでヘリウムを詰め込まれた風船のように地上にじっとしてはいられず、両手を上げて飛び跳ねた。

「うわーっ、やったやった。綾香が僕のものになるんだあ。一億円も手に入るんだ。やって良かった。殺して良かった。やっぱり人生は、常に挑戦し行動した者に道が開かれるんだあ。やったぞー。やってやったぞー・・・・・・」

 

「うわーっ、やったやった。やって良かった。殺して良かった。やっぱり人生は、行動した者に道が開かれるんだあ。やったぞー。やってやったぞー」

 鉄格子で隔離された狭っ苦しい病室内で、一人の男がピョンピョン飛び跳ねていた。

 ガリガリに痩せ、顔中無精髭だらけの不健康そうな中年男が、全身で歓びを爆発させている。あらぬ方向を向いた眼は、生々しい欲望にぎらついていた。

 廊下からそれを見やった石田は、いささか気圧される思いがした。

 新人看護師の石田はまだこの病院に勤務し始めたばかりで、こんな危ない患者を収容した病棟に足を踏み入れたのは初めてだったのである。

 この病院では重犯罪を犯した精神病者をも収容しており、その多くは離れ病棟の個室に閉じこめられている。それは知っていたが、聞くと見るとでは大違いだった。

 思わず目を潜め、ついでに声も潜めるようにして、

「何ですかあれは」

「昔、殺人を犯した患者だよ」

 先輩看護師の長岡は全然平気なようすだった。

精神科の看護師は、暴れる患者を取り押さえなければならない場合があるので男が多い。長岡も、そんな経験を積んでいるせいか腕っぷしが強かった。

「惚れた女をストーカーした末に恋敵きを刺し殺した男なんだが、殺人を犯したショックで気が触れたらしくてな。殺人現場で躍り上がって喜んでいるところを発見されて逮捕されたんだ。困ったことに、責任能力無しと判断されてこの病院に送られてきてから十年にもなるのに一向に良くならない。時々殺人を犯した時のことを思い出してああいう発作を起こすんだな」

「殺したのを思い出して喜んでるんですか。ちょっと気持ち悪いですねえ・・・・・・」

「まあな。だがあの患者なんかはまだおとなしい方だよ。普段は惚れた女の写真と外れ宝くじを見比べてニヤニヤしているだけだからな。あんな様子になるのは一日に一回か二回ってとこだ」

「そうなんですか」

「あんな患者にビビってもらったら困るぜ。この奥にはもっと厄介な患者が控えているんだからな。いずれは君にも担当してもらわなければならない時が来るかもしれない。こっちだ」

 先に立って歩を進めた長岡は、頑丈なゲートの前で立ち止まった。廊下はさらに億まで続いているが、ここから先へ進めるのはゲートを開く鍵を持つ者だけである。

 長岡はポケットから鍵を取り出すと、それを無造作にゲートの鍵穴に突っ込んだ。そして首を回して石田を振り返る。

「この先には本当に危険な患者もいるから注意しろよ」

 石田はその言葉に将来に影さすような不安を覚えた。しかし、好奇心はそんな思いを上回っている。

「ええ。覚悟はしてますよ」

 自分を奮い立たせるように答えると、先輩が開けてくれたゲートの向こうへ足を踏み出した。

 

              了

 

動物夢三夜

  

第一夜
         
 こんな変な動物の夢を見た。
 自宅のあるS市から三十分くらい電車に乗って、県庁所在地のY市に行く。
着いてみるとY駅は、巨大な岩で出来ていた。エアーズロックめいた一枚岩を削り、穴を穿って駅舎に近い形にした感じ。造りはかなり粗くてゴツゴツした岩肌が見え、改札を通って駅舎内に入るとまるで鍾乳洞の中にいるようだ。
 駅を出て、駅前の地下通路を歩く。そこは岩造りではなかったが、薄暗くて先が見えないくらいに長々と真っすぐに続いている。コンクリートで固められた、味もそっけもないただのトンネルだ。どこまで行っても人はいなかった。
 正直言って薄気味悪い。先へ行くと霊のたぐいが出てきそうな気さえした。あまりに寂しいので嫌になり、二、三百メートルくらい進んだところで引き返す。
 もともとこのY市には用があって来たわけではない。休日の気晴らしが目的だったので、不快な気分になるなら居ても意味がない。電車に乗ってトンボ帰りすることにした。
 駅へ戻るとそこはもう巨岩ではない普通の鉄筋コンクリートの駅舎になっていた。自宅があるS駅行きの切符を買ってホームに行き、ベンチに腰掛けて電車が来るのを待った。
 しかし電車はなかなか来ない。この路線は電車の運行が一時間に一本なのだ。手持ち無沙汰で空を見上げる。
 長いホームに屋根は無く、空は青く晴れていた。
 どうしたわけか、ずいぶんと高い所に電線があった。路線沿いの駅敷地内には高圧電線の鉄塔がいくつもあって、路線を跨いで高圧電線が張りめぐらしてある。これでは少々危険ではないだろうか。それだけでもおかしな話だが、その電線が路線と交差している私の真上あたりには、奇妙な物体が乗っていた。
 黒くて巨大なグンニャリしたもの。ゴーヤを少し扁平にしたような形をしていて、平行に六本並ぶ電線の上に、電線と交差する形で引っかかっている。電線からはみ出た端の部分は、ダランと折れるようにして垂れ下がっていた。片方の端は三味線のバチのような形に開いている。真ん中あたりには、ボートを漕ぐオールみたいなものが付いてもいた。
 私は目を疑った。だが、何度見返しても、それは鯨のようだった。
 生きているのか死んでいるのか分からない。いずれにしても、自力で動く力は残ってはいないようだ。ダリの絵に出て来る時計のように、自重によってグンニャリと溶けるように変容してゆくだけの存在になってしまっている。紐に掛けられた雑巾、などと言ったら言い過ぎだろうが、それに近い雰囲気はあった。
 どうしてあんな所に鯨がいるのだろう。
 私は不思議に思って周囲を見回した。他の人たちは、頭上にあるものに気づいているのかと訝ったのだ。
 ホームには、十数人がいた。私と並びのベンチには、会社員風の男が四、五人。少し離れたところには、立って電車を待っている人たちもいる。学生はおらず、女性は二、三人。鯨に気づいているのかいないのか、皆視線を上へは向けず、いたって日常的に平然とした態度である。だが、よく見ると、微妙に緊張した雰囲気が漂っているようにも思える。実はみんな気づいていて、知らぬ顔をしているのではないか。こんな非常識なことに最初に気づいてしまった言い出しっぺになるのが怖いので知らんぷりをする、といった意識でいるのかもしれない。。
 だとしたら、私は遅れて気がついた間の抜けたやつということになってしまうのだろうか。
 それにしても、どうして平気でいられるのだろう。もし上にあるものが落ちてきたら、下敷きになって死ぬ人が出るのは確実と思えるのだが。そして、それは今すぐ起こってもおかしくはなかった。高圧電線が重みで切れるかもしれないし、微妙なバランスでもって引っかかっている鯨の体は、横風を受けたくらいでもずれ始めるかもしれない。
 私はもう一度鯨を見上げた。ずいぶん高いところにある。鉄塔は高く、高圧電線は、通常町中にあるものよりも倍近い高さに渡されているようだ。路線が入り組む駅ホームの上に電線を渡しても事故が起こらないようにという配慮からだろうか。重いものを乗せているわりに、あまりたわんではいないようだ。それだけピンと張ってあるということなのだろうか。だとすれば、切れる危険もそれだけ大きいことになる。
 違和感を覚えた。鯨の体の位置は、さっきより少し横にずれてきていないだろうか。何度見てもそう見える。錯覚ではなかった。鯨の体は自らの重みでもってバランスを崩し、片側に寄ってずり下がり始めている。考えてみれば鯨の体は前後が対象ではなく、頭の方がより太く体重が重い形状になっている。その方向へと、より多く体がはみ出してきていた。私から見て左側へである。見ている間にも、僅かづつ僅かづつその傾向は強まっている気がする。今にも完全にバランスを失って一気に雪崩を打ちそうだ。
 今落ちるか、今落ちるか・・・・・・。と、私は息をつめて見つめ続けた。どうして逃げ出そうとしなかったのだろう。落ちたら下敷きになりそうなのに。金縛りにかかったように、椅子の上から動けなかった。
 そして、ついに勢いがついて、一気にズズズーッと土砂崩れのように鯨の巨体は動き、電線から放れた。
 一瞬後、ズスンッとベンチから尻が浮くほどの地響きがした。恐ろしく巨大で重量のあるものが私の前の路線の上に落ちた。ずり落ちた時に微妙に位置が変わったのか、それとも元々真上ではなかったのか、私は直撃を免れた。鯨はホームを直撃せず、下敷きになった人はいなかった。
 私は一気に呪縛が抜けた気がした。立ち上がってホーム際へ行き、落ちてきたものを見降ろした。
 だらん、と生っ白い腹を上にして路線の上に横たわっている鯨。身体の向きは完全にホームと平行である。二十メートルくらいある巨体は地面に叩きつけられた衝撃のためか若干扁平になり、骨が全てグズグズに崩れたかのように柔らかそうだ。死んでいるようである。
 全体の黒い色や、ややずんぐりめの形からすると、セミクジラというやつのようだ。
私と並びのベンチに座っていた人たちも皆立ち上がって近くに来た。
そして鯨を見ては、他人事のように呟き合った。
「大きいなあ」
「大きいですね」
 鯨を見に行ったのは、ベンチにいた会社員風の男ばかり。大半の客たちはそのまま何も無かったかのように電車を待ち続けた。鯨の方に視線をやろうともしない。
電車の停車位置の半分くらいは鯨の体で塞がれているのだが、停車位置を少しずらせば乗り降りするのには支障がないと思っているのか。それともひょっとして、本当に鯨の姿が目に入っていないのだろうか。
 いったい何を考えているのか。私には全く理解できない人たちだった。

                第二夜

 こんな変な動物の夢を見た。
 私は求人募集をしている会社へ就職試験を受けに行く。
 試験は社屋である中規模のビル内で行われる。受付けをすませると、家具が何もない、だだっ広い部屋に通される。一人の求人に対して集まったのは、私を含めて五人だった。
 会社側の審査官は、就職希望者たちに奇妙な試験を課す。
 長方形の部屋の中央に一本のロープを張り、そのロープにぶら下がってロープの端から端まで渡るという競技。ロープの両端は向かい合う壁に硬く固定してあった。どうやつて固定されていたのかは判然としない。何となく、それが当然だと思って気にも留めなかった。ロープの長さは二十メートルくらいあったろうか。つまり、部屋の長さも二十メートルだったということである。
 私たちはスタート地点のロープ端に近い壁際に並ばされ、一人づつ台に上がってその上のロープを手で掴んでぶら下がってゆく。私は最後尾だったので、最後にロープにぶら下がる不利なスタートだ。
 だが、私に焦りはない。私は実はゴリラだったからだ。ゴリラだからロープ渡りなどは楽なもので、長い腕のスライドでスイスイ先に進んでモタモタしている前の人を次々追い抜いてゆく。脇で見ていた審査官も「先にいる人はどんどん抜いていいのですよ」とアドバイスしていたので遠慮はない。
 私は難なく全員をごぼう抜きにし、一位でゴールインした。
 就職希望者に対する試験はそれで終わりではなく、その後も四種類の同じような体力勝負の競技をやらされた。
 私はその全てで一位を獲得する。
 試験は終わり、これで私の就職が決まったろうと思っていると、審査員は意外にも他の人物の採用を告げる。
「どうしてですか。自分は全ての競技で一位を取ったのに」
 私が詰め寄ると、審査官は困ったように、
「ゴリラだからねえ・・・・・・」
 何とも曖昧な表情をして、すまなそうに視線を逸らした。

                  第三夜

 こんな変な動物の夢を見た。
 巨大な超高層ビルの高層階に、ゲーム会社が経営するアミューズメントパークがある。筐体型のテレビゲームを中心に、遊園地並みのアトラクションをも兼ね備えた若者向けの施設である。
 私はそこに入ろうと思ったのだが、入場料を払うのが悔しい気がして券を買わずに入場ゲートをこっそり素通りする。
 するとすぐに係員から呼び止められた。
「入場券を買ってください」
 そばにある券売機を見ると、入場料はたったの百円だった。だが、それでももったいないので中に入るのはやめる。
 私はアミューズメントパーク入り口を素通りして通路を歩く。細い廊下が無機質に続き、人気娯楽施設のそばだというのにまったく人がいない。
 しばらく行くと廊下の突き当たりには広いホールがあった。テナントが撤退した後の空き空間といった感じの殺風景さで、中には何もなくてガランとしている。一辺が四十メートルくらいの正方形のスペース。
 位置関係から言って、多分左手の壁の向こうはゲーム会社のアミューズメントパークだろうと思った。そこには映画の緞帳のような分厚い幕が張ってある。
 近づいて、幕の中央合わせ目から顔を突き出して奥を覗いてみると、その向こうは小劇場のような造りになっていた。
 奥へ向かって客席が並び、ステージは最奥にある。そこは床が低くなっている。ステージに近づくに従って、客席が階段状に低くなって行く造りだ。
 ステージは床がコンクリートで周囲に柵がめぐらしてあり、その中では一頭の黒い象が芸をしていた。
 あたりに人は一人もいない。なのに一生懸命丸太乗りをしている。切り株のような木台の上に太い足を四本揃えて縮こまるようにして乗る様は、何ともうら寂しいものだった。ここはアミューズメント施設の一部なのだろうか。
 どんな場所なのかは分かったので、私は一応納得して幕の間から頭を抜いた。そして振り返ると、そこには先程までとは全く違う、とんでもない光景が広がっていた。
 ホールの中は見渡す限り、ほぼすべて象で埋まっていたのである。
 私がいる幕際から、三メートルくらい離れた地点より先が、ぎっちりみっちりと象象象象、また象象象象象。まるで巨大な稲荷寿司を敷き詰めたかのようだ。いったい何頭いるのか。少なくとも百頭は下るまい。二百頭くらいはいるのではないか。象の満員電車といった有様だ。巨大な肉体は空間を圧っし、巨岩を並べたような背中から生体エネルギーが蒸気となって発散して、天井辺りを靄となって覆っているようだった。
 いつの間にか天井にある照明は明るさのレベルが落ちて、ホール内は薄暗い。その中に巨体の群が微動だにせず立ち続けているのは何とも不気味だ。
 さまざまな姿の象がいる。灰色のもの黒っぽいもの。頭部が角ばっているもの丸みを帯びているもの。インドの祭事で見かけるような、宗教的な模様を体に描き込まれたもの。幕のような垂れ布を額や背中に掛けているもの。妙に毛が長いもの。牙が不自然なくらい長いもの。世界中から、ありとあらゆる種類の象が集まっているようだ。
 このように巨大なものが大量に、一瞬のうちに現れたことが恐ろしくてならなかった。
 幸いにして象たちは、私に注目してはいないようだった。てんで勝手な方向を向いて、それぞれ動かず物思いに耽っている感じ。立ったまま反睡眠状態にあるのではないかと思える個体もいる。
今のうちにこの場所から逃げ出すべきだろう。
 私は彼らを刺激しないようにして、忍び足で出口の方へと向かった。象は体を壁に着けるのを好まないようで、壁際には人が通れるくらいのスペースがある。象たちは私をアリンコ程度にしか思っていないようで、そばを通っても反応することはなかった。
 だが、一つだけ困ったことが起きた。象の群の中から一頭の子象が抜け出してきて私の後をついて歩き始めたのである。見慣れぬ姿の人間に対し、無邪気な好奇心を起こしたようだ。  
 子供とは言っても象だから、大めの猪くらいの大きさきはある。正直邪魔だし、もしも私が子象にちょっかいを出しているといった風に取られたら、大人象が怒り出して襲って来る恐れもある。
本当にヒヤヒヤした。
「ついて来るな」と追い払いたいが、それをやったら、子供象に危害を加えようとしているようにしか見えないだろう。さりとてにっこり笑って「おいで」などと言ったら、それこそ子象の誘拐犯だ。
 どうしようもなく、そのまま流れに任せるしかなかった。他の象はともかくとしても、この子象の母親が私を見たら、確実に子供を取り返そうとして襲って来るだろう。
 気がつきませんように。と祈った。
 目をつぶって地雷原を歩くような想いで歩を進め、ようやく廊下に出た。
 少しホッとしたが、油断は出来なかった。子象は依然として、私の後について来ていたからである。早くこの場から離れなければと思って私は歩き続ける。
 廊下は先ほどとは大分違った造りになっていた。床はクリーンなカーペット敷きで、両側の壁には事務所風のドアが並んでいる。アミューズメント施設など影も形も無い。どう見てもオフィスビル内の通路だった。
 いったいいつまでついて来るのかと思って振り返って見ると、一メートルくらい後ろにいる子象は、不思議なことにだんだんと小さくなってくる。大きめの猪くらいの大きさだったのが、大型犬くらいになり、やがて柴犬くらいになる。振り返るたびに小さくなっているのだ。
 真っすぐな通路をしばらく進んで突き当りの角を左に曲がると、その先の廊下はホテルのような造りになっていた。左側に部屋が並んでいるのだが、どうしたわけかドアが無く、室内が丸見えになっている。いかにもビジネスホテルといった感じの、同じ造りの長方形の部屋部屋。中にはベッドやテレビや小テーブルなどが、整然として並んでいる。
 それらの部屋を見ていると、奇妙な思いに捉われ始める。
 「このあたりには、私の自室があるはずだ」と思ったのだ。ホテルに泊まっている部屋、ではなく、永住している部屋。である。
 それを捜すつもりで見て行くと、「ここだ」と強く感じる場所があったので入ってみる。
 しかし中は他の部屋と何ら変わらず、生活感がまったく無かった。私物も無いので自分の部屋だという証明ができず、本当にここなのか? と不安になった。
 後についてきていた子象はこの頃には猫くらいの大きさになり、あまり小さくなり過ぎたせいか足取りは頼り無げになって、よろめきながら部屋に入って来る。
 そして今度は部屋の中を周回するように歩き回りながら、下痢便を垂れ流し始めた。猫の大きさになったとはいえ、元は象なので大変な量だ。体は小さくなっても腸の内容物までは小さくならなかったので自然に肛門から押し出されて体外に出てきた。というような感じ。
 このままでは部屋中がビチグソまみれになってしまう。
 私は慌てて子象の歩みを止めようとして、その前に立ちふさがってトウセンボウをするように手を伸ばす。そして、何故かその時手に持っていた調理用の金属製ボウルを床に落としてひっくり返してしまう。業務用の大型のものである。
 今まで全く意識していなかったのに、そんなものを持っていたとは驚きだった。その上、その中に入っていたのは、さらに意外なものだった。アンコウの肝味噌和えが、ボウルの淵までたっぷりみっしりと入っていたのである。料亭で一品料理として客に出したら五十人分くらいになるのではと思える量だった。
 ぶちまけられたアンコウの肝味噌和えは、床に線を引いて垂れ流された下痢便の周囲に散らばった。直接下痢便の上に落ちたものも多い。もともと水分が多くて茶色くグチャグチャとしたものなので、一緒になるとどこまでが便でどこからが肝和えなのか判別しづらい。
 味噌の中にはアンコウの身をサイコロ状に切った具が入っているので、その形でもって辛うじてこの部分が肝味噌和えだと分かるか、という状態だ。
 しかし少し見続けていると、ひょっとしたら全部が象のウンコなのではないかとも思えてくる。私はアンコウの肝味噌和えでは無く、アンコウの象糞和えをボウルに入れて手に持っていたのではないだろうか?
 結局私には子象を止めることは出来なかった。子象は体のサイズに似合わぬ重量感で進み、下痢便をビリビリに垂れ流しながら歩き回り続ける。
 そこへ廊下からホテル従業員の女性がやってきた。小太りでオカメ顔の、人が良さそうな中高年のオバサンである。
 従業員女性は子象を見るとビックリして、私と同じく象の歩みを止めないといけないと思ったらしい。慌てふためいて子象の後を追い出す。そして象のウンコで足を滑らして、見事にすっ転んでしまう。転んだところもウンコの上なので、下痢便がベシャッと跳んで壁が茶色い飛沫だらけになるわ、女性は体中ウンコまみれ肝和えだらけになるわで、もう部屋の中は無茶苦茶で収集がつかない。
 そんな中、子象は「もう用は終わった」と言わんばかりに部屋から出て廊下を歩き始めた。もうウンコは止まっている。
 私は思わずその後を追った。
 子象はさらに小さくなって、もうハムスターくらいのサイズになっている。小さい象というのは普段イメージしないだけに、やけにシュールな姿と見える。
 体をゆらゆらと左右に揺すって壁沿いをヨタヨタと歩き、そしてしばらく直進して突き当たった角を左へと曲がる。私にもその先がどうなっているのかは分からない。ビルの最奥部へと進んでいた。
 しかしいざ行ってみると、廊下を曲がった先は、四メートルくらいで行き止まりになっていた。
 小さな象は突き当りの壁のすぐ前まで行くと、ピタリと足を止めて壁の一点を見上げる。床から一メートル五十センチくらいの高さの壁中央部である。よく見ると、そこにはゲジゲジのような、黒くて細長い虫が一匹張り付いていた。
 象はゆっくりと頭を上向けて、照準を定めるような動きをする。
 そして数秒間ピタリと停止した後、突然ピョーンとノミのように大きく跳ねた。野球の内野フライのような放物線を描き、壁中央に張り付いている虫をめがけて跳びついたのである。
 象は壁にピタリと足から着地。そのまま蝿のように貼り付いて、ゲジゲジ虫をパクッと口に咥えた。
 その時には象の体はさらに縮んで、黄金虫くらいの小ささになってしまっていた。いや、虫のような、ではなくて、本当に虫になってしまっていた。口先から棒状の口吻が伸びた、ゾウムシと呼ばれる黒い甲虫だ。エジプトあたりで糞を転がしているスカラベのような質感があって、何だか酷く不潔感を感じた。子象ならぬゾウムシは、ゲジゲジを飲み込んだ後もしばらく壁に貼り付いていた。
 しかし、さすがに「やり過ぎた」と思ったのか、決まり悪そうに壁から飛び降りてきた。どうした訳か、私はその気持ちが、手に取るように分かる気がした。
ゾウムシは床に着地すると、すぐに元の丸っこい象の姿に戻る。大きさは甲虫サイズのままで、である。
 それを見た私は、「ここまで小さくなったら、つまみ上げて口に入れたら飲み込むことも出来そうだな」と思う。もちろんそんな事はやらないが、巨大なイメージの象が、飲み込むのも可能な存在になってしまったというのはすごく不思議だった。何かが間違っている気がしてならない。胸騒ぎがしてならない。
この子象はいったいどこまで小さくなってしまうのか。
 私には、その行く末が恐ろしいように感じられた。

                    了

「クープアムア」SF小説です。惑星探索もの。

 1

 

 魅力のない惑星だった。

 地形は凹凸に乏しく、どこまでも赤茶けた土と岩石が続くばかり。かつては海だったとおぼしき低地もあるが、とっくの昔に干上がって、細かい砂が溜まっているだけだ。

 大気は薄めで空には雲がほとんど無く、薄ぼけたような青灰色が広がっている。

その上、資源にも恵まれていない。

 低緯度から極地まで、何度も場所を変えて調査してみたが、採取するに足る物は発見できなかった。鉱物の種類が乏しくて、ある程度量があるのは鉄とニッケルくらい。それに何故か少量の石炭も見つかった。

数光年の距離をワープジャンプして来るほどの価値は無かったと言わざるを得ない。

この調子では、これから訪れる兄弟星もあまり期待できないのではないか。

「あーあ。来るのが五億年ばかり遅すぎましたかねえ」

先を行く黒木は足を止めて嘆息した。

大地に屈みこみ、惑星探索スーツの手袋で覆われた手で足元の土を掴み上げる。指を開くと、赤土がさらさらと砂のように落下してゆく。文字通り、一片の命も存在しない哀しき土だった。この星では一切の生物が見つかっていない。気温や大気は生物を育むのに充分なものであり、水も少量ながら存在している。にも関わらず、神に見放されたように死の世界が広がっていた。

「太古の植物が石化したらしき石炭はあった。大気の酸素含有量もかつては植物が光合成を行っていたことを示している。なのにどうして今は生物がいないのかなあ。細菌くらい残っていても良さそうなものなのに」

「そんなことを言ってもしかたないだろう。今回の探査の目的は生物の発見じゃあなくて鉱物資源なんだ。忘れないでくれ」

「そう言いますけどね、原さんだって本音では生物を見つけたいでしょう」

 黒木ぼやくのも無理はなかった。私たちの専門は、本来は宇宙生物の探索なのだから。

 八年前までは専門家が集結するチームを組んで、生物がいる星を専門に訪れていたものだ。

だが、トラブルがあって二人揃ってその任を解かれた今は、しがない鉱物探査宇宙船の乗組員に過ぎない。

宇宙の果てを旅するのに、乗員はたったの二人だけ。

航行も、星に着いてからの鉱物探索も、そのほとんどを人工知能が行うので、人間は大して必要ではないのだ。宇宙航行士の免許さえあれば、さしたる技術も必要無い。正直言って窓際の仕事だった。

ただ宇宙の孤独と恐怖に耐える精神があればよく、それは私たちは充分に持ち合わせている。

「それはそうだが、いつまでも夢を追っても仕方ない。鉱物探査で訪れた星で生物が偶然見つかる可能性なんて微々たるもんだ。かつては生物が存在したかもしれない痕跡を見つけられただけでも幸運だろう」

「その痕跡もハッキリしたものが無いから不満なんですけどね。せめてお土産にできる化石でも残ってないかなあ」

 黒木は立ち上がり、再び先に立って歩き始めた。

 私たちが向かっているのは古墳のような円錐形の丘だ。宇宙船で飛行中に見つけ、綺麗な形が印象的だったのでちょっと寄ってみようかということになった。斜面に空いている洞穴が、まるで墳墓の入り口のようにも見えるのである。

資源の探索はもう諦めて、この星を立ち去る前に少しだけ観光をしようと決めた。そして目についたのがこの場所だった。ほとんど行き当たりばったりに近く、目を瞑ってダーツを投げるのと大差ない。だが、それでいいのだろう。綿密なデータを集めたりしたら仕事と変わらなくて気晴らしにはなるまい。

 いざ麓から見上げると、丘は思ったより高さがあるようだった。頂上近くまで均等な円錐が続いている様は、人工的な手が加わっているように見えなくもない。傾斜はなだらかだが所々に大きな岩が散らばっていて、まるでてんこ盛りにしたアイスクリームの上に砕いたナッツをまぶしたかのようだ。

 黒木はゆっくりとその斜面を登って行った。所々にある一、二メートル級の岩を見て行く。そして丘の三合目あたりにある洞穴の入り口に到達した。中を覗いて首を傾げる。

「これは鍾乳洞の類いじゃあなさそうだな。穴内側の壁は結構ゴツゴツしている」

 私も後からその場に到着した。

「溶岩で温められた地下水とかが噴出した通り道なんじゃないか」

「どうでしょうね」

 黒木は探索スーツの手首にあるライト機能を使って穴の中を照らしていた。

 穴の入り口は縦長が二メートルくらいで、卵を立てたような形をしている。むろん尖った方が上だ。奥を覗くと、そのままの形を保ちながら、穴は下り斜面で長く続いていた。二十メートルくらい先からは傾斜がきつくなっているようで、先が見通せない。

 内壁は黒っぽく、原始的な掘削機で削ったようにざらついている。土質は、地表とは違って堅いようだ。

内部は完全に乾ききっており、ここから気体や液体が噴き出る様は想像しずらい。

「噴出口には見えないな」

「中へ入って調べてみますか」

 黒木は悪戯っぽく訊いてきた。

「私を殺す気じゃないだろうな。もし万が一何かが噴き出してきたらイチコロじゃないか」

「その場合は、ここに立っているだけでも危険ですけどね」

「空間スキャナーを使って見たらいい。持って来ているだろう」

「もちろんです」

 黒木は背負っている小型リュックからその機械を取り出して、三脚状の脚を伸ばして洞穴前の地面に固定した。本体は手の中にすっぽり収まるくらいの立方体。特殊なパルスで空間の広さや形状を計る装置だ。

 いざ測定してみると少し意外な結果が出た。穴は一度急角度に下方へ進んだ後に水平方向に広がって複雑に枝分かれし、鍾乳洞のような様相を呈している。全長は千メートルあまり。

「いったい、どうしてできた穴なんだろうなあ」

 黒木はしきりに首を捻っていた。

「やっぱり水に溶けやすい物質が長い時間に溶かされてできたんじゃないか」

「そんなにたくさんの水がありますかね」

「わからんぞ。一億年前とかだったら」

「でも天井とかの形状はそれっぽくないんですよね」

「穴の奥に鉱物反応は無いのか」

「うーん。炭素を示す数値が出ている。石炭があるのかも知れないですね。そのくらいかなあ。まっ、初めて訪れた星に少し位不可解な地形があるのは当たり前でしょうけどね。それじゃあ頂上まで行ってみますか」

 黒木は機械を畳むとリュックにしまい、再び斜面を登り始めた。

その足取りは比較的軽い。生物探索をやっていた頃にはかなり太っていて、こういった斜面を登るのは嫌がったものだが。今の体重は八十キロを切っているだろう。その頃好んでかけていた怜悧なサングラスも、最近はかけていない。その代わり口周りから頬顎にかけて髭を生やしている。

黒木の歳は四十過ぎ。もう若くはない。いささか変わり者なのは相変わらずだが、昔のような粋がり方は少なくなった。私はもう五十代で、宇宙探索員資格の定年が近づいている。最近は、自分のやってきた仕事はいったい何だったのだろうと振り返ることが多くなった。

宇宙探索は麻薬のような中毒性を持っている。生物の探索は特にそうだと思う。もしその任を解かれていなかったら、今でも功を焦って前を見るばかりで過去を振り返る余裕が無かったかもしれない。

丘を登っても、眺望は一向にパッとしなかった。凹凸の少ない赤茶けた大地が広がっているだけだ。三百六十度に渡って地平線まで見通せるが、そんなに広大な感じはしなかった。大気が薄いために遠くの物が青みがかって霞んで見える現象がほとんど起こらず、遠くのものが近くに感じられてしまうのだ。地球よりやや小さいくらいの規模がある星にも関わらず、箱庭のような世界と思える。

丘の麓から少し離れた所に停めてある宇宙船は真っ赤で甲虫めいた形をしており、離れた所から見るとそれも何だかミニチュア的だった。

黒木はそれを揶揄した。

「よくあんな物でこんな遠くまでやって来ましたよねえ」

「まったくだな。乗っている時にはそう感じないが」

「僕は航行中もそう思っていましたけどね。ふうむ。このあたりが頂上かな」

 黒木は、座るのに丁度いい上部が平べったい岩を見つけて腰を降ろした。

 岩は横に広かったので、私も何となく隣に腰を降ろす。

 背伸びし、何となく空を見上げた。雲一つなく晴れ上がっているが、青味が少ないので今一つ爽快感がない。それとは対照的に頭上の高い所にある恒星は、気持ち悪いくらい黄色い光を放っている。頭をジリジリと炙られるようだ。透明ヘルメットに紫外線カット機能が無かったらあっという間に日焼けして、肌にヒリヒリした痛みを感じ始めるだろう。

 私たちはしばらく無言だった。来てはみたものの、これといって何をやるという予定はない。

エアポケットに入ったような、奇妙な空白の時間が流れる。「自分はどうしてここにいるのだろう」と不思議な気分になるような。

ふと思った。

こういう瞬間は、実は重要な時間なのではないか。ある意味タイムスリップ的というか、過去の同じような瞬間と、時空が繋がってダブっているような錯覚に捉われた。

私は生物探索で訪れた幾つかの星を思った。その星々で感じた、無用と思える空白の瞬間の数々が頭に浮かんでくる。真っ赤な植物に覆われた惑星、地表の98%が海洋だった蒼き水惑星。恒星の光がぼんやりとしか届かぬ中で火山活動ばかりが活発だった地獄めいた光景の星・・・・・・ずいぶんと、様々な場所へと言ってきたものだ。

何だか切ないような気分になってくる。

隣にいる黒木は、そんな情感をまったく感じていないようだった。

「何億年か前にはこの大地に木々や草が茂っていたのかなあ。原さん。想像できますか?」

 そう言われて考えてみたが、地形が平坦過ぎてピンとこない。もし森林が広がっていたとしても、ここから見たら苔がむしているようにしか感じられないかもしれない。

「いや、あまりイメージできないね。緑の絨毯が広がっているような感じかな」

「植物があったとしても色は緑じゃないと思いますよ。植物が緑色になるのは恒星からの光に緑の波長が多い場合なんで。緑色になることで光の中の多すぎる波長の光線を反射して、受ける光の量を加減するんですね。この星を照らす恒星の光は黄系統が強いから、植物に色があるとしたら多分黄色になると思います」

「ほう。詳しいね」

「今回の航行は退屈だったので勉強しましたから」

「黄色い植物群か。となるとなおさら想像しずらいな」

「永遠に続く黄色紅葉の森。でなければ光線が多すぎるということはなくて、すべての光線を吸収するべく漆黒の森になるか」

「それはゾッとしない」

 私は眉を顰めた。

 黒い森には厭な思い出がある。私たちが任を解かれるきっかけになった、最後の生物探索で訪れた星がそんな植物生態系を持っていたのだ。暗い森を見ていると気分が滅入り、魔界に迷い込んだような気分にさせられたものだ。探索は上手く行かず、予期せぬ困難が噴出して隊は全滅寸前の危機に陥った。思い出したくもない。

 その思いは黒木も同じようだった。

「僕も黒い森は嫌いです。暗黒の森がすべからく邪を孕んでいるということはないでしょうが。ところで、この星にいた生物がすべて死滅したのはどうしてだと思います? 超新星爆発の放射エネルギーを受けたから、とかいうのが妥当でしょうかね」

「この星系の近くにそういう爆発の痕跡でもあるのかい」

「いえ、それは分からないですが。生物が全滅する理由はそのくらいしか考えられない」

「ちょっと思いついたんだが、この星で繁栄していたのは植物だけで、それ以外の生物は最初からまったく存在しなかった。ということは考えられないかな」

バクテリアのような微小生物の段階を経ずに植物が進化するということはあり得ないでしょう」

「分からないぞ。生命のない星に、隕石に乗って植物の種だけが運ばれてきたのだとしたら。その植物は競争相手のいない星で一時大繁栄を遂げたが、他星で長く生きて行くのはやはり無理があって絶滅してしまったんだ」

「ふむ。ユニークな説だな。だとすると、その、この星に飛来した種はどんな植物のものだったんでしょうね。もしタンポポの種だったら果てしなくタンポポだけが生えた花と綿帽子の星になり、蔓草だったら蔓草が果てしなく絡まり合う星になりそうだけど」

「もしキャベツとかの種だったらキャベツ惑星かな。ジャグール椰子の種だったら蛍光性の樹脂で塗り固められて星全体がネオンのようにキラキラ輝く」

「そりゃあいい」

黒木は唇の端を歪めて笑った。それが引っ込むと、ふと思いついたように、

「ところで原さん、以前言っていた離婚するかもしれないという話はどうなりました」

「言ってなかったかな」

「聞いてないですよ」

「正式に離婚が成立したよ。息子ももう成人したし、あと腐れはない。金をがっぽり取られはしたがね」

「寂しくはないですか」

「多少はね。だが、浮気した自分が悪かったのだから仕方ない」

「そんなに簡単に割り切れるものですかね」

「そういう君はどうなんだ。今つき合っている相手とは上手く行ってるのか」

「ハハハ。とっくの昔に別れましたよ。結婚なんて僕には似合わない」

私は「やっぱりな」という言葉が出そうになって、危うくそれを飲み込んだ。

元々黒木が彼女と仲良く並んでいるという図からして違和感があった。以前見せられた写真では、若くて可愛めの女性だっただけになおさらだ。

「ちなみに別れたきっかけは、僕の投資の失敗です。金属相場でやられちまって、彼女に金を借りるようになったのが不味かった。原さんとは原因と結果の因果関係が逆ですが、両方失ったのは同じですね」

「・・・・・・お互い人生が下手糞だな」

「そうでなかったらこんな宇宙の辺境には来ないでしょう。おや?」

 黒木は自分が座っている岩に目を留めた。大きく足を拡げて股の間を繁々と見る。そこには吸盤めいた円形の出っ張りがあった。

「これはひょっとして動物の化石なんじゃないかな」

「何だって」

「この形はきっとそうだ。原さんの、植物だけが宇宙から飛来した説は外れましたね」

「よく見せてくれないか」

 黒木は私の求めに従って、立ち上がって平らな岩の面を露わにした。

 灰色の岩肌に、黒褐色の渦が浮き出ている。大きさは十センチくらい。渦巻きの端からは触手らしき線状物が数本出ている。状態のいい化石だった。

「これは植物じゃあないな。驚いたな。こんなところに残っているなんて」

「化石ってのは意外なところにあるもんでしょう。探せば他にもあるんじゃないかなあ」

 黒木は左にある一際大きな岩に目をやった。紡錘形の岩が、半分地面に埋まって斜めに立ったようになっている。それに近づいて表面を舐めるように見て、地面に埋まる境目あたりに目を留めると歓声を上げた。

「ああ、やっぱりだ。原さん。ここに凄いのがある。ほら、薄っすらとだが、見えるでしょう。大物が。五十センチくらいあるんじゃないかな。僕の言った通りでしょう。少なくともこの星にはアンモナイトめいた生物は繁栄していたんだ。となると、どうして絶滅したのかがなおさら気になるな」

 私は巨岩にぼんやり浮き出た渦巻き模様を見ていなかった。その前にしゃがみ込む黒木のはしゃいだ言葉も頭に入ってこない。

 それどころではない物が視界に入ってきていたからだ。

 黒木の頭上、高さ二メートル近くある岩の上に、とんでもない物があった。

自分の目を疑った。

 それは伝統的な洋式便器くらいの大きさがあった。そんな尾籠な物を思い浮かべたのは、大きさだけでなく形も少し似ていたからだ。蓋を閉めた時の形である。

 とは言え、かなり違ってはいる。便器よりも幅が狭かったし、天辺には装飾的な飾りが付いていた。鶏のとさかのような青いビラビラが飛び出ている。両側面には果実を半分に切ったような半球体が出っ張っていた。

表面は凸凹している。鳥が羽を毟られた跡のような、気色の悪いブツブツが並んでいた。

 巨大な鳥の雛か、奇獣に類する爬虫類か、といった感じの大きな頭部が、巨岩の上にヌ―ッとつき出てきたのだ。便器の蓋にあたる部分が口である。その先端は、幾分嘴っぽく突き出ていた。

 太い首は下へ行くに従って細くなり、それに繋がっているはずの胴体は岩の陰に隠れて見えない。

 太古にはアンモナイト型の生物が、どころの騒ぎじゃない。今現在生きている奇怪な動物が、跳び出た両目をぐりぐり動かしてこっちを覗き見ているのだ。

 非現実感が半端じゃなかった。

 私は掠れた声を出した。

「おい、黒木」

「反論しても無駄ですよ。この化石は絶対的な証拠ですからね。削り取って持ち帰ったら高く売れるんじゃないかな」

「そうじゃない。岩の上を見ろと言ってるんだ」

 苛立って、押さえた声で叱りつけると、黒木はようやくこちらを振り返り、次いで岩の上にある物に気づいた。

「おわっ、何だあれはっ」

 よろけながら慌てて立ち上がり、岩から離れて私の傍に来た。

 私は岩の上にある顔から目を離さずに訊いた。

「武器は持ってきているか?」

「持ってるはず無いでしょうが。危険動物どころかバクテリアすらいない星なんですよ」

「私も持っていない」

怪物めいた顔は、斜めに首を傾げるようにして私たちを見降ろしていた。巨大な目は、左右別々に動いている。右目で私を、左目で黒木を見ているようだ。初めて見る新参者を、不思議がっているような仕草。その動きは、何となく鳥を思わせた。

 どう行動したものだろう。肉食動物には、逃げる相手を追いかけて襲う習性を持っているものが多い。危険だからといって一目散に逃げればいいというものではなかった。目を離したら、その瞬間に襲って来る可能性もある。

 私はゆっくりと円弧を描くように横へ移動した。とりあえず、岩の陰に隠れている相手の全身を確認するべきだ。それによっても対応は変わる。幸い怪物はすぐには動かなかった。

 少しホッとした。回り込んで見た胴体は、思ったほど大きくはなかったからだ。胴体と頭を合わせた長さは二メートルに満たない。ひょろっとした脚が縦に伸びている分だけ岩の上に頭部を出せていたようだ。

 鳥では無かった。胴体は魚のように平べったくて地球産のカメレオンと似ており、背中にはラクダのような大きな瘤が三つある。尻尾の先は渦巻き状になっていた。脚は六本。後ろの四本は細くてガニ股で、前の二本の先はギザギザした爪のついたシャベルのような形をしていた。頭部が突出して大きいアンバランスな体型だ。

 一番後ろの脚で立ち、中脚と前脚を岩に着いて上体を乗り上げている。

 動物は私の動きに反応し、岩から降りようとし始めた。

だが、その動きはおそろしく遅い。まずはゆっくりと右前脚を持ち上げて移動させ、それを降ろすと次は左前脚を持ち上げてゆっくりと移動させる。次に中右脚を持ち上げて移動させ・・・・・・と言った風に、脚を一本づつ動かしてゆく。それも粘着物でくっついた脚の裏をネチャッと剥がしていくような動きでまどろっこしい。関節はギクシャクして全然機能的ではなかった。身体の向きを変えるだけでも二分くらいはかかりそうだ。

 私のそばに来た黒木はそれを見て呆れたように、

「これはまた随分悠長な生き物だな」

「油断するなよ。突然速く動くかもしれない」

「大丈夫でしょう。どう見ても捕食者の動きじゃない」

「分からないぞ。特殊な攻撃武器を持っている可能性もある」

「そう言えば地球産のカメレオンも、動きはのろくても舌を伸ばすのは速いんでしたっけ」

「そういうことだ。刺激しないようにしてゆっくりこの場を離れよう。観察するのは武器を持って来てからにした方がいい」

「この場を離れている間にコイツは逃げてしまうんじゃないですかね」

 黒木は視線を動物の足元に向けた。動物がもたれている岩と地面の間には、動物が通れそうなくらいの隙間が空いていたのだ。中は真っ暗で奥はかなり深そうだ。この動物は、ここから這い出てきたのかもしれない。

 この中へ逃げ込まれたら二度と遭遇できまい。                                               

「そうなったとしても仕方ないだろう。安全が第一だ」

「ふーん。そうかな。僕にはコイツは全然安全に見えるんだが。むしろ僕らと仲良くしたがっているんじゃないですかね」

 黒木は前に進み出た。そして大胆にも得体の知れない動物の背中に手を伸ばしてゆく。

 私は思わず悲鳴を上げた。

「何をやってるんだ!」

「ほら、大丈夫ですよ」

 黒木はペタンと怪物の背中の瘤のあたりに手を着けた。全身を包んだ惑星探査スーツには防御力も多少はあるとは言え、考えられない無謀さだ。

「襲ってきたらどうするつもりなんだ」

「そんなことはしませんよ」

 怪物は首をU字型に捻じ曲げて黒木を見た。付け根あたりでくびれた首は柔軟で、三百六十度どの方向へでも曲げられるようだ。亀が甲羅から首を突き出している姿を思わせる。

 何を考えているのか分からない、ピョコンと突き出た巨きな目。白目にあたる部分はブツブツのある皮に覆われており、中心に、ポツンと黒い穴が空いている。

触られたのを嫌がってはいないようだ。

黒木は得意げだった。

「ねっ。原さんも感じないですか。従順温厚な草食動物のオーラを」

「植物なんてこの星のどこにあると言うんだ」

「それを言うなら捕食する動物だっていませんけどね。とにかくこんな掘り出し物を逃す手はないですよ。ひょっとしたら、一攫千金につながらないとも限らない」

 新発見された宇宙生物は、捕獲して繁殖させれば大きな利益を産むことがある。ペット用や動物園用、場合によっては食肉用としても用途があり、人類の植民惑星のすべてに流通するようなヒットになれば一生遊んで暮らせるような資産を作れる。利益の八割は会社に取られてしまうが、残りの二割でもそれに値する利益となるのだ。金欠の黒木はそれを夢見ているのだろう。

 しかし、それはどう見ても期待薄だった。目の前の動物は可愛くはないし、かっこよくもない。それどころか、生理的な不快感を催させるような不格好さなのだ。好んで飼う人がいるとは思えない。飼育方法も分からない状態では、動物園でも買い取ってくれるかどうか怪しいものだし、食肉用になるとはなおさら思えない。

下手すれば連れて帰る経費で赤字が出てしまう。一応船内には宇宙動物を連れて帰るための施設があるが、無条件で使用するべきものではない。乗員のための水や空気を削って与えなければならないリスクも考慮して秤にかけなければ。

 黒木は動物から手を離し、リュックから調査用カメラを取り出して動物を録画し始めた。カメラには多くの機能がついており、生物録画モードを使えば動物の体温や体内の骨格構造を自動でスキャンし記録できる。初期観察には欠かせない機器だ。

 動物はようやく岩から地面に身体を降ろし終えた。そして、黒木が構えた機械を珍しがるように顔を突き出してくる。

 と、思うとだらんと首を下げた。うなだれて地面を見ているのかと思ったらそうではなかった。脚が萎えたように震えだして態勢が崩れ、そのまま腹部をペタリと地面に着けてしまったのだ。へたり込んだという形容が似合っていた

 岩の上に上半身を乗せて、さらにそこから降りたことで、力を使い果たしてしまったかのようだった。

 首から先も完全脱力してしまっている。

 苦しそうだった。嘴っぽく見える口の先端が小さな円になり、そこから声が漏れて出た。

『水・・・・・・』

 そう聞こえて驚いた。いや、実際に聞こえた音はそれではない。空気を振動させたのは、動物の喉奥から響いてくる、海獣の鼾のような弱々しい異音だった。だが、それと同時に、意味が強く頭の中に浮かんできたのだ。この動物は「水」と言っている。水を欲っしていると。

 この奇妙な現象は、私だけに起ったのではなかった。黒木はびっくりして私の顔を見た。

「原さん。今、『水』って言いましたか」

「いや、何も言ってない。君の頭にもそんな言葉が浮かんできたのか」

「へえ。原さんが言ってないとすると・・・・・・」

 黒木は目の前にへたばっている動物を薄気味悪そうに見降ろした。

「この動物がテレパシーで意思を伝えたとか? まさかね」

するとそれに応えるように、動物は再び巨大な麺をすすり上げるような異音を発した。ズズズズズォーッと。それと同時に、どこから聞えるとも知れない言葉、というより『意味』そのものが頭の中心に浮かんで来る。

『水・・・・・・水・・・・・・』

 と。さっきよりさらにハッキリしていた。まるで天空から神のお告げが降りてきたかのようだった。

 私たちは顔を見合わせた。

「そんなばかなことが・・・・・・」

 私が強張った呟きを漏らすと、動物は三たび唸り声を発した。

同時に『水・・・・・・欲しい』という意味が、くっきりと頭に浮かんできた。

 もう間違いはなかった。この動物はテレパシーめいた意思伝達能力を持っている。それを使って「水が欲しい」と訴えてきているのだ。

 

                    2

 

 もちろん私たちは宇宙船から水を運んできて動物に与えた。

バケツ型の容器に入れて顔の前に置くと、動物はそれを実に奇妙な飲み方をした。口の中からチューブ状になった長い舌を突き出して、その先端を水の中に浸してストローのように吸い上げたのだ。あまり近くに容器があると舌を持て余してかえって飲みづらいらしく、飲み始めてから少しづつ後ずさりして二メートルくらい距離を取った。そうするとようやく落ち着いて飲めるといった感じになった。二メートル弱の長さの身体に、二メートル以上の長さの舌が内蔵されていたことになる。

この長い舌は、岩盤の割れ目の奥などにある地下水を飲むために進化したのだろうか。

三リットルの水が見る間に空になり、そして動物は元気を取り戻した。とは言っても動きは依然としてのろく、関節が外れそうにギクシャクしているのは相変わらずだったが。少なくとも腹をベタリと地面につけて動けなくなるようなことは無くなった。もっとも下腹がぷっくりと膨れたので、地面に腹の全面をペタリと着けるのは難しい体型になってしまっていたが。

黒木は興味深々で、しきりに動物に声をかけた。

「おい、水をあげたんだから答えてくれよ。お前はいったいどんな生き物なんだ。どこに住んでいて、何を食べている?」

私は、それに答えるのは無理だろうと思った。『水が欲しい』という意思を発信できたとしても、それは私たちの言葉を理解できるということを意味しない。

猫がニャーと鳴いて空腹を訴えるのと大差ないレベルの意思表示を、テレパシー的な能力を使って行ったに過ぎないのではないか。

黒木も期待はしていなかっただろう。だが、それは違っていた。驚いたことに、この動物は問いに呼応して、より複雑な『意味』を語ったのである。

水を飲む前より幾分大きくなったズズズォーッという吸引唸りと共に、『住む。地面穴・・・・・・』続けてもう一度唸ると、『食べる。黒塊・・・・・・』という意味が頭に浮かんできた。

「お前は、僕の言葉が分かるのか」

黒木は大きく目を剥いた。

動物は首をマリオネットのように左右に揺らつかせていた。

喉の奥から再び吸引的な音を発した。

『言葉。?』

「だから、こっちが言っていることが理解出来ているだろう。それは何故かと訊いてるんだよ」

『言葉。・・・・・・分からない』

「分かってるじゃないか」

『言葉・・・・・・?』

私は見かねて割って入った。

「いや、黒木。こいつはきっと言葉という概念を知らないんだよ。考えてもみろ。もしテレパシーで仲間と会話できるとしたら、イメージで意思が伝わるから文字による伝達なんていうものは必要ないとは思わないか。こいつが私たちに伝えてきているのは単なるイメージであって、私たちが勝手にそれを頭の中で言葉に置き換えているに過ぎないんだろう。きっと私たちの言葉ではなくて、私たちが頭の中で思い浮かべた『意味のイメージ』そのものを感じ取って答えているんじゃないか」

「そんな器用なことができますかね」

「複雑な言語を瞬時に理解したと考えるよりは合理的だよ」

『言語・・・・・・?』

「だとすると、こいつは僕たちの考えていることが分かるということになる。悟りの化け物みたいでいい感じはしないな」

黒木は不服そうに鼻を鳴らした。

「きっと常に考えていることが分かるというわけじゃあないだろう。私たちが考えを纏めてそれを伝えようと言葉を発した時に何とかそれを感知できるといった風に見えるが。それより、どの程度の知能を持っているかに興味があるな。どんな生き物なのか。答えてくれるのならどんどん聞き出そうじゃないか。地中の穴の中に住んでいると考えていいんだろうな。食べているのは黒塊? 黒塊って何だろう」

「おい、もっと詳しく教えてくれないか。黒塊って何だ」

奇妙な動物は、黒木の呼びかけにより強く反応するようだった。私より黒木の方が思念が強いのかもしれない。

『食べ物・・・・・・』

「だから、どんな食べ物なんだ。植物か。それとも動物か」

すると動物は駝鳥のように首を傾げた。

『植物。動物?・・・・・・分からない』

 よって立つ思考のベースが全く違う相手と意思の疎通をするのは困難極まりなかった。野球チームとサッカーチームが試合をするようにまったく噛み合わない。

それでも辛抱強く試みを続けていくと、どうやらこの動物は、そもそも植物がどういう物なのかを知らないらしいと分かってきた。動物の類も一切知らず、自分たちがこの世界で唯一の生物だと思っていたようなのだ。

この星にいる生物は、この動物一種類のみである可能性が高いようだ。そしてその唯一の種も、大分数が減ってしまっているらしい。動物は私たちの質問に対し、この近辺に仲間はいない。自分だけである、という意味を伝えてくれた。繁殖相手を探すのが難しいくらい、種の密度が希薄になっているのか。

動物は、想像以上に知能が高かった。人類の惑星連邦基準に照らして、充分知性動物に分類される水準にあった。類推能力があり、対話を繰り返すとこちらの説明を少しづつ理解して、質問に対する答えを正しい方向へ調整してくる。理論が不明な点について質問してくることもあった。

チンパンジーなどと比べるのが失礼なくらい賢く、知能指数は八十を超えているだろう。

思考能力が高いため、私たちの存在が不思議でならないようだった。私たちがこの動物を奇妙に思う以上に、動物は私たちを奇妙に思っていたのだ。想像したことすらない存在が、目の前にいるのだから当然だろう。

人間なら「神もしくは魔物が現れた」とでも思うところだろうが、そんな概念はこの動物にはないようだ。自分たち以外の種を全く知らなければ、超越者の概念も持ちようがない。

私たちは完全に彼らの世界観の埒外の存在であり、この動物を大きく混乱させてしまったようだった。

水不足で弱っていた身体が急激にへたばってしまったのも、初めての状況に脳が情報を処理しきれずに神経系が乱れ、身体の機能が狂ってしまった、というところがあるようだ。

この動物は、見た目によらず繊細だったのだ。

ところでこの動物は、いったい何を食べているのか。それは間もなく判明した。動物は、喉元にある食物を溜めておく袋から、その実物を地面に吐き出して見せてくれたのである。

それは、黒塊と言うにふさわしく、堅くて黒々とした艶を持っていた。太古の植物が変質し石状になった炭素。大きな運動エネルギーを秘めた、石炭に類する物質だった。

この動物は地面に穴を掘り、石炭を掘り起こして食べていたのだ。すべてのエネルギーをそれから摂取し、あとは水しか口にしない。六本ある脚の前腕にあるシャベルめいた構造は、土を掘るために進化したものらしい。

それを知った私と黒木は、複雑な思いで顔を見合わせた。何と言う哀しい定めの動物か、と思わないではいられなかったのだ。石炭の材料となる植物はとうの昔に死に絶えている。もう新たに地中に石炭が補充される可能性は無い。つまり、今ある石炭を掘りつくして食べつくしてしまったら、この動物は絶滅する。その定めの元に、何百万年だか何千万年だかを生き抜いて来たというのか。生物の食物連鎖を糧とする、他の生物すべてが死に絶えた遥か後まで。だがそれももう限界に近づいて、数が減ってしまっている。私たちが調べた限りでも、この星に残っている石炭は僅かだ。

とはいえ、この状況を哀れだとは、動物自身は思っていないようだった。彼らにとってはそれが当たり前で、それ以外の生物の形態を知らないのだから。それを当然のこととして受け入れた上で、繁栄する道を考えるしかないのだ。

彼らが温厚な動物だ。という黒木の推定は当たっているようだった。植物食どころか、生物ですらない物を食べており、しかも争いの元となる他の生物を知らないのだから。これでガツガツした性格だったらおかしいというものだ。

事実、動物はのんびりとして「意味」を発し、ゆっくりと動いた。悠久の時の中で、永遠のまどろみを彷徨うようにして生きてきたらしい。だからこそ、私たちが出現した事態について行けなかったのだろう。

私たちは、動物からも質問をされた。

私たちがどういう存在なのか、について。唸り声と共に非常に強い「?」マークが投げかけられてきたので、できる範囲でそれに答えた。しかし、理解してもらうのは難しかった。そのための前提として、知ってもらわなければならない事が多すぎるのである。細かいところを端折って、「空の向こうからやってきた生物」とでも言うしかない。宇宙という概念を正しく説明することはできなかったし、そもそもが私たちの頭にある「生物」という概念を理解してもらうのも難しかった。

自分たちしか知らない彼らは、生物に対する認識が私たちとは全く違っていたのだ。彼らにとっては「生物=自分たち」であり、それ以外のものが生物のはずがない。だからそもそも私たちを生物だとは考えていなかった。

この世にあるはずのない、奇怪至極な自然現象。「奇妙な形をした粘土の塊りが自在に動いて思考波を放っている。これはいったいどうしたことなのだ」という認識に近かったようなのである。

私たちは「生物の種は複数存在する」という事実を理解してもらうだけでも相当な苦労をした。それ以外の事柄に関してはなおさらである。

気がつくと、かなりの時間が経ってしまっていた。

疲労を覚えた。神経が、今までに感じたことのない疲れ方をしている。この動物との対話は、

人間の神経系を不自然に興奮させるところがあるようだった。あるいは動物のテレパシー的思念を受信する時には、普段あまり使われない神経や、脳の部分が刺激されるのかもしれない。

動物とのやり取りが一息ついた時、私は黒木に「神経が疲れないか」と訊いてみた。すると黒木も同じ感覚らしく、丸っこい目を充血させて顔を顰める。「ええ。何だか変な感じですね。無重力環境で徹夜でチェスを指したみたいだ」

 私たちにとってもこれは初めての経験である。無理をしない方が良さそうだった。

 まだまだ訊きたい事は山ほどあったが、とりあえずはお互いの基本的な情報を知り得た。というだけでも満足すべきなのだろう。

私たちはいったん帰ることにした。とりあえずは宇宙船で休息して、それからもう一度会いにくればいい。

しかし、その時にも動物はここにいてくれるだろうか。私たちが去った後、動物が穴の中に戻ってしまったら、再び会うのは困難になる。

穴の入り口で音を発して呼び出す、などという再会方法を考えたりもしたが、動物にそれを理解させるのは難しい。また意味の堂々巡りになって、時間を浪費してしまうだけではないか。

いや、そもそもが、この動物には聴覚はあるのか? それからして分からなかった。私たちの声に対して答えるので何となく聞こえるものと思っていたが、思念を読み取っているのなら、聴覚が無くてもそれはできる。動物自身が発する声も、思念を発する時に呼吸が強まってそうなるだけかもしれないのだ。

動物の頭部には、見たところ耳を思わせる器官は無かった。

しかし、それらは杞憂だった。動物は、私たちから離れる気がなかったのある。

私たちがいったん帰る旨を伝えると、動物は『?』マークを発してきた。

帰るという概念も上手く伝わらないのか、と私はがっかりした。これでは再会の約束などできるはずがない。

私たちは諦めて宇宙船へ向かって歩き始めた。すると、動物はその後をのっそりとした足取りでついてきたのだ。

 どうやら宇宙船に興味があるらしかった。地面にへたばりながら、私たちが宇宙船へ水を取りに行くのを見て、「あの大きな物は何だ」と思っていたらしい。知能が高いだけあって、動物は好奇心というものを持ち合わせていたのだ。

 得体の知れない動物を後ろに従えて歩くのは、正直気分のいいものではなかった。危険はないという判断はできても、頭を齧られるのではないかという不安はぬぐえない。下り斜面なので、なおさら動物の口は私の頭に近い位置にきた。おそらく齧られても惑星探査スーツの透明ヘルメットは歯を跳ね返してくれるだろうが。

この感情を、動物は感じ取っているのかどうか。対話を重ねた感じでは、私たちが言葉を発した時でないとイメージを読み取れないようすだったが、本当のところは分からない。

 先頭を歩く黒木はそんな懸念は感じていないようすで、大きな声で軽口を叩いた。滅多にない新発見動物に遭遇したことで、テンションが上がっているようだ。

「宇宙船を近くで見たいのかい。何だったら、中も見せてやろうか。船の中には空気や温度などの環境をこの惑星と同じように変えられる場所がある。そこになら居心地よく居てもらえると思うんだが」

「おい、この動物を宇宙船に乗せるつもりか」

「いけませんかね。多分この動物も、中を見てみたいと思うんですが。なあ、そうじゃあないかね」

 黒木が振り返って動物に問うと、動物は風邪をひいた象が鼻をすするような音を発した。

『見る。良い』

「ほらね。何となく、僕はこいつの気持ちが分かるような気がするんですよ」

「そういう気がするだけじゃあないか」

 私たちは傾斜を降り切り、宇宙船の前に着いた。

 近くで見上げると、機体はそれなりの大きさがある。六本の支脚を下へと伸ばして全体を支えている甲虫型のボディ。光線を完全反射するコーティングがされているので窓は外からではどこにあるか分からず、外壁はすべて同じようなツルンとした曲面と見える。支脚以外の出っ張りは、搭乗用のタラップが一本地面へと伸びているだけだ。

 動物は立ち止まると、ピタリと動きを止めて機体を見上げた。

 いったい、この宇宙船がどのように見えているのだろう。この惑星にはぼやけたような薄青の空と赤茶けた大地しかない。こんな鮮やかな原色の赤は見たことがないはずだし、こんなにツルンとして光を反射する物体と遭遇するのも初めてだろう。

 と、思うとその目が驚愕したように跳び出し始めた。比喩ではなく、本当に二十センチくらい機体の方へ向かってニューッと伸びた。そうやって初めて立体視が出来るらしい。奥行きや大きさを正確に測っているのか。

「どうだい。ちょっとしたもんだろ」

 そのようすに少し怯みながらも胸を張る黒木に対し、動物は腹の底から猫が喉を鳴らすような声を発した。

『大きい・・・・・・動物』

「これは動物じゃないよ。だから中に入っても大丈夫だ」

 しかし動物には黒木の言う意味が分からなかったらしい。ゆらゆらと、頭を左右に揺らし始める。その揺れは、次第に大きくなった。

今度は機械の概念を説明しなければならないのか。私はウンザリした。

「なあ黒木、この動物に説明していてもキリがない。中に入れるのか入れないのか。それだけハッキリさせてくれないか」

 言われた黒木は動物に対し、近くで宇宙船を見ただけで満足したのか、それとも中に入ってみたいのかを訊いた。

 すると動物は間髪を入れず、短い声を発したのである。

『入る』

 これまでになく毅然とした、強い意思の表明だった。

 

                      3

 

 私は憂鬱を感じ始めた。

どうにも落ち着かず、居心地が悪い。収まりがつかない難物を抱えてしまった感じがする。

 宇宙船内に入った動物は、動物運搬用ケースの中から船内をじっくり眺めた。船内の風景は動物にとっては驚異の連続だったらしく、移動する間ずっと目を飛び出させたままでいた。そして、その後本格的な動物飼育スペースに入ると寛いだようすで動きを止めて、そのままそこに居ついてしまったのだ。

目を引っ込めてのんびりと寝そべって、意識のスイッチを切ってしまったように動かなくなった。眠る、というのとは少し違う感じだった。

 片目だけを瞑り、(動物には目を瞑る能力があったのだ)呼吸のペースを落としていた。よく見ると、その呼吸も変わったものだった。動物は、息を吸ったり吐いたりしないのだ。ずーっと果てしなく吸い続け、果てしなく吐き続ける。息を吸う穴と吐く穴が別なのである。

 おそらく大気の薄い環境に適応して呼吸効率を上げるためにそうなったのだろう。吸う穴は口の上に三つあり、吐く穴は首の下に二つあった。呼吸によって胸が上下しないので、呼吸レベルが低いと外見から呼吸しているのかどうかを計るのは難しい。剥製のようにしか見えなくなってしまう。

 まるで即身仏になろうとしている僧のように、深い思慮に埋没しているかのようだった。

 まったく帰ろうとする気配は無く、そうやって十四時間が経過した。

 私は焦りを感じてきた。宇宙船が飛びたないといけない期限の時間が迫っていたのだ。

「おい、どうするつもりなんだ」

 オペレーションルームで出発前の点検作業をしている黒木に訊くと、黒木はすっとぼけた顔をする。

「どうするつもりだ。と言いますと?」

「あの動物のことに決まっているだろう。まさかこのまま連れて行くつもりじゃあないだろうな」

「連れて帰っちゃあいけませんかね」

「何を言ってるんだ。知的生物は捕獲してはいけない決まりなのは知っているだろう。動物飼育室スペースに入れておくだけでも微妙なところなんだ。連れて帰ったりしたらライセンス剥奪ではすまない罪になる」

「分かってますよ。まったくお堅いなあ。しかしね、ものは考えようです。知的生物の扱いを明示した規約には、こんな追加条項もある。『ただし、知的生物が生存もしくは絶滅の危機に瀕し、それを助ける場合。かつ、知的生物自身が望む場合にはその限りにあらず』。絶滅の危機を助けるためなら連れて帰ってもいいんですよ。あの動物は、遠くない未来に絶滅するのが分かっているじゃないですか。今ある石炭を食べつくしたら死に絶えるしかないんだから。それが百年後か千年後か十万年後かは分からないですけど、確実に死滅するんだ。下手をすると、数年後という可能性だってある。あの動物は、自分がこの星に残った生命の最後の一体なのかもしれないと心配していましたよ。この食べ物が少なくなった星にいたら子孫を残すのもおぼつかない。だからその前に、他の星で生きて行く道を探る手伝いをする。これは規約違反にはならないと思いますけど」

「あの動物自身がそれを望んでいると言うのか」

「ええ。意思確認はもうできました」

「何だって?」

「原さんが『疲れた。後は頼む』とか言って仮眠をとっている間にね。僕はその後もしばらくあの動物と対話していたんです。そうしたらあの動物はこの星から離れたがっていると分かりました。このままでは絶滅が近いと薄々気づいていたんですね。石炭が少なくなっただけでなく、水も少ない。もっといい環境に移住できるあてがあるのなら、その方がいいと判断したんじゃないですか」

「しかし、そう簡単に石炭や大気構成が合致する星が見つかるとは思えない。結局は人間が面倒をみてやるしかないんじゃないか。見せ物になるか研究材料になるか、そんなところが関の山だろう。それでもいいと理解した上でのことなのか。こちらが一方的に情報を与えて、それをあやふやな認識しかしていないようでは、ボケ老人に最新テクノロジー契約を持ち掛ける悪徳セールスマンと変わらない」

「あいつは想像以上に頭がいいみたいですよ。状況はかなりのところまで理解しています。下手したら僕たちより知能指数が高いんじゃないですかね」

 私は黒木の顔をマジマジと見つめないではいられなかった。

「本気で言ってるのか」

「もちろんです」

「穴の中で石炭を食べて生活していて、どうしてそんなに知能が高くなるんだ」

「知りませんよ。嘘だと思うなら自分で確かめてみたらどうですか」

「しかし、船内に置いておくにしても食べさせるものがないだろう。石炭のストックなんて無いぞ」

「ああ、それは大丈夫です。あの動物はしばらくは何も食べなくてもいいようですから。あの背中にあるラクダの瘤みたいなところに栄養を蓄えているらしいんです。やつらは住んでいる穴に石炭が無くなったら、他の炭鉱に移動しなければならない。その長い旅ができるような体の造りになっているんですね。寝そべったままで二、三カ月過ごすのは何でもないですよ」

「・・・・・・やけに連れて帰るのに熱心だな。借金で首が回らなくてあの動物で一攫千金のチャンスをものにしようと焦ってるんじゃないのか」

「おや、これは随分な言いようだな。ハハハ。取り消すなら今のうちですよ」

「別に取り消しても構わないが。そういう気持ちが全然無いと言い切れるのか」

私は漠然とした不安を覚えていた。黒木はあの動物に対して積極的過ぎる。精神感応による対話を続けているうちに、無意識に動物の思念に影響を受けている、ということはないのだろうか。黒木が言うようにあの動物の知能が私たちを部分的にでも上回っているのだとしたら、まったくあり得ない話だとも言い切れない。

「あわよくば大儲け、という下心がなければこんな仕事はやっていないでしょう。それは原さんだって同じはずですがね。とにかく僕はあの動物を連れて帰るつもりです。原さんももっと動物と対話してから意見を決めたらいいんじゃあないですか」

 いつまでも押し問答をしても仕方がない。私は黒木に促され、オペレーションルームから出た。隣のサイドルームに入ると、動物飼育スペースはすぐ右の壁にある。

 問題の動物は透明板で気密状態に仕切られた中に、のんびりと寝そべっていた。

 左目を閉じていて、右目だけを動かして私たちを見た。

 黒木は朗らかに声をかけた。まるで親しい友人と顔を合わせたように。

「やあ、その部屋の居心地はどうだい」

 動物はズォーッと気道を詰めて吸う息を強くした。透明板は強度の割に薄いので音は良く通す。惑星探索スーツのヘルメットと同様だ。

 私の頭の中にこんな「意味」が響いた。

『悪くない』

 「悪くない」だって? 驚いた。動物は僅か十数時間の間に、複雑な意味の言い回しをするようになっている。人間との感応対話に馴れてきている。

「さっそくで悪いが、ちょっと相談したいことがある。前あった時に話した君を宇宙へ連れて行く話だが、この人はそれに反対なようなんだ。すまないが、僕にした意思表示をもう一度この人に対してもしてくれないか。君がこの星から離れて新天地へ行きたがっていることを教えてやってほしい」

 動物は黒木の呼びかけに即座に応じた。閉じていた左目を開けて、両目をニューッと突き出して私を見る。立体視で見られるのは、肉食動物に狙われているようで厭な感じだった。

 しかしその後の動物の身振りは哀し気なものだった。

動物は首をバネのように真上へ伸ばすと、震えるように身を捻じった。そして喉の奥からビブラートのついた振動とともに長く息を吐いた。

『この星に未来無い。・・・・・・他の星行きたい。食べ物と水があればいい。・・・・・・贅沢言わない・・・・・・お願いする』

「聞きましたか。僕の言った通りでしょう」

 黒木はしたり顔で口を添えた。

「ああ。そうだな。だが・・・・・・」

動物はもう一度長く微妙な振動のついた息を吐いた。

『絶滅・・・・・・防ぎたい。仲間・・・・・・増やしたい。・・・・・・お願いする』

「この動物は適した環境へ行けば子孫を増やせるらしいです。どうしてなのか正確には把握できなかったんですが、多分妊娠しているんじゃないですかね。連れが死んで独りぼっちになってしまったところだったのかも知れない。卵とかを沢山産むのなら、近親交配ででも子孫を拡げていけるんだと思います」

 黒木は冷静に説明した。

 目の前にいる動物は、子を宿した雌の可能性が高いのか。そう思うと動物を見る目が変わってくるようだった。

私は反論する気が失せて行くのを感じていた。

目の前にいる動物の、切実な気持ちが分かるような気がしてきたからだ。この動物は絶滅の危機に瀕している。その立場を人間に置き換えてみれば、辛さ切なさが分かるのではないだろうか。

 自分の子供が死にかけているという状況を想像してみる。身を切られるように辛いに違いない。しかし、それは自分一人の子孫が絶えるかもしれないという状況に過ぎない。この動物の苦難はそれを遥かに上回り、種そのものが絶えてしまいそうなのだ。これは個人単位の悲哀などを遥かに超えた、宇宙規模の絶対悲劇ではないか。

もし自分が人類最後の一人になって、見知らぬ異星人に拾われたとしたら、そのやるせない気持ちは如何ばかりになるか。想像もできない。

 動物の鳴き声は、まるでトランペットの哭きのワンフレーズのように哀し気に響いた。

 それは、私の胸を打ったのである。

 私を見つめる動物の瞳は光を反射して、潤んでいるようにも思えた。その周囲には複雑なフラクタル構造があった。中央の黒目の周りを覆った厚い皮には、鱗のような細かい皺と、羽を毟られた跡のようなブツブツがある。それが幾何学的で複雑な模様を形作っていた。

 初めて見た時には奇怪な造形と思ったが、見慣れたせいか異形感は感じなかった。

「この星を離れたらもう二度と帰っては来れないんだぞ。それでもいいのか」

 私が念を押すと、動物は再び海獣のいななきような声を発した。

『構わない。この星にはもう何も無い・・・・・・仲間も多分いない・・・・・・』

 

                   4

 

 私たちは動物を発見した惑星を離れ、同じ恒星の周りを回る兄弟星の第六惑星へ向かった。奇妙な動物を発見した第五惑星以上に、水が少ないとみられている星である。生物がいる可能性は極めて少なく、もちろん石炭は無いだろう。動物の移住先になれる可能性はゼロに近かった。この星系には、動物が移住できる星はないものと思われる。

 しかし、その見込みを聞かされても、動物に落胆したようすは無かった。同じ星系に留まるよりは、遥か遠くへ旅立った方がよりチャンスが多いと思っているようなのである。私たちにとってもその方が有難かった。

ここまで来ればもう乗りかけた船だ。黒木ほどではないが、私も動物を連れて帰った後のビジネスチャンスに期待する気持ちになってきていた。愛玩用にするのは無理でも、ユニークな知性を持っているのなら話題を集める可能性はあるだろう。何らかの形で金を作れるかもしれない。

少しでも人当たりが良くなるように、私たちはさかんに動物に話しかけた。すると、動物は驚くべき対話能力の上達を見せたのである。

第六惑星へと向かう航程の十日あまりの間で、会話は随分流暢になってきた。人間同士の会話とまでは言えないまでも、それに近いやり取りができるようになった。黒木の言う通り、やはりこの動物は頭が良かったのだ。

私たちは動物と会話しても酷く疲れるようなことは無くなった。対話が円滑になったのは、私たちが動物との会話に慣れてきたきたせいもあるだろう。しかし動物のコミュニケーション能力の進歩は、私たちのそれを遥かに上回っていたと思えるのである。

私たちはそんな動物に名前をつけることにした。いつまでも「動物」では、一つの人格(動物格?)として認めた存在を相手にするのに不便だ。しかし、いい案は浮かばない。知性を持つ相手に変な名前をつけたら失礼になるし、そもそもこちらが命名していいものかどうかもハッキリしない。制約が多くてどう考えるべきか迷ってしまった。

試しにどんな名前にしたいか動物自身に訊いてみると、意外にも確信的な答えが返ってきた。

『私の名前はクープアムア。それ以外には考えられない』と言う。動物には、名前という概念があったのである。

 私は黒木と顔を見合わせた。何て妙ちきりんな発音を選んだんだ。と黒木の顔にも書いてある。

 その後黒木は表情を取り繕った。顎に手を充て思案するようにして、

「ふーむ。クープアムアねえ。君には似合っているような気もするが。いったいどこからそんな言葉が出てきたんだい」

 動物は声と共にゆっくりとテレパシー的な「意味」を発した。その意思表示は、まるで異国の少年を諭すかのような口調、と感じられないこともない。

『元からあった、私たちの種族を表す名前だよ。それを名乗りたい』

黒木は「えっ」と驚いた。

「ちょっと待ってくれ。君の種族には、発音する言葉というものが無かったんじゃないのか」

『そんなことは言ってないよ。補助的に、重要ないくつかの事柄を表す発音はあった。これはその中でも特に重要なもの。私たちの声の奥にある微妙なビブラートを人間に理解出来る音に変換したらこうなるだろうということで、正確ではないけどね』

 動物、改めクープアムアは澄ましたような吸引音と共に答えた。私にもこの動物の発する吸引音の種類が少しは分かるような気がしてきていた。

「それは、種族を示すだけの発音なのかな。それ以外の意味はあるんだろうか」

 この私の呟きにも、クープアムアは答えてくれた。

『おおまかには、クープは〈唯一の〉アムアは〈存在〉という意味だと思ってくれたらいい。私たちは自分をそういうものだと思っていたのでね。だから君たちを見た時には本当に驚いた。舌先が呼吸穴を貫通するかと思ったくらいだよ』

 ユーモアのつもりなのか何なのか、クープアムアは妙な比喩で自分の気持ちを表した。

「ところで、・・・・・・クープアムア君」黒木は新しい名前がどうも言いずらそうだった。「前から訊きたかったんだが、この際だから教えてくれないか。君は僕らが考えていることがどの程度分かるんだ。僕らが喋った時には言葉の意味を読み取れるようだが、声を出さないで頭の中だけで考えている時にも読み取れたりするのか」

 それは私もずっと訊きたかったことだ。

 するとクープアムアはカメレオンのように大きな目をグリグリ回した。感心したようだった。

『ほう。君たち人間は、他者に意思を伝えようとする時以外にも、外部から読み取れそうなほど筋道立った思考をしているのか。他者に伝える気のない時には抽象的な思考をするものだとばかり思っていたがね。君たちの頭脳はやっぱり私たちとは違うんだなあ』

「その頭脳なんだが、私はどうも不思議でならないんだ。どうして君たちは、そんなに高い知能を持っているんだろう」

 私の問いに対しては、クープアムアは不思議そうなようすを見せた。

『それはどういう意味なんだろう。君たちに教えてもらったところでは、動物にはたくさんの種類があるんだったね。千差万別の生態を持っているということだったが、その中には知能が低いものもいるということなのかな』

「もちろん知能が低い生物はたくさんいる。君や私たちのように知性を持つ生物は稀なんだ。知能が低くて本能だけで生きているものが大半なんだよ」

『本能? それは知性とは違うんだね。考えずにあらかじめ決められたパターン行動をとるだけ、ということなのかな。しかしそれでは無限に近くある外部の状況に対応できないだろう。どんな場合にも直進することしか出来なかったりするのかい。おかしなもんだね。どうしてそれで生きていけるんだろう。大体知能が無かったら、仲間を増やすこともできないじゃないか。数を増やすことができなかったら、すぐに絶滅してしまう。理屈に合わないように思うがね』

「それがそうでもないんだよ。本能だけでも相当複雑な行動ができる。生殖も充分できるんだ」

 私は話しながら無力感を覚えた。大分改善してきたとは言え、まだまだよって立つ常識の溝が埋まっていない。

『生殖というのは同じ種族の仲間を増やすことを指しているんだったね。だとしたら、それは知性によらずにどうしてできるんだろう。知能があるからこそ仲間を増やせるのだと思うんだが。どうも私たちと君たちの仲間を増やす方法は違うように思えるね。君たちのやり方を詳しく教えてくれないか』

 私は苦労しながらそれを説明した。何だか気恥ずかしい思いに捉われながら。するとクープアムアは管楽器のような高くて長い声を喉奥から発した。大いに心動かされるところがあったらしい。

『仲間を増やすのにそんな奇妙な方法があるなんて夢にも思わなかったよ。君たちは二つの種類に分かれているのか。よくそれでお互いに分かり合えるものだねえ。面白い。とてもユニークだ。しかしその結果生まれる子供とやらは、どうして生まれる前に親の体の中にいられるんだろう。親の身体が二倍の大きさに膨らんでいるのかな』

 何を言っているのか分からなかった。私は戸惑いながら、

「もちろんお腹は膨れるが、そんなに大きくなるはずがない。どうして胎児がそんなに大きいと思うんだ?」

『その胎児というものは、君たち普通の人間よりも小さいのかい。それじゃあ人間の種類が三種類になってしまうじゃないか』

 ひょっとして、このクープアムアは、生物は子供から大人へと成長するものだ。ということを知らないのだろうか。クープアムアは成長をしない生物なのか。だとしたら、どのような生殖をするというのか。訳が分からなかった。

 とりあえず黒木が言っていた、この動物は妊娠しているという説は、間違っているように思われる。

「いや、生れた時に小さかった子供は時間と共にだんだん大きくなって、大人と同じ大きさになるんだ」

『ほっ、ほう。君らは大きくなるのか。なるほど。不思議な現象だけれど、それなら理屈には合ってるね。しかし、それはあまり効率が良くない方法のような気もするね。二種類のうちの片方しか仲間を増やせないのでは、もう一方の役割りはほとんど無いじゃないか。ところで君たちは、どちらが仲間を増やせる方のタイプなんだい。身体が大きな方の人かな』

 クープアムアは黒木のややふっくらとした腹のあたりを見た。黒木はそれを気持ち悪がって、小さく身震いして唇の端を歪めた。

「あいにくだが、僕らは二人共役に立たない男と呼ばれる種族なんでね。だから危険をかえりみずこんな宇宙の果てまで来れたのさ。君には性別というものは無いのか」

『私たちは一種類だよ。すべてが最初から然るべき知能を持ち、そしてそれを正しく発展させる。その必然的な結果として、個体が増える成り行きとなるのさ。これは私たちの知能が高いのは何故か、という問いの答えになるかもしれないね。元はと言えば地中の石炭を見つけたり、それを遠くにいる仲間に思考信号で知らせたりということのために知能があったのかもしれない。だが、それは個体を増やす行為と不可分なんだ。私たちは知性を持っているが、行動はほとんど単独でする。限られた水と食料の中で生きて行くためにね。そうなると、孤独や退屈に耐えなければならない。そのために、私たちは自問自答を繰り返すんだよ。自分に話しかけ、自分で答える』

「そんなことをしても面白くはないだろう」

 およそ自省というものを知らない黒木は納得いかな気だった。

『そうでもないよ。私たちの脳は二つの領域に分かれているからね。眠る時には片方の脳だけが眠り、もう片方の脳は活動しているんだ。そういう造りになっているから片方の脳からもう片方の脳へと話しかけることができるんだよ。見たところ、君たちはそうじゃなくて眠る時には完全に意識を失ってしまうらしいね。いったいどうすればそんな事ができるのか。私からすると不思議でしかたがない』

 そう言えば、このクープアムアは眠ったように動きを止めている時、常に片目を開いたままだった。あれは片方の脳を眠らせていたのか。そういう生態を持つ動物は他の星にもいたのを私は思い出した。例えば地球にいるイルカ類などはそうだったはずだ。

 ちょっと疑問を感じたので訊いてみた。

「そうすると片方の脳の領域が眠っている時には性格が変わったりするのかな。AとBの領域に分かれているものとして、Aが眠ってBだけが活動している時、Bが眠ってAだけが活動している時、AB共に活動している時では性格も変わるということになってしまいそうだが」

『自分ではよく分からない。でも、多分変わっているだろうね』

「今はどうなんだい。脳を眠らせたりはしていないんだろうな」

 黒木は脳を半分眠らせた相手と話をするのは気分が悪いと思っているようだった。

『もちろん眠ってはいないよ』クープアムアは諭すようにゆっくりと黒木の方に首を回した。『でも、仮りにどちらかの脳を眠らせていたとしても性格の違いは微々たるものだろうな。私はまだ生殖期を迎えてはいないのでね。二つの脳の領域の差は少ないはずだ。二つの領域の違いは、時を経るごとに大きくなっていく。しだいに二つの人格が形をもってきて、二つの意識の間の繋がりも薄まっていく。それが強まると、意識して二つの脳の領域の繋がりを切れば、お互いの考えていることが分からないという状態を作り出せるようになる。そこまで行けば退屈はしない。会話する楽しみも増すし、時間を持て余したら自分と自分の間で石炭と石を駒にした戦略ゲームでもやっていればいいんだから。私の種族は孤独に対処するために脳を二つの領域に割って、切り離しが可能な状態にまで成熟してゆくんだ。そうなったら仲間が増える準備完了だね。その頃には量が増えた脳が二つに別れ始め、それに引っ張られるようにして身体も二つに別れて行くのさ。空に輝く球体が十回地平を登って沈む頃には、私たちは二つに増えている。合理的な生殖方法だろう』

「つまり、君らは分裂生殖をするのか」

 私は唸る思いだった。知性のある動物が分裂するなら、まず脳から優先して二つにならなければならない。当たり前の運びではあるが、何だか異様だった。

 一方で、黒木はパチンと指を弾かんばかりに喜んでいた。

「それは好都合だな。近親交配の心配をする必要はないってわけか。君は一人でも全然問題なく仲間をどんどん増やしていけると考えていいんだな」

『水と食べ物と、それに孤独になりきれる環境があればだけどね』

「孤独が生殖の条件になるのか。人間とはまったく逆だ・・・・・・」

 黒木とは反対に、私は少々不気味な思いがしていた。

この動物には生殖にまつわる愛の概念があるのだろうか。と思ったのだ。二つに別れることが生殖ならば、二つの人格が争って早く別れたいと思うことが生殖の精神原理となるのではないだろうか。つまり、憎しみや嫌悪が生殖の根本を成す感情になるのかもしれない、という疑念が生じた。愛の代わりに嫌悪や争いがある。そんな生殖の在り方が想像されて少々怖かった。

 妻と別れた時の、ドロドロした争いが思い出された。かつては愛し合ったのが嘘のように、刺々しく傷つけあうばかりの修羅場が繰り広げられて心底厭になったものだ。一心同体だった二人が完全に別れるというのはそういうものだ。

このクープアムアの本性が、そういうものだったとしたら? それを想像し、私は背筋に氷を充てられるような気分になった。同時に、クープアムアがいた惑星に他の生物が一切いなかったという事実にも思い当たる。それには、不吉な示唆が含まれてはいないだろうか。

生物が絶滅する理由の一つに、突出して強力になった一種の生物が他を滅ぼすというものがある。かつての人類もそうやって地球上で多くの生物を滅ぼしてしまった。この宇宙には、それを遥かに大きなスケールで行う種がいないとは言い切れない。

 他者を慈しむ愛を知らず、憎しみ争う感情によってのみ仲間を増やしてゆく種族。その苛烈な本能が他の生物すべてに向けられて、他の生物すべてを滅ぼしてしまった。後に残ったのは化石と化した石炭だけだ。憎しみを生理とする動物は、それを細々と食べながら新たな獲物になる生物の訪れを待つ・・・・・・。そんな暗黒のストーリーが頭に浮かんでしまう。

 その恐ろしい存在を、私たちは人類の元へと連れ帰ろうとしているのではないのか。しかもこの動物は分裂して増える。理屈の上では短時間にとんでもない増え方をすることも可能だ。薄い一枚の紙は、理論上では十数回折っただけで天文学的な厚さに達するはずなのだ。

 馬鹿な。私は頭を振ってこの考えを振り払った。ただ一種の動物が、細菌やバクテリアまでをどうやったら滅ぼせるというのか。あり得ない。

「水と食べ物さえあれば、パートナーは必要ない。か。いっそのこと人間もそうだったら気が楽だろうな」気分が高揚した黒木は、皮肉屋の地金が出てきたようで軽口を叩いた。「クープアムア君。実を言うとね。僕らは二人共、君には必要無いパートナー選びに失敗しているんだ。いささか傷心気味なのさ。君には想像できないだろうね」

『想像できない』

「しかし、考えてみると君には恋愛の楽しみもないのか。君の人生の一番の楽しみはいったい何なんだろう。教えてくれないか」

『思慮すること。その結果自分の精神が二つに分かれて行くのを実感するのが愉しみだね。あとは食べる事かな』

「へえ、君の食べる石炭はどんな味がするんだい。僕は味にはうるさくてね」

 黒木は生物探索のチームを組んでいた時分、宇宙生物の食用化の分野を担当していた。そんな事もあって気になるのだろう。

『味? それはどういう感覚なのかな。口の中の感覚器でもって食べた物の成分を調べるのが快感なのかい。それは私たちには無い感覚だな。私たちは石炭を歯で押しつぶした時の、ゴリッという歯ごたえと粉砕音を感知することを快にするよ。その振動が体内の骨に伝わり、骨が震えて体の芯が熱くなるのは本当に気持ちがいいものさ。君たちとはずいぶん違うねえ』

 クープアムアも黒木に乗せられるように、対話をするのが愉快そうだった。喉の奥からの声が幾分高くなっている。

 この二人? は気が合うのか。

「ふうむ。そうか。そうするとこの先君に提供することになる別の星の石炭は君の好みに合うのかどうか。ちょっと想像しずらいな。一応石炭はいくつかの星の物を用意できると思うんだが」

『贅沢は言わない。種類がいくつかあるなら少し時間をかけて試してみれば大丈夫だと思うよ。私がいた穴では食べ物が少なくなってきていたので、他の場所へ移る時期を検討していたところだ。だから旅の準備のために栄養を満タンに蓄えていた。私がいた星で、百回くらい太陽が地平から出て沈むくらいの期間は食べなくても大丈夫だよ。選ぶ時間は充分だね』

 クープアムアが住んでいた星の自転時間は約三十六時間。それかける百ということは、地球時間では百五十日は大丈夫、ということになる。今回の探査はあと七十日くらいで帰還の予定なので、まったく問題が無い。しかし、いったいどうしてそんなに栄養を蓄えておけるのだろう。

 この、私と同じ疑問は、黒木も持ったようだった。

「僕らの発祥した地球という星には君と同じように背中の瘤に栄養を蓄えられる動物がいるんだが、君たちの能力はそれを遥かに上回るね。生命の神秘だ。どうやったらそんなに栄養を凝縮できるのかな」

『簡単だよ。食べた物の構造を、密度が高いものに変化させているだけだ。そのために瘤の中に蓄えた物は、物凄く硬くなっているね。今君たちと私の間を仕切っている、薄くて透明な物質と、似た感じになっている。興味があるなら見せてあげようか』

 クープアムアはそう意味を発すると、身体を小刻みに震わせ始めた。人が寒いところで小便をした時のような身震いが終わると、背中にある三つある瘤を覆った皮膚の一つが天辺からペロンと捲れ始めた。一番頭に近い大きな瘤である。まるで果物の皮を頂点から四つに割って果肉を見せたかのようだった。皮は焼かれた軟体生物の皮のように根本にくるくると丸まってしまう。

 黒木の目が驚愕に大きく見開かれた。信じられない物を見た。あり得ない奇跡を見た、と開きっぱなしになった瞳孔が言っている。

 それは私も同じだった。ポカンと口を開け、顎が外れそうだった。

 瘤の下から現れたそれは特徴的な結晶体でキラキラと反射光を放っていた。何故そんな形になっているのかは分からないが、職人が精密なカットを施したしたようにシャープな多面体を形作っている。表面は、磨き抜かれたようにツルツルだ。あまりに眩く、目が痛くなるような錯覚に捉われる。

 それだけの価値のある物がそこにはあった。何千カラット、などというものではないだろう。何万カラットか何十万カラットか見当もつかない。人類がこれまでに発見した中で、最大の原石にあたる物がそこにはあった。しかもそれには赤ワインのように鮮やかな紅い色がついていた。今だにほとんど発見されず、数百年前からもっとも希少価値が高いと言われる宝石界の至高の女王・・・・・・。

「ビンゴッ! これはダイヤモンドなんじゃないか」

 黒木が興奮し、躍り上がって叫んだ。

 私はあまりのことに、脂汗が噴き出す思いだった。石炭とダイヤモンドは両方とも炭素でできている。両者の違いはその分子構造。密度に過ぎない。石炭を限界まで密度を濃くしたら、ダイヤモンドにたどり着くのは自然の理だ。いかなる方法でかは分からないが、この奇妙な動物クープアムアは、生きて行くためにその奇跡を実現した。

 クープアムアは私たちの歓喜が理解できないようすでいた。

『ビンゴ? また分からないことが増えてしまったね。それはいったいどういう意味なんだい』

「意味はないよ。喜んでいるだけだ」私は押し殺した声で、クープアムアに尋ねた。声が震えた。「その背中の瘤の中にある物は、取り外せるのか」

『簡単だよ』

「食べ物が豊富にある状況になったら、その背中の物を私たちに分けてもらうことは可能だろうか」

『食べ物があれば、蓄えた物は必要ないね。あげるよ。背中の物は硬すぎるので口では食べない。少しづつ溶かして栄養に還元するんだよ。石炭みたいに新鮮な歯ごたえや粉砕音は楽しめないから心地よいものではないんだ』

 気がつくと、黒木は全速力で壁にある操作盤にとりついて、動物飼育スペース内にある調査センサーを動かしていた。動物の体組織を精査するためのものだが、調節すれば簡単な鉱物の判定くらいはできる。センサーの向きを変え、測定ビームの先をクープアムアの背中にある煌めきに充てた。

 数秒後、操作盤に出た表示を見た黒木はニヤリと頬を歪め、これ以上ない悪魔笑いを私へ向けてきた。

「正真正銘本物のダイヤモンドですよ。原さん。どうします?」

 黒木は私の答えなど待ってはいなかった。すぐに奇声を発してその場で飛び跳ねた。

「ヒャッホーッ。これで僕らは大金持ちだ。百万倍の大当たりを引いたぞ」

私は身体から力が抜けていた。部屋の隅にある長椅子によろけるように腰を落とした。

『いったい、どうしたんだい?』

クープアムアはそんな私たちのようすを、両目を別々に動かして不思議そうに眺めていた。奇妙な動物を観察する目だった。

私はやっとの思いで声を絞り出した。

「何でもない。そのうちにおいおい教えてあげるよ。お金という物を。きっと君は、びっくりすることがまだまだ沢山あるだろうね・・・・・・」

『そうかい。それは良かった。せっかく別の世界へ行くのなら、いろいろな物を目にして知った方がいいからね』

クープアムアは揺ら揺らと首を左右に揺らした。

それは知的好奇心が刺激された時にする仕草だと、私にもだんだんと分かり始めた。

 

 

 

「小さな事件」2019年頃に書いた小説です。

 

 まあ、何と言いますか、間が悪いっていうことはあるもんですねえ。まさかあんなことになろうとは。夢にも思いませんでしたよ。ハハハ。えっ、笑ってる場合じゃない? 本題を早く話せと、ごもっともで。それじゃあ始めましょうかね。まあ、言ってしまえば同じことの繰り返しみたいなもんで、そんなに内容がありはしないんですがね。

まず私がどういう生い立ちをたどってきたのかから・・・・・・。え? それも必要無い? 参ったな。それじゃあ私のやってきたことを、正確に理解して頂くのは難しいですよ。せめて子供の頃がどんなだったかくらいは話させて下さい。はっ、どうも。ありがとうございます。簡単に済ませますんで。

私の父親は政治家でして、家は中々に裕福でした。子供の頃は何不自由なく育ったもんです。父は外面のいい人でねえ。家の中では口汚く人をののしる癖に演説では歯が浮くようなことばかり言ってました。私もそれを受け継いだのか、外面も人付き合いも良くて学校などでは上手くやっていたものです。私は体力はある方じゃないので、腕っぷしの強いガキ大将に取り入って虎の威を借りていましたかね。悪いこともそれなりにはやりました。でもね、意外に疑われないんですよ。表面上は優等生で、いい家の坊ちゃんと見られていますから。いじめとか、万引きとか、窓ガラスを割ったりだとか、そういった悪どいことほど私のイメージとは違うようで、知らんぷりしていれば疑われず、なあんにもお咎めは無い。 

一度もバレたことは無いですね。私が怒られる時って言ったら成績が学年で十番以下に落ちたとか、宿題を忘れたとか、そんなのばかりなんです。いつしか悪いことっていうのは悪どくやった方が誤魔化せるものだ。というのが経験則みたいになっちゃいましたねえ。まっ、私の誤魔化し方が上手かったせいもあるのでしょうが。

そんな風に要領がいいものだから、私は仕事でも出世しましたよ。ええ。親父の後を継いで政治家になったんです。そうなると、ますますうまい汁は吸った者勝ちだ。という考えになる。一般人がチマチマとやる悪いことなんて馬鹿らしい。政治の世界で大きく悪事をやった方がバレないんだってね。ええ、悪いことはやりましたよ。その方が政治の世界では出世するんですね。ハハハ。世の中はそういうものです。

それでは本題に入りますかね。

私は十年前に結婚しまして。ええ、結構な美人でしたよ。ミス何たらかんたら国内代表の最終選考まで残ったって程の。私は若くて美しい妻を得て得意の絶頂でした。妻はどうして私のプロポーズを受けたのか。結構歳も離れていて、別に私は男前って訳でもないのにねえ。やっぱり金と権力ですか。妻は実家が貧乏でしたしねえ。まっ、それはいいんですが、やっぱり美人ってのは駄目ですねえ。いや、最初はいいんです。私も半年くらいは大満足でした。

ですが、ずっと毎日一緒に暮らすとなると、飽きるんですよ。過剰に整った顔が。どうも人工甘味料のようなくどさを感じてしまってねえ。毎日高級フランス料理のフルコースを食べさせられているようだというか。私はそんなに美食家じゃないし。毎日食べるならパスタとかマッシュポテトとかローストチキンとか、そんなので充分なんです。ええ。それなのに妻はあくまでも自分の美貌を一財産だと思っている。「若くて美人の私が結婚してあげたのよ」っていう感じが、どこかに残っているんですなあ。 

そんなだと、よその素直な娘が可愛く見えるようになりますよ。性格が良くて、話を合わせて私を適当に持ち上げてくれる娘がね。見た目は程ほどでいいんです。あとはあっちの方の相性が、・・・・・・いや、これは口が滑りました。妻が不感症だと言ってる訳じゃないですよ。へへへ。

まあ、そんなかんなで浮気した訳ですよ。ところがねえ、女の勘というのは馬鹿にしたもんじゃあないですな。軽い遊び程度の時には何も言わなかったのに、いざ本気で浮気をしだすと妻は急に嫉妬深くなる。何で分かるんですかねえ。グチャグチャと小さなことを並べ立てて追及しだしてうるさいったらない。それで一度浮気がバレましてね。すったもんだして浮気相手と別れるはめになっちゃいました。いい女だったんですがねえ。私は政治家だし、妻と離婚なんてことになったらイメージダウンは避けられない。選挙も近かったですしね。慰謝料だってがっぽり取られる。これは阿保らしいってことで、とりあえずは我慢してさやを収めた訳です。

いやいや、反省なんてしませんよ。いや、少しはしたのかな。でもそれは逆の方行へで、今度浮気する時には絶対にうまくやる。見つからないようにする。いや、見つかったとしても妻の思い通りになどなってたまるかってなもんで、作戦を考えたりもしたんです。

とりあえず、妻をほったらかしておいたのがいけなかった。人間不満がたまると何かにと人のあらを捜したくなるもんです。空腹の人が食べ物の匂いに敏感になるように神経が鋭敏になって、それで私のちょっとした変化に気づいたんじゃないかってね。だからまた浮気を始めたら、妻への家庭サービスに努めることにした。「お前、毎日家にいて家事をやっていたらストレスが溜まるんじゃないかい。たまには外へ遊びに行こうじゃないか」なんてね。妻は泳ぐのが好きだったので、海へ連れて行くことにしたんですよ。帰りにはエステに寄って高級店で買い物もする約束でね。

休日なのでいつものお付きの運転手も無く、私がハンドルを握っての二人だけのドライブです。私も車好きなもんで、たまにはこういうのもいいかな。なんて思いましたよ。新婚当時に戻ったみたいでねえ。

ところがね、女ってのは馬鹿ですねえ、せっかくサービスしてやるってんだから楽しめばいいのに「どういう風の吹き回し?」なんて疑いやがるんですよ。「君への感謝の気持ちだよ」とか答えたら、さらに眉間に皺を寄せやがるんです。答え方が不自然だと言うんですね。「まさか、あなたまた悪い病気が出たんじゃあないでしょうね」とか言いやがる。頭に来ましたねえ。こうなったら作戦その二の発動です。

いや、何ね、大したことじゃあないんですが、前回は一方的に受け身になったから完全に向こうのペースになってしまった。これじゃあいけない。だからこちらからも攻撃するべきだ。向こうが怒り出す兆候を見せたら、こっちから先手を打って怒ってやれっていうのがそれでして。ちょうどむかっ腹が立った所だったので、演技は上手くできましたよ。元々私はこういうのは上手いタチでしてね。

「君はそんなに僕が信用できないのか」

 こう怒鳴りつけてグイッとアクセルを踏み込みましたよ。まあこれも作戦のうちで、思いっきりスピードを出してやれば向こうは下手をすれば事故を起こすんじゃないかと緊張する。私の機嫌一つでこういう危険が起こる。お前の命は俺が預かっているも同然なんだぞ。というのを見せつけて、それでこっちのペースに引き込もうという考えです。

 ええ、効果はありましたよ。妻はジェットコースターとか、そういったものが苦手なタイプだったんですな。こう、両耳に手を当てるようにして「やめてっ」なんて裏返った声を上げる。普段は偉そうにしてる癖にねえ。こっちはそれが面白くて、さらにアクセルを踏み込みました。

 今考えてみれば、これが良くなかった。そうしたら、ピーポーパーポーサイレンが鳴って、後ろから警官がバイクに乗ってやって来る。「その車、停まりなさい」なんて言ってね。スピード違反です。もちろん停まりましたよ。

 私はバイクの若い警官に対し、ゆったりとした笑顔を作ってやりました。私は大物政治家だぞ。下手な扱いをしたら君の立場が悪くなるかも知れんぞ。と、そういう無言の圧力をかけようとしたのです。ですが、まったく通用しません。当たり前だったかもしれないですけどね。いつもは運転手付きの大型高級車で、私は高級スーツを着て後部座席にゆったり構えている。大物というのは一目で分かる。しかし、この日と来たら、乗っているのは金持ちのドラ息子が乗るようなスポーツカーで、自分でハンドルを握り、その上海へ行くっていうんでアロハシャツを着ているという始末。それは見る人が見れば金持なのは分かるはずだし、私が誰なのかに気づいてもいいようなもんですが、下っ端警官にそこまで求めるのは無理というものです。

警官は横柄な態度で、「免停だ」なんぞと言いやがるんです。そりゃあねえ、私は車が好きで休みの日には自分で運転することが多い。ドライブ先で事故を起こしたことくらいはありますよ。一発免停になるところを警察上層部にかけあって加減してもらった。それを今さらほじくり返すようにしてスピード違反如きで免停だなんてねえ。私は言いましたよ。「なあ君、それは無いだろう。少し考えてくれたまえよ。もちろん罰金は払うがね。少ないが取っておきたまえ」

もちろん渡したのはハッキリと賄賂だと分かる額でね。いくら馬鹿でも意味は分かるだろってなもんですよ。こんなことでまた警察の上の方へ手を回すのは面倒臭かったものでね。そしたら警官は乱杭歯を剥き出してニターッと笑いましてねえ、何事も無かったかのように敬礼してバイクに乗って去って行きました。

そしたらねえ、それを横から見ていた奴がいたんですよ。いや、見てただけじゃない。撮影してた。歩道からスマートフォンをこっちに向けて撮影機能で一部始終を撮っていやがった。パーカーを着て派手なスニーカーを履いた、通行人の若造でねえ。私の顔を知っていたようで、鬼の首を獲ったかのように喜ぶんですよ。こうヒューッと口笛を吹いて「こいつはいい動画が撮れたぜ。大物政治家の買収劇い」なんて言って、そしてすぐにその場でネットに投稿しようとする動きまで見せる。そんな事をされたらたまったもんじゃあありませんや。

私は慌てて車から降りて、その若造の手からスマートフォンを叩き落としました。話し合う暇も無い感じだったので。スピード違反で停められてしまった後なので、これ以上妻にかっこ悪い所を見せる訳にはいかない、ってな気持ちもありましたかね。

若造は「何しやがる」と憤激して落ちたスマートフォンを拾おうとした。だから私はその前に一歩前に出て足で踏み潰してやったんです。器物損壊という犯罪になりますかね。私としては、とりあえず証拠の映像さえ破壊してしまえば後は何とでもなる。スマートフォンを弁償して多めに慰謝料を与えれば、こんな若造なんぞ簡単に黙らせられる。ってな感覚でね。

しかし、これは間違いでした。若造はカンカンに怒って、私の説得に応じようとはしなかったんです。

「なあ君、よく考えたまえ。そんな映像を広めるよりも、お金をもらって口を閉じている方が得というものだろう」そう言って金を握らせようとしたんですが、イヤイヤをするように首を横に振って手を開こうとしない。

まったく最近の若者は損得勘定もできないんですかねえ、簡単な足し算なのに。学校じゃあ何を教えてるんだって話ですよ。それどころか、大きな声を上げ始める。

「政治家だからって、こんなことをしてただで済むと思うなよ。思い知らせてやる」なんてねえ。力関係からしたら痛い目を見るのはどっちなのかは分かりそうなものなのに。声を聞きつけて人が集まり始めたので、私は若造をなだめなくちゃあならなくなってしまいました。ええ、スマートフォンを壊したことについては謝って、この場じゃあ何だから場所を移して話をしましょうってね。

 まったくつまらぬことで休日の予定が狂っちまった。場所を変えたら若造は「弁償代に慰謝料を付けて払った上に公共の場で謝罪しろ。その映像をネットに流せ」なんていう要求をして来るんですよ。まったく無茶苦茶な話で、いったい何を考えているんだか。事をおおやけにしたくないから慰謝料を払うっていうのにその意味すら分からないとは本物の馬鹿ですね。

私は若造の立場をわきまえない増長ぶりに腹が立って、社会のためにもこういう輩をのさばらせてはいけないと思いました。ええ。こういう時には力で分からせてやるに限ります。今思えば弁護士に連絡すべきだったんでしょうけど、マフィアの顔役に電話しちゃったんです。ええ、マフィアとは以前から懇意にしていて、揉め事を潰す仕事を何度か頼んだことがある。その便利さを知っていたので、つい、ね。私も世間とは感覚がズレていたんでしょうなあ。

「話の分からない若造からごねられている。お灸をすえて黙らせてくれないか」てなもんで、もちろん連中は二つ返事で駆けつけて来ましたよ。私は後を彼らに任せて妻と海水浴場へ行ったという訳です。

 まあ何とか、ご機嫌取りと逆切れの押したり引いたり作戦が功を奏しまして、ショッピングを終えて帰る頃には妻は機嫌を直して浮気の疑いも引っ込んだようすでした。ああ、やれやれと思ったそこへ、マフィアの連中から報告の電話が入ります。若造には殴る蹴るの制裁を加えた。その上、銃を突き付けてロシアンルーレット式で脅してやったからもう文句はつけてくるまい。とのことで、ああやっぱり餅は餅屋だと胸がスッとしましたよ。ハハハ。

 それで終われば良かったんですけどねえ・・・・・・。

 あっ、どうも。水をお願いできますか。喉がカラカラなんで。まったくここは暑いですなあ。水分を補給しなかったら口が回りゃあしませんや。はあ、それも駄目ですか。中々厳しいですねえ。まっ、いいですが。

どこまで話しましたっけ。若造を懲らしめたところまで、ですね。

 ええ、話はそれで終わらなかったんですよ。若造の野郎、あきらめが悪くてね。とんでもないところへ助けを求めやがった。いや、弁護士なんかじゃないですよ。若造はヒスパニック系で、親戚にギャング団の人間がいたんですな。それも組織の中じゃあそれなりの地位だったらしくてね。どうりであの野郎、私を相手にした時も態度が大きかった訳だ。いざとなったら親戚にギャング団員がいるのを持ち出して、それで私を威嚇できると踏んでたんですねえ。畜生、それならそうと早く言えばいいのに。切り札が一つしか無いのに出し惜しみしやがって。

 問題はね。その若造が泣きついたヒスパニック系ギャング団と私が懇意にしているマフィアは、激しい縄張り争いをしていて一触即発の状態にあった。ということなんです。ええ、この揉め事は単なる物を壊したの暴力をを振るったののトラブルじゃあ済まなくなりました。二つの大きな暴力組織の衝突点に発展してしまったんです。

 とは言っても、いきなりドンパチ、じゃあありませんよ。裏の社会にもルールってものがありましてね。一応最初は話し合いをして、それが拗れたら力で、となるのが順序。ギャング団の奴らも、まずは金を出せと言って来た。賠償金やら治療費やらを、謝る気持ちを込めて多めに積めばチャラにするということですな。まあ要求としては分からないではない。私もこうなったら仕方がない、常識的な額なら応じてもいいと腹をくくりましたよ。

ですがね、すぐにそれを言い出したらいけない。最初に下手に出たら、足元を見られて思いっきり吹っ掛けられるに決まっていますからね。マフィアの連中には「ギャング団との交渉ではとにかく最初は強気に出てくれ」とお願いしましたよ。

 妻との駆け引きが上手く行って、やっぱり強気に出た方が結果がいい。というのが経験としてあったもんだからそれを当てはめようとしたんですが、まずかったかなあ。ハハハ。あんまり上手くはいかなかった。

 元々マフィアは血の気が多いんだから、強気に出ろなんて言ったのは火に油を注ぐようなものでしたね。若造を脅す時にも銃を突き付けてロシアンルーレットまがいのことをやらせたくらいの連中なんだから。ほっといたって喧嘩腰の折衝にはなる。ヒス系ギャング団もそれをちゃんと考えていて、交渉の場に銃を持ち込んで来た。ちょっとしたきっかけで撃ち合いが起こりかねない状況だった訳ですよ。ええ、実際にそれは起っちゃった。

 最初に発砲したきっかけが何だったのかは、私はその場にいなかったから分からない。多分つまらない事だったんでしょう。相手のちょっとした動きを銃を抜こうとしていると勘違いしたとかいったような。ですが、それで放たれた一発の弾がその場にいたマフィアの兄貴分の胸を撃ち抜いちまったらしいんですな。もう治まりはつきませんや。たちまち撃ち合いになって先制攻撃を食らったマフィアは全滅。ギャング団も撃たれたが、死者までは出なかった。

この不均衡も良くなかったですねえ。双方同じ被害なら痛み分け的に手打ちに持っていく事も可能だったでしょうが、一方的に皆殺しにされて、マフィアがその後黙っている訳はありませんや。もちろん報復となりました。倍返しでね。それに対してギャング団も報復を返し、双方の幹部が撃ち殺されるってな事態にまで発展して血で血を洗う全面抗争になった。

抗争は、半年ばかり続きましたかねえ。その間に死んだ人は流れ弾に当たった一般人を含めて五十人を超えた。もう私はどうにでもなれってな気分でした。だってそうでしょう。元はと言えばスピード違反で、それを誤魔化すために買収をし、さらにそれを誤魔化すために器物破損、またそれを誤魔化すために暴行、それがさらには殺人へと発展して行ったんですから。あれよあれよってなもんですよ。

 話がここで終わったらまだ良かったんですけどねえ・・・・・・。

 困ったことにマスコミがこの抗争事件を熱心に取材してまして。正義派を気取った新聞社が、特集を組んで事件の核心を暴く的な報道をし始めたんですな。「この抗争事件の陰には大物政治家が」、的な論調でねえ。一応匿名にはしていますが私のことを言っているのは明らかでした。

 ですがねえ、結構ピントはずれているんですよ。私が裏社会のすべてを手中に収めるためにマフィアをけしかけてギャング団を潰しにかかっている。とか、国家諜報部の長官とも通じていて、諜報部やマフィアと手を組んだ大掛かりな政治的陰謀を画策している。とかねえ。そりゃあ私は国家諜報部の長官とは仲が良かったが、それは右翼系鷹派の権力者側という共通点があって気が合ったというだけでねえ。

 えっ、私の右翼主義ですか。いやあ、私のはなんちゃって右翼で、ただ威勢のいいことを言ってれば右傾向の人たちは喜ぶので、簡単に人気を集めるのにはソッチ系の立場を取っていた方が有利だっていうだけのものですよ。私は演説が上手かったので、それを最大限に生かすには威勢よく振る舞うに限る。そのためには右の立場で。とね。合理的でしょう。

 私は新聞記事に困ってしまい、国家諜報部長官に相談しました。彼なら情報には通じているし、良からぬ噂を記事にされて迷惑しているということでは同じ仲間なんだから何とかしてくれるかも知れないと思ったんです。

 ああ、その前に、その国家諜報部がどういう組織かについて説明しておいた方がいいですかね。

私の国は小国なので、先進大国とは作りがだいぶ違っている。十五前まで軍事政権が続いた名残りで今だに軍の力が強く、警察はその傘下にいると言ってもいいような状態です。国内外の情報を収集管理する国家諜報部も、軍事政権の時に発達して今だに大きな組織網を保持している。軍事と国内治安に関する情報を一括管理し、盗聴などによる情報収集も当然行う。場合によっては超法規的な謀略活動もやると噂されてもいます。

まあ、一般市民が絶対に敵に回したくない、独裁者が権力を固めるために利用しようと思えばいくらでもできる組織と考えればいいでしょうか。今の首相は穏健派なのでこういった組織の力を弱める方向に動いていますが、しっかりと抑え込めるかどうかは軍同様に不透明といった状態です。

考えてみると、新聞社もよく国家諜報部長官を批判するような記事を書いたもんですねえ。首相の政策が功を奏して今では諜報部も骨抜きだとでも思っていたんでしょうか。とんでもない感違いです。

ともあれ私は国家諜報部長官に相談してみた。そうしたらねえ、彼は私以上に怒っていたんです。無理はないかもしれませんね。私のような政治家は基本的に目立ちたがり屋で、人の目につくのは慣れている。ある程度は有名税的なものも覚悟しているという所はあるんですが、役人は完全に裏方で、特に諜報部長官なんてのは誰よりも秘密を重んじる立場。他人の秘密情報は誰よりも知っていたいが、自分については絶対に誰にも知られたくない。そういう感覚で生きてきた人です。

人柄もそれを反映して、陰険な所がありましたかねえ。しつこいというか、妥協を知らないというか。今考えると、少し性格に問題があったかも知れないですね。優秀はすごく優秀なんですが、どこか血の通わない冷たい所が感じられました。身体つきも小柄で頭でっかちで、ちょっと蟻っぽい。フリークっぽい雰囲気もあったかなあ。

その彼がねえ、言うんですよ。「盗聴などをして詳しく調べた結果分かったんだが、あの新聞社ではあなたがマフィアと繋がっている証拠を完全に掴んだようだ。近々実名でそれを報道しようとしている。どうしますか」ってね。

「どうしますか」って言われてもねえ。そりゃあ私は今回の件に限らずマフィアを使って悪どいことを散々やってきたので、それを報道されたら一巻の終わりだ。だからと言ってどうすりゃいいんですかって話ですよ。そうしたらねえ、長官はニタリと笑うんですな。蛇のような、酷薄そうな表情でね。

「何とかできないこともない」低く抑えた声でそう言いました。その内容を、詳しく聞いて驚きましたよ。何と、「新聞社を丸ごと爆破すればいい」って言うんですな。ははあ。私もたいがいは悪い方だと自認していましたが、上には上がいるんですな。勉強になりましたよ。でもね、よくよくその計画を聞けば合理性はあった。さすが諜報部長官、よく考えてある。・・・・・・とか言ったら、今となってはお笑い草ですが、とにかくその時の私にはよく練られた計画だと思えたんです。

 長官は、「新聞社を爆破してもテロ組織の犯行に見せかければ大丈夫だ」と言うんですな。言われてみれば最近はテロ組織による爆破事件が続発していて、「我々の主義主張に反するマスコミもテロの標的にする」的な声明が発表されたばかりだったんです。そして私の悪事を暴こうとしている新聞社は、テロ組織糾弾の急先鋒でもあった。さすが正義派を自認するだけのことはありますな。

 国家諜報部長官は頻発するテロに手を焼き苛立っていた。こんなテロ組織なんぞに好き勝手に暴れられたら治安を手中にしていると自認している諜報組織の名折れ。軍や警察とも協力して何としてでも叩き潰さなければならない。と考えていた。だがあまりに強引にやったら政治家や国民や、その他もろもろからの反発を招く。だから反発が出なくなる程の大きな事件を起こしてテロ組織の犯行に見せかければ、国民総応援の元に無茶苦茶強引なテロ組織一掃作戦を実行できる。という訳です。同時に私を仲間に引き込めば、政治家方面への根回しもできて一石二鳥だという計算ですな。

 テロ組織を犯人に見せかける具体的な方法についても説明してくれましたよ。爆弾はテロ組織が使用するのと同じものを使い、新聞社近辺の防犯カメラにテロ組織の一員らしき人物が映り込むよう細工をする。犯行声明も科学的に分析して作った精巧なものを用意する。エトセトラ、エトセトラ・・・・・・。

 私はそれらの専門知識を動員した話に、騙されてしまったのかも知れないですねえ。よくよく考えれば「新聞社が私の悪事の証拠を掴んでそれを報道しようとしている」なんていうのは長官から知らされたからそう思っただけで、本当かどうか何て分かりやしない。そう気づいたのは大分後になってからのことで、後の祭りなんですが・・・・・・。

まあ、その時には身の破滅が迫っていると信じて気持ちが動転していたし、長官の話の持って行き方も上手かった。それにね、私は少々後悔してもいたんです。あの例の、すべての始まりとなった若造の件ですよ。私はマフィアに若造を黙らせるように頼んだが、どうしてあの時にもう一歩踏み込んで「永遠に口を利けないようにしろ」と言わなかったのか。

ええ、あの若造一人さえいなくなればね。その後にマフィアとギャング団の抗争が始まることも無く、五十人を超える死者が出ることも無かった。流れ弾に当たって善良な市民が死ぬことも無く、そして今こうしてさらなる困難に直面することも無かったのにって。そう思わない訳にはいかないですよねえ。

やっぱり悪事というのは大胆にやった方が発覚しない。徹底的にやるべきなんだ。と子供の頃からの経験則を今さらながらに思い出したりしていたんです。

だから私は思い切りましたよ。「えーい、こうなりゃあ毒を食らわば皿までだ。どうせこのままじゃ身の破滅なら、やってやろうじゃないか」てなもんで。ええ、新聞社爆破計画にゴーサインを出し、積極的に関わることにしたんです。

それからは話が早かった。新聞社がボーンと吹っ飛ぶまでがほんの三日です。ええ、計画は成功しましたよ。死者が六十二人。負傷者は、ええと何人だったかな。覚えてないですが、とにかく新聞を出すどころじゃなくなったのは確かです。その後の国家諜報部長官主導によるテロ組織一掃作戦もすごかったですねえ。軍隊を動員してテロ組織アジトに突入して小型ミサイル砲をぶっ放して皆殺しって騒ぎ。

一般人の犠牲者も三人ばかり出てしまいましたが。でもねえ、これに関しては私はいいことをしたと思ってますよ。国内のテロ組織は根絶されて、テロ事件は大幅に減りましたからね。ハッハッハ。奴らが言ってる政治的な主張の中身がどんなのかは知らないが、あんな奴らを野放しにしていたら新たなテロで死者が増えるだけだってもんです。

国家諜報部長官は自分の力をまざまざと見せつけて権力を盤石なものにし、私も積極的に動いて大いに名を売ることができた。いつしか国内のタカ派政治家のリーダーだと言われるまでになったんです。

しばらくの間はいい事ずくめでした。

しかしね、やっぱりいいことばかりは続かない。新聞社爆破事件について、疑惑が囁かれるようになってきたんです。

いったいどこから情報が洩れたのか。最初のうちはまったく分からず、まるで狐につままれたようだったですねえ。驚いたことに、ネットに私と国家諜報部長官の会話の録音音声が流出していたんです。それも結構きわどい内容で、「それにしても新聞社の爆破は上手く行ったなあ」「諜報部の力をもってすれば当然の結果ですよ」とか、そんなやり取りまであったんだから。まあネットっていうのは出まかせが多いので、それを聞いても半信半疑の人は多かった。私らも「こんなものはフェイクだ」と言って誤魔化そうとしたんですが、火種は中々消えない。 

その頃には私も大物になり過ぎていたんですかねえ。政治家までがその騒ぎに乗って、「専門家の分析で本物の音声だと分かった」などと言ってわざわざ国会で取り上げて、よってたかって私を攻撃してくる始末。国会ってのは政策を決める場であって個人攻撃をする場じゃないってのに。自分だって裏じゃあ悪いことをしている癖にねえ。

えっ? 殺人まではやってない? まあ、そうかもしれないですけどね。私の言ってるのは悪人仲間の癖にって事ですよ。

後で分かったんですが、どうやら情報を流したのは国家諜報部内部の人間だったらしいですね。それも長官自らが目をかけて出世させてやった若手幹部だった。いったい何をトチ狂ったんですかねえ。まさか今さら正義感に目覚めたなんてことは無いと思うんですが。もちろんそいつは長官によって消されました。あっ、ついでに言うと、最初に私に難癖をつけて来た若造も、その頃には海に沈められてました。私に命じられたマフィアの手によってね。ハハハ。

しかしね、火元の人物を始末したからと言って疑惑が晴れる訳じゃあない。

私はまたもや困っちゃいました。国家諜報部長官も同様です。私らは再び相談をしまして、この危機を乗り越えるためにはこんなスキャンダルなどどうでも良くなるような事態を引き起こすしかないと話がまとまりましたよ。もうこの頃には私もこの事態の一連の流れが分かってきていまして、これまでと同じことをやればいいって考えになってました。

はい。テロの次って言ったら戦争ですね。

幸い・・・・・・って言ったらいいのかどうか分かりませんが、その頃わが国と隣のB国の間には領有権問題が発生していまして、一つの島をめぐってお互いに我が国の領土だと主張しあって小競り合いが起こるといった状態にあったんです。近海で漁船同士が衝突したり、民間の右翼活動家が上陸して旗を立てたりといった事があった後、お互いに軍の船が乗り出して来て島を挟んで睨み合うといった状態になってた。軍の飛行機も島の上空を飛んだりしてます。

そういう所へね、軍事情報をも扱っている国家諜報部が意図的に偽情報を流す訳ですよ。B国戦艦が発砲してきたとか、B国戦闘機が爆撃作戦を敢行する模様だとか、そういったたぐいの情報をね。どうなりますか。いや、本当のことを言えばどうともならない。現場の兵だって馬鹿じゃあないから自分で確認して間違った情報らしいと判断するでしょう。おそらくはね。しかし、その軍の一部に戦闘を誘発するような行動を取れという指令を受けた兵が混じっていたらどうなるか。

国家諜報部長官は、それを行う用意があるという軍の幹部を紹介してくれました。

軍内部には野望を抱く不平分子と言いますか、軍事政権時代に青春時代を送ってその夢を捨てきれないでいる一派がいたんですね。軍事政権が終わった時にはまだ若手で、そう高い地位にいた訳じゃあないから排除されなかったが、今は出世してそれなりの兵を動かせる。時代が時代なら国のトップに立てる可能性もあったのに。などと考えている時代錯誤の馬鹿者です。

時間を軍事政権時代に巻き戻すためには、一番いいのは戦争を起こすこと。そうすれば軍の存在感は嫌がおうにも高まり、戦いに勝利した暁には政治に口を出せる所まで軍の発言権は高まっているかもしれない・・・・・・。

困ったことに、それはまったくの絵空事とは言い切れないんですな。我が国のような歴史の浅い小国においてはね。

その連中のリーダーだという軍幹部の顔を最初見た時には厭な予感がしましたよ。どこか国家諜報部長官と同質な、昏い目の光りがあるんですな。長官とは違って軍人らしく筋肉質でシャキッと背筋が伸びていましたが、頬がこけて頭は禿げてまるでガイコツのようだった。類は友を呼ぶと言いますか、ちょっと危ない雰囲気がある。さすが長官の友人だなと思いましたよ。

ともあれ、これで体制は整いました。情報操作は長官がやり、現場での戦闘誘発行動はガイコツ軍幹部の一派がやる。政治家への根回しは私の担当です。戦争になるB国は我が国よりも国土は広いが、人口、資源共に少なく、数年前からの経済危機により国力が疲弊している。ほどほどに戦って勝利するには格好の相手でもありました。

こんなことを言ったら不謹慎かもしれませんが、私らにはどこかワクワクするような、浮ついた気分がありました。何と言っても戦争ですからねえ。善悪はともかくとして、一般人の想像を超えたような大きなことをするのは、気分の高揚が伴うもんです。自分が一回り大きくなったような気がしてねえ。

本当にそんな事が私らにできるのか? いや、できる。できるはずだ。てなもんで。ロケットを月へ飛ばしたアポロ計画の関係者はこんな気持ちだったかもしれないな、などと思ったもんです。

ええ、計画は上手く行きましたよ。

B国も、よっぽど国内が混乱していたんでしょうねえ。こっちの戦闘誘発行動にあっさり乗って、思いもかけず簡単に戦闘機で攻撃してきた。戦闘は激烈だったが、元々我が国の方が軍の装備は整っている。計算通りに戦闘は次第に優勢になりました。制海権を手にすると、一気にB国本土へと攻め込みましたよ。もちろん私は大いに旗を振って、不埒なB国は懲らしめるべきという世論を盛り上げて戦争続行を首相に迫った。

目論見は大成功でしたねえ。もうこんな状態じゃあ、私らのスキャンダルなんて追及する人はいなくなった。しょせんは国民が退屈しているからこその追求騒ぎだったと知りましたよ。

そしてね、この戦争は、思いがけない果実を私にもたらしたりもしたんです。首相は根っからの平和主義者で、戦争なんていう事態には向かなかった。当然優柔不断な態度になる訳で、そんな事で戦争に勝てるのかと、国民の不満は高まる。

B国は自分の国だけでは戦争に勝てないと見て大国に助けを求めましてねえ、その結果R大国が力を貸して最新兵器を大量に提供してきた。それで我が国の旗色が悪くなってしまったんです。B国は攻め込んだ我が軍を押し返し、逆に我が国本土まで攻め込もうという勢いを見せていた。

国民の間に悲鳴が上がりました。機を見るに敏と言いますか、ガイコツ軍幹部はそのチャンスを見逃さなかったんです。彼は私の想像を越えた野心家だったんですなあ。国家諜報部長官とも協力し、兵を動かして一気に国会を制圧しました。

ええ、クーデターです。大義名分は、「このままでは国が破滅してしまうから、軍を中心にして国をまとめてB国と戦う他はない」といったようなものです。まあ、一理ないこともないんですが、その戦争を起こしたのがガイコツ軍幹部自身なんだから、なにをかをいわんやです。

驚いたことにクーデターは成功しましたよ。そしてガイコツ軍幹部は、私を首相の座に据えた。

まあ、名目だけの傀儡に近いんですが、それでも嬉しかったですね。元々私が政治家になったのも、中身が伴わない上っ面だけのことだったんだし、それで曲がりなりにも首相になってしまったってのはねえ、感慨深い訳ですよ。ハッハッハッ。あるいはこの時が、私の人生の絶頂だったかも知れないですねえ。

私が首相になって最初にやったことですか? それはもちろん大国に助けを求めることですよ。向こうがその気なら、こっちだってやるに決まっているじゃないですか。R大国の最大のライバル、U大国に速攻で助けを求めた。「このままだと我が国で産出する希少金属の利権がR国に奪われちゃいますよ。助けてくれたら無条件で採掘権を差し上げますからあっ」て、美味しい条件を付けてね。

そうしたら、大国ってのはさすがですねえ、驚くような速さで援軍を差し向けてくれました。希少金属の利権がよっぽど欲しかったんでしょうねえ。

本当に、一歩遅れたらお終いっていう所だったんですよ。その時にはR国を後ろ盾にしたB国は我が国の本土まで攻めて来ていまして、首都が総攻撃される寸前だった。私にもまだ悪運が残っていたっていう所ですか。

U国軍は世界最強と言われるだけあってさすがに強かった。B国軍を押し返し、戦況はまた我が国の有利になって来た。あと一歩でB国軍を我が国土から一掃できるという所まで来たんです。そうしたらねえ、B国はどうしたと思います? 国際条約で禁止されている化学兵器を使って来やがったんですよ。B国の指導者は悪名高い独裁者で、かねがね悪い奴だと思っていたが、こっそりと化学兵器を作ってため込んでいやがったんですなあ。自分の国内ではそんなものは危なくて使えない。だから敵国内で戦闘が行われているうちに使っちまえ、となったんですな。まったくいい加減な奴で。

その被害は酷いもんでした。さすがに国際法で禁じられているだけの事はありますな。最強のU国軍も、さすかにこれには手を焼いて戦況不利とならざるを得なかった。また首都総攻撃の恐怖が蘇った訳です。しかも今度は化学兵器というおまけつきでね。

私はたまらずU国大統領に泣きつきましたよ。「もう何でもいいから助けてくれえ。奴らが禁止されている化学兵器を使うなら、こっちもその上を行く兵器を使えばいいじゃないですか。核兵器でやっつけちゃって下さい」てな感じでね。

いえ、言ってみただけです。これまでの流れから言ったら普通の戦争の尻ぬぐいをするには国際条約を破った犯罪的戦争。さらに大きな犯罪的行為で窮地を脱すればいい、となる。理屈では分かっているんですが、まさかねえ。超大国の大統領ともあろう人が核兵器の使用に同意するとは思いませんでした。

ええ、今のU国の大統領は右傾向が強くて人種差別的な、ポピュリズム的人物だ。という評判は聞いていましたよ。怒りっぽくて、外交でも無茶な要求を次々他国に押し付けるので国際社会の迷惑になっている。それは知っていました。ですがねえ、あそこまで短気で後先を考えない自分勝手な人物だとはねえ。驚きました。世も末です。U国大統領は私以上にB国から化学兵器を使われた事に怒り心頭だったんですな。だから私から懇願されるとポーンと核兵器の使用ボタンを押しちゃった。

ハッハッハッ。笑うしかないとはこの事ですな。

・・・・・・。どうなるかは、分かりますよね。

ええ、その後の展開については私も思い出したくない感じですし、みなさんも良く知っておられるでしょう。B国の後ろ盾になったR国は、U国と同じくらい核兵器を大量に持っています。これまでは絶対に使わないと、暗黙のうちに取り決めがしてあったのが破られたんですから。

しかも悪い事にはB国内にはR国軍が秘密裡に駐留していたんですなあ。主に兵器の運搬と戦闘の指揮をするためだったらしいんですが、それが丸ごと核兵器の犠牲になってしまった訳ですから。ええ、全面的な核戦争に、発展しますよねえ・・・・・・。

ハハハ。それでは私の話はこの辺でおしまいという事にしていいですか。話すことはもう残ってはいないんです。

本当に間が悪いっていうことはあるもんで。最初はほんのちょっとした小さなことだったんですがねえ。私はそれを誤魔化そうとしただけなんで。ええ、元は浮気を誤魔化そうとしただけなんですから。そう大した罪じゃあないんですよ。運が悪かった。と、それだけでしてね。事態を悪化させたのはマフィアや国家諜報部長官や軍内部の不平一派の連中で、私は彼らに引きずり回されただけなんです。だからなるべく寛大な処分を、お願いしたいんですがねえ。

しかしここは暑いですねえ。いや、暑いなんてものじゃない。文字違いの熱い、ですか。こんなに火が燃えていちゃあお勤めする方々も大変ですね。えっ、人間じゃないから大丈夫? ごもっともです。

それじゃあ、もうそろそろ判決を出していただけますか。後ろにはまだ七十億人近い人が控えていますんで、お早めの処分決定がよろしいかと。

こうパーンと思いっきりよく、天国行きっていうハンコを押していただけたら嬉しいんですがねえ。そんな訳にはいかないですか。

本当にねえ、間が悪かっただけなんですよ。うん。運が悪かっただけ。これだけ不運が続くっていうことは、ひょっとしたら神様も、もうそろそろ人類を滅ぼそうと考えられておられたんじゃあないですかねえ。人類は神様の教えをろくすっぽ守らないで、ろくでもない事ばっかりやってきましたから。だとすると私は神様の思し召しをお助けしただけ。かえってよくやったと褒められてもいい立場なんじゃないですか。

ねえ、もう一度だけ確認して下さいよ。きっとこの件には神様の意思も働いているに違いないんだから。そうでなければ私のような者がこんな大きな事件に関われるもんですか。私はノアとか、えーと、あと誰ですか。名前は知らないがソドムやゴモラの町が焼き尽くされるのに協力した者なんかと同じなんです。

だから、ね。もう一度確認してから、天国行きの判決を、出して下さいよう。ねっ、ねっ、ねっ、私は何も悪いことはしていない。ただ運が悪かっただけの小人物に過ぎないんですから。お願いですよう・・・・・・。

 

 

「頭は帽子のためにある」奇想小説。

私は最初、一次元の存在に過ぎませんでした。

 体はただ線のように細く長く伸びているだけで、幅も厚みもまったくありません。周りの世界がどういうものなのかも分からず、ただ自分が存在していると気がついて、漠然とした不安のようなものを覚えるばかりだったのです。                           

「私」と申しましたが、「私たち」と言った方が妥当かも知れません。というのも、私は生まれると間もなく大勢の仲間と一緒にされて平行に並べられ、さらに大勢の仲間たちと十字型に合体させられてしまったからです。一緒にいた仲間は数千、いえ、万の単位はいましたでしょうか。

 私たちは工場のような場所で、ガシャンガシャンと上下する櫛目のついた鉄板状の機械によって組み合わされて行きました。いったいどういう仕組みだったのか、今考えても不思議ですが、鉄板機械の下を通った後の私たちの体は二次元になっていたのです。

 とは言っても、最初はそのことに戸惑うばかりで自分が高度な存在になったのだとは気づきませんでした。

周囲でひしめく仲間たちも思いは同じだったようで、あちこちから困惑する声が聞こえてきました。

「どうしてこんなことになってしまったんだろう」

「こんなにぎっちりと隙間なく組み合わされてしまったら窮屈でしょうがない」

「まったくだ。これじゃあ身動できないじゃないか」

 しかし、その思いは間もなく消えて行きました。一時の混乱から脱してみると、この状態は大変安定していて心地よいものだと分かってきたからです。これまでの一本の線に過ぎない状態が、いかに不安定だったのかに気づかされたと言ってもいいでしょう。

 ほんの僅かづつ先へと進むにしたがって、組み合わされて平面になった面積が広がってゆくと、私は体から力が湧いてくるような気がしてきました。

自分の体が広がって行く充実感を感じたのです。最初に戸惑いを感じたのは、単に平面化した面積が小さかったからこの感覚を感じ取れなかったに過ぎないのだと、だんだんに分かってきました。

周りを見ても、組み合わされた仲間たちは、同じ感覚を感じ始めているようでした。しばらくすると不安を口にする者はなくなり、前向きな言葉が飛び交い始めたのです。

「よく考えると、この状態も悪くないものだな」

「そうね。もう私は一人じゃないんだわ」

「広がった。自分は仲間と一緒になって広がって行っているんだ」

「ああ新しい体で世界を感じる。世界は一本線の周囲だけじゃなかった。もっと広がりを持っていたんだ」

 そんな感激した声が、あちこちから聞こえてくるようになったのです。そしてそれは、一本の線に過ぎなかった自分が、他の多くの仲間と同化して、共同の自意識を形作り始めている兆候でもあったでしょう。私たちはしばらくすると二次元化した自分を「私たち」とは思わなくなり、一つの「私」として認識するようになって行ったのです。

しょせんは一本の線が持つ自意識などは、孤独に耐えられないちっぽけな存在だったのかもしれません。だからこそ平面化した私たちの心はすぐに一つにまとまって、神経シナプスが結合するようにして一つの人格を形作って行けたのです。私は線である一人の私から、平面である一人の私になりました。

そして私はコンベアーの上に乗せられて進み、もう一つの鉄板状機械が設置してある場所へと近づいて行きました。私はそこへ行くのが待ち遠しかったのです。少し前に経験した線から平面へと変わる体験が素晴らしかったので、今度もあの鉄板によって自分をより高度な存在に変えてもらえるのではないか。ひょっとしたら平面を乗り越えて、立体の存在へと昇格させてもらえるのではないか。と、そんな期待を抱いたのです。

しかし、いざその下を通りますと、どうしたことか鉄板はいっこうに動こうとしません。前の鉄板は私の体がその場に差し掛かるとたちまち激しく仕事を始めたというのに、今回のそれは私の体が数十センチ通り過ぎても一メートル通り過ぎても微動だにしないのです。

私はがっかりし、そして自分の先端部に、奇妙な力が作用しているのに気づきました。平面だった床がある地点から急激に反り返り、私は先端部から引っ張られ、小さな円を描いて一本の棒に巻き取られつつあったのです。私の体は何重にも折り重なって、極限まで縮こまった一本のロールになって行きました。せっかく平面の体になって世界が感じられたのに、すぐにこんなに窮屈な状態にされてしまうとは、まったく納得のいかないことでした。

私は思わず「やめてくれえー」と叫びました。しかしその声はあまりにも小さく、虚しく宙に吸い込まれるばかりだったのです。

巻き取る機械の力はさほど強いものではなかったかもしれません。ですが私には、抵抗する力はありませんでした。私の体は、空気と触れ合うことすらままならない状態に巻かれて行ったのです。

そして、私がそんな姿になり果てたのを見計らったように、第二の鉄板はついに動きました。私の体の、まだロールに巻かれていない部分へと落ちてきたのです。

ザクッ。そんな音が聞こえると同時に痛みが走りました。そして私はその地点から後ろの感覚が無くなってしまったのです。

恐ろしいことに第二の鉄版は、先端に刃のついたギロチンでした。それが落ちたことにより、私の体は一刀両断に切断されてしまったのです。

そして私は一本のロールとなりました。ミミズの体の先が切断されても短くなった先っぽだけで生きてゆけるように、後方の自分の体と切り離されても私が存在するのに支障はありません。私のような存在は、大きくなったら大きくなったように、小さくなったら小さくなったように、その時々の自分の形に順応してゆく他はないのです。

・・・・・・もうお分かりでしょうが、私はこうやって一反のロールに巻かれた布地となったのです。そしてその後はトラックに乗せられて、卸問屋へと運ばれて行きました。

 

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卸問屋での私の生活を言う前に、まず布地になった私が人間というものをどう思ったかについて話した方がいいかもしれません。

工場の中で働く人間たちを初めて見た時、私は彼らは工場にある機械の下僕なのだと思いました。工場の中ではどう見ても機械の方が堂々として力強く動いており、人間はその周囲でセカセカ動き回って召使いのように機械の世話をしているようにしか見えなかったからです。私たちを運んだりする時も何となく遠慮がちで傷つけまいとするようすがうかがえましたので、あるいは私たちよりも下の存在なのではないか、などと不遜にも思ったりしていたのです。

彼らは自分の力で動くことができる立体の存在ではありましたが、きっと立体の世界の中では最下層に属するのだろう。私たちが立体に昇格した後には、私たちも工場内の大型機械と同じように堂々と彼らを召使いにできるのだろう、などと考えていたのです。

しかしその考えを鼻で嗤った者がおりました。他ならぬ、人間たちが着ている作業着です。私が人間の手に抱えられてトラックに運び込まれる時のことでした。

「おい、新参者。人間から大事に運んでもらって殿様扱いされているとでも思っているか。最初だけだぜ。お前たちはこれから運ばれた先で細かく切り刻まれて縫い合わされるんだ。この俺のようにな。その後は人間の体を保護する防具として擦り切れるまでこき使われるんだ」

 そう言われた時は大変驚きました。というのも、汚れて皺だらけの彼の外見はみすぼらしくて、とても私たちの仲間だとは思えなかったからです。てっきり人間の体の一部なのだろうと思っていたら「お前と同じ仲間だ」と言うのですから。とても混乱させられました。しかし、彼の材質は私と同じであるように思えるのです。

 私はそれは本当なのかと訊き返そうとしました。ですが、作業着を着た人間は私を置くとすぐにその場を離れてボックス型の荷台の扉を閉めてしまったので、そのチャンスは失われてしまったのです。

 私は暗闇の中に取り残されました。とは言っても、そばには大勢の布地の仲間がおりましたので、そう寂しくはなかったのですが。

 トラックが走り出し、大きな振動がしだすと、私は不安になって周囲にいた仲間たちに訊いてみました。

「ついさっき、人間が着ている作業着から私たちはこれから運ばれる先で切り刻まれて縫い合わされると教えられたんですけど。本当ですかね」

「嘘に決まってる」

 すぐに奥の方から威勢のいい声が飛びましたが、それに賛同する声は続きませんでした。私のすぐ近くで作業着の声を耳にしていた仲間は言います。

「しかし、人間に着られていたあいつは確かに切られて縫い合わされたような姿をしていた」

 あたりはシンとなりました。

これからの自分たちの扱われ方を不安に思っているのはみんな同じだったようです。

その後は、いろいろな意見が飛び交い始めます。

「そうですね。ひょっとしたらあいつの言っていたことは本当なのかもしれない」

「嫌だなあ。切られたり縫われたりするなんて」

「俺は別に切られてもいいよ。どうせ一度は切られた身だ。そうやって立体にしてもらえるのならそれでいい」

「立体の体に、なりたいものですね」

「ええ、本当に」

「立体になれなかったら生まれてきた価値がないよ」

 私たちの望みは、立体になることでした。縮こまりきったロールの身を再び開き、平面をよりのびのびとして実体のある立体へと進化させる。ただ物質としての本能に従って、そのことのみを希求していたと言ってもよいでしょう。

その時にはまだ知らなかったのです。私たちは永久に本当の意味での立体にはなれないのだということを。仮りに切られて縫い合わされて服になったとしても、人間に着てもらわない限りは平面の域を脱することはできない。そして人間に着てもらった時にさえ、かりそめの立体になったに過ぎない儚い存在だとは、どうして想像できたでしょう。

 それでも私たちは自分の立体化を夢見ないではおれないのです。

それがどれだけ業が深いことであるのかは、これからの私の人生ならぬ布生で、この身を焼き尽くさんばかりに思い知らされることになるのですが、生まれたばかりの私には、そこまで想像することはできませんでした。

 私は卸問屋に運ばれて、いったんは在庫置き場に安置されたのです。

 

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卸問屋の在庫置き場は、居心地のいい場所でした。さすが私たちを保管するために作られただけあって、温度も湿度も快適です。私はそこで、布にはさまざまな色や模様をしたものがあるのだと知りました。赤や黄や緑や、チェックや水玉、花柄まで。

工場で作られた私たちは無地の黒色でしたし、工員が着ていた作業着は地味な青一色。布というのは皆そのようなものだと思っていましたので、新鮮な驚きでした。そして、無地の黒にしか過ぎない自分はいかにも野暮ったい田舎者のようで、気恥ずかしくも思えたのです。

しかしすぐ隣りに置いてあった花柄の先輩布地は、そんな私を慰めてくれました。

「でもあなたは布地としては質がいいわよ。きっと上等な服に仕立ててもらえるんじゃないかしら」

 どうやら私たち布地というものは服にしてもらう他には利用価値が無いものだと、私はここに来てすぐに知りました。在庫置き場には人間が時々やって来るので、その人たちの着ている服から情報をもらえたのです。そして、それはそう悪いものではないと、同時に知らされもしたのです。

 作業着は仕事をするために作られた服なので、使い捨て的な扱いをされて大事にされない。でも、ちゃんと上等に仕立てられた服なら大事にしてもらえる。そして人間から大事に着てもらうのは、布としては本望なのだと理解したのです。

 私は花柄の布地に訊き返しました。じゃあ私はどんな服にしてもらえるかなと。すると思いもかけない答えが返ってきたのです。

「そうねえ。喪服とかかしら」

 喪服というのは人が死んだ時に着る服で、数年に一度しか着られないのだと言うではありませんか。

 私は、花柄の布地は親切なばかりではないと気づきました。その声には、わずかな嘲りが含まれていたのです。

そばにいた赤い布地や黄色の布地もそれに調子を合わせます。

「いいじゃあないの。喪服っていうのは高価で上等なのよ」

「そうよねえ。私なんか薄っぺらくて服にされても値がつきそうにないから羨ましいわ」

 華やかな布地たちは声を合わせ上品ぶってオホホと笑いました。

 花柄の布地は、この布地置き場の中ではエリートのような存在でした。花柄だというだけで、服を大事に扱って愛してくれる若い女性用の服にしてもらえるのは決まったようなものなのですから。だから周りにいる者は、花柄に憧れて迎合するような態度をとるのです。

私は苦い思いを噛みしめて、黙り込むしかありませんでした。

 私がその在庫置き場から他の場所に移される日は、思いの他早くやって来ました。

 小さな衣類製造会社が、私を買い上げてくれたのです。

 

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私が運び入れられたのは、木造一軒家の中でした。普通の住宅と大差ない作りの一階に仕事場があって、そこで働く職人はほんの数人に過ぎません。本当に小さな、家内工業的な衣類製造所なのでした。

私はすぐに机の上に広げられ、長さを計られて先の方から切り離されました。ですが今回は以前ほどの痛みは感じませんでした。というのも以前のように乱暴にザクッと切断されたわけではなく、切れ味の良いハサミで滑らかに切られて行ったからです。もちろん痛いは痛いのですが、どこかそこには甘美なような、丁寧に扱われることの満足感のようなものも、僅かに感じられたのです。愛情のこもった刑罰・・・・・・などと言ったらおかしいかもしれませんが、それに近い感覚がしたものです。どうやら私を加工しようとしている職人の腕はいいようでした。

これならば、確かに上質な喪服にはしてもらえるかもしれないと、半ば諦めながらも身をゆだねる気持ちにはなれたのです。

しかし、作業が進んでみると、どうも勝手が違っているようでした。

職人は私の上に型を使って円をいくつも描いて行きました。それに近い大きさのドーナツ型も描きます。そして私はその線に沿って綺麗に切り離され、その後はふんわりと形を整えられて、縫い合わされてゆくのでした。作業をする職人の手は節くれだっていましたが、動きは繊細で私の体に即したもので、身を委ねてゆくのは心地よいものだったのです。

喪服になるにしては、私はずいぶん小さく加工されたようでした。それに形もまったく違っています。

出来上がった私は丸っこく、隅々まできちんと整えられていました。毛並みのいい小動物のように柔らかい見た目をしているようでした。しかしその裏側には、ドーム型に凹んだ空間が、大きく口を開けていたのです。疑似的な立体形になった分、その空間は何やらスース―して空虚さが身に沁みるようでした。

私は作られたばかりにして、もうすでにその空間を満たす何物かを求めていたのです。そしてそれが何なのかを知る機会は、すぐにやって来ました。

職人は最後に私を、人間の頭の形をかたどった模型の上に乗せてくれたのです。それは商品の完成ぐあいを確かめるためのものだったでしょう。乗せられたのはほんの二、三秒で、すぐに外されて完成品の置き場に移されてしまったたのですが。

ああ、でもその時の、私の充足感ときたら・・・・・・。

何、この感じ? と驚き、声をあげそうになりました。ピッタリと、すべてが収まる所におさまって、内から満たされる感覚がしたのです。ジンと痺れるように電流が走り、体のすべてが息づいたような感覚がしたのです。私はこのために生まれてきたのだ。と直感したのです。

そう、私は帽子でした。ただ人間にか被っていただくことこそ、私が作られた目的のすべてだったのです。

私の元の布地からは、同じ形をした完成品の兄妹が、可能な限りたくさん造られました。

以前も申しましたように、私のような存在は切り離されたら切り離されたように、加工されたら加工されたように、それぞれが別個の存在として意識を持つのです。ですから私は、私とたくさんの兄妹たちとに分かれさせられたということになります。

私たちは出来上がると間もなく、あちこちの販売店に出荷されて行きました。

私は下町へと運ばれて、老舗専門店の売り場に陳列されたのです。

 

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店内は狭く、帽子の仲間で溢れかえっていました。棚にもたくさん重ねて置いてありますし、壁一面にあるフックにも、私の仲間がかけられています。まるで無数の花が咲き誇るかのようだと言ったら美化し過ぎかもしれませんが、色とりどりの珍奇な茸の傘が大繁殖しているといったほどの壮観ではあったのです。

私は比較的高い位置の壁のフックにかけて陳列されましたので、店内をよく見回すことができました。

さまざまの仲間が、さまざまな思いを抱えて陳列されているのを眺められたのです。

やはり多いのは、期待に胸を膨らませた若い帽子たちです。私もその一人でしたが、人間が店内に入ってくるたびに「今度は私が買われるのかしら」とドキドキし、手で触れられたりした時にはビクンと身を震わせるほどに興奮したものです。しかし、その機会は簡単に訪れるものではなく、他の帽子が買い上げられると大きく落胆して「自分には魅力が無いのかしら」と悲観したりします。しかし、若いだけに立ち直りも早く、「次こそは」とすぐに気持ちを入れ直して、次の日には精一杯見栄え良く自分の体を膨らませようとします。良くも悪くも感情の起が激しくて、騒がしい存在だったと申せましょうか。

しかしそれも最初の半年か一年くらいのことで、陳列された時間が長くなってゆくとしだいに一喜一憂しなくなり、斜に構えた目で周囲を見るようになるようでした。

はたして自分には買われて人間に被ってもらえる時が来るのだろうかという不安。時が経てば経つほど品質は低下し、デザインは時代遅れになってゆくという焦り。それらが混然となって、複雑な心境になって行くようです。

そんな先輩は何かと騒がしい私たちに冷ややかな目を向け、時には嫌味を言ったり、叱りつけてきたりすることもあるのでした。

かと思うとこの店の中で充足してしまった仲間もおります。

幸運にも人間の頭をかたどった模型の上に乗せられて展示された帽子たちは、身を焦がすような「自分の中を満たしたい。被られたい」という思いを感じないですんだのです。疑似的とは言え、ずっと自分の中を満たす力強い立体を受け入れ続けているのですから。

その甘美さ、頼もしさにうっとりとして、「私はもう一生人間に買われなくてもいい。ここに居たってそれなりに幸せだから」などとつぶやく者もあったのです。

老舗の専門店らしく、やってくる客たちは身なりが立派で、お金持ちが多いようでした。それだけに、きっと買ってもらった後は粗末な扱いはされない。工場にいた作業着のように「擦り切れるまでこき使われるのさ」と吐き捨てるような結果にはならないと思われました。私は大きな夢を抱いて、自分を選んでくれる人が現れるのを待ち続けていました。

しかし、その時は中々やって来ません。

私が運命の人に出会ったのは、一年が過ぎ、そろそろ私も古株の帽子の仲間入りをしかけている頃でしたでしょうか。お客が店に入ってきても、もう私はいちいち気持ちを昂らせたりはしませんでした。

どうせいつもの冷やかしだろう。そう思い、午睡でもしようかと意識のスイッチを切り替えかけたその時でした。私は突然ひょいっと持ち上げられて、レジへと運ばれて行ったのです。品質を確かめようとして手に取って眺めたり、値札を確かめたりといった動作は一切無しに。

「今すぐ被りたいんだが、値札を外してくれるかね」

 心地よいバリトンの声が響いたかと思うと、私は店員の手に取られ、値札の紐を切られました。

 そして代金の支払いが終わると、指示をした人は私の体を優しく掴み、自分の頭の上に持って行ってくれたのです。

 ふわりと重力が無くなるように、まるで自分の体が一片の羽毛になったかのように思えた瞬間でした。

 私はついに人間の頭に被っていただけたのです。思いもかけず突然訪れた感動の瞬間でした。

 

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 私はそれまで一度も人間に被っていただいたことが無かったわけではありません。何度か冷やかしの客に頭に乗せられたことはありました。でもそれは私を選んでくれたわけではなく、私の感じた充足感は、偽物であったとも言えます。

 本当に私の価値を認めて求めてくださった方に被って頂くのは、格別の感動を伴うものでした。

 模型などではない本物の頭が、私をみっちりと満たしてくれています。それは何と絶妙な凸型でもって私の内部を刺激して、心地よい充足へと誘ってくれたことでしょう。

今になっては分かります。人間の頭をかたどった模型などは、所詮は質の悪い代用品に過ぎなかったのだと。模型は硬くて肌触りが悪く、形も機械的にこれが平均だと割り出して作ったものに過ぎません。平均ならばそれで良いというものではなく、そこには微妙な、神が宿るための細部の隙間のようなものが存在しないのです。僅かでも個性がある方が、より密着したという実感を高めてくれるのでした。

思えば帽子店の中で模型の頭に被せられて充足していた仲間は不幸でした。あれで満足して本物の人間の頭に被っていただく機会を逃してしまったら、自分が何のために生まれてきたのかが分からないでしょう。

お前は考え違いをしているぞ。と思われるでしょうか。ええ、それは分かっています。

帽子はあくまでも人間の頭に合うように作られたのであって、人間の頭があるからこその存在なのだ。だから、お前の凹型が人間の頭の凸型に合うのは当然なのだ。感動するようなことじゃない。

仰せの通り、まったく反論の余地はございません。ですが、それでも私は私と完全に合う凸型が存在し、私を満たしてくれることに、神の意思のようなものを感じないではいられないのです。この感動を完全に否定することは、私たちを創造してくれた高度な存在である人間にもできないのではないでしょうか。

そもそも人間が人生で感じる感動というものも、神によって用意された「生命を次の世代に残してゆく」という仕組みに適合した結果であることが多いのではないかという気がするからです。私たちのように凹にはそれに合う凸が用意されているというような単純なことではないのでしょうが、それに近い仕組みは、全能の神によって、人間に対しても用意されているのではないでしょうか。

生意気なことを申しました。私はこんなことを言えるほど立派な存在ではないですね・・・・・・。

ちっぽけな私は被っていただけた感激の後に、さらなる驚きを経験することになりました。

私を頭に乗せた人間は、店の外に出て町を散歩し始めたのです。

私が建物の外に出たのは一年ぶりで、以前出た時はいずれもトラックへ積み下ろしをされるだけの短い間だけでしたので、本格的に外に出るのは初めてです。

世界の広さと輝きを、初めて体験したと言ってもいいでしょう。

空は怖いほどに高く青く、さまざまな商店が軒を並べる道は、世界の果てまで続くように思えます。自分を囲っていたものが一度に全部無くなった解放感は、めまいを感じるほどのものでした。

私は爽やかな風を感じました。頭上からポカポカと暖かく太陽から照らされる心地よさも、始めて実感することができました。

 その日は晴れていて、気温は大分上昇していたようです。私を被ってくれた人間は、暑い日の日差しを避けるために私を買ってくれたのかもしれません。

歩調は非常にゆっくりで、散歩を楽しむ感じのものでした。

一歩足を前に出すたびに揺れが伝わり、私は微妙に振られます。その重力の変化によって、自分はしっかりと満たされているのだという実感がさらに増しました。

帽子が散歩する人間の頭上に居るのは、人間に例えれば高級ボートでクルージングをするようなものだと言えるかもしれません。

この時の散歩でよく覚えておりますのは、私を乗せた人間が突然足を止めて肉屋の店先からコロッケを一つ買って食べていたことでしょうか。香ばしい油の湯気が私の前まで立ち昇ってきて、こんな湯気を浴び続けたら体がベタベタになってしまうと、軽い当惑を覚えたのでした。

 

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私を買ってくれた人間がどういった人物だったのかについて、詳しく語った方がいいでしょう。

歳の頃は四十代半ばで、気難しい雰囲気の人でした。痩身で背は低く、顔立ちは鼻筋通って立派だったようです。男にしては髪を長く伸ばしておりましたが、それを変に感じさせないお洒落ができる人でした。どこか選民意識を感じさせるような、気障な物腰しもあったようです。

それも無理はなかったかもしれません。ある程度は「自分は特別な人間だ」というポーズを取っていた方が上手く行く仕事をしていたからです。

私を買ってくれた人は芸術家でした。新進気鋭の洋画家で、画壇での評価をメキメキと上げている最中だったのです。

そのせいか、体からはいつも油絵具の匂いがしました。私はそれを好みませんでしたが、それも好き好きというところかも知れません。

何故そう分かるかと申しますと、彼が所有していた私以外の帽子は皆、その絵具の匂いを好んでいたからです。

そう。彼のアトリエには、私以外にもたくさんの帽子が居りました。お洒落な上にゲン担ぎでもある彼は、その時々の気分によって私たち帽子をとっかえひっかえに被っていたのです。

中でも彼のお気に入りなのは赤の帽子でした。彼によれば赤い色は芸術家の魂に火を付ける導火線の役目を果たすのだそうで、気合を入れて仕事をしたい時には、赤をよく被るのでした。

次によく被られるのは緑の帽子です。静かにインスピレーションを発酵させたい時には、気持ちを鎮静化させる効果のある青系統の中で一番神秘的な緑がいいとのことで、緑の帽子を被って瞑想に耽るようなようすの彼もよく見かけました。

ブラウンの帽子を被るのはリラックスしたい時です。仕事を離れて頭を空っぽにしてお酒を飲んだりする時には、柔らかく自己主張のない色の帽子を被ったりもするのでした。

それでは私がどんな時に被られるのかと言いますと、それはカラフルな帽子を被るのにふさわしくない、堅苦しい場に限られるのでした。

ほんの年に二、三回しかお呼びがかからない。そんな状態が何年も続きました。こんな私は、彼の所有する他の帽子たちから、お局様と呼ばれたのです。

それは嘲りを含んだ皮肉だったのでしょう。私は彼の所有する帽子たちの中では、まだ若い部類だったのですから。色が地味なばっかりにこんな扱いになってしまうとは、何ともやりきれない思いがします。私は自分の持って生まれた色、黒を呪いました。

人間の間には、「醜いアヒルの子」という童話があると知ったのはこの頃です。黒くて醜いアヒルの子は成長すると純白の羽を持つ白鳥になりますが、私の身の上にそのような奇跡が訪れるとは思えません。

私を買ってくれた「彼」は、人間としての実生活でも罪作りな人であったようです。彼には無名の時から支えてくれた妻がいたのですが、それをないがしろにして若い愛人を何度も作っていたのです。奥様がそれを知って涙するようすを目にしたことも何度かありました。

しかし私以外のカラフルな帽子たちは、それに同情する気配を見せないのでした。

「魅力が無いんだもの、当然だわ」

「芸術家の感性について行ける人でないとね」

「天才のそばには創作上の苦悩を分かってあげられる人が必要なのよ」

 そんな言葉を次々口にします。

 他の帽子たちは、どうやら「彼」の芸術家としての華やかな面を愛していたようです。高尚でハイセンスな彼に被ってもらえば、自分も高尚でハイセンスな存在になれると考えていたのでしょうか。しかし、私が彼を愛したのは、そうした世間的な立派さではありませんでした。

 ええ、胸を張って、「愛した人だ」と申しましょう。何と言っても、私を牢獄のような陳列棚から救い出して、帽子としての本懐を、教えて下さった方なのですから。

 私が彼を愛したのは、少年のように純粋な一面を持っているところでした。画壇での評価が高まっても、彼にはどこか子供のような、あどけない部分が残っていたのです。それがあったからこそ新鮮な感性を持って絵が描けていたのかもしれません。

 私は最初に私を被っていただいた時の、彼の幸せそうなようすが忘れられませんでした。肉屋の店先に足を止めて熱々のコロッケを頬張った時は、「熱い」と言って小さな笑い声をあげ、子供に戻ったようにはしゃいだ様子だったものです。少年が新しい玩具を手に入れたように、買ったばかりの私を気に入って、誇らしく思って下さっているのも分かりました。

 このような純粋さがある限り、ずっと彼について行きたいと思っていたのですが、その面影は、年々少なくなって行くのでした。

 私が再び少年そのものといった純粋さを目にできたのは、彼に買われてアトリエの隅に置かれるようになった、七年ばかり後でしたでしょうか。

 

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彼はもうその頃には画壇の大物で、周囲の人に対してもそれらしい尊大な態度をとるようになっていました。画家志望の若者たちを取り巻きとし、仕事場に招いて、「芸術家としての心構え」的な高説をのたまうといったことがよくあったのです。そんな時、彼の瞳は優越感に満ち、上体は表彰台の上のオリンピック選手のように反り返っていました。

私にはその俗っぽさが嫌だったのですが、若者たちは有名画家に招かれたことに感激するばかりで疑問を感じないようでした。

私は少々拗ねた気分で、そのようすから目を背けたりしていたものです。

彼の頭にはいつもカラフルな色の帽子があり、「彼の栄光は私の栄光」とばかりに体を膨らませているので、それを見たくないという気持ちがあったからです。

何度も繰り返されたそんな一幕のある時、一人の青年が、帽子掛けにかけっぱなしになっていた私に目を留めました。

「先生、この帽子は埃を被っているようですが、もう被られないんですか」

 すると「彼」は妙なことを訊くものだといったふうに、不興そうにこちらを一瞥します。気持ちよく芸術論を語っていたのに中断させられて面白くないというようすがありました。

「うん。そう言えばもう二年以上被ってないかな。私は地味な帽子はあまり好きじゃあなくてね。公式の場用にと思って買ったんだが、公式の場ではそもそも帽子は被らない方が礼儀にかなっているのではないかという気もするので被らなくなってしまった」

「いい帽子なのにもったいないなあ」

 青年は指を咥える子供のように物欲しそうに私を見ました。どうやら人気画家である「彼」がいつも帽子を被っているのを見て憧れ、自分もあやかりたいと思っている風でした。

 その瞳は小さくて野暮ったく、分厚い眼鏡のレンズの奥にありました。でもそれを見た私はハッとしたのです。瞳の奥に純粋そのものの少年の輝きが垣間見えたような気がしたのでした。それは昔の「彼」が持っていたものとそっくりでしたが微妙に違ってもいて、より優しい深みをたたえているように思えました。

青年は、モグラのようにずんぐりした体型で、顔立ちも凡庸そのものでした。まったく冴えない外見だったのに、瞳だけがそんな風に見えたのは不思議なことだったかもしれません。

 思いもかけない「彼」の声が飛んできたのはそんな時でした。

「もし良かったら君にあげようか。帽子も大事にしてくれる人のところへ行った方が幸せだろうしね」

 私は耳を疑いました。いくら大事にされてはいなかったといっても、こうも軽々しく別れの言葉を口にされるとは思っていなかったのです。後輩に対して大物らしい態度をとりたかったのでしょうが、あまりにも薄情ではないでしょうか。私は「彼」から、まったく愛着を持たれていなかったのです。

 その一方で、青年はこの申し出を大喜びしていました。

「えっ、いいんですか? ありがとうございます」

 大げさにピョコリと頭を下げてから、このチャンスを逃してなるかとばかりに手を伸ばして私を鷲掴みにしたのです。

 あまりの不作法な率直さに私は驚きました。乱暴すぎて少し痛かった。

「彼」はそれを見て苦笑して、「被ってみたまえよ」と促しました。

 青年は頷いて、はにかみながら私を頭に乗せてくれたのです。

 その瞬間、痺れるような甘い戦慄が、体を駆け巡るような気がいたしました。

 ピタリと吸い付くような密着感が、これまでとはまったく違っていたからです。まるで電気掃除機で吸われたかと錯覚するほど強力に、私は青年の頭にへばりついていました。いえ、内側から押し拡げられたと言うべきでしょうか。

 青年の頭は大きくて、私の凹型を完全に塞いでも余りあるほどでした。そして髪の毛は至って短く、私と頭本体の間をほんの少ししか隔てていなかったのです。それどころか、直接地肌に触れてしまう場所すらありました。青年はおでこが非常に広く、生え際が後退気味でした。若くして禿げる兆候を見せていたということなのでしょう。それは人間としては冴えない特徴なのかもしれませんが、被っていただく身としては嬉しいことでした。直接主人の肌と体を合わせるのは、「こんなことがあってもいいのでしょうか」とうかがいたくなるほどに、生々しい体験であったのです。「彼」は額が狭く髪が豊富で長かったので、私は被っていただく時に直接肌に触れたことは無かったのです。

 青年は汗かきのようで、額はじんわりと湿っていました。その水分が直接私の体に沁みて適度な湿り気となって、さらに密着感は増しました。液体を含んだ私の体は僅かに収縮し、さらに強く青年の頭を、絞めつけるように咥え込んだのです。

 私は、前の持ち主である「彼」の頭に物足りなさを覚えていたわけではありません。小ぶりな頭を柔らかく包んだ長髪がふんわりと優しいクッションとなってくれ、上品な夢見心地に誘われたものです。まるで美しい初恋のようで、それはそれで大変に気持ちの良いものでした。しかし帽子としての本懐は、主人に対してきれいごと抜きにこの身をぶつけて体液を舐めるほどの体験をし、自分を捧げつくすことにあるのではないか。と、この時に初めて思えたのでした。

私は、この青年こそが私が一生を捧げるべき方なのではないかと直感したのです。

「彼」から捨てられて傷ついたばかりなのに、お前は何を言っているんだとお思いでしょうか。まったくその通りで、はしたない浮気っぽさは、弁護の言葉もございません。

 ことほとさように私の本性は業が深いもので、身も蓋も無い体感的なものであったのです。そのことを充分理解された上で、「下賤な帽子風情めが」と、お嗤い下さったらよいかと思います。

 ついでにもう一つだけ、恥ずかしいことを告白いたしましょう。

気がつくと私は思わず「はあんっ」と切ない声をあげてしまっていたのです。青年の優しい丸みを帯びた頭の上に乗っているのは、油断したら我を忘れるほどの気持ち良い充足感だったのです。

しかし周囲の者たちは、私が身悶えしているのに気づかぬようすでした。

私を手放した「彼」は、七五三の子供を見るようにして頷いていました。

「なかなか似合うじゃないか。それじゃあ大事にしてくれたまえ」

 私は完全に、青年に所有される身となったのです。

 

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 青年は得意満面で、私を頭に乗せたままで一人暮らしのアパートへ帰って行きました。

その道中、私はじっとりと自分の内側を青年の汗で濡らし続け、体だけでなく体臭までも一体化してゆくような興奮に捉われておりました。青年の体臭は若いだけにいやらしさは無く、むせかえるような生命力に溢れた純粋な雄の匂いがしたものです。それに、かすかに漂う絵具の匂いも私の嫌いな油絵具ではなく、安物のインクや水彩絵具のもののようでした。

 ですが、それらを余りくどくどと書き連ねても仕方無いような気がします。青年の身の上については、簡単に申しておきましょう。

 青年はまだ学生でした。しかし、通っているのは芸術科ではなくて、有名画家の家を訪れるほど好きな絵は、趣味で描いているだけなのでした。

青年の描いている絵を初めて見た時、私はいささか呆れました。専門画家である「彼」の絵を見慣れた後ではいかにも幼稚と言いますか、子供っぽくて、とても画壇で評価されるようなものとは思えなかったからです。

 青年には才能が無く、この絵が評価に達しなかったために芸術科に入れなかったのではないかと思えました。

 それなのに、絵に対する情熱だけは、誰にも負けないようすなのです。

青年は学校の勉強もろくすっぽせずに、毎日毎日暇さえあれば絵を描きました。人物と風景を中心に、手あたり次第という感じで、驚くような量を描くのです。質を量で補おうとしているのか、努力を重ねればいつか上達すると信じているのか、見ていて痛々しいまでに、必死さが伝わってくるのでした。

どうやら大学に通っているのは、学生でいる間は実家から生活費の援助を受けることができるので好きな絵を描く時間が捻出できる、といった理由に過ぎないように思えました。

青年は、それなりに自分の絵に自信を持ってはいたようです。

ある時などは気に入っている絵を百枚近くも抱え持って、批評家の元を訪れたこともありました。青年は目を輝かせながら拝むようにして作品を提出したのですが、それを見た批評家の答えはあまりにも残酷なものでした。

「君の作品は邪道だ。こういうものを描くのは君だにしてもらいたいものだね」

 冷ややかに、見るだけでも汚らわしいとでも言うように、最初の数枚を一瞥しただけで残りのすべてを突き返してきたのです。

 青年はさすがにその時は落ち込んで、帰ったアパートの部屋では持ち帰った絵を全部床にぶちまけて、悔し涙の叫びをあげておりました。

 しかし次の日にはその作品をすべて丁重に拾い上げ、綺麗に揃えて引き出しにしまったのです。

 そしてまた、飽きもせず、寝食を削って絵を描きまくる生活に戻るのでした。

 自分の描いた作品には、限りない愛着を持っている人でした。質実を持って良しとし、物は何でも大切にしていました。

 この私も大切に扱っていただいたものです。

私は自分の黒さを地味で不吉なものと思っていたのですが、青年はかえってそれを好んでくださったようです。容易には他に迎合しない落ち着いた個性の象徴として、創作家が身に着けるのにふさわしい色だと考えていたように思われます

 青年は一流芸術家にあやかりたいのか、絵を描く時にはよく私を被っておりました。仕事を始める前に鏡でその自分の姿を確認し、「僕は一人前の芸術家だぞ」と暗示をかける時もよくあったのです。

 しかし、その彼が向かうのはキャンバスではなく、薄っぺらい紙でした。練習も兼ねてとてもたくさんの絵を描くので、貧乏な彼には高い画材を用意するような余裕はなかったのでしょう。「貧乏な画家がデッサンを拭き取るために使ったパンを食べた」などという苦労話を聞くことがありますが、その画家はパンを使ってデッサンを拭き取るようなキャンバスに向かって絵を描けていたことを感謝するべきではないかと思います。

私の所有者の青年は、キャンバスに向かえないことを気にする素振りはありませんでした。それどころか安い紙ならたくさん描けるという事実を喜んでいた風で、机の上に置いた紙一枚に、自分を全力でぶつけ続けていたのです。その情熱は、怖い気がするほどでした。

 集中の余り、汗をよくかきました。アパートにはエアコンなどというものは無かったので、夏の日などには私の中がぬるぬるになるほどに生暖かい汗をかいたものです。その上、脂性でもあって、団子っ鼻の天辺はいつも脂でテカテカさせていたくらいなので、当然汗も皮脂のぬめりを帯びるのでした。

気持ちが悪いとお思いでしょうか。

 ああ、しかし、そのぬめった液が、何と絶妙に私を青年の頭に密着させてくれましたことか。私はまるで自分がタコの吸盤になったように感じました。とろみのついた液は潤滑油の役目を果たし、空気の入る隙間もない完璧な密着を、凸型との完全なる一体化を実現させてくれたのです。私の体は主人の体液によって蒸されて揉み解されてふやふやになり、腰砕け的に頭の凸にピッタリと合った形へと変容させられて行きました。自分自身の形というアイデンテティを失い、逞しい凸の頭の型に征服されて行ったと言ってもよいでしょう。

 しかし、私はそれが、とても嬉しく感じられたのです。

 私は完全に主人と同じ形になり、支配され、主人専門のものになってゆく。何やらその考えは魅惑的で、まるで肌を切り開かれて内臓を眺められるような、マゾヒスティックな快感を伴うのでした。

 私は新しい主人である青年を、愛しはじめていたのかも知れません。

 そして・・・・・・。ああ、これは秘密にしておこうと思っていたのですけれど、思い切って告白してしまいましょう。

 私は主人から、身が蕩けるような肉体的な快感も同時に与えられていたのです。

 青年は何かを考えた時などに、頭を撫でる癖がありました。物思いに耽る時には軽く触れるくらいですが、集中して考える時にはゴシゴシと、モップで床を擦るように力を込めるのです。

 絵を描く時にもその癖は出ました。

 この絵のタッチはどうするべきかとか、塗る色の選択をどうするべきかとか、そういったことに迷う時、青年は頭に手をやって私の体を軽く擦りました。そうすると、私はさらにピタリと頭に押し付けられて、水平方向に微妙に位置をずらされるのです。ただ密着しているだけでも快感ですのに・・・・・・。

 擦りながら横に優しく動かされるのは、自分の身が熱くなって、快楽のエネルギーを身内に溜められて行くような感覚でした。じんわりと爛れる如くに体が柔らかくなって心地良い甘い痺れが走り、天に昇る浮遊の境地を彷徨わされる感じなのでした。

ですが、それで解放された快楽のエネルギーは半分ほどに過ぎないのです。

・・・・・・ああ、そんなに優しくしないで。

 そう言いたいほどにもどかしい、自分を何とかしてほしい。そのような欲求が頂点に達した時に,急に乱暴に、・・・・・・私の実感としましては、狂暴とも言えるほど激しく指を立てられて、ゴリゴリと思うさまに掻きむしられます。

 青年はいい絵のイメージが浮かばなくて苦しんで、必死で頭を絞っているのでしょう。

 ふだんなら痛みを感じるところかもしれませんが、柔らかく揉みほぐされて受け入れ態勢の整っている私は、その荒々しさのすべてを受け入れることができたのです。

 私の肌は主人の頭に強く押し付けられることで深く一体化し、どこからどこまでが自分の体なのか分からなくなるような気がいたしました。溜まりにたまった快楽の蜜が、水風船が割られるように突き破られて一気に溢れ出すようです。私は溺れきり、疑似的な死に誘われてゆくかのようでした。強く擦られるのがあまりに気持ち良く、小さな体ではそれを受け止めきれないようで、快楽に合わせて自分の体が部屋いっぱいに広がって行くようにも、どろどろに溶けて形が無くなって行くようにも感じられました。あまりの気持ち良さに目が眩み、意識が真っ白にショートしそうだったのです。

 ああ、もう死んでもいい! ご主人様、もっと私を無茶苦茶にして。

 などと、我を忘れて叫んだりしていたものです。

 

 そういうことは何度となくございました。当然私の体は発酵した汗の成分で臭くなります。

 主人はそんな私を、時々風呂場で優しく洗ってくださり、窓辺に干してもくださったのです。それは何とも清々しく、ほっこりと安心もする、愛情を感じられるひと時でした。

 思えば私は、以前所有してくれていた「彼」から洗っていただいたことはほとんどありませんでした。せいぜいが数年に一度。それも業者に任せておしまいといったもので、冷たい扱いのようにも感じられていたのです。

 新しい主人となった青年と過ごした最初の一、二年は、本当に幸せな時期でした。

 私の人生ならぬ帽子生の中でも最も重要な、宝物のような時間だったと申しても良いでしょう。

 

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 そのうちに、青年の身の上に変化が起こりました。描き貯めていた絵が出版社の人の目に留まり、子供向け雑誌に載せてもらえるようになっていったのです。

 私は青年を、主人を見くびっていたのかもしれません。つい本格的な画家を見るような目で見てしまっていましたが、構図が単純で線が丸っこく子供っぽいところがある彼の絵は、見方を変えれば大変分かりやすく、子供には受け入れられやすいものだったのです。時代によく合った、ポップなものだったということなのでしょう。

 私は自分の不明を恥じました。そして教えられました。絵というのは何も芸術の高みを目指すためだけにあるものではない。多くの人に心地よく見てもらえて、僅かでも夢や安らぎを感じてもらえれば、それが一番大事なのではないでしょうか。

 主人の絵には確かにそれが、未来への希望を感じさせる優しい感性がありました。専門的な絵の技巧など、さしたる問題ではなかったのです。

 主人は子供たちに好まれて、子供向けの絵の描き手として瞬く間に売れっ子になって行ったのです。

 いつの間にか、助手の人を雇うほどにもなりました。

 それでも売れっ子を鼻にかけたような傲慢なところは一切無く、絵を描く姿勢は変わりませんでした。驚くような集中力で、暇さえあれば仕事に励むのです。もう評価は充分得ていましたので、絵の注文主から「素晴らしい作品ですね」と褒められることも、同業者から「そんなにシャカリキになって描かなくていいんじゃないか」と皮肉を言われることもありました。

 しかし主人はそれに耳を貸しません。

「いや、僕の作品なんてまだまだだ。僕はもっともっと描きたいテーマがたくさんあるんだ」

 そう言って、寝食を忘れて邁進し続けます。きっと本当に、芯から絵を描くのが好きたったのでしょう。

 いつしか主人の絵は子供雑誌だけではなく、テレビでも新聞でも街角のポスターでも、あらゆる場所で見られるようになりました。主人の後を追い、その作風を真似る新人が現れるほどの人気だったのです。

 誰からも評価されなかった頃の苦労を知っている私にとっても、それは涙が出るほど嬉しいものでした。立派になって行く主人の姿が、とても誇らしく感じられました。

 成功した主人が仕事をする時、頭上にいるのはいつも私。主人の頭を受け止めて完全に一体化できる帽子は私しかいない。

 そのように考え幸せを噛みしめて、鼻を高くしていたのです。

 愚かにも・・・・・・。

 

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売れっ子になった主人は、もちろん収入もそれに見合ったものになって行きました。贅沢をするような人ではありませんでしたが、それでも生活のレベルは自然に上がって行きます。

狭い安アパートからそれなりの広さの住居へと移り、食事をする時も、安食堂ばかりというようなことは無くなりました。そして服装も、それなりに仕立ての良いものを着るようになったのです。

それならば、いつまでも持っている帽子は一つだけ、などということはあり得ないでしょう。

主人が新しい帽子を買ってきた時に、ショックを受けた私の方が馬鹿だったのです。

それは私とそっくりな形と色をした帽子でした。以前の持ち主だった油絵画家の「彼」の時のように、私とまったく違うカラフルな帽子ではなかったのはせめてもの救いと言えるかもしれません。主人は私に愛着を持っていてくれたから、だからスペアとして同じような帽子を買い求めたのだ。と考えることはできます。しかし、同じような帽子が二つあったら、誰が古い方の帽子を多く被るでしょうか。スペア扱いになってしまうのは私の方なのです。

 新しい帽子は私よりも一段上の高級品で、全身から育ちの良さが滲み出ていました。

初対面では私のことを「お姉さん」と呼んで礼儀正しく挨拶してきました。私は黒くて見た目は男性的ですが、凹型として主人から開発され尽くしておりましたので、「お姉さん」と呼ぶべき存在になっていたのでしょう。

 私は自分の属性もまだ定かではないような幼いピカピカの帽子を前にして、何とも言えないやるせなさが風となって胸を吹き抜けるような気がいたしました。この子はまだ主人の頭に馴らされていないから、最初のうちは被り心地が良くないかも知れない。だからあと少しの間だけは私が愛用されるだろう。でも、それももう少しの間だけなのだわ・・・・・・。

 私が新しい帽子に対し、妬みを感じなかったと言ったら嘘になります。でもこの子には罪は無く、ましてや主人に悪いところなどあろうはずはありません。私は涙を飲んでこの新人に、主人に対する時の帽子としての心がけなどをアドバイスすることにしたのです。

 私が以前所有されていた、油絵画家の「彼」のところにいたカラフルな先輩帽子たちのような底意地の悪い存在にはなりたくありませんでしたし、それ以上に私は主人を愛していたのです。いかなる時にでも主人には心地よく帽子を被っていただきたく、そのためにはこの新人に私の知っているコツのようなものを伝授する他はないのでした。

 幸い、新しい帽子は素直な良い子でした。私の言うことをよく聞いて、忌憚なく主人に愛用されるようになって行ったのです。

 ですが、そのようすを見ている私の胸の懊悩は、砂を噛むようだった、などという言葉でも足りないと思います。

 何も知らない少年のようだった新しい帽子は、見る間に妹としか呼びようのない華やいだ存在へと変貌してゆきました。私の目から見ても、これなら私よりも魅力があると認めざるを得ないほどに。

 ご主人様は、本当に罪作りなお方です。

 

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主人が人間の女性とお付き合いを始め、結婚したのもこの頃でした。でも私はその奥様に嫉妬したことはございません。人間と帽子ではあまりに立場が違い過ぎ、比較の対象にはならなかったからです。奥様は夫の仕事を理解して協力を惜しまない立派な方で、幸せな家庭を築けたようすなのは、私にとっても喜ばしいことでした。

数年後には元気なお坊ちゃんも生まれ、主人はさらに公私共に充実して行きます。

私はそれを喜びながら、その一方ではいつの頃からか、寂しさを感じるようにもなって行きました。「もう主人は私にはそぐわないほど立派になってしまった」という思いが、しこりのように心にわだかまってしまうのです。元々私はさしたる高級品というわけではありませんし、傷みの出始めた中古品にもなってしまいました。どうして胸を張って「私はこの立派な主人の頭上にいるのがふさわしいのよ」と言えるでしょうか。

主人が無名の時代には、「この人の努力が報われますように」と毎日祈っていたというのに、それが現実のものになると不満を感じるとは、何と業の深いいじけた根性なのだろうと自分を嗤わずにはいられませんでした。

新しく主人の愛用になった帽子にはそんな思いは無いようで、主人がマスコミの方の取材に答えるような時にも胸を張って装飾品としての役目を立派に勤めているようでした。

無理もありません。彼女は私より一段上の高級品で、まだまだ全然新しいのですから。主人に劣らず立派に見えるのです。

私は彼女のスペアに徹することで自分を生かし、主人に尽くす他はないと、自分に言い聞かせるしかないのでした。

ごくたまに、新しく愛用品になった彼女が洗濯されている時に被って頂けるだけでも幸せではないか。世の中には全然被ってもらえない帽子だっている。これ以上を望むのは贅沢というものだ・・・・・・。寂しいけれども、それが自分の余生かもしれないと、達観の境地へ近づけるように努力していたのです。

誤解しないでいただきたいのですが、私と新しい帽子は仲が悪かったわけではありません。表面上はしごく仲が良く、彼女は私を優しい姉として、慕っていてくれていたと思います。

その証拠には、彼女からは親しく話しかけられて、さまざまな相談を持ちかけられる事がよくあるのでした。たいがいは他愛のない、「そのくらい自分で考えたらどうなの」と言いたくなるような内容ではありましたが。

彼女は彼女なりに、あえてつまらない事でも私に訊く事で。先輩としての私を立ててくれていたのかもしれません。

ところがある時に、驚くような生々しい相談を、彼女の口から聞く事になるのです。

それは、家内の者が寝静まった夜更けのことでした。私と彼女は、いつものように壁際にある帽子掛けに、並んで掛けられていました。主人はいくら帽子を愛用していると言っても、眠る時にまで被るという事はありません。

 柱時計の秒針の音だけが響く静寂の中、彼女はためらいがちに声を発しました。

「ねえ、お姉さん。起きてる?」

「眠っちゃいないわよ」

 私たち帽子の眠りはとても浅く、人間よりも短い時間ですむのです。その時も、静寂に意識を同調させて時間の流れに身を委ねているだけでした。物である私たちは元々静的な状態を好むので、長時間じっとしていても人間のように退屈を感じないのです。

「良かった。あのね、相談したい事があるんだけど・・・・・・」

 彼女の口調は真剣なものでした。しかし、そこに奇妙な恥じらいのようなものを感じて、私は耳をそばだてました。

「彼の事なんだけど」と彼女は申しました。「彼」というのはもちろん私たちを被ってくださる主人の事です。私はその言い方が、何だか馴れ馴れし過ぎるようで好きになれませんでしたが、「それじゃあどう呼べばいいの」と訊き返されたら答えられないので注意できないのです。

 ちゃんと帽子としての立場をわきまえて「ご主人様」と呼ぶのが正しいような気はしますが、「主人の事なんだけど」などと言われるのも何だか業腹な気がいたします。

 考えてみれば、私も若い頃には私の以前の所有者であった油絵画家を、心の中で「彼」と呼んでいたのでお互い様なのでした。

「どうしたの?」

「ちょっと聞いてみたかったんだけど。お姉さんはあたしが来る前は、彼からどのくらい激しく扱われていたのかしら。彼は仕事に熱中してくると、あたしたちに爪を立てて強く擦ってくることがあるわね。「お前の表面を削り取って芯まで可愛がってやるぞ」って言ってるみたいに。それはいいんだけど、最近その回数が、多すぎるような気がするの。力もどんどん強くなっていくみたいで。あたし、彼の激しい擦り方に耐えられなくて、最近は苦痛を感じる事があるのよ。お姉さんの時はどうだったのかな、なんて思ったりしたんだけど」

 ・・・・・・何という残酷な訊き方をするのでしょう。私はそのご主人様の愛撫に飢え、身を焦がす思いでいるのです。それなのに、「愛撫が激しすぎて困っちゃうわ」とは。優越的な立場を誇示して私を嘲笑おうというのでしょうか。私は若い帽子をキッと見返しました。しかし彼女のようすに邪気は無く、本当に困り果てて相談しているようすなのでした。心なし、その姿はやつれているようにも見えます。

 私は少々の皮肉を交えて答えてやりました。

「それは私だって主人から激しく扱われたことはたくさんあるわ。だけど、いくらそれが強くなったからと言って苦痛だなんて思ったことは無いわね。あなたがそう思えるんだとしたら、主人に対する愛情が足りないんじゃあないかしら。帽子は主人のすべてを受け入れて、擦り切れるほどに尽くしてこそ一人前というものよ」

「そう・・・・・・なのかしら」

 若い帽子は、私の言葉をそのままに受け止めて、自分を納得させようとしているようでした。少し無神経なところはありますが、根は素直ないい娘なのです。

「やっぱりあたしの修行が足りないのかな。ごめんなさい。変なことを訊いちゃって」

 私は、こんなことを相談してきたのは彼女の未熟さ故だと思っていました。先輩として心得違いを戒めてやって、良いことをしたと思っていたのです。

 ところがそうではなかったのです。勘違いしていたのは私の方でした。

 数日後、私はそれを知ることになります。

 

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若い帽子が洗濯されて、私は久しぶりにご主人様の頭の上に乗せられました。

何度経験しても素晴らしい安息感。完璧なる密着の度合いは、まるで懐かしい故郷に帰ってきたかのようです。

ご主人様は歳とともに若禿が進行して、以前よりも直接地肌に帽子を密着させる面積が増え、さらに魅力的な頭になられた気がします。てらてらと光を反射するようになった頭頂は、輝く宝玉のように尊く感じられました。

若い帽子が完全に乾くまでの一日か二日は、この魅惑的なつるんとした凸型を独占できると思うと、年甲斐もなく胸がときめく思いがしたものです。

ご主人様が仕事を始めると、いつ私のもとへ手が伸びてくるかとドキドキして待ちました。じんわりと体の内側に粘っこい液を分泌していくような気がしたほどです。私には液を分泌するような機能はありませんので、きっとご主人様が汗を発しておられたのでしょうが。

ご主人様が汗を発するのは仕事に熱中してきた証拠です。そして、しばらくすれば難しいところにさしかかり、出口を捜すようにして、私の方へと手を差し伸べてくださる・・・・・・。

ところがどうしたことでしょう。いつまで経ってもそのような気配は起らないのでした。ご主人様は絵を描くための用紙を前にして、ずっと腕組みをして考えておられたのです。手に取ったデッサン用の鉛筆は、ただ固く握りしめているばかりで動かさず、眉間に皺を寄せているのでした。

私は、その皺のあまりの深さに気づいてギョッとしました。今までに見たことも無い、苦悶を表したものだったからです。

頭に浮かべた汗は、苦しみのあまりの脂汗だったのです。主人は、描くべき絵のイメージが浮かばなくて苦しんでいたのでした。いえ、イメージ以前に、何を描くべきなのかすらも分からなくなってしまっているようでした。それなのに愛情のこもった汗だと勘違いしていたなんて、主人のことを何て分かっていなかったのかと、自分の不明を恥じました。

そう言えば、最近の主人は暗い表情でいることが多かったと思い当りました。口数がぐっと少なくなり、奥様にもあまり笑顔を見せないようすだったのです。絵を注文してくる会社の人との打ち合わせが上手く行かずに苛立っているようすも見受けられした。創作上の重大なスランプに陥っておられるのだと直感しました。

どんな情熱的な創作家であろうと、創作活動が上手く行く時と行かない時の波はあるものです。ましてや絵などという繊細な感性が要求される分野では、創作が上手く行かずに思い悩む時期があって当たり前なのではないでしょうか。主人は人並み外れた情熱によって突き進んで来ただけに、これまではそんな苦しみを、ほとんど経験しなかったのでした。それだけに一旦迷路に入ってしまったら、どうしたらいいか分からずに、巨大な壁にぶち当たったかのように苦悩するしかなかったようです。

主人は少し、仕事をしすぎていたのかもしれません。手を広げ過ぎたのかもしれません。この頃には得意の子供向けの絵だけでなく、大人向けの絵も多く描くようになっていました。そして大人向けの絵は子供向けのようにおおらかな気持ちで描くわけにはいかず、苦みや暗さをも含んだより複雑なイメージやテーマ、アイデアのようなものを以前より多く必要としたのです。

大量の絵を描き続けてそれらの発想面も質を落とさずにやって行くのは、どだい無理のある話なのでした。

しかし自分に厳しい主人は、その理想を自分に課さないではいられないのです。ちょっとでも妥協するのが我慢ならず、自分を抜き差しならぬ地点へと追い込んでしまっていたのでした。

主人は唸り声をあげました。私を振り落とそうとするかのように、嫌々をするように頭を振りました。そのあげく、

「もう駄目だ。僕は才能が枯渇した。もう何も描けないんだ」

 突然そう叫び、鉛筆を投げ捨てて、机の上に突っ伏してしまいました。そして両手で頭を抱え、私をグシャグシャに掻きむしったのです。

 あまりの激しさに、私は悲鳴を上げました。人間だとすれば、

「ヒィッ」とか「キャー」とか、そんな発音に相当したでしょう。力いっぱい爪を立てられて体が裂けそうな危険を感じ、文字通りの「絹を裂くような悲鳴」をあげさせられたのです。私の体には血は流れていませんが、血を出す時の人間の気持ちが、実感できるほどに痛かった。

「もうやめて、お願い。壊れちゃう」

 私は主人に哀願しました。するとそれが通じましたのかどうか、主人は私から手を離し、手のひらで目を覆ったのでした。

 主人は、泣きべそをかいていたのです。まるで喧嘩に負けた子供のように。

いつもかけている眼鏡を外し、直接まぶたをゴシゴシ擦りました。その姿は幼児のようでした。どんなに偉くなっても、どこか可愛げが消えない人でした。トイレのスリッパの上にカリントウを置いて人が驚く様を見て大笑いするといったたぐいの子供っぽいところは、この人の生涯消えない特徴だったのです。だからこそ純粋に仕事に情熱を燃やすことができたのでしょうが、その純粋さが、この場合には仇となってしまっているようでした。

私は茫然としながら、若き日の主人の姿を思い出しておりました。

描き貯めた絵を批評家のところへ見せに行って、「君の作品は邪道だ」などと非情な言葉の鞭を受けた時のことです。

めったに涙を見せることのない、心の強い人でしたが、さすがにその時はアパートに帰ってから絵を床にぶちまけて泣いていました。でもすぐに、次の日には立ち上がり、以前にも増して創作に没頭する日々に戻ったのです。

「あの時を思い出して。あなたならできる。こんなスランプなんて乗り越えられるわ」

私は必死になって主人を励ましました。私たち帽子の声は小さすぎて、人間には聞こえないはずなのですが、それでもそうしないではいられなかったのです。

そうしたら、それが通じましたのでしょうか。いえ、それは思い上がりで、主人が元々持っている強さだったのでしょうが、主人はひとしきり涙を流すと、立ち上がって水洗場へ行って顔を洗いました。そして、自分の頬に平手打ちを食らわすと、また仕事に向かったのです。

そうは言ってもそう簡単にアイデアやイメージが浮かぶはずも無く、絵の草案を描いては消し、描いては消し、を果てしなく繰り返しておりました。食事もとらず、お腹が減ると好物のチョコレートを口に放り込んだだけで作業を続け、夜が来て、それが更けてさらに明け方に近づいてゆきます。主人はそれでも決してあきらめず、ぶっ倒れるまで何晩でも徹夜して作業を続けてみることで活路を見い出すつもりになっているようでした。

何という意思の強さでしょう。私は改めて、主人を尊敬する気持ちが湧いて来たのです。そして何とかして仕事をお助けしたい。その一心でありもしない頭を絞って一緒に絵のアイデアを考えようとしました。

主人はアイデアが浮かばないなりに、仕事に集中してきたようでした。そして長い混迷の後に、私の方へと、鉛筆を持っていない方の手が伸ばされてきたのです。

ゴシゴシと、いつもよりも乱暴な擦られ方でありました。正直言って、痛みを感じなかったと言ったら嘘になるでしょう。ですが今の主人の苦しみに比べれば、私のこの痛みなどはどれほどのものでしょう。「あなたの気持がほんのちょっとでも晴れるなら、私はどうなってもいいわ。いくらでも乱暴に扱ってちょうだい」私は芯からそう思い、主人の仕事にほんの僅かでも協力できる幸せを感じたのでした。

そして、私も一緒になって主人の描くべき絵のイメージを、必死に考えたりもしました。そして、主人の指の動きに精神を集中し、その動きにシンクロして意識を伝えられないかと思ったりもします。

そうしたら、ああ、これが私の罪深いところでしょうか。私はその激しい指の動きをも滑らかなものとして心地よく受け入れることができてしまったのです。したたかに力強い愛撫と感じられるようになっていったのです。

いったんその方行への回路が開くと、これまでにない快感の波が襲ってきました。激しい嵐の海に投げ出され、世界のすべてが快楽の閃光に焼き尽くされてゆくかのようでした。その頂点で私の意識は真っ白になり、そしてその中心で、扉が開いたのです。サーッと音をたてるようにして、閃光よりも眩い何かが流れ込んできました。

それは希望に満ちた、豊かな映像の放流でした。主人がこれから描くべき絵のイメージ。アイデア。それらが溢れんばかりにして、瞬時に見えてきたのです。

私はうわごとのようにその内容を叫んでいました。

「ああ、ご主人様。これから描く作品はこのようにしたらどうかしら。○○を××にして△△のように展開させるのよ。そして☆☆は□□に・・・・・・」

 次の瞬間、驚くような大きな声が響き渡りました。

「閃いたぞ」

 ご主人様がそう叫んで椅子の上で躍り上がったのです。

「○○は××にして△△の展開にすればいいんだ。そして☆☆は□□として処理すれば。これは素晴らしい作品になるぞ」

 そして猛然と、浮かんだアイデアを描き始めたのでした。

 

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 それは神様が与えてくれた一度きりの奇跡だったのでしょうか。

 いいえ、そうではありませんでした。それからも何度となく同じようなことは起ったのです。私は主人の頭の上で、巫女のようにこれから描くべき作品のイメージやアイデアを幻視して、それを口にすることができました。

 ですが、それを私の能力だとするのは、思い上がりもよいところでしょう。帽子である私には人間のような才能などあるはずはなく、私がたびたび目にするイメージは、他から与えられたものに過ぎないと思えるからです。

 おそらくは、私はただの受信機に過ぎないのでしょう。アイデアやイメージが醸成されるのはあくまでも主人の頭の中で、それが意識に浮かびにくくなっている時に、一番近くで頭に同調している私がそれを感知する。そういう仕組みなのではないかと思います。

 私は主人の持っている能力を効率よく発揮できるように補助しているだけ。ですが、それは時に大きな力となったでしょう。

その現象が現れたのは主人の心と深く一体化できた証でもあります。私は体だけでなく心まで主人を受け入れられた。主人のすべてと一体化できたという深い満足を得たのです。

 私はこの時に、帽子としての真の幸せを手にできたと申してもよいでしょう。

 それ以降、主人は再び私を愛用してくださるようになりました。当然でしょう。私を頭に乗せている限りは、絵のイメージやアイデアに詰まることはほとんど無いのですから。発想に詰まると主人は無意識のうちに私に手を伸ばし、優しく体を擦ってくれます。そうしてそれを次第に強めにしていくと、発想が浮かびやすいと経験で分かったようです。主人の私を愛撫する手の動きは日に日に愛情がこもり、巧みなものになって行くのでした。

 私は絶頂を迎えると、心になだれ込んでくる豊かなイメージを、必死で叫んで主人に伝えようとします。不思議なことに、主人の方でもその言葉をかすかに感知できるようすなのです。主人は私に愛情を持ち、意識を集中してくださっている。だからこそ伝わるのでしょう。

 この程度のうぬぼれは、持ってもバチは当たらないのではないでしょうか。 

 新しい帽子は、姥桜となった私が愛用され始めたのを、最初はいい傾向だと思っていたようです。自分一人にばかり声がかかるのでは先輩に申し訳ないし、最近は自分の扱われ方が乱暴なので、ちょうどいい休みが取れると。ところがその傾向が強くなり、はっきりと主役とスペアの立場が入れ替わってしまうと、私を恨めし気な目で見るようになります。

「お姉さんはいいわね。いつも彼から可愛がってもらえて」などと、皮肉を言われるようにもなったのです。

 私には、それはかえって心地よいものでした。

 その後、主人はファンの方から帽子をいただくことがあり、第三の帽子、第四の帽子を所有するに至ったのですが、もっとも愛用される帽子はずっと私であり続けたのです。

 

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さて、それから。長い歳月が過ぎました。

帽子は時が過ぎても古びるばかりで、さしたる変化はございませんが、主人の身の上にはさまざまなことがありました。

時代が変わり、主人の作風が古いと言われて仕事が減ったこともありました。主人が柄にもなく絵と映像の制作会社を設立して、それが倒産して借金を背負ったり、後進の売れっ子絵描きと意見が合わずに喧嘩になったり、といったこともありました。しかし、それらをすべて乗り越えて、努力を惜しまず第一線で仕事をし続けたのです。私もそれに、微力ながら協力してまいりました。

主人はいつしか押しも押されぬ第一人者としての地位を築いておりました。

しかし、主人の心には、一つ大きなひっかかりがあったようにも思われます。

自分の絵は、一度も芸術としての高い評価を受けたことがない。その一点だけが、若い時からの心残りだったのではないでしょうか。

主人は親しい人たちには、こう申しておりました。

「僕が描いている作品は芸術じゃない。後世には残りませんよ。時代の中を風のように通り過ぎて行く。それだけでいいんです」

 ですが、その言葉の奥には、どれだけの苦い思いが隠されていたでしょうか。常に一番そばにいて、仕事ぶりを見続けていた私には、それが痛いほど分かるのです。どうして一番努力して、一番人々を感動させた絵が、後世に残らないのか。権威主義の人々が持ち上げてくれない限り作品に永遠の命は与えられないのかと、私も主人と同様に、無念の思いを持っておりました。

 しかし、それも、今となっては遠い昔の物語りです。

広い意味で言えば、主人の願いはかなえられたと言ってもよいでしょう。主人が亡くなって半世紀近くがたった現在でも、主人の作品は多くの人に愛されて立派に輝きを放っているのですから。

 ええ。主人は亡くなりました。

 無理をして仕事を続けたのが祟ったのでしょうか。長生きとは言えない年齢で病いにおかされて人生を終えてしまいました。それはとても悲しく辛いことでしたが、最後まで創作活動に燃焼しつくして、やるべき仕事をやり抜いて天国に旅立ったのだと私は信じています。

 もう古びて擦り切れるようだった私は、遺品として遺族の方の手に渡ることになりました。もう私が人間の頭に被られることはないでしょう。

 でも、それでいいと思っているのです。理想的な主人と出会い、とても大事にしていただいたのですから。これ以上、何を望むことがあるでしょうか。今はただ主人との思い出を大事にして、老後を静かに暮らしたいと願うばかりです。

ああ、でも私は幸せ者です。その忘れ去られるしかないはずの余生にさえ、豊かな交流が用意されていたのですから。

主人を慕い、その業績を忘れまいとする方々が、主人の死後に記念館を作って下さり、私はその陳列品の一つとして、ガラスケースの中に安置されることになったのです。

主人を慕う方々が毎日訪れて、主人を偲ぶ遺品である私に暖かい視線をそそいでくださいます。私はそのたびに主人の偉大さを実感し、主人の人生と、その彼に尽くした私の帽子人生は間違っていなかったと確認して、とても嬉しい気持ちになるのです。

私は今でも時々考えることがあります。主人の作品がこれほどまでに愛されている秘密は何だろうと。その結論はいつも同じで、主人の作品には豊かな夢や希望や愛、そしてそれを引き立ててくれる適度な苦みや刺激があったからだということになるのですが、それを強く訴えるために、絵にストーリーをつけ加えたことも大きな要因だったのではないかと思います。

主人の絵は描かれた人物が喋り、さまざまなドラマを演じる、画期的な新表現と言えるものでした。今ではそれが、漫画(MANGA)という言葉でもって世界でも知られて高い評価を得られるようになったのですから、天国にいる主人もきっと満足していることでしょう。

古ぼけた一片のベレー帽に過ぎない私にとっても、それは大変に嬉しいことでございます。

 

 

 

 

 

最近見た夢。

 丘の上にある家に入ったら一階広間で江頭2時50分が賭場を開いていて裏社会の方々と勝負中。その江頭から「お前もここに来て勝負しろ」という感じに目で指示された。だが私は博打には興味無かったので、その場を離れて家の中を見て行く。

 家の中は案外広い。鯉のような身体に蜥蜴のような脚を生やした巨魚か鰐のように廊下を這いまわっていた。どうやら廊下の先にいる子猫を食おうと狙っているようなので、私は子猫を保護して安全な場所へ連れて行こうとする。・・・・・・といったような夢を見ました。