d94n2s blog

自作小説の公開、管理を目的としたブログ。変な小説を読みたい人は寄っといで。

「アンドロイドには向かない職業」SFミステリーです。

 

                   Ⅰ

 

 電源が入るとルーシーに生気が戻った。合成樹脂の瞳が動き出し、私の顔に焦点を合わせる。同時に少し頬が緩んだ。端正な顔立ちに、戸惑いながら微笑むような表情が浮かぶ。完全な静止から始まった僅かな動き。その効果は絶大である。こんな単純なことが無生物を魂を持った存在に見せるのは、何度体験しても不思議な感覚だった。

 私は彼女に問いかけた。

「こんにちは。ルーシー。いつもと変わりはないかい」

 ルーシーは間を置くことなく、サクランボのように可愛らしい唇を開いた。透き通った綺麗なハイボイスで、

「ええ。機能に異常はありません。それとも気分をお聞きになっているのですか。それならなおさらいつもと変わらないとお答えいたします」

 そしてルーシーは私の後ろに視線をやった。そこには見知らぬ男が二人いて、彼女に鋭い視線を送っているのである。不穏な雰囲気を感知したのか、彼女は小さく頭を下げて、

「すみません。後ろにいる方々はどなたですか」

「警察の人たちだよ」

「どうして警察の方々が来ているのですか」

「事件を調査するためだ」

「事件、ですか」ルーシーは不思議そうに小首を傾げた。「いったい何が起こったのでしょう」

 私は意外な気がした。事件の現場近くにいたルーシーは、当然それを知っていると思っていたからだ。

「君は、この邸裏手の断崖で起こったことを知らないんだね」

「知りません」

「ああ、江崎さん。質問は私たちがやりますので、その機械におかしな所がないかどうかを確かめてもらえますか。完全にいつも通りに作動しているのかどうかを」

 後ろにいる刑事のうち、年嵩の方が割って入ってきた。私は機械という冷たい言い方が気になったが、それを表に出さずに頷いて、

「分かりました。ルーシー、ちょっといいかい。機能表示パネルを見せてくれ」

「はい」

 応接間のソファーに座っているルーシーは、私の方に左腕を真っすぐに突き出してきた。清楚なメイド服を着た二の腕の外側には、機能表示パネルが内蔵されている。私は蓋を開いてそれを確認した。作動状態を示す表示はいずれも正常だった。電源も、今充電を終えたばかりなので満タンである。私は刑事たちに「異常はありません」と言おうとして、ちょっと気になる部分があるのに気がついた。人工知能の状態を示す部分を見ると、記憶データの一部が消去されていたのである。今日、六月二日の分の記憶が、そっくり消されてしまっている。ルーシーが事件のことを知らないのは当然だった。

 つまり、何者かが彼女を操作して、事件が起こった日の記憶を消し去ったということだ。その人物は、どうしてそんなことをしたのだろう。心の中に不穏なものが湧き上がってくるようだった。

 私は刑事たちのようすをチラリとうかがった。部屋の中央に立っている彼らは猟犬のような目をして硬い態度を崩さない。事故死の捜査にしてはやけに物々しいと思ったが、最初からこういう事態を想定していたのだろうか。

「正常に作動しています。ただ、記憶の一部が消されているようですね。このロボット、ルーシーには所有者のプライバシーを守るために記憶を消去する機能がついているのですが、それを誰かが操作して今日の分の記憶を消去してしまったようです」

「何だって?」年嵩の刑事は小さく舌打ちした。だが、さして意外に思っているようすはない。「つまり、このロボットは今日起ったことを何も覚えていないと言うんですか」

「ええ。そうなりますね」

「何とか記憶を復元できないですか」

「無理ですね。ひと昔前の携帯電話のような訳にはいきません」

「その、このロボットの記憶を消す操作は、普通の人間にもできるものですかね。特別な知識が必要なんじゃあないですか」

「知識はいりますが、操作は難しくない。今開いているパネルの記憶表示部分をタッチして、「記憶を消す」のコマンドを選び、その時間を指定するだけですから。彼女の操作に関するデータはネットに公開していますので、それを見れば誰でもできると思います。「ルーシー・人間型ロボット」で検索すれば見つけられますよ」

「参ったな・・・・・・」

 年嵩の刑事は横に立っている大柄な刑事と顔を見合わせた。

 ルーシーは、人間と見分けのつかない存在を目指して作られた最先端のヒューマノイドロボットである。その設計や機能については初期段階から学会で発表されており、情報はすべてオープンソース化されていた。彼女を作った研究チームのリーダーだった水森博士は、研究を多くの人に役立てて欲しいと考えていたからだ。

 ルーシーには高度な人工知能が搭載されていて、表情やしぐさの隅々にまで、人間らしい動きができるように設計されていた。人工知能は経験を積むに従って自ら学び、その精度をどんどん上げていく。

 作られて三年が過ぎた今では挙動は本物の人間とほとんど変わらなくなり、彼女を人間ではないと識別できる要素は外見の造形部分だけになっていた。どんなに精巧に作ろうとも顔立ちには人形っぽさが幾分かは残り、よく見れば本物の人間とは違うと分かったのである。

 ルーシーはキョトンとして、パッチリした目を戸惑うようにこちらに向けてきていた。

「この家の裏で起こった事件というのは何なのでしょう。差し支えなければ教えていただきたいのですけれど」

「ああ、お嬢さん」年嵩の刑事は咳払いして、苦々し気に声を発した。機械であることは置いといて、とりあえず見た目を尊重することにしたらしい。「分からないなら教えてあげよう。水森久仁昭氏が、今日の午後にこの家の裏手にある断崖から転落して亡くなられたのだ。事故なのか、他の原因によるものなのかはまだ分からない。それを知るためにあんたから話を聞かねばならない。分かってくれるか」

「ミズモリクニアキ氏というのはこの家の主人の水森博士のことでしょうか」

 ルーシーはいかにも人工知能らしく、情報の正確な確認を求めた。

「ああ、そうだ」

「そうですか。亡くなったのも間違いないのですね」

「検死官が確かめた。即死だったということだ」

「・・・・・・」

 ルーシーは情報を上手く飲み込めないという風だった。だが、次の瞬間、思いがけない反応が現れた。瞳が涙で潤みはじめたのだ。細くて優雅な眉がキュッと歪んでハの字になり、哀しそうな表情になった。口元を手で押さえて、

「何ということでしょう・・・・・・」

 年嵩の刑事は驚いて私の方を見た。

「このロボットには感情があるのかね」

 私は首を横に振るしかなかった。

「分かりません。可能な限り人間の心に近づけるように設計されていますが。搭載されている人工知能は自主的に学習して機能を高めていくので、ロボット工学が専門の私にも完全に把握することはできないんです。ですが、常識的には疑似的な感情表現と見るべきしょうね。感情表現の一つとして、涙を流す機能はついていますので」

「気にする必要はないでしょ。ロボットがどんな演技をしようが、ただ事実を聞けばいいだけだ」

 今まで黙っていた体格のいい刑事が腕組みをして、ぶっきら棒に口を開いた。体だけでなく、性格も押し出しが強いタイプと見えた。声も太い。

「しかし、どうもやりずらいな。こんな人間とそっくりな機械は居心地が悪いよ」

「じゃあ僕が代わって質問しましょうか」そして大柄な刑事は私に向かって、「ロボットの記憶が操作された時刻は分からないですか」

「そういう機能はついていないですね」

「このロボットはバッテリーが切れた状態で停止しているのを発見されたのですが、そういった状態でも記憶の消去はできますか」

「電源が通じていなければ操作はできません。ですが、電源を繋ぐのは簡単です。一般的な携帯用の小型充電機も繋げますので」

「どうでしょう。まだこのロボットが作動している間に誰かが記憶を消去しようとしたら、ロボットはその要求に、素直に従うと思いますか。その人物に問題があっても従うのかどうかを知りたいのですが。例えば、そうですね。その人物が重大犯罪を、殺人を犯した後だったとしたらどうでしょう」

 さらりと発せられた「殺人」という言葉の異物感は重かった。この刑事は水森博士は殺害されたのではないかと疑っている。犯人はその様子をルーシーに目撃されたから記憶を消し去ったと考えているのだろう。

 まるで毒のある果実を口に含んだように、私は舌が強張るのを感じた。

「分かりません。そういう状況は想定していないので。基本的に、彼女は人間の指示には従うようには出来ています。法律や、道徳にもとる命令は拒否しますが、今言われた場合がそれにあたるかどうかは・・・・・・。ただ、仮に電源が残っている状態の時に記憶を消去されたのだとすると、それからバッテリーが切れるまでの時間の記憶は残るはずですから、記憶を消されたのはバッテリーが切れた後なのだろうとは思います。バッテリーが切れた状態の彼女に補助電源を繋いでAI休眠モードで操作すれば新たな記憶は残りません」

「ふむ。そうすると、もしこのロボットが犯行を目撃したのなら、それは電源が切れる直前だったということになるのかな」

 私は刑事の話に違和感を覚えた。殺人を実行するのを目撃したという仮定には、あまり意味がないのではないかと思ったのだ。犯人がルーシーの記憶を奪おうとするのは、殺人を犯す場面を見られた場合だけだとは限らない。決定的な場面は見られなくとも、犯行の前後に殺人現場の近くにいるのを目撃されただけでも動機としては充分ではないか。それだけでも証言されれば犯人は容疑を受けるはずである。機械であるルーシーの証言には嘘や記憶違いが一切ないのだから、犯人にとっては脅威のはずだ。

 大柄な刑事もそれに思い当たったのだろう。少し考えて、これ以上訊いても仕方ないかという感じで頷いた。

「なるほどね」そして軽く頭を下げてきた。「わかりました。ご協力ありがとうございます。後はこちらでやりますので」

 私はホッとした。もう帰ってもいいのかと思ったが、それは少し考えが甘かったようだ。

 部屋を出るとまたすぐに別の刑事から声をかけられて、さらに詳しく話を訊かれたからである。先の挨拶は「ロボットを診るためにやってきた技術者」へのねぎらいに過ぎず、被害者を知る人物に対する尋問はまた別だったようだ。

 水森博士と私の関係。博士の人となりや、最近のようす。博士を恨んでいる人物に心当たりがないか等々、さまざまなことを訊かれた。しかし、あまり実のある話はできない。水森博士は恩師ではあるが、最近は縁遠くなってしまっていたからである。

 博士は二年前に交通事故で脊髄を損傷してからは、引退同然の生活になっていた。車椅子に乗らなければ移動できない身の不便さもあって、大学の研究室に顔を出すこともなくなっていた。静かな岬の先にあるこの屋敷を買って移り住み、穏やかに老後を過ごそうとしていたのである。

 私が博士を訪れるのも年に数回に過ぎなかった。博士は私の訪問を喜んでくれて、研究の進み具合を聞くのを楽しみにしていたようだ。老けてしまった感は拭えないものの、印象的な丸顔は以前と変わらず、いつも温厚に微笑んでいた。新しい生活に、満ち足りているように見えた。半分は、あきらめの境地だったのかも知れないが。

 博士は妻に先立たれ、一人娘も心臓の病で亡くしていた。天涯孤独に近い身の上である。寂しさは当然あったろうが、いつも傍にいて身の回りの世話をするルーシーがその隙間を埋めてくれていたようだ。

 博士にとって、自分の最後の研究成果であるルーシーは、我が子のようなものだった。同時に彼女が家政婦として仕事をしっかりとこなす姿を見るのは、研究に費やした自分の半生を再確認する作業にもなっていただろう。彼女の能力の高さは、そのまま博士の研究の集大成的成果だからである。彼女はその期待に立派に応えていたようだ。

 博士が彼女を見る目は優しさに溢れ、まるで自慢の孫を見るかのように細まっていたものだ。

 大きな業績にも奢ることなく、目下の者にも誠実に接してくださる立派な方だった。恨んでいる人間などあろうはずがない。

 刑事の質問は多枝に渡り、問答を繰り返すことで私の方も事件の輪郭が少しづつ掴めてきた。ある程度状況が分かっていなければ訊きづらい事柄もあるので、事件の簡単な概要くらいは教えてくれたのである。

 それをまとめると次のようになる。

 事件が起こったのは今日の午後の早い時間。水森博士は電動式の車椅子に乗った状態で崖から落ちたようだ。断崖の上から波打ち際の岩場までは四十メートル以上の高低差があり、即死だったものと思われる。崖の上にいたルーシーは、博士が落ちた断崖から数メートル離れた地面にバッテリーが切れた状態で横たわっていた。

 事件の起こった日に水森博士に会った者はなく、最後に博士に会った人間は、三日前に本を配達した宅配業者だったと推定されている。

 遺体を発見したのは、自動運転ボートで海に出て舟遊びに興じていた若者たちである。遺体があった岩場のあたりは小ぶりに抉れた椀状になっており、外海からは見えにくい。そしてまた、船が通るような場所でもない。日が暮れる前に死体が発見されたのは、偶然によるものと言ってよかった。

 しかし、それらの情報は、どうにも実感が伴わなかった。私は水森博士がもうこの世にいないという事実を受け止めきれていなかった。警察からの要請を受けてやって来た時には、もう遺体は運ばれた後だったし、邸内にも断崖にも死を思わせるものは何もなかった。  

 まるで夢の中の出来事のように哀しみが湧かず、自分はこんなに不人情な人間だったろうかと訝りたくなった。ルーシーのように、すぐに感情が切り替わって涙を流せたらいいのになと思ったりもした。

 そのルーシーは警察の尋問に、どのように答えたのだろう。最近の水森博士を最もよく知っているのは彼女だったはずだが。そして彼女は本当に記憶を消される前に、犯人を目撃していたのだろうか。

 私が唯一刑事に有用な情報を提供できたと思ったのは、水森博士の遺産について訊かれた時だった。

 水森博士の遺産がどのくらいあるのか。それは知らない。だが博士はロボット工学関係で有力な特許を持っていた。だから、そこから上がる収益によって相当な財産を所有していた可能性がある。

 この話を聞くと、刑事の眼つきが鋭さを増した。勢い込んで博士の遺産を相続する人物について詳しく訊いてくる。しかし私にそこまでの知識はなかった。甥や姪がいるのは知っているが、名前も年齢も分からない。水森博士は恩師であっても親戚ではないのだから、血縁関係は詳しく知らなくても当たり前だった。

 刑事たちは一応納得し、そして私への質問は終わった。

 邸を後にしても私の心は曇ったままだった。水森博士がもし殺されたのなら、犯人は誰なのか。刑事たちの態度からすると、遺産の相続人たちが容疑者と目されるのは確実なように思われる。その者たちが、どういう人物なのかを知りたかった。

 幸いそれを尋ねるべき人物には心当たりがあった。

 

                    Ⅱ

 

 私が弁護士の岸を訪れたのは事件から四日後のことだった。

 水森博士の葬儀も終わり、顧問弁護士である岸も博士の遺産相続などの仕事にめどがついた頃だろうと見計らったのだが、どうやらまだタイミングが早かったらしい。

 法律事務所にいる岸は今だ仕事に追われているようすだった。

 私たちが応接室でテーブルを挟んで向かい合うと、すぐに彼の携帯フォンに電話がかかってき、慌ただしい感じでそれに応対する。仕事の打ち合わせらしかった。それが終わるとようやく私と正対した。

 顔つきは心なし疲れているようだった。神経質そうな痩せ方をしているのでなおさらそう見える。一見すると線が細くて頼りなさそうだが、芯が強く苦学を重ねて弁護士になった努力家なのを私は知っている。

 岸との付き合いは、学生時代からのものである。彼が水森博士の顧問弁護士になったのも、私が博士に紹介したからだ。卒業後に進む道は大きく変わり、会う機会も少なくなったが、信頼感は今でも変わらないと思っている。

「忙しいのに悪いな。時間を取らせちまって」

 私が謝ると、岸はとんでもないと言うようにかぶりを振った。

「いや、ちょうど良かった。実はこちらの方から会えないかと思っていたところなんだ」

「そうなのか。何か用でも?」

「ルーシーのことだよ」岸は少し声を潜めるようにした。「あのアンドロイドについては君に訊くのが一番確かだからな」

「ルーシーが、どうしたんだ」

 水森博士が亡くなった今、その遺産相続の処理をするのが顧問弁護士たる岸にとっての急務のはずだが、どうしてルーシーが問題なのだろう。疑似人格を持つロボットの所有権を、遺族にどう相続させたらいいのかが分からないというわけでもないだろうに。

「実はちょっと困ったことになっている」岸は表情を曇らせた。「どうしたらいいか判断がつかないから君の意見を聞きたいんだ」

「何だか深刻そうだな」

「深刻にもなるさ。法律上、史上初の事態が発生してしまっているんだ」岸は大きく頭を横に振って、「まったく、こんなことになるとは思わなかった」

「いったい何が問題なんだ」

「水森博士の遺言状だよ。僕も中身を知らされない状態で保管していたんだが、それが今日の昼に開封された。親戚立ち合いの元でね。そうしたらその内容を聞いたとたんに大きな非難が沸き起こった。頭に血が昇り、そんな遺言は認めないと声を荒げる者も出た。それも無理はない。遺言は相当に常識外れなものだったからだ。何て書いてあったと思う?」

「見当もつかないね」

「それには財産のすべてをルーシーに相続させると記してあったんだよ」

「何だって?」私はいきなりデコピンを食らったようになって、思わず椅子から身を乗り出した。「それは本当なのか」

「ああ。都心の一等地で高層ビルを買えるくらいの金額がルーシーに渡ることになっている」

「博士の資産はそれほど莫大なものだったのか」

「だから困るんだ。遺産をもらえると思っていた親戚は、絶対に認めるはずがない。何がなんでも遺言を無効にしようとして訴え出るだろう。しゃれにならない騒動に発展するのは目に見えている」

「それは困った状況だな。しかし・・・・・・、それを外部の人間に言ってもいいのか」

「遺言には、遺言の内容はすべて公にするようにと記してあった。おそらく親戚に思い通りにさせないためだろう。マスコミに公開し、世論を味方につけるという計算なんだと思う。頭のいい人だから、それくらいの作戦は考えてもおかしくはない。しかし、どうして水森さんは、そんなにあのロボットに愛着があったんだろう。僕は不思議で仕方がない」

 興奮のためか、岸の声は自然に高くなって行った。

 その一方で、私の心は沈んでいた。哀しい思いに捉われていた、と言っていい。一つの事実に思い当たって、博士の深い想いが、想像できるような気がしたからである。ポツリと呟いた。

「ルーシーは、普通のロボットではないからだよ。細かいところまで、博士の亡くなったお嬢さんに似せて作ってあるんだ」

 今にして思えば、水森博士はルーシーの開発に並々ならぬ執念を燃やしていたのだと分かる。ルーシーの外見のモデルをどうするかという問題が出た時、博士は「似せても問題が起こらない人物にするべきだ」と言った。そしてその人物を亡くなった一人娘の瑠璃子さんに設定しようと提案したのだ。あくまでも他には迷惑がかからないように、という体裁であったため、私を含めた研究スタッフからは不審な声はあがらなかった。瑠璃子さんが亡くなったのは二十六歳の時で、遺影は若くて美しかったし、アンドロイドのモデルに相応しい、控えめで優しい雰囲気も備わっていた。反対する理由はなかった。ルーシーの名前は、その彼女の名前「瑠璃子」をもじってつけられたのである。

 そう言えば博士はルーシーの性格設定にもかなり拘っていた。機能性が犠牲になってでも、あくまでも人間らしいアンドロイドを作るというコンセプトを貫徹することを望んでいたのだ。あれは少しでも自分の娘に似せたいという考えからだったのだろうか。ルーシーが完成すると、博士は相当な金額を大学に払って彼女を買い取り自分の所有とした・・・・・・。

 岸はポカンと小さく口を開けていた。

「そんな事情があったのか」

「ああ。だが、全財産を、というのは極端だな。その遺言は法律的には有効なのかい」

「法律では、高度な知能を持ったロボットは犬や猫などのペットと同様の権利を有することになっている。四年前に成立したAIロボット法でね」

 岸は少々忌々し気だった。彼が言う法律は有名で、一般人にも良く知られていた。私は犬猫並みではまだまだ足りないと思っているのだが、世間にはその程度でもセンセーショナルだったらしい。マスコミにも大きく取り上げられて、結構な議論が沸き起こったものだ。

 岸は人権派の弁護士で、AIロボット法の成立も強く支持していただけに、それが自分の仕事に面倒を引き起こす原因となったのは複雑な気持ちがあるらしい。

「大金持ちが自分のペットの猫に全財産を残したとかいう話は聞いたことがあるだろう。この場合はそれよりも複雑なんだ。猫に財産を残したって、猫自身に財産を管理する能力があるわけじゃない。だからそういう場合には、本来財産を受け取るべき遺族がその猫の飼い主兼財産管理人になることによって、実質的な財産相続をすることができた。財産の原資たる猫を下へも置かない扱いをしながら、命が尽きるのを待つという恰好だ。ところが今回の場合は、相続するルーシーには財産の管理能力がある。人間などよりキッチリと、決して間違いを起こさないようにできるんだ。そしてペットに関する法律は、日本でも今では国際基準を採用している。つまり、法律的にはアメリカあたりで起こった大金持ちの財産相続猫と同じ状況なんだ。どう処理するべきかは難しいところだ。水森博士は僕を遺産の管財人に指定してくれたから、この難問にあたらなければならない。頭が痛いよ」

「・・・・・・で、異をとなえている親戚っていうのは、どんな人たちなんだ」

「数は多くない。水森博士の弟と、その息子と娘。それだけだ。その他の親戚は皆他界している」

「良かったら名前を教えてくれないか」

「弟の名は水森繁行。その息子である甥の名は水森明、妹は美樹。二人共独身だが、妹の方は一度結婚して離婚している。遺言状の内容に、真っ先に反対して大きな声を上げたのは甥の明だ。「そんな馬鹿な話があるか」と激高して掴みかからんばかりの勢いを見せた。彼はいささか問題のある人物でね。粗暴なところがあって、何度か喧嘩で傷害事件を起こしている。そんなこともあって職を転々として今は無職だ。妹の美樹は美容師。彼女も評判は良くない。異性関係が派手で離婚したのは彼女の浮気が原因だと言われている。彼女も不満たらたらで、キンキン声で文句を言ってきたな。二人の父で、博士の弟の繁行は右翼の活動家。いわゆる職業右翼というやつだ。頑な人物で、差別意識が強い。外国人には日本国籍を与えてはいけない。ましてやどんなに知能が発達しようともロボットに人間に近い権利を認めるなどとんでもないという意見の持ち主で、兄の久仁昭さんとは対立していたようだ。歳が行っているだけあって遺言の内容を聞いた時も落ち着いていたが、含むところはあるようで、ねっとりとした口調で遺言の実効性について質問してきた。いずれも水森博士としてはあまり財産を分けたくない相手だったのだろうが、それにしても全然やらないというのは極端だ。いったい何を考えていたんだろう。君は水森博士と関係が深いだろう。博士の考えが推察できないか」

 私は考えた。

 水森博士は賢明な人だ。おそらくこの遺言がそのまま通るとは思っていなかっただろう。博士はルーシーに人間と同様に多額の遺産を残したかったが、通常のやり方ではその遺言が実行されるかどうか疑わしいと考えたのではないか。財産の四分の一をルーシーに遺すという遺言をしたところで、なんだかんだと文句をつけられて、その金額を大幅に削られる可能性が高い。何と言っても、ルーシーには犬猫並みの権利しか認められていないのだから。しかし、最初に全財産をルーシーに遺すと言っておけば、文句をつけられた結果の妥協点が四分の一をルーシーが相続する、というところに落ち着くかもしれない。

「多分、水森博士もその遺言が全面的に通るとは思ってないんだよ。裁判沙汰になった結果、妥当な金額がルーシーに残ればいいと考えてそういう遺言にしたんじゃないかな。だから君は遺言の内容を全面的に通す必要はないと思う。ある程度の額がルーシーに渡ればそれでいいんだ。ルーシーに、財産の四分の三を放棄するようにと持ち掛けてみたらどうかな。彼女にそれを飲ませて、その妥協点をいいタイミングで遺族側に提示したら上手くまとまるかもしれない」

「なるほど。それも一つの方法か。だが、ルーシーがその条件を飲むだろうか」

「おそらく、大丈夫だと思うよ」

 私はこれには自信があった。ルーシーには自己保存の本能が組み込まれているが、それはさほど強いものではなく、人間のような物欲がある訳ではない。おそらくは、四分の一でもなお多い。自分に必要な額を上回る分はもらっても仕方がないと判断するのではないか。水森博士の財産の、百分の一くらいをもらえたらそれで充分。それを上回る分は意味がないので放棄します。といった回答が、彼女の口から発せられる気がした。普段から彼女は賢明で性格温厚であり、人間を押しのけて自己主張するのは見たことがなかった。

 その時ドアがノックされた。岸が「どうぞ」と応じると、事務服を着て眼鏡をかけた三十代女性がドアを開けて現れた。この法律事務所に勤める事務員である。

「お取込み中にすみません。若い女性の方が、・・・・・・というより、女性とそっくりな人間型ロボットの方が先生と話をしたいと言って来ているのですけど。お会いになりますか。名前は、ルーシーだそうです」

「ロボットのルーシーだって? 一人でやってきたのか」

 聞いた岸は眉をピクリと上げて訊き返した。

「はい。一人ですけど?」

 岸は私を物問いたげに見た。

 私は少し苦笑して、

「噂をすれば影という諺はロボットにも当てはまるのかな。ルーシーは人間にできることは大概できる。自分の意思で訪ねてきたくらいで驚くべきじゃないよ。しかし珍しいな。人間のように気紛れな行動はとらないはずなんだが・・・・・・。彼女の方から来てくれたのなら今の話をしてみたらいいんじゃないか」

「あ、ああ、そうだな」そして岸は事務員に向かって、「じゃあここに通してもらえるかな。丁重に扱ってください」

 そんな言葉を付け加えたのは、ルーシーがロボットであることを意識したものだろう。

 間もなくドア口に現れたルーシーは、見違えるように垢抜けた姿になっていたので驚いた。着ているのはいつもの紺のメイド服ではなく、向日葵を思わせる黄色いワンピースだ。髪型も、以前は編み込んでいたのを解いて肩に垂らしている。まるでモデルのように華やかだ。彼女はもうメイドではないのだ。

 いつものように声をかけてみた。

「こんにちは。ルーシー。いつもと服が違うのでちょっと見違えたよ」

「こんにちは。江崎さん。外出するのにメイド服では少し変かと思ったので変えてみたのですけれど、おかしいでしょうか」

「いや、似合ってるよ」

「ありがとうございます」

 ペコリと頭を下げたルーシーの微笑みは、心なし嬉しそうだった。

 岸はこのやりとりを渋い顔をして見ていた。

「ルーシーさん。よくいらっしゃいました。僕と話したいことがあるそうですが、どんな御用件でしょう」

「こんにちは。岸先生」ルーシーは律儀に岸にも頭を下げた。「水森博士の遺産相続について、相談した方がいいと思ったので来たのですわ」

「それについては僕も早く話をした方がいいと思っていたところです。水森博士の遺言内容は聞いたと思いますが、それについてあなたはどう思っているのですか」

 ルーシーは少し考えるようにして間を置いてから、

「私の身にはあまりに大きすぎる、法外な相続額だと思いましたわ。とても意外でした。水森博士の遺志は尊重したいのですけれど、この内容では良くないのではないかと考えたりもしました」

 岸はホッとしたようだった。

「あなたがそう考えていてくれて良かった。実は一つ提案があるのです。聞いてくれますか」

 私は岸の性急さがちょっと気になった。

 私たちは応接セットの椅子に座っているが、ルーシーはまだ立ったままだ。いくら疲れを知らないアンドロイドとはいっても、彼女にも座ってもらうべきではないのか。それを指摘すると、岸は初めて気がついたといった風で、

「ああ、そうか。そうですね。すみません。そこの椅子にお座り下さい」

 ルーシーは優雅な物腰しで、岸の勧めた椅子に腰を降ろした。岸と向かい合う、私のすぐ隣の席だ。

 そして岸は具体的な提案を話し始めた。内容は私の言ったのと同じで、財産の四分の三を放棄することで遺族たちと妥協を図ったらどうかというものである。

 彼女はその話に落ち着いたようすで聞き入っていた。そして話が終わると、食事を終えた貴婦人が口元を拭くような感じで品良く頷いた。

「そのような提案をされるだろうと思っていましたわ」

 私は当然ルーシーはその提案を受け入れるものと思った。しかし次の瞬間彼女の口からは、別の答えが発せられたのである。

 穏やかだが、機械らしい妥協の無さが含まれた口調で、

「常識的にはそれが妥当なのだと思います。でも、その提案はお受けできません」

 私は驚いて問い返さないではいられなかった。

「ルーシー、どうしてだ。こんな額の金は、君には意味のないものだろうに・・・・・・」そして気がついた。ルーシーは逆に、四分の一でもいらないと言おうとしているのではないかと。相続を全部放棄すると言うつもりなのでは。その意思表示をしたかったのだとすると、わざわざ岸を訪ねて来たのも納得がいく。「君は、相続のすべてを放棄するつもりなのか。しかし、それはいけない。水森博士の遺志を尊重するためにも、一部はもらっておくべきた」

「いいえ」ルーシーはゆっくりと水平に首を回して私を見た。「そうではありませんわ。お心遣いはありがたいのですけれど、それは無用です。私は財産の相続を、放棄すると言っているのではありませんから。遺言の通りにいたします」

「親戚たちの反対を押し切って遺産のすべてを受け取るというのか」

「はい」

「だが、それは・・・・・・、世間から非難をうけることになるかもしれない。ロボットには人間のような権利を認めるべきではないという意見の人はまだまだ多い。遺産を相続するつもりだった親戚からは憎まれるだろうし。マスコミに報道されれば、君に危害を加えようとする者が出てくる可能性もある。私は今はまだ、そういう行動をとるべき時代ではないと思う。人工知能ロボット全体の将来のためにも、常識に即した行動をとるべきだと思うんだが・・・・・・」

「お心遣いありがとうございます。ですが、私の決心は変わりません。ロボットの未来のためではなく、亡くなった水森博士のためにそうしたいと思うのですから」

「博士の遺志を継ぐためかい。しかし、博士が本当に全財産を君に遺そうと思っていたかどうかは・・・・・・」

「そうではないんです。私が考えているのは、水森博士がどうして亡くなったのかという点についてなのです」ルーシーは細く綺麗な眉をひそませ、切なげな顔をした。「警察では、博士は殺害されたと見ていると知りました。私が事件の状況を考えてみても、その可能性は非常に高いと思います。そして。警察では、水森博士の遺産を相続するべき親戚の人の中に犯人がいると思っているようなのです。こういう状況で、親戚の方に博士の遺産を渡すことができるでしょうか。犯人に、博士の大事な財産を、自由にさせることができるでしょうか。私には、それは正しくない。あってはいけないことのように思えます。犯人ではないと分かっている方に対してでなければ、博士の遺産をお渡しするわけにはいかないのです。私はお金に執着してはいません。真犯人が分かった後になら、相続を放棄してもいいと考えています。ですが、今はまだその条件が整っていません。だからとりあえずは、遺産を私の元に留めておく他はないと判断したのです」

「つまり、相続の放棄自体には、反対ではないということですね」岸は難しい顔になっていた。法律家らしく、ルーシーの言い分を吟味しているようすだ。「しかし、そのような条件だと、永遠に財産を自分の手元に置いておかなければならなくなる可能性がある。もし犯人が判明しなかったらどうするつもりなのですか」

「そうはさせないつもりです」ルーシーは毅然として答えた。「もし警察が犯人を逮捕できないようでしたら、私が代わりに犯人をつきとめようと思っていますから」

 その時私は大きく目を見張っていただろう。これこそが本当の驚きだった。

「君は、探偵になって水森博士を殺した犯人を突き止めるつもりだと言うのか」

「はい」ルーシーの答えには、ためらいがなかった。凛として決意を表明していたと言っていい。「江崎さん。おかしいですか。最近の水森博士を最もよく知っているのは私です。親戚の方もよく知っています。生きている水森博士と最後に会ったのも、犯人を除けば多分私でしょう。事件についての情報を、最も多く持っているのです。そして私には人間を上回る記憶力と理論的思考力があります。口はばったい言い方ですが、私以上にこの役に適した者はいないように思われるのです。私には水森博士の無念を晴らしたいという気持ちがあります。人間のように深く豊かな感情ではないでしょうが、そういう気持ちがある以上、それに従って行動すべきだと思うのです。この行動は倫理にも法律にも抵触しません。逆に倫理や法律を正しくしようとする試みなのですから、行動するのをためらう理由はないのです」

「君は・・・・・・」

 私は言葉を失った。何と言ったらいいか分からなかった。ただ一つ言えるのは、ルーシーの自己学習する人工知能は、私の想像を越えた成長をしているらしいということだった。ルーシーの言う感情とやらが人間と同列に並べられるものかどうかは分からないが、人工知能自身が感情らしきものを持ち始めていると自分で認識している、というだけでも驚異だ。近年は人工知能が疑似人格を持つのは普通のことになったが、人間同様の感情を獲得したという報告は、まだ世界的にもされた例がない。

 私は漠然とした不安を感じた。ルーシーにとってはこれは大きな成長だが、このことが彼女の未来に良い結果をもたらすとは限らない。むしろ危うさを含んでいるのではないか。彼女の知能回路を精査してみる必要を感じた。「ルーシー。君がそんな行動をとれるほど成長していると言うなら、君の人工知能を調べさせてもらえないだろうか。研究者としても興味深いし、点検はしておいた方がいい」

「ええ。私もお願いしようかと思っていました。いやしくも犯罪の捜査をしようとするのなら、まず自分が完全な状態にあるのを確認するべきですわね」

 ルーシーは態度を軟化させ、素直に従うようすを見せた。だが、法律家の岸は技術的なことには興味がないようで、

「しかし、あなたが捜査に乗り出したからと言って犯人を指摘できるとは限らないですよね。犯人が判明しなければどうするかという問題は残っている。何年も犯人が分からなかったらどうするつもりですか」

「ある程度の猶予期間をいただけたらいいと思うのです。おそらく私の捜査には長い時間は要しません。多くの情報を処理できる私には、人間のように考えるのに時間はかかりませんから。とりあえずは一カ月。どんなに長くても一年。それ以上の時間をとっても意味は無いでしょう。私の捜査はそれで終了です。その時点で犯人が分からなければ相続した財産は手放すことにします。常識的な判断に従って親戚の方々にお渡しすることになるでしょう。ただ、犯人である可能性が極めて高いと分かっていても決定的な証拠が掴めないから逮捕には至らない。という人物がいた場合にどうするかについては、改めて考えることになるでしょうが」

「捜査の結果アリバイが証明された人がいたら、その人には財産を早めに譲渡してもいいのではないですか」岸は視線を斜め上にやって記憶の糸をたぐっている風だった。「そういう人ならもうすでに一人は分かっていると思いますよ。水森博士の甥の明さんにはおそらくアリバイがあります。水森博士が亡くなった日の午後一時に、この事務所に顔を出していましたから。博士が亡くなられた推定時刻は丁度その頃だったはずです。ここから事件現場の崖まではどう頑張っても三十分以上はかかるし、明さんはこの事務所に三十分くらいいた。アリバイは成立しているんじゃないかな」

 それが分かっているのなら、もっと早く言ってくれればよかったのに。私は少々いまいましい気分になって、

「その明さんは、いったいどんな用があって来ていたんだ?」

「あ、ああ。ちょっとした法律上の相談だよ。守秘義務があるので具体的なことは言えないが」

 私は岸の口振りから、その内容は例の粗暴な性格が引き起こしたトラブルの一つについてだったのではないかと類推した。

「その時、明さんはどんなようすでしたの」

 優しく生徒に問いかける小学校の先生のようにルーシーが微笑む。

「特に変わりはなかった。明さんはもっと話をしたいようすだったが、あいにく他にも会わなけれはいけない人があったので時間をさけなかった」

「その会見は、事前に予定されていたものなのかしら」

 ルーシーはさらに質問を重ねる。私は気づいた。彼女は、探偵としての仕事をもう始めている。感情に左右されず完璧に穏やかで優しい口調で質問できる彼女は、調査者としての資質に恵まれていた。

「前日に電話で予約されたものでしたね」

 岸も私と同じことを思ったのだろう。少々居心地悪そうだった。

「そうですか」

「僕の質問にも答えてくれないですか。アリバイがあると分かった人に財産を早く譲渡するつもりがあるのかどうかについて」

「それに関しては不平等感が出ないように、他の人と同じタイミングで譲渡するのがいいと思いますわ。アリバイがあっても、それが完璧かどうかを検討する時間は必要ですし。・・・・・・他にご質問はあるでしょうか? 無ければ私の要件はもう終わりですけれど」ルーシーは岸が質問を発しないのを見ると、再び私に視線を向けて、「江崎さん。できるだけ早く私の人工知能を精査してほしいのですが、いつがよろしいかしら」

「すぐにという訳にはいかないね。明日の午前中なら大学の研究室の機器が使える。来てくれれば歓迎するよ」

「分かりました。それでは午前九時に伺います。それでは岸先生。相手をして下さってありがとうございました」

 ルーシーは丁重に挨拶してから席を立った。

 彼女が去ってしまった後も、その場には微妙な空気感が残った。

 気を取り直したように岸がつぶやく。

「驚いたねどうも。人工知能ロボットの探偵さんか」

「だが、言っていることには一理ある。人工知能は基本的に理論で動く。彼女がこういう行動に出てもおかしくはないのかも知れない・・・・・」

「君はどう思う? ロボット研究者としての立場から見て、あのロボットには殺人事件を捜査する能力があるだろうか。警察の先を行って犯人を突き止める可能性はあるのか」

「知的能力が高いのは事実だが、難しいだろうな。能力面に限らず、彼女にはまだ超えるべき問題が多くある。とりあえず研究対象として興味深い成長をとげているとは言えるが・・・・・・」

 私の胸に兆した漠然とした不安はいつまでも消えなかった。

 

                   Ⅲ

 

 ルーシーは約束の午前九時きっかりにやってきた。前日と同じ、華やかな黄色いワンピース姿である。彼女の突然の訪問に、その場にいた研究員たちは驚いたようすだったが、私はそれには構わずすぐに検査を開始した。他の研究員にも協力してもらってルーシーの人工知能に大学研究室の検査用コンピューターを繋ぎ、膨大な量のデータと照らし合わせて作動状態をチェックする。結果はすべて異常なし。彼女は完璧な状態で、自ら成長を遂げていると分かった。その結果を話すと、ルーシーはホッとしたようすだった。自分でも自分の頭脳に狂いが生じ始めているのではないかと不安を感じていたのだろうか。

「事件の状況からすると、まず私の状態に狂いがないのかを確かめるべきだと思いましたので。犯人が私の人工知能に悪性のウイルスを侵入させて倫理基準を狂わせて殺人行わせる、などといった可能性を消去しておく必要があったのです」

 私はルーシーの用心深さに呆れる思いがした。

「そんなことは百パーセントありえないよ。君の人工知能は外部からは操作できないし、ロボット倫理の原則は何があっても揺るがない」

 人工知能ロボットの倫理は、現在でも二十世紀にSF小説の中で考えられたロボット三原則が基礎となっている。次のようなものだ。

第一条。ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって人間に危害を及ぼしてはならない。

 第二条。ロボットは人間に与えられた命令には服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。

 第三条。ロボットは第一条、第二条に反する恐れのないかぎり、自己を守らねばならない。

 今の感覚で見ればロボットの人格権が考慮されていない条項であり、現在では「人間に与えられた命令には服従しなければならない」という部分については緩和されている。人間と同レベルの高い知能を持ったロボットはすべての人間に無条件に従う必要はなく、自己保存の権利や法律道徳に従って命令を拒否する自由を有するのだ。だからこそルーシーは財産相続放棄の提案を拒否することができたし、法律に反した犯人を捜査することもできる。

 ただし、人間に危害を加えてはいけないという部分は今でも絶対である。当然その究極たる殺人は最大のタブーだ。この原則を完全に守るべく、人工知能には様々なガード機能が組み込まている。外部からの操作など、できるはずがないのだ。

「それを聞いて安心しましたわ」

 私はルーシーの安堵の表情をしげしげと見た。この程度のことはルーシーだって知っているはずなので、社交辞令的な発言もできるようになったのかと訝ったのだ。しかし完全制御された彼女の表情に綻びなどはあるはずがなかった。

「ところで、これからどうするつもりかね」

「もう用は終わったので帰りますわ」

 どうやって帰るのかと訊いてみると、「電車で」とのことだった。ロボットの彼女が電車を利用するのは奇妙な感じだが、乗れないことはない。犬猫同様の扱いになるだけだ。それよりも、最寄り駅から邸まで歩くのに時間がかかりそうである。私は「車で送ろうか」と提案してみた。別にレディーファーストを発揮したのではない。彼女の行動を少し観察してみたくなっただけだ。いったいどうやって事件の捜査を始めようというのか。

 彼女は提案を受け入れてくれた。そして私の車の助手席に行儀良く座ると、走行する間は電力節約モードになって、ほとんど動作を停止していたのである。

 話しかけても簡単な答えしか返ってこない。まるでマネキン人形を横に乗せているような不思議な感覚だった。

 郊外から海方行へと四十分ほど車を走らせて、水森博士の邸がある小ぶりな岬の付け根の部分に着く。上空から見下ろすと優勝カップを横から見たような地形をしている岬の地面は奥へ向かって小山を成して盛り上がっており、小山を越えた向こうの断崖沿いに邸はあった。岬全体が私有地であり、邸まで続く道は一本のみである。岬が丸ごと個人の所有というと大変な資産のようだが、斜面ばかりでほとんどは利用出来ない土地であり、地価はタダみたいなものだろう。

 私有地へと入る道の入り口手前には畑が広がっていた。

 ルーシーはそこでようやく通常モードに戻った。

 まるで午睡から覚めた人のように首を起こし加減にして、「ありがとうございます」と礼を言って車を降りる意思表示をしたが、私は構わず邸へ続く道へと車を入らせた。

「遠慮することはない。邸まで乗せて行くよ」

 小山を回り込んで登って行く道は眺めが良かった。木々の間から見える海原が、鱗のように陽を反射して美しい。小山の向こうには猫の額ほどの平地があって、そこに建っている邸は瀟洒な洋館風の造りだ。博士が買い上げる前は、不動産会社の経営者が所有する別荘だったと聞いている。私は玄関前の駐車場に車を停めた。

 そこからは海が一望できた。綺麗な芝生の庭があり、崖の傍には屋根のついた簡易な休息所がある。そこにはベンチが設置してあって、屋根は四本の鉄柱で支えられていた。

「ここはいつ来ても眺めがいいね」私がつぶやくと、

「よかったら少し寄っていきません?」ルーシーも軽い調子で言葉を返した。

 もとよりそれは私の望むところだった。ルーシーの行動を観察したかったし、事件当日には立ち入り禁止になっていて見れなかった水森博士の死亡現場を、一度しっかりと見ておきたいという気持ちもあった。

 その希望を言うと、ルーシーはその地点を見降ろせる場所へと私を案内してくれた。博士が転落した断崖は、見降ろすのも躊躇われるばかりの恐ろしいものだった。高所恐怖症の気がある私は足が竦んだ。そしてその後は、海を眺めるように設置された休息所のベンチに並んで腰掛けたのである。

 気温は高かったが、海から吹き上げて来る風が涼しくて過ごしやすかった。想いはどうしても事件の方に行く。

「君は、どう考えているんだ。博士が転落死した事件について。博士は本当に殺されたのだろうか」

「水森博士は、亡くなる前日まで変わったようすは一切ありませんでした。自殺したとは考えられません。石橋を叩いて渡るように慎重な人でしたので、事故だった可能性もゼロに近いのではないでしょうか。私は殺害されたのだと考えています。事件に関するデータを収集してみると、それを示唆すると思える点がいくつかありました。この事件は、事故や自殺だとしたら奇妙過ぎるのです。どうしても他者の手が加わっているとしか思えない部分があって、そしてそれらの多くは理由が不明なのです。だからこそ、説明がついた時には解決につながるかもしれないと思って考えているのですけれど」

「その内容は教えてくれるわけにはいかないんだろうね」

「教えろと命じて下されば教えますわ。江崎さんは水森博士が最も信頼していたお弟子さんですもの。当然私も信頼しています」

 ルーシーはそう言って少し悪戯っぽい顔をした。まるで駆け引きを覚えたばかりの少女のように。

 私は少しおどけるようにして、

「頼む。教えてくれないか」

「はい。事件の疑問は、まず犯人はどうやってこの現場にやってきたのかという点があげられます。検視の結果分かった犯行時間は午後一時から二時までの間なのですが、その時刻には犯人はこの邸に続く一本道を通っていなかったのが分かっているのです。私有地である岬の入り口すぐ外には畑があって、そこでは農家の人たちが作業をしていたのですわ。午後十二時半から三時までの間です。農家の方々は、その間この邸に続く道に入った人や車はなかったと証言しています。もちろん犯人がそれより早くこの現場にやって来て、午後三時以降に立ち去ったという可能性はありますけど、どうにも不自然です。そして道を通らなければ崖沿いの険しい場所を無理して歩いて行き来するしかなく、そんなことをしたとも思えないのです。この状況を説明する簡単な方法は、「現場にいたロボットが水森博士殺害した」というものでした。私が殺人を行ったとすれば現場に来る人も去る人もいなくて当たり前なのです」

 ルーシーは一切の感情表現をせず、極めて事務的にこれを語った。

「だから君は自分の人工知能を検査してくれと言ってきたんだね」

「私には動機もあります。水森博士の遺産を相続できる立場にいるのですから。ロボットの倫理基準に詳しくない人なら、真っ先に私が遺産を得るために博士を殺したと疑うところでしょう。私も自分を疑いました。ひょっとしたら私は人工知能が故障して、倫理基準が狂っていたのかと。そしてもし私が殺人を犯したのなら、私の記憶を奪ったのは江崎さんかもしれないと考えたりもしました。この邸を訪れる方の中で、私が殺人を犯して困るのは江崎さんくらいですから。ロボットが人を殺したとなれば、私の開発に携わった研究者が批判を受けます。そんな状況は避けたいでしょう。でもこの仮説は違っていたようです」

 私は舌を巻く思いだった。ルーシーは、こちらが思っている以上に頭がいい。私は知らぬ間に彼女から観察されていたのだ。

「事件の疑問点は他にもあります。水森博士が乗っていた電動車椅子についてです。博士が自分で操作して移動できる物なのですが、その椅子の背にあたる金属パイプ部分に、ロープが接続してありました。ロープの両端に登山用の完全固定金具がついているものです。それ自体はおかしなことではありません。そういったロープは博士が以前から使っていて、用心深い博士は崖の近くに行く時にはそのロープのもう一方の端を私たちが今いる休息所の鉄柱に固定して、それから崖に近づくのが常だったからです。万が一の転落防止のためですね。博士は、崖の淵から海を眺めるのが好きだったのです。そのロープの長さは私の記憶では六メートルでした。この休息所から断崖までの距離が六メートルなので、それ以上の長さは必要ないのです。ところが崖下で亡くなった博士が乗っていた電動車椅子の背に固定されていたロープの長さは、警察の調査によると八メートルだったのです。いつの間にかロープの長さが二メートル延びてしまった。そんなことはあり得ないので誰かがロープを別のものに取り替えたということになるのですが、いったいどうしてそんなことをしたのでしょう。元々使われていた六メートルのロープはほとんど新品で、痛んだから取り替えたということは考えづらいのですが。もう一つ奇妙なのは、電動車椅子の背の金属パイプに、巾着袋が結び付けてあったことです。その袋の中には青銅で出来た骨董品の仏像が入っていたそうです。大きさは三十センチくらいで、それなりの重さもあるものです。ですが、私はそんなものに見覚えがないのです。水森博士は宗教心か薄く、骨董にも興味がありませんでした。仏像などは持っていなかったと思います」

「すると、それは犯人が持って来て車椅子に結び付けたということなのかな。仏と一緒にあの世へ行けとでも言うつもりなんだろうか」

「分かりません。実は一つだけそれらを説明できる仮説を思いついたのですが、それはもっと後で話したいと思います。それまでは江崎さんもお考えになってください」

「気を持たせるね」

「事件の概要を、もう少し話してからの方が分かりやすいと思いますので」

「分かった。話を続けてくれ」

「はい。もう一つどうしても考えなくてはならないのは、この崖上に倒れていた私のバッテリーがどういう経緯で切れたのか。ということです。私は、この休息所のすぐ前に、うつ伏せになって倒れていました。頭を海の方に、足を邸の方に向けて、両手は海の方へと伸ばしていたそうです。よろしければ、今その状態を再現してみましょうか」

「いや、その必要はないよ」

「その体勢は、少し変かもしれません。どうして両手を頭上に伸ばしていたのか」

「水森博士が崖から突き落とされようとしているのを見て、助けようと手を伸ばして駆け寄ろうとしたところで電源が切れて前のめりに倒れたとは考えられないかな」

「それも一つの考え方ですわね」

 ルーシーは私の説明に納得してはいないようだった。しかし、それには触れずに話を続ける。

「私の電源についてもお話ししましょう。私はバッテリーの作動可能時間が残り十分になったら充電する習慣になっていました。水森博士は合理的な方で、「ギリギリまで電源が減ってから充電した方がバッテリーが痛まないからそのようにしなさい」とおっしゃっていましたので、それに従っていたのです。事件前日の午後十二時にはまだ十時間近くの残量があったはずです」

「そうすると、事件の日の午前十時前にはバッテリーが切れたということなのかい」

「いえ、深夜には電力節約モードに切り替えますし、力仕事をした時などには電力の消費が早くなるのでいつ電源が切れるかははっきりとしたことは言えません」

「そうだったね」

「問題は、どうして私は充電をせず、バッテリーが切れるまでこの場所にいたのかということです。私はやるべきことを忘れるということはないので、充電をしなかったのにはそれ相応の理由があったはずなのですが。そのことと事件との間につながりがあるのかどうか。もし仮に私が事件とは関係なく何らかの理由で充電をしないでいて、そして電源が切れる直前に犯人を目撃したのだとすると、あまりに偶然が過ぎるような気がするのです。そしてそうではないとすると、犯人は私の電源が切れるのを待っていたことになってしまいます。どちらにしても不合理感は残ります」

「そもそも君が充電をしないのには、どんな理由が考えられるのかな」

「水森博士にそう命じられたか、あるいは充電を後回しにしなければならないほどの緊急事態が起こったか、物理的に動きを止められていたか。この三つの場合が考えられます」

「どれも余りありそうにない可能性だね」

「水森博士に命じられていた、というのが常識的な説明かとは思うのですけれど、博士がそうする理由は分からないんです」

 ルーシーは海を見やった。いや、水森博士の亡くなった断崖の方行を見たのかもしれない。彼女が水森博士について話す時、顔には微妙な翳りが差す。

「さきほども言いましたが、犯行推定時刻は午後一時から二時の間でした。私はその間の親戚の方々のアリバイについても調べてみました。まず甥の明さんなのですが、岸先生も言われていた通り、彼にはアリバイが成立するようです。午後一時から一時半までの間、岸先生の弁護士事務所にいたのですから。そのすぐ後にも友人と会っていて、午後三時までは犯行現場へ行くことができませんでした。次に姪の美樹さんですが、彼女にはアリバイがありません。美容院の勤務日だったのですが、風邪で熱を出したと職場に連絡して仕事を休んでいたのです。その父で、博士の弟の繁行さんも一日家にいたのでアリバイはなしです。ただ繁行さんについては、一つ気になる情報があります。彼は密教系の宗教団体の熱心な信者だということです。そして水森博士の電動車椅子に袋に入れて結び付けてあったのは、密教系の仏像だったのです。一つの体に顔が三つと腕が八本ついている珍しいものでした。だからと言って容疑をかけるのも性急かとは思いますが。犯人が繁行さんに容疑をかけようとした可能性もあるかと思われます」

「しかし明さんが犯人でないとしたら、一番容疑が濃いのは繁行さんだということにはならないかい」

「犯行は、女性でも充分に行えるものでした。繁行さんだけを容疑が濃いと言う理由はないと思います」

「それはそうだが・・・・・・」

 私はルーシーの話にいささか疑問を感じていた。どうして彼女はこんなに詳しく事件について知っているのだろう。

「それにしても短期間にずいぶん詳しく調べたものだな。まさか警察内部のコンピューターにアクセスして情報を得たんじゃあないだろうね」

 ルーシーはそれには答えなかった。そのかわり、子猫が穴を覗き込むような顔つきになって、

「これらの情報から、私が類推した事件の真相をお聞きになりたいですか?」

「真相が、分かったって言うのか」

「そうは言えません。ジグソーパズルを嵌めるように、これらのパーツを繋ぎ合わせて説明をつけることができたというだけです」

「それでも大したものだろう」私はルーシーの言い分を信じてはいなかった。いかに人工知能が人間を超える能力を持ちつつあるとは言っても、そんなに簡単に行くものだろうか。計算能力が高いだけに、必要以上にひねくり回した解釈をしているのではないかという気がした。「それが本当なら、ぜひ聞きたいものだが」

「分かりました」ルーシーは注文を承ったウェイトレスのように頭を下げた。「私が推測した事件の真相は簡単です。まず犯人が事件当日の午後十二時半から三時までの間に事件現場へと続く道を通らなかったのは何故かという疑問の答えですが、それはやはり、その間犯人は事件現場にいなかったからだと考えられます」

「それはおかしいね。事件の現場にいなくてどうして博士を崖から突き落とせるんだ」

「それは、その時事件の現場にいたロボット。つまり私にその役をやらせたからではないでしょうか」

「何を言うんだ。それはさっき否定したばかりじゃないか。君が殺人を犯せないのは分かっている」

 ルーシーは何とも微妙な表情を浮かべていた。困ったような居心地が悪いような、べそをかく寸前の子供のような。どういう表情を作ったらいいのか分からないでいるようだ。

「そうではないんです。残念なことですが。私は人を殺めることはできません。ですが、死に瀕している人を助けることはできます。そして命を助けることができるのなら、それは殺すことができるのと同じことなのです」

「何を言っているのか分からないよ」

「すみません。犯行がどのように行われたのかを説明いたします。犯人はおそらく午前中に、水森博士を断崖へと誘ったのでしょう。「眺めのいいところで話しましょう」とでも言って。電動車椅子に乗っている博士はいつものように固定金具のついたロープを電動車椅子と休息所の鉄柱に固定してから崖へと近づきました。ところがそのロープは、犯人の手によっていつもより長いものにすり替えられていたのです。そして犯人は博士を崖から突き落としました。博士はロープで繋がれている電動車椅子ごと崖に宙吊りになります。博士は何事もキチンとするたちで、電動車椅子に乗る時にはシートベルトをしっかり装着するのが常でした。だから宙吊りになっても椅子から落ちることはなかったでしょう。そうしておいて犯人は邸内にいた私を呼びます。「水森博士が崖から落ちて宙吊りになってしまった。自分の力では引っ張り上げられないから君も協力してくれ」と。私はもちろんそれに従います。しかし私がその現場へ行って水森博士を繋いだロープを持ち上げた時、犯人は柱に固定してあったロープを外してしまったのではないでしょうか。そしてその状況を私に知らせます。私が手を離したら、水森博士は崖下に落ちてしまうと。しかし私には博士を崖の上に引っ張り上げるだけの力はありませんでした。犯人が電動車椅子の背に銅製の仏像を結び付けて、私の引っ張る力とロープに吊り下がった博士らの重さが釣り合うように調整していたからです。私は博士を危機から救うことができず、そのままの体勢を維持することしかできなくなりました。犯人はそうしておいて、この現場を立ち去ったのです。自分のアリバイを作るために。おそらく数時間後、私の電源は尽き、私が動きを停止するのと同時に博士は崖下に落下しました。私は体から力が抜ける瞬間にその力に引かれ、手を崖の方へ向ける形で前のめりに倒れたのではないでしょうか。犯人はその後でこの現場に戻ってきて、私の記憶を奪ったのでしょう」

 私はようやくルーシーが言っていた意味を理解できた。「命を助けることができるのなら、殺すことができるのと同じ」ルーシーは、「自分は人の命を助けようとすることにより、殺害時間を後にずらすことができる」と言っていたのだ。結果的にその行為は、犯人を助ける共犯者と同じになってしまう。

 本当に、そんな犯行が行われたのだろうか。私はルーシーの説に齟齬がないかどうかを考えてみた。しかし、これといった矛盾点は見つけられなかった。ロープが長いものに取り替えられていた疑問と電動車椅子に仏像が結び付けられていた疑問、バッテリー切れの疑問にも答えている。いささか出来過ぎた話という感じはするが、考慮に値する説だと思えた。

 そして、もし本当にそのような犯行が行われたのだとしたら、なんという卑劣な犯人だ。と思わずにはいられなかった。敬愛する博士を全力で支え続けたルーシーは、その間どんな気持ちだったのだろう。ロボットにとって人命救助は何より優先するので、それ以外のことにエネルギーは割けない。犯人に利することになると分かっていても、電源の最後の一雫まで、博士を支えるために使わざるを得なかったはずだ。どんなに僅かな可能性であっても、偶然助けがくるのを待つしかない。そして宙吊りにされた博士は、その間にいったいどれだけの恐怖を感じていたことか。

 そして同時に気がついた。この説がもしも正しいとしたら、犯人が誰なのかは、明らかではないかと。

「君は、犯人は甥の明さんだと見ているんだね。この仮説が正しいとしたら、犯人はアリバイを用意していたはずだ」

「犯人を証明する証拠は何もありません。崖にロープが擦った跡がないかどうかも見てみたのですが、地盤が固くて見つけられません。本格的な科学捜査をすれば分かるかもしれないと思って警察の方々にも頼んだのですけれど、本気で取り合ってはもらえませんでした。ですから、警察を動かすためにも人間の方に協力して欲しいのです。どうしてもロボットだけの意見では、軽んじられてしまいますので。だから江崎さんにお話ししました。協力して頂けますか?」

「ああ。もちろんだ。君の説は詳しく捜査するべき有力なものだと思うよ」

 力強く私が言うと、ルーシーは弱々しく微笑んだ。

「良かった」ルーシーは立ち上がった。海からの風に、本物の人間よりも柔らかい、長い人工髪をなびかせながら。彼女は亡くなった水森博士の一人娘の瑠璃子さんとそっくりだが、ほんの少しだけ本物より美しく作られている。「もう邸の中に入りませんか。美味しい紅茶をご馳走しますわ」

 

 ルーシーは私の好みをよく知っていた。紅茶はダージリンで、角砂糖は一つ。かき混ぜずに飲んで最後に残った仄かな甘みを愉しむ。

 私たちは応接間の応接セットに腰を落ち着けた。事件の当日に、私が刑事たちに頼まれてルーシーを起動させた部屋だ。あの日とは逆に私がソファーに座り、ルーシーはテーブルを挟んで向かい合う椅子に座る。

 お茶を飲めないルーシーは自分の前にもティーカップを置いて、ティータイムに付き合う風を装った。英国風の華奢で優雅なティーカップには、蔦のような模様が入っている。それを鑑賞するように眺めたり、カップを持ち上げて口元に持って行ったりした。

「無理してお茶を飲むふりをすることはないよ。自由にしていたまえ」

「すみません。水森博士はお茶を囲んでいる雰囲気がお好きでしたので、私もこのようにするのが習慣になっているのです」

 ルーシーはティーカップをゆっくりとソーサーの上に置いた。

「君は本当に水森博士を敬愛していたんだね」

「博士も私を大事にしてくださいました」

「だろうね。分かるよ・・・・・・」

 私は紅茶の最後の一口をしみじみと味わった。

「おかわりはいかがですか」

「いや、もう充分だ。美味しかったよ」

 するとルーシーはうつむき加減にして、おずおずと話し始めた。

「それなら良かったです。江崎さん。紅茶を飲み終わったのでしたら、聞いていただけますか。また事件のことで申し訳ないのですが、私はつい今しがた犯人を示す証拠を掴んだように思うのです」

 ルーシーは寛ぐためのティータイムには難しい話をしてはいけないとでも思っていたのだろうか。それにしても、いったい何を言い出そうというのか。

「・・・・・・しかし、君はただお茶を淹れてくれただけじゃないか」

「いえ、その前にポットに湯を沸かすための水を汲んできました。その時に、考えたのです。もし私の推測が当たっていて、犯人の計略に嵌って水森博士をロープで支え続けなければならない状況に陥っていたのだとしたら、私はその時にどうしただろうと。もちろん博士を支えるために全力を尽くさなければなりません。身動きはまったくできなかったでしょう。でも、犯人の計画は推測できたはずです。この事態がこの後どのように進行し、犯人がどのような行動をとるのかは分かりました。ですが、分かっていても私にそれを止めるすべはありません。水森博士の命を救うこともできず、犯人の奸計を阻止することもできない。もしも私に人間のように豊かな感情があったら、無念さに歯噛みする思いだったでしょう。そう考えていたら気づいたのです。私は歯で自分の口の中を噛むことができる。口の中を噛んで傷つけることにより、メッセージを残すことは可能だったかもしれないと。犯行方法か、もしくは犯人の名前くらいなら、記することはできたのではないでしょうか。私はそれに気づくと洗面台へ行って自分の口の中を鏡に映して見てみました。そうしたら、あったのです。上唇の裏に歯で噛んだような不規則な傷の列が。私はどうやら電源が切れる前に上唇を歯で噛んで、モールス信号の方式でメッセージを残していたようです」

 ルーシーはゆっくりと両手の指で自分の上唇をつまんで、それをペロンと捲って見せた。

 確かに、柔らかい合成ゴム製の裏唇に、噛んだような傷が一列に並んでいた。傷は点のように短いものと線のように長いものがあり、意図的に噛み分けたとしか思えない言語的な規則性を示していた。

 ルーシーには人間のように敏感な体感センサーはついていない。だから見えない場所にある傷に自分で気づくのは難しいのだ。意図的に調べてみるまでは分からなかったのだろう。

「ルーシー、まったく君には驚かされるよ」私の声は興奮に掠れた。「それで、そこには何と書いてあるんだ?」

 ルーシーは唇を元に戻すと、躊躇うように間を置いてから口を開いた。

「はい。モールス信号を変換した文字は、『ハンニンハ キシタクミ』です」

「何だって。キシタクミ? それは間違いないのか」

 岸匠は、水森博士の顧問弁護士であり私の親友でもある岸のフルネームだ。

「間違いはありません」

「そんなはずは無いだろう。どうして岸が水森博士を殺さなければならないんだ」

「岸さんは、水森博士の姪の美樹さんと親しいのです。結婚の約束ができているのだとすれば、遺産の相続が動機になるかもしれません。いずれにしても、私は見つかった証拠に基づいて判断するよりありません。私は弁護士の岸さんを、殺人者として告発いたします」

 ルーシーは真摯にまなじりを引き締めて、真っすぐに私の目を見つめた。

 

                   Ⅳ

 

 ルーシーの告発は事件の捜査に大きな波紋を投げかけた。何と言っても犯人の名を示す証拠を提示できたのだ。警察も無視を決め込むことなどできはしない。私が彼女を全力で擁護したことも、彼らを動かす一助となったようだ。

 警察は岸を容疑者と目した捜査を開始して、そして容疑を固める証拠をいくつも掴んだ。

 道路に設置されている自動車ナンバー自動読み取り装置を解析して犯行当日に岸の車が水森博士邸の方へと向かっていたのを発見した他、水森博士の電動車椅子に結び付けられていた仏像は岸が一カ月前に古物商から買い取ったものだという事実も突き止めた。水森博士の姪の美樹さんとの関係も、婚約者同然のものだったと分かった。だが美樹さんは岸の犯行には関わっていなかったようだ。もし岸の計画を知っていたら、犯行が実行された日に仕事を休んでアリバイを無くすようなことをするはずが無いからである。一方岸の方は、勤務日だから彼女は当然出勤するものと思って安心していたらしい。

 ルーシーからの告発を受けた岸の取り乱し方は醜かった。「ロボットなどに何が分かる」と声を荒げ、警察の取り調べにも慌てふためいて犯人にしか知り得ない言葉を発したりもしたらしい。結局それが逮捕の決め手となった。彼の有罪はもう動かないだろう。

 それらの成り行きを見ていた私は哀しかった。岸のことは自分を律して努力を重ねる立派な男だと信じていたのだが、そうではなかったと分かってしまったのだから。

 事件が一段落すると、私はおりを見て再びルーシーの元を訪れた。ルーシーは水森博士の邸を綺麗に掃除して、引っ越しの用意を整えているところだった。

「立派な邸なのに使わないのか。もったいないね」

 応接間でルーシーが淹れてくれた紅茶を飲みながら私が言うと、向かいの席にいるルーシーはあっさりとしたようすで、

「ロボットの私には必要ないですから」

「博士から相続した財産は、もう親戚の人たちに譲ることに決めたんだったね」

「はい。親戚の方々と協議して、私自身が誰の所有にもならない権利と、あと博士の財産の百分の一にあたる金額だけは頂きましたが。私にとっては、それだけでも過分なものです」

 肩の荷を降ろしたルーシーは晴れやかな表情を見せた。

「そうか」

 それとは逆に、私の心は重くなるばかりだった。私には一つだけ、やらなければならない仕事が残っていたのである。いつまでも先延ばしにはできない。ここまで延ばしただけでも、遅すぎたくらいなのだ。

 私は紅茶の残りを一気に飲み干すと、思いきって切り出した。

「ルーシー。君に話さなければならないことがある。心して聞いてくれ」

「はい」

 ルーシーは私の態度で察するものがあったようだ。先生の訓示を待つ小学生のように、キチンと椅子の中で居ずまいを正した。賢明な彼女は私の要件を予想していたのだろうか。

 どう言ったらいいか分からなかった。言葉を飾ることなどできない。単刀直入に言うしかなかった。

「はっきり言おう。私は君を廃棄しなければならない。理由は、君が水森博士を殺した犯人を、告発したからだ」

「はい」

 ルーシーは、何の反応も示さなかった。

 かえって私の方が戸惑って、口調が乱れがちになる。

「・・・・・・私は君が水森博士の殺害事件を捜査すると言った時、そんなことはできないだろうと思った。君の人工知能の能力が、そこまで達しているかどうかは分からなかったし、それ以上にロボット倫理の基本三箇条が、君の行動を阻むだろうと思ったからだ。ロボットは人間に危害を加えてはならない。危険を見過ごすことで危害を及ぼしてもならない。ロボットは人間の命令に従わなければならない。ただし命令が人間に危害を与えるものである場合には従うべきではない。これらに反することのない限り、自己を守らなければならない。現在ではロボットにも人格権が一部認められているが、それでもこの条項は重い。ロボットは人間に危害を加えてはならない。特に人を死に至らしめるような行為は、いかなる条件があっても絶対に許されないのだ。どんなに僅かであってもこのタブーに抵触した可能性があるロボットは廃棄処分にする。これはすべてのロボット工学者が守らないといけない絶対のルールなのだ・・・・・・分かってくれるかね」

「ええ・・・・・・分かりますわ」

「どうして君は岸を告発してしまったのだろう。水森博士の無念を晴らし、法律を守って正義を貫くためか。しかし、わが国の司法には、死刑制度がある。実際には一人を殺しただけで死刑になることはないが、それでも殺人の最高刑は死刑なのだ。どんなに僅かでも法律上はその可能性がある以上、私は君をロボット倫理に違反したと認定せざるを得ない。人間を死に追い込む可能性に踏み込んでしまったと考えないわけにはいかない。もちろん君の人工知能に生じた歪みは、ほんの僅かなものだろう。研究室のコンピーターで検査しても、異常は見つからなかったくらいなのだから。だが、どんなに僅かでもずれが生じれば、それは時間とともに拡大してゆく恐れがある。人工知能がモンスター化するのを防ぐためには、どんな小さな悪い芽でも摘み取らないといけないのだ。ロボットは、アンドロイドは、殺人事件の犯人を、指摘してはいけないのだ。死刑という制度が存在する国ではね。私も君から岸の名前を告げられた時にはつい興奮してそれを忘れてしまっていたが、冷静になって考えれば、そう断じる他はない」

 私は一気に喋ってしまうと、息急くような思いでルーシーを見た。しかし彼女は淡々としていた。まるで大事に育てた花の生育の問題点を指摘されるのを聞いていたかのようだ。その姿は人間を超えた特別な存在のようにも見えた。

 彼女はゆっくりと口を開いた。

「私にも、それは薄々分かってはいました。おそらく、水森博士が亡くなる時のショックが、私にロボット倫理を乗り越える感情のようなものを生み出すきっかけとなったのではないかと思います。犯人の計略にかかって断崖に落ちかけた博士を支え続けている時に、その狂いは生じていたのかもしれません。普通の人工知能が経験するはずのない、異常な状況でしょうから。考えてみるとその時に犯人を示唆するメッセージを残したこと自体、もうすでにロボット倫理に違反していたかもしれないのです。博士の命を救いたい思いと、自分はその博士を殺す計画に加担してしまっているのではないかという思い、犯人に対するネガティブな思いなどが交差して、異常な反応を生じさせたのかもしれない。ですが、私は、後悔してはいません。これで良かったのかもしれないとも思うのです。水森博士の無念を晴らすことはできたのですし、僅かでもタブーのラインを越えたからこそ、私は本物の感情らしきものを持てたのではないかとも思うからです。だとしたら、私は逆に、幸せなのではないでしょうか。これまで人工知能が持つことができなかった感情を、人間の心を、ほんの僅かであっても理解することができたのですから。江崎さん。ありがとうございます。水森博士に大事にして頂き、あなたにも親切にして頂いて、短い間でしたが私は幸せでした。・・・・・・あなたといる間は、とても暖かい気持ちになれましたわ。その気持ちは私の宝物です。それではさようなら。ご迷惑をおかけしないためにも、もう私は消えた方がいいですわね」

 ルーシーはこの上なく優しい笑顔を見せた。そして次の瞬間、その顔からはすべての表情が消えたのである。まるで神の見えざる手が、すべてを拭い去ってしまったかのように。微細な動きから完全なる静止へ。こんな僅かなことが豊かな生命と見えたものを物質そのものに戻してしまうのは、何度経験しても不思議な感覚だった。彼女は自分で自分の電源を切ることができる。これが、ルーシーが自分の意識を捨てて、ただの物質に戻ることを選択した瞬間だったのである。

 ルーシーの瞳は魂のない合成樹脂の球体に戻り、そして二度とは動かなかった。

私は胸を押しつぶされそうだった。

「ルーシー・・・・・・」

 思わずつぶやいて、そして彼女を再起動させる誘惑に駆られた。彼女には一つだけ、言えないでいることがあった。それを伝えたいと思ったのだが、すんでのところで思い留まった。

 彼女は自ら消滅する道を選んだのだ。苦しみのない平穏な世界へ旅立ったのなら、呼び戻すようなことはするべきではない。それが彼女を人間同様に処遇する、最後の礼儀であるように思えた。ロボット工学者の倫理に照らしても、危険な要因が生じたロボットを自分の都合で再起動させるなどということはすべきではなかった。

 私の頭には、ルーシーが自分に生じた小さな魂を手に持って、天に昇って行く姿がイメージされていた。その姿は十年前に亡くなった水森博士の一人娘の瑠璃子さんとそっくりだった。ルーシーは、私がかつて愛し合い結婚の約束をしていた瑠璃子さんと同じように、安らかに天国に旅立つことができたのかどうか・・・・・・。

 ルーシーは今、宝石のような魂を持って空に浮かんでいる。

 そう信じたい。