d94n2s blog

自作小説の公開、管理を目的としたブログ。変な小説を読みたい人は寄っといで。

「終了ボタン」    小説  初投稿です

 

「ただいま」

「お帰りなさい。遅かったわね」

「飲みに誘われてね。昇進したばかりで周りに気を使わなくてはいけない時期だ。断るわけにはいかないだろう。これでも適当なところで切り上げてきたんだぜ」

「別に責めてはいないわよ。おでん作ったんだけどご飯にする?」

「そうだな。軽く食べようかな。チクワブは入れてくれたか」

「ちゃんと入れといたわ」

「そうか。飲んだ後にはチクワブが美味くてね」

「それはご飯を食べてないからでしょ。おでんに小麦粉練り物を入れる感覚って、あたしはよく分かんないな」

「君の出身地では一般的じゃないんだったね」

「用意するからその辺で休んどいて」

「ああ疲れた。あれ、テレビのリモコンは?」

「ソファーの上にあるでしょ」

「ああ、あった。・・・・・・ふーむ。面白い番組はやってないな」

「最近のテレビって面白くないわよね」

「低いレベルで大衆に合わせすぎなんだよな。仕方ない経済チャンネルでも見るか。・・・・・・ほう。株は今日も上がったのか」

「最近調子がいいわね。景気がいいわけでもないのに気持ち悪いみたい」

「株っていうのは将来の期待に対して上がるものだからね。先行きは明るいと見ている人が多いんだろう。それともう一つ大事なのは金融市場に流れる金の量で、この点に関しては今は良好な状態だから。騰がってもおかしくはないんだ。しかしテクニカル的にはそろそろ危険な兆候が出てきてはいるかな。例えば・・・・・・」

「株の講釈はいいわ。はい。用意できたわよ。温め直しただけだけど」

「いい匂いだ。ああ、ご飯は少しでいいよ。飲みながらつまみを食べてきたからね」

「このくらいでいい?」

「ああ。ふむ。美味いな大根」

「スーパーで安かったのよ」

「結構だ。安くなるのは旬な時。高値買いは株同様に慎むべきだ」

「蕪じゃなくて大根よ」

「味つけも丁度いいよ」

「できあいのオデンの素を使ってるから誰が作っても大体同じよ」

「そうかな。いつもより美味い気がするんだが」

「いつもとは別のメーカー品を使ったの。こっちの方が口に合うのね。憶えとくわ。ところでどんな飲み会だったの」

「部下に誘われたんだよ。前に一度だけうちにやってきた木下っていうのは知ってるかな」

「ひょろりとしていてやけに頭が角ばった人かしら。二十代半ばの」

「ああそうだ。今は三十代になっているがな。そいつが課長昇進おめでとうございます的なのを発案してくれたんだ。参加したのは木下と仲のいい三人だけだったがね」

「あの人少しエリンギに似てるのよね」

「木下がか」

「シルエットがそんな感じ」

「そんなことを本人の前で言わんでくれよ」

「当たり前でしょ。大体会う機会なんて無いじゃないの」

「それはそうだが」

「チクワブ食べないの?」

「言われなくても食べる。ものには順番っていうものがあるんだ」

「それで? 飲み会はどんな雰囲気だったの」

「別に普通だったが。まあ適当に持ち上げてくれて、仲良くやりましょうっていう感じだった」

「でも普通はあんまり上司とは飲みたくないものなんじゃないの。気を使うもの。何か他に誘ってきた理由は無かったのかしら」

「よく分かるな。実はその通りだ。木下のやつには魂胆があった。やけに私と話をしたがるなと思ったら、どうやら株の話を聞きたかったらしいんだな。木下は株を始めようとしていたんだよ。どういう訳か職場で私は株の名人だという噂になっているらしくて、『ぜひご指南頂きたい』てな感じでノウハウを訊いてきたんだ」

「あなた自分じゃ気づいてないかも知れないけど、株の話が妙に多いのよ。勘違いされてもおかしくないと思うわ」

「そうかな。外ではそんなにしてないと思うんだが」

「話すのは少しでも、何となく態度に出てるんじゃない。『少しづつだが利益は出ているよ』とか本当のことを言ったって、聞いてる方じゃあ『謙遜しているが、大きく儲けているに違いない』とか思うんじゃないの。あなたは株のことになると何となく嬉しそうなのよ。反省しなさい」

「そんなことを言っても、趣味なんだから仕方ないだろう。競馬なんかを趣味にしているやつのことを考えてみろよ。眼の色を変えて熱中したあげくに毎年確実に金を無くして行くんだ。私は逆に趣味で金を儲けている。堅実第一でやっているから暴落相場で大きく穴を空けるようなこともない。毎年の家族旅行はすべて株の配当で賄えているんだぞ」

「甲斐性のある夫なのは感謝してるわ。それで、木下さんには何て答えたの?」

「やめておいた方がいい、と答えたよ。暴落している時に始めたいと言うようなら見込みはあるが、騰がって騰がって世間が騒いでいるから自分も、なんていうのはカモにされるだけだ。有名な靴磨きの話をして諭してやった。あまり納得はしていないようだったがね」

「それがいいわね」

「『株を始めたい』と相談された時には、否定的な意見を言っておくのが定跡なんだ。もしも勧めて、大損する結果になったりしたら恨まれかねないからな」

「あなたはいつでもお利口さんよね」

「何だか皮肉っぽく聞こえるな。ふむ。やっぱりチクワブは美味いな。飲み直したくなる」

「ビール出す?」

「一本だけもらおうか」

「ちょっと待ってね。・・・・・・はいどうぞ」

「一本だけって言ったぞ」

「あたしも一本いただくわ。あー美味しい」

「・・・・・・」

「どうしたの」

「いや、またいつかみたいに気分を悪くしないかと思ってな」

「いやね。自分の体調くらい分かってるわよ」

「君は人より繊細な体質なんだ。ほどほどにな」

「外で散々飲んで来た人に言われたくないわ」

「そんなに沢山は飲んでないがね。そう言えば、酒場でちょっと変わったやつと出会ったよ」

「あたしも知ってる人?」

「木下と一緒にうちに連れてきた中の一人だったから、会ったことはあるはずなんだが。数年前までうちの会社にいた大友っていう男だ」

「大友さん・・・・・・ああちょっとイケメンの」

「そういう目で見たことはないが。言われてみれば顔立ちは整っているのかな」

「上品でちょっと育ちのいい感じだったわよね」

「だいぶ変わったぞ」

「そうなの?」

「ああ。大分やさぐれた。服装はキチンとしているんだが、何となく派手なんだ。裏社会の人間が全身から発している生臭さみたいなものが滲み出ていた。ウェイトトレーニングでもやってるのか、身体つきもガッチリしてきてまるで別人だよ。うちの会社を辞めてからまだ七年くらいなのに、いったい何があったのかって感じだった。訊いてみたら色々あったらしい。会社を辞める時には小さな会社を起業するとか言ってたんだが、それはすぐに潰れて借金を背負って、それからまた別の会社を起業したんだと」

「よくそんなお金があったわねえ」

「そう思うよな。私もそれを聞いたんだよ。そうしたらあいつは言うんだ。しゃあしゃあとして、『最初の会社を起業する金は株式投資で作りました』と。何とうちの会社に居る時に、すでに億を超える資産を作っていたと言うんだよ。私どころじゃない。本物の株名人がここにいたってんで、木下は一気にやつの虜さ。でもその取引きのやり方を聞いてあきれたね。恐ろしくハイリスクハイリターンなんだ。限界までレバリッジをかけて、当時注目されていた仕手株にぶっこんだんだと。ああ、前にも言ったがレバリッジってのは手持ち資金の何倍もの株を買える借金買いのシステムでね。当然危険極まりない。だがやつはその賭けに勝って、会社をやめて起業できるだけの金を手にした。車が好きで、希少な外車を輸入する会社を作るのが夢だったって言うんだな。でもそんな会社が軌道に乗るかどうかは怪しいもんだろう。やっぱり潰れた。借金を背負って、やつはそれでもめげなかった。そこから先のことは詳しくは教えてくれなかったが、大分危ない橋を渡って資金繰りをしたらしい。そしてまた別の会社を、今度は車と同じくらい好きだったロック音楽を追いかけて、日本のローリング・ストーンズ発掘を目指して芸能プロダクションを設立したんだと」

「夢のある話ねえ」

「夢があるどころじゃないよ。無茶もいいところだ。やつはまた資金繰りに苦しくなって投資に活路を求めている。今度は仮想通貨で利益を出しているんだと」

「ふーん。そういうのを聞くと堅い取引きに徹して少しづつ利益を出しているのが馬鹿馬鹿しくならない?」

「それが株式投資の罠なんだ。ハイリスクに勝って大きな資産を作る投資家は常にいる。それを夢見て自分も、と思うのが一番いけない。その入り口は虎の口も同然で、強運かもしくは特別な才能に恵まれた者でなければ生き残れない細い道なのさ。私は人より少し賢いだけだと思っているから、そういう人間に合った堅実な道を歩かなければならない」

「堅実な夫なのは有難いけど、ちょっと面白くないのよね」

「大友のような男と結婚したら凄い苦労をするぞ」

「結婚したいなんて言ってないわよ」

「やつはうちの会社を辞めた後に一度結婚して離婚したらしい。きっと奥さんはついて行けなかったんだろうな」

「そんな風な人には見えなかったけど」

「私も意外だった。どうしてそんな生き方ができるんだって訊いてみたら、『自分の家系は代々早死にする人が多いから悔いがないように生きているんです』っていう答えだった。あと、おじいさんの影響もあるらしい。あいつは幼い頃からおじちゃんっ子で、大分可愛がってもらったようなんだな。そのおじいさんが山師っぽい人で、若い頃に綿花やら大豆相場やらの投資をやって一財産を作った。その思い出話を聞いて育ったということだ。血は争えんってやつかな」

「久しぶりに会った割には詳しく話してくれたのねえ」

「やつは妙に私に恩を感じているところがあるようなんだよ。『僕が会社を辞める時に庇ってくれたのは高坂さんだけでした』なんて言うんだ。こっちはそんな気は全然なかったんだが、言われてみればやつは会社を辞める前に仕事で大きなミスをしたり上司と上手く行かなかったりで、周りから白い目で見られてるようなころはあった。軽く元気づけるような声をかけたのが、あいつにとっては大きかったのかな。ちょっと無口で取っつきにくいところがあるヤツなんだが、私には詳しい話をしてくれたよ」

「逆風が吹いてる時にはちょっとした一言が身に沁みるっていうのはあるわよね」

「君にも経験があるかい」

「大ありよ。あたしもちょっと孤立しやすいところはあったから」

「君は芸術家肌だからなあ」

「その大友っていう人、何だか興味を惹かれるわ。あたしの家系も早死にする人が多いからなおさら」

「君の家系は男の人が早く亡くなるんだったね」

「ええ。父も亡くなってしまったし。弟は『俺も早死にしちゃうのかな』なんて心配してる。でもそれで生き方が変わったようには見えないけど」

「実は大友がハイリスクな生き方をするようになった理由はそれだけじゃあないようなんだ。やつも最初は当たり障りのないことを言っていたんだが、酔いが回ってくると妙な話を始めた。・・・・・・うむ。ビールも美味い。体に染み入るようだ」

「どうしたの。飲んでばかりいないで早く続きを言いなさいよ」

「それがちょっとホラーがかっているって言うか、信じてもらえるかどうか分からないような話なんでね。大友のやつは幼い頃から想像力の豊かなタイプだったらしい。よくいるだろう。木の木目とかが人の顔っぽく見えるとそうとしか思えなくなって異常に恐がるような子供が。そんな傾向が強い上に妖怪が主人公のアニメに影響を受けたりもして、頭の中でありもしないオリジナル妖怪を勝手に自分で作っていたって言うんだな。トイレの便座が夜中に妖怪と化して人間を飲み込んでしまうんじゃないかとか、台所にある調理器具が知らないうちに手足を生やして動き回っているんじゃないかとか。そういったたぐいの愚にもつかない妄想だな。やつの頭にはそんなものが渦巻いていたんだが、いつの頃からか自分でも説明のつかない一つのイメージが繰り返し頭に浮かぶようになったんだと言う」

「妖怪なんかを思い浮かべたからって、それが生き方とどう関係するのよ」

「関係はあるんだ。おいおい話すから聞いててくれ。それがな。頭に浮かぶようになったのは妖怪とかじゃあないんだよ。妙な話だが、一つのボタンだ。服についてるやつじゃあなくて、機械を起動させたりするスイッチの方。薄っすらとした靄の中に、五百円玉くらいの大きさをした円形のスイッチが、事あるごとに頭に浮かんで、実際にそれが頭の中にあるような気がしてきたと言うんだ。そして、それは何だか凄く重要なもののような気がするんだと。いかにも押してくださいという感じに見えるけど、押してしまったらどうなるのか。大変なことになるような気がする。ひょっとしたら世界が破滅するんじゃないかと思えて仕方がないと言うんだ」

「変な話ねえ」

「やつはそれを説明するために豆腐小僧っていう妖怪を例にあげた。どういうわけか一年中盆に豆腐を乗せて持っているという変な妖怪なんだが、そいつが豆腐を持っているのは持っている豆腐が崩れたら世界が破滅すると思っているからじゃないか。なんて言う。そんなはずはないと豆腐小僧自身も分かっているが、それでももし本当に世界が破滅したらどうしようと思うと豆腐を手放せない。自分のボタンを押すに押せない感覚はそういうものに近い、とか言うんだが、訳が分からない例えだな。全然一般的じゃない。子供の頃のやつは、そのボタンを世界を破滅させるボタンだと漠然と感じていた。そしてそれを押してしまいそうになるスリルを楽しんだりするようになった。そういうものを持っている特別感というか、神になったような視点を心地よく感じたりしていたらしい。子供ってのは極端に自己中心的なところがあるからな。そういう不遜な考えを持ってもおかしくはない。だがその考えも、打ち砕かれる時がやってきた。いつも優しく話を聞いてくれるおじいさんに好きな妖怪の話などをしていて、つい頭の中に浮かぶようになったボタンの話をしたんだ。そうしたら穏やかだったおじいさんの顔つきが一変した。見違えるように厳しい顔つきになって『そのボタンは絶対に押してはいかんぞ』と声を大きくして厳命してきた。やつは怒られたのかと思って動揺し、思わず泣き出しそうにになったそうだ。そのくらい厳しい言い方だったんだな。おじいさんはそれを見て少し慌て、安心させるように穏やかな顔を作った。『怒ったんじゃあないよ。そのボタンを押したら大変なことになるから注意したかっただけなんだ。お前のお父さんも幼い頃からそんなことを言っていて、そして結局早く亡くなってしまったからね。お前にはそうなってもらいたくないんだ』と。大友の父は大友が生まれて間もなくに亡くなっていた。よくある原因不明の突然死。心不全とかぽっくり病とか言われる死に方でね」

「おじいさんはそれを頭の中に浮かんだボタンを押したからだと思ってたの?」

「どうもそうらしい。その、大友の父が亡くなったのは仕事に行き詰って鬱病っぽくなってしまっている時だった。思い詰めた顔をして、亡くなる前には死を覚悟している素振りがあったらしい。安らかに、眠っているような死に顔だったって言う」

「でも、だからと言ってボタンを押したのが原因だとは言えないんじゃないかしら」

「理由はそれだけじゃないんだ。話は最後まで聞いてくれ。おじいさんが息子の死を頭の中にあるボタンを押したのが原因だと思ったのは、以前にも同じような経験をしていたからなんだ。おじいさんは若い頃、自分の叔父にあたる人からも同じような話を聞いていたらしいんだな。その叔父さんもぽっくり病で早逝したんだが、生前に『俺には怖いものが無いんだ』とうそぶいていたって言う。その人はおじいさん以上に山っ気がある人で、胡散臭い事業を始めたり、大胆な投資をやって大儲けしたり、それを放蕩で使い果たしたりしていた。その、怖いものが無い理由の裏付けが、頭に浮かぶボタンだったって言うんだ。叔父は頭の中にあるボタンを押せば電源が切れるように瞬時にあの世へ行けると信じていて、親しい人にもそう言っていた。いつでもその気になれば何の苦しみもなく旅立てると。仏教系の新興宗教を信仰していたから、死んだ後も涅槃へ行けると考えていた。だからこの世で取り返しのつかない失敗をしたら、ただボタンを押してあの世へ行けばいいだけだと割り切っていたんだな。その叔父が亡くなったのは相場で失敗して取り返しのつかない借金を背負った後だった。『俺も年貢の納め時かな』寂しげにそう呟いた次の日に、安らかな遺体となって見つかったそうだよ。周りの人ははてっきり冗談だと思っていたボタンの話が実現したようだと言って気味悪がった」

「不思議な話ねえ」

「大友の頭に浮かぶようになったボタンは世界を終わらせるボタンじゃなくて、自分の命を消滅させるボタンだったらしい。まあ、あくまでも、あいつが自分でそう言ってるだけだがね。どうしてやつの家系にそういう特殊感覚を持った人が類出するのかはよく分からない。先祖は神官だったという言い伝えもあって、そのせいかもしれないと言ったりしていたが、どうなんだろうな。どこまで信じていい話なのか」

「その大友さん自身も、もし取り返しのつかない失敗をした時にはそのボタンを押せばいいと思ってるのかしら」

「どうだろうな。はっきりとは言わなかったが、そう考えている節はある。あいつの『頭の中のボタンを押せば瞬間的に人生を終えられる』という考えは、確信に近いものがあるようだったよ。何故かというと、実際にその瞬間を見たからだと言うんだ。大好きだったおじいさんは、十年前に亡くなった。末期癌を患って入院している時に、付き添いで傍にいた大友におじいさんが呼びかけてきた。『私はもう向こう側へ行くことにするよ。こんな苦しい思いをして生きていても仕方ないからね。面倒をみてくれて有難う。私がいなくても、しっかり気持ちを強く持って生きて行くんだよ』と、そんなことを言って微笑んだ後に目を瞑ると、すうっと吸い込まれるように安らかに息を止めた。亡くなっていたんだ。『ボタンを押すな』と言ったおじいさん自身も、頭の中にボタンを持っていたんじゃないかと大友は思ったそうだ」

「そうなの。考えてみると、もしそういうボタンがあったら不治の病に侵された時なんかは便利よね。苦しまないで済むんだもの」

「ああ、一つの保険として、あったらいいかも知れないなとは私も思う」

「そのボタンって、どんなのかな。五百円玉くらいの円形だって言ってたわね。・・・・・・あれ? 何だかその形や色がイメージできるみたい。プラスチックっぽい材質で、表面はツルツルしている。色はクリームがかった薄紫色よ。ボタンとしては出っ張りが大きい方で、手を触れるための円形の面は緩やかに盛り上がっている。ちょっと、押してみようかな」

「やめろっ!!」

「どうしたの? そんな大きな声を出さなくてもいいじゃない」

「いや、すまん。君の言うボタンの特徴が、あんまり大友が言っていたのと似ていたもんで、つい」

「心配性ねえ」

「もうこの話はやめよう。大友がどんな人生観を持っていようと私たちには関係無いことだ」

「それはそうだけど」

「考えてもどうせ本当のところは分からないしな。ところでビールを飲んだらつまみっぽい物を食べたくなってきたな。韓国のりがまだあったんじゃないか」

「台所の戸棚にあるわよ。持ってくる?」

「いや、自分でとってくるよ。他にも何かあるかもしれないし」

「柿の種ならあるわよ」

「柿の種っていう気分じゃないな。もっとサッパリした物が食べたい。フルーツとか」

「冷蔵庫にパインがあったわ」

「そうか」

 

「おい、冷蔵庫にパインなんて無いじゃないか」

「ちゃんと見たの」

「見たよ」

「缶詰のやつよ」

「そう言わなきゃ分からんだろ」

「しょうがないわねえ」

「缶詰のパインだったらいらんよ。甘ったるすぎる。韓国のりだけでも充分だ。おやっ? 何だ仮想通貨が暴落してるじゃないか」

「そうみたいね。経済チャンネルそろそろ変えてもいい?」

「駄目だ。もうちょっと見させてくれ。うわっ、これは酷いな。この調子だと強制ロスカットを食らって破産する人がいっぱい出るぞ」

「ねえ、あなたが言っていた大友っていう人も仮想通貨に投資してるんじゃなかった?」

「そうだったな。やつも相当やられてるかもな。破産してるかもしれん。投資は大きく儲けようと思えば大きくやられることもある。仕方がないことだが。しかし、ちょっと気になるな。あいつ、この暴落を知ったらどうするんだろう。・・・・・・いや、まさかな」

「気になるんなら電話してみたら」

「ああ、確かやつの電話番号はまだ携帯のアドレスにあったはずだ。ええと。やっぱりあった。番号を変えてなきゃいいが」

「電話番号なんてそんなに簡単に変えないでしょ」

「・・・・・・」

「出ないの?」

「ああ。まさか破産して絶望のあまり頭の中のボタンを押しちまったなんてことは」

「心配性ねえ」

「ちょっと待て、木下にも電話して訊いてみる。あいつは大友にしつこく投資の話を聞いていたからな。まだ一緒にいるかも知れない。・・・・・・もしもし。高坂だけど。特別用ってほどでもないんだが。今見たら仮想通貨が暴落してるんで、これに大金を投資しているって言ってた大友は大丈夫かと思ってね。あいつとは今も一緒なのか。・・・・・・ああ。・・・・・・そうか・・・・・・それはちょっと心配だな・・・・・・うん。まあ気にしても仕方ないだろうが。・・・・・・そうだな。それじゃあ」

「どうだったの?」

「木下はやっぱり私たちが帰った後も大友と二人で飲んでたんだそうだ。大友は木下に訊かれて自分の投資経験を話していたが、そのうちに情報を確認したくなったらしくて携帯電話を取り出して投資サイトらしきものを覗き込んだ。そうしたら顔色が真っ青に変わって行ったって言うんだ。木下が『どうかしたのか』と訊いてもやつはすぐには答えない。少ししてから『悪いけど急用ができた』と言うと、ふらりと立ち上がって、放心したようすで店を出て行ったっていう。木下も心配していた。あんな思い詰めた顔つきは見たこと無いって言って」

「やっぱり破産しちゃったのかしら」

「破産ならまだいいが、大借金を背負ってしまったのかも知れんな」

「怖いわね。投資って」

「いつもそう言ってるだろう。念のためもう一度大友に電話してみよう」

「つながるといいわね」

「・・・・・・やっぱり出ない」

「その大友っていう人が今どうしてるか、何とかして確かめられない?」

「やつの住所とかはまったく知らない。これ以上できることは無いな」

「そう。亡くなったとしたら明日のニュースとかで確認するしかないのね」

「おい」

「でも、心不全と診断されたらニュースにはならないわね。その人が亡くなったとしても、あたしたちが知る方法はない」

「そういうことだな」

「何だか後味悪いわねえ。・・・・・・あたしもう二度とボタンを思い浮かべたりはしないわ。もし頭の中に浮かんだとしても絶対に押さない」

「それがいいな」

「何だか気分がモヤモヤするわね。ポックリ病とか言われる死に方をした人の中で、頭の中でボタンを押した人って、その大友さんの家系の人以外にもいると思う?」

「知らんよ。そもそも最初からそんな人はいないのかも知れんし」

「大友さんの話を信じてないの?」

「あいつ自身がそう信じて話していた。というは本当だろうが、中身が正しいかはどうかな。ホラーがかった話は苦手だよ。おやっ? 携帯が鳴ってる」

「あたしのじゃないわよ」

「私にだ。もしもし・・・・・・ああ君か。ああ、さっき二度電話した。ちょっと心配になってね。・・・・・・。そうか。・・・・・・うん。それは大変だな・・・・・。うん。それならいいが・・・・・・少し安心したよ。それじゃあ元気でな」

「大友っていう人からの返信だったの?」

「ああ。さっきは頭を冷やすためにシャワーを浴びてて電話に出られなかったんだそうだ。あいつはやっぱり仮想通貨の暴落にやられて破産してたよ。経営している会社もオシャカだな。だが思ったより元気だった。ヤケクソ半分だったのかも知れんが。『僕は頭の中のボタンを押したらそれで全てがチャラになるんです。こんなことくらいで絶望するもんですか。最後の瞬間までしぶとく生き残って一発逆転を狙ってやりますよ。再起します。見ていて下さい』だってよ」

「頭の中のボタンを押したら一瞬で人生を終えられるって本気で信じているのねえ」

「ある意味幸せなのかも知れんな」

「とりあえず生きてて良かったわね」

「ああ。何だか飲み直したい気分になってきたな。ビールをもう一本出してくれるか」

「ええ。あたしも付き合うわ」

「死ぬ時のことなんて考えるもんじゃないな。もっと明るく生きないくちゃ。ところで来年の家族旅行はどこへ行く?」

「久しぶりに海外旅行がしたいわ。ニューカレドニアなんてどうかしら。知ってる? あそこは天国に一番近い島って言われてるのよ」

                 了