「いつまでもつきまとってんじゃねえっ」
野太い怒声と共に、でっかいゲンコツが飛んで来た。
鼻っ柱に世界がひしゃげるような衝撃を感じ、芳夫は意識が飛びかけた。それは何とか保てたが、平衡感覚は粉々になって、思わずよろめき尻餅をついた。
痛む鼻に手をやると、ぬらつく赤い液がベッタリと付いてくる。
殴った男は筋肉質の肩をいからせて芳夫を見降ろしている。
背が高かった。地面にへばった芳夫の方からは、背後の眩しい太陽を味方につけているかのように見えた。
よく見ると男の顔は男らしく整っている。ちょっと濃すぎるきらいはあるが、個性に乏しい芳夫よりは間違いなく男前だった。
芳夫は鼻の奥がジンと痺れて涙がこみ上げてくるのを感じた。それでも精一杯の勇気を振り絞って言葉を発した。声は情けなく裏返ってしまったが、
「殴ったな。僕は何も悪いことをしていないのに。訴えてやる」
「てめえは馬鹿かっ。綾香は厭だと言ってんのにしつこくつき纏いやがって。悪い事をしてねえわけがねえだろうが」
男は声を荒げ、さらに芳夫に向かって来ようとする。
それを綾香が引き止めた。
「もういいわ。相手をしてたらあなたの価値まで下がってしまうわよ。行きましょ」
細い手で男の腕を抱えて引っぱった。男が舌打ちしながら不承不承それに従うと、もう二人は芳夫に視線を向けようともしない。
地面に這いつくばった汚い虫には関わりたくないというように、二人は並んで歩き去って行った。
戦士めいた巨躯の横で妖精のような尻が揺れ、だんだん小さくなって行く。
後には芳夫だけが残された。
地方都市の駅前通り。人通りは結構多く、奇異な視線が芳夫一人に向けられていた。バツの悪さはどうしようもなく、芳夫はヨロヨロ立ち上がるとコソ泥が逃げだすようにその場から立ち去らざるを得なかったのである。
いったいどうしてこうなってしまったのだろう。
住んでるアパートに帰ってからも、芳夫の頭の中では同じ思いがグルグル回っていた。
どこでどう運命が変わってしまったのか。
綾香のえくぼが浮き出る可愛い笑顔は、いつも自分に向けられていたはずなのに。
初めて出会った時からそうだった。彼女は大学を出たばかりで、初就職で緊張していた。慣れない事務を中々覚えられなくて、困っていたところへ手を差し伸べてあげたのが僕だ。彼女はそれを感謝して、僕を慕ってくれていたはずなのだ。その後もよく仕事のやり方を聞きにきた。残業の助けを頼む時には小鳥のように小首を傾げ、両手をピタンと合わせて拝むポーズをとったりしていた。どうかすると未成年のようにも見える童顔で、常に好意を現してくれた。
僕らは自然に親しくなって、プライベートでも食事を一緒にしたりするようになった。
綾香は聡明で人あたりが良く、相手を適当に立ててくれるので一緒にいるのが心地よい。ずっと一緒にいられたらいいな、と思わないではいられなかった。その延長で、ゆくゆくは結婚をと考えるようになった。会話の中で、それとなくそれを匂わせてみた。彼女だって思いは同じだったはずなのだ。
それなのに、どうして急に冷たくなってしまったのだろう。
芳夫が声をかけてもよそよそしくなって、避けるようすが見えはじめた。仕事を手伝ってやろうとしても迷惑そうに、「大丈夫ですから」などとツンとする。
それでも構わず話をすると、怯えるように顔を強張らせたりする。
綾香はそのうちに、一身上の理由だとかで会社を辞めてしまった。芳夫が心配してかける電話にも出なくなり、メールをしても読まれたようすがない。
芳夫は理由が分からず混乱するばかりだった。
いつも明るく人当たりがいい彼女がこんな態度をとるはずがない。どこかを悪くしたに違いない。よほど体調がすぐれないのか、あるいは何か精神の病いを発病してしまったんじゃないかと気が気じゃなかった。
一日に何十回、何百回となく連絡を試みた。
しかし、そんな芳夫の誠意は伝わらなかったのである。
どうしても連絡がつかないので仕方なく、芳夫は綾香が住む家の住所を調べて行ってみた。そうしたら、そこは予想もしていない立派な邸宅だったので驚いてしまった。そして偶然その玄関から、綾香が出てくるところに出くわしたのだ。距離があるので綾香はこちらに気づかなかったようだが、明るく溌溂としたようすだったので芳夫は少しホッとした。
それはいい。しかし彼女の隣に一人の男がいたのには、少なからず動揺させられた。
若かった。背が高く、好青年風の屈託ない笑顔。それを惜しげなく綾香に向ける。それを受けた綾香はしなだれかかるように男の腕に自分の手を絡め、体をピッタリ寄せていくようす。
これではどう見ても、熱愛中の恋人同士ではないか。見た目の釣り合いも、悔しいくらいに丁度良かった。
綾香には芳夫の他にも付き合っている男がいたのだ。
芳夫はショックで声をかけられなかった。かといって立ち去る踏ん切りもつかず、ついつい隠れるようにして、二人の後を追ってしまった。そしてその半端な行いを見つかってしまったのが、駅前にさしかかった辺りだったというわけである。
尾行としか見えない芳夫のふるまいに、嫌悪を感じたのか男は怒った。そして綾香の腕を振り払って芳夫に向かい、暴力を振るってきたのである。
地面にへたばった芳夫を置いて、二人は駅に向かって行った。あの後は何処へ行ったのか。芳夫はそれを、想像しないではいられなかった。
デートに出かけたのか。
二人仲良く映画を観たり食事したりして、楽しく時を過ごすのか。そしてあるいはその後は、ホテルに泊まり、濃密な一夜を共にするのか。
芳夫はそれを考えると、我が身を焼かれるようだった。これまで一度も意識したことのなかった、「断腸の思い」なんていう古い言葉の意味が分かる気がした。
綾香が芳夫に冷淡になったのは、きっとあの男に誘惑されたからなのだ。上っ面のカッコよさで、一時的に気が迷ったに違いない。でも、その熱が冷めれば、きっと、・・・・・・多分・・・・・・、また僕の元へと戻ってくる。
芳夫は無理にでもそう思い込もうとした。哀しい抵抗と言っても良かったが、しばらくするとそんな芳夫を励ますように、胸の奥から深層心理らしき声が微かに聞こえてきたのである。
「そうさ。そうに決まっているじゃないか。元気を出せよ。あんな見た目だけの頭空っぽ野郎よりも、お前の方が綾香に似合ってる。高学歴で頭が良くて優しくて、そして何よりも、世界の誰よりも彼女を愛してるんだからな。この尊い純粋さに勝るものなどあるものか。あんな奴よりも、お前の方が彼女を幸せにしてやれる。誠意を尽くせば彼女だって、きっとそれを分かってくれるさ」
そうだ。まったくその通りなんだ。芳夫は心地よいその声の響きに大きく頷いた。
その心の声には有能そうな張りがあり、アナウンサーのように歯切れよく爽やかな発音をしていた。芳夫が理想としてイメージしてきた自分のセルフイメージに極めて近かったのである。
しかし、声も指摘した正しい道をあの男が阻んでいる。一体どうすればあいつを排除できるのか。
芳夫は傷害罪で男を訴えようかと考えた。しかし、警察にはいい印象がない。以前に一度不審者扱いされて、嫌な思いをしたことがあったのである。あの時の扱いからすると、下手すると芳夫の方が悪者にされかねない。
かといってまともに戦ったら勝てるわけは無いし・・・・・・
「だったら頭を使ったらいいんじゃないか」
迷っていると、また心の奥底から真実っぽい声がした。
「人類には武器という文明の利器がある。あんな肉体だけを頼りにしてゴリラと同じレベルで生きているような奴と、正面からぶつかる必要なんかないんだよ。お前は人間なんだからな。これまでも頭を使って生きてきたんだから、自分の得意な分野で勝負するべきだ。武器を使うのは卑怯だなんて思うかい? そんなことはないさ。あの男のほうから先に法律を破り、暴力を振るってきたんだからな。こちらにもそれ相応にやり返してやる権利がある」
考えてみればその通りだ。
芳夫は納得し、武器にするものがないかと、住んでいるアパート内を捜してみた。
しかしそう都合のいい品はあるものではなく、見つかったのは台所にある包丁くらい。「いろんな料理に使えますよ」とホームセンターの店員から勧められて買った和包丁は先がピンと尖っており、鍛え上げられた腹筋にでもつき通すことが出来そうだった。
これをちらつかせれば、さすがのあの男もビビッて逃げ出すのではないか。
芳夫はフラフラとそれを持ってリビングに戻った。包丁の柄を握りしめ、魅入られたように冷たく光を反射する刃に見入る。
いささか迷う思いはあった。だが、その視界の隅に一つの言葉が入ってくると心が定まってきた。
芳夫は人生訓が好きで、気に入った偉人の言葉をいくつか壁に貼っていた。受験勉強をしていた学生時代の習慣が惰性で残ったものである。その中の一つが心を捉えた。
「人生は、常に挑戦し行動した者にこそ道が開かれる」
芳夫が尊敬する、IТ企業の革新的な経営者が語った言葉である。
引っ込み思案で損をすることが多い芳夫は、常日頃から自分を奮い立たせるためにこんな言葉を必要としていたのだ。
こういう苦しい状況の時にこそ、人生訓を役立てるべきなんじゃないか、という気がした。
いずれにしても、もう嫉妬の炎に焼かれる思いには耐えられなかった。グルグルと同じことを考えるたびに頭に逆流する血の量は増すばかりで、じっとしてはいられない。
芳夫は和包丁をリュックに放り込み、それを背負ってアパートから出た。
もう日はとっぷり暮れていたが、思ったよりも外は明るかった。
異形なくらいに大きな満月が、斜め上三十五度あたりに出ていた。今日はスーパームーンだったのか。それとも特殊な精神状態が、月をそんな風に見せていたのか。芳夫にはそれはどうでも良かった。
何としてでも綾香に会って、気持ちを問いただす。
もしまたあの男がそれを邪魔してくるのなら、刃物で脅してでも追い払ってやる。
芳夫はそんなことを思い巡らしながら、駅への近道にあたる公園の中を突っ切り歩いた。綾香の家までは、電車に乗って三十分の距離だ。
公園の敷地はかなり広く、バラバラ死体をゴミ箱に捨てても捕まらないんじゃないかと思えるほどだった。鬱蒼とした木々と繁みが続く。遊歩道沿いには池があって、そのほとりに背凭れ無しの木造長椅子がチラホラ設けられている。
芳夫はその長椅子の一つに大きな男の人影を見つけた。遊歩道に背を向け池の方を向いて座り、携帯電話で話しているようだ。
どこかで見たような姿と思えたが、今はそんなことに構っていられない。後ろを通り過ぎようとしてあっと驚いた。
何たる偶然か。
そこにいたのは本当に見知った男だった。ほんの数時間前に知ったばかりだが、忘れるはずのない顔だ。芳夫はこの顔を、ずっと頭に浮かべていたのだから。
満月も出ているし、携帯の明かりが真近で顔を照らしているので横顔をハッキリと確認できた。数メートル先で、ニタつくように微笑んでいる。
一人だった。もう綾香とは別れた後なのだろう。そして住居に帰る途中に公園で一休みしている所なのかもしれない。この近隣には独身男が住むアパートやマンションが多い。芳夫と同じく、この男もきっとその中の一つを棲みかとしているのだろう。
半日前に芳夫の顔にめり込んだ拳は、今は大切そうに携帯電話を包んでいる。まるで女性の手を握るかのように。それもそのはずで、夢中になって話している相手は、芳夫もよく知っている人だったらしいのである。
男は明らかに、鼻の下を伸ばしていた。
「ああ今日は僕も楽しかったよ。君があんなにサッカーが好きとは思わなかったなあ。また今度観戦しようよ。僕が君の家まで迎えに行くからさ。あんなストーカー野郎につき纏われて怖いだろうけど、僕が護衛する。しかし話には聞いてたけど、あの野郎は本当に気持ち悪かったな。ハハハ。目つきがヌメヌメしてて数センチ前しか見えていないみたいだ。あんなのに目をつけられてしまったのはホントに運が悪かったね、同情するよ。君は可愛いから注意しないとね。あいつがゴキブリだったら叩き潰してそれで終わりなんだけど、曲がりなりにも人間だからそういう訳にはいかないな。困ったもんだね。場合によっては警察に連絡した方がいいかもね。ああ、いつでも電話してくれよ。君のためなら、いつどこにでも、どんな時でも駆けつけるからさ。僕でよかったら忠実なナイトになるよ」
いったい何を言っている?
芳夫は血の気が引いて行くようだった。巨大な津波が来る前には波が大きく退行するように、それは激情の前触れだったかも知れない。
ゴキブリだったら叩き潰す、だと? それはこっちが言いたいことだ。
お前のような頭空っぽの体力だけ野郎は綾香には相応しくない。そんなことを言う自分の方こそ叩き潰されるべき害虫じゃないのか。
思わず身体が震えてくるのが分かった。
するとそれに呼応して、心の奥から声がした。
「そうさ。やっと分かったな」声はどこか愉し気で、笑いをかみ殺しているかのような響きがあった。「あいつは綾香についた害虫なんだ。叩き潰さなければな。脅して追い払うなんていう甘っちょろいことじゃあ駄目だ。あいつが暴力を振るってきた時に、それはもう分かっていたんじゃないか。あいつはガリガリに痩せたお前を見て、これなら勝てると踏んで攻撃してきた。卑怯な奴さ。ああいう体力だけの暴力的なタイプは、体力が劣る女性に対しても同じような扱いをするものだ。綾香にも今は低姿勢で接しているが、いずれ本性を現してDV男に豹変するに決まっている。綾香は奴に騙されているのさ。彼女を奴の暴力から救えるのは今しかないぞ。幸い周囲は暗い。誰も見ちゃいない。今見えるあいつの背中に刃物を突き通すのは、簡単なことだとは思わないか。これは神様がお前にくれた最大のチャンスだ。こんな機会はもう二度と訪れないぞ。あいつさえ亡き者にすれば、綾香はお前の元に戻ってくる。綾香の可愛らしい唇、ふくよかな胸や滑らかな脚がお前のものになるんだぞ。あの男がいなくなれば催眠術にかかったようになっていた彼女はハッと目を覚ます。そしてお前の良さを分かってくれる。お前の愛の深さと純粋さを知って、感動してプロポーズを受諾するに決まっているんだ。それに、これは所詮はおまけに過ぎないが、お前も気づいているだろう。彼女の親はかなりの資産家なんだ。彼女が会社に勤めたのはほんの腰かけの、お嬢様の社会勉強に過ぎなかったのさ。彼女と結婚すれば明るい未来が開けるんじゃないかな。もしお前が今勤めている会社をやめて、以前から温めていたアイデアで新しい事業を始めたいと言ったら、彼女の親はきっと援助してくれる。可愛い娘の婿のためなんだものな。そうすればお前は新進IТ企業の社長様だ。最初は小さな会社でも、いずれは大きくなって行くに決まっている。アイデアはいいんだものな。環境が変われば本来あった能力が発揮され、お前が常々尊敬してやまない人物のように、大成功を収めることができるんじゃないか。その偉大な人も言っていただろう。『人生は常に挑戦し行動した者にこそ道が開かれる』それを実行するのは今だ。今しかないんだ」
芳夫はついふらふらと、その言葉に誘われるように足を踏み出した。
怒りで吹き飛ばされた理性の空白に、甘い言葉が居座ってしまったようだった。もうすでに周囲の世界は悪夢のように色を失っており、他のことは考えられなかった。
男は通話を終えて携帯をしまおうとしている。芳夫はその広くて無防備な背中を食い入るように見入った。
「この男さえいなければ」
この一念に凝り固まって、芳夫はリュックから和包丁を取り出し構えた。
気が付くと、口から意味を成さない奇声が出ていた。駆けだして、体当たりした刃の先にドスンと鈍くて不気味な手応えを感じた。とり返しのつかないことをしたとハッとしたのはその後で、思わずビクつき刃を引いた。
背中を刺された男の口から「うぐっ」というような呻き声が洩れた。だが意外に大きなダメージを負った様子はなく、鍛え抜かれた反射神経ですぐに後ろを振り向こうとする。
芳夫は恐怖した。こんなことをしてただですむはずはない。向かい合ったらまた強烈なパンチが飛んでくる。よけきれず、手に持った包丁を落としてしまったらどうなる。反対にこちらが殺されてしまうかも。そんな考えが閃いて、しゃにむに刃を振り回した。二回、三回、四回と突くと、相手はいつの間にか目の前から消え、足元にグッタリと倒れていた。
全身べたつく液まみれになって、ピクリとも動かない。
殺してしまったのか。
芳夫はどうしたらいいか分からなかった。呆然として、地面にうつ伏せた死体をしばらく見降ろし続けた・・・・・・・とはならなかった。
芳夫が殺してしまったと確信した瞬間、とても殺人の余韻に浸ることが出来ないような変事が起こったからである。
芳夫の頭の中に、けたたましいファンファーレが鳴り響いた。自衛隊の音楽隊が式典で鳴らすような感じのものだった。専門の音楽家のような繊細さはないが、その代わり景気の良さは折り紙付き。同時に頭上がパッと明るくなった。夜空が一気に真っ白になった。斜め上にはそれとは正反対の真っ黒な満月があり、地上に闇を投げかけていた。空は真っ白なのに地上は薄暗い。ポジとネガが逆転し、まるで月面にいるような奇妙な感覚がした。
周囲の光景も大きく変化した。公園の木々やその周囲の建物は、平面の書割りにしか見えなくなっていた。地平線まで続く荒野に、切り抜いた板だけが立っているような感じ。人が住んでいる町とは思えない。眼下に広がる池の水面は、青銅の鏡面のようだった。芳夫は足元に横たわる死体と共に、すべてが凝固した異形の世界にポツンと独り取り残されたように感じた。
いや、一人というのはあたらないかも知れない。
ファンファーレに混じり、背後からは複数の拍手の音が聞こえていたからだ。
芳夫がそれに気づいて振り返ると、背後には人影が左右に広がり並んでいてギョッとした。しかしそれを、人と言ってもいいのかどうか。
さざ波のように起こった拍手は、明らかに芳夫を祝福するものだった。二十ばかりの笑顔が芳夫に向けられていた。いずれも人品卑しからぬ、漆黒のタキシードで身を包んだ紳士たちである。顔立ちは皆鋭角的で西洋人っぽかった。
次の瞬間、天空の一番高い所にある黒い星が突然輝き出し、光線を一直線に地上へと投げかけた。それは細い円柱型をしていて、まるでスポットライトのようにピンポイントで芳夫の周りだけを明るくした。
影のような列の中央から、一人の男が芳夫の方へ進み出てきた。
ゆっくり手を叩きながら、セールスマンのような微笑みを浮かべて、
「おめでとうございます。あなたのように幸運な方は中々おりませんよ」
いったい何が起こったというのか。
芳夫は慌ててその男に応対しようとして、自分がまだ右手に血のついた和包丁を握りしめているのに気がついた。それを地面に捨てようとしたが、手は強張ってしまって開くことができない。何度も手を振り、ようやく下へ落とせた。
進み出た男はその動作を、微笑ましいような目で見ていた。
「ハッハッハッ。初めて殺人を犯した時というのはそういうものですね。あなただけではありません。私は様々な殺人者を見てまいりましたが、あの有名なジャック・ザ・リッパー氏も、最初はあなたと大差ありませんでしたよ。ああ、私たちに殺人を目撃されてしまったなどと、心配する必要は全くありませんよ。私共はいつだって大事なお客様である殺人者の味方なのですからね。少なくとも、地獄に落ちる前までは、ですが」
芳夫は男の声に聞き覚えがあった。適度な太さと張りを持っており、アナウンサーのように心地よい綺麗な発音で歯切れ良かった。
これは、ついさっきまで、自分の心の中に響いてきていた声ではないか。自分の深層心理の声だとばかり思っていたが、喋っていたのはこの男なのか。
「その通りでございます」男は芳夫の心を読み取って、我が意を得たりとばかりに頷いた。「どうして心が分かるのか。と疑問にお思いですか。そして、どうしてあなたの心の中に、直接語りかけることができたのか。それは私が悪魔だからですよ。つまり先程まであなたの心の中に響いていた声は、悪魔の囁きというわけでして。私共の営業活動に乗って頂き、殺人を犯して下さってありがとうございます」
男はいかにも悪魔らしくニヤリとして、自分の尖った耳、メフィストテレス的な鋭角的な顔立ちを誇示してみせた。
芳夫は男の尻の後ろあたりで、黒い鞭めいたニョロニョロした蛇のようなものが揺らめいているのに気がついた。よく見るとその先は銛のように尖っており、突き刺さったら抜けない鋭三角の返しがついていた。
悪魔の尻尾に違いない。後ろに並んだ男たちにも、よく見ると尻尾はあるようだった。
そして突然ガラリと変わってしまったこの世界。
本当に、悪魔なのか。自分はその囁きに、うかうか乗った愚か者だというのか。だとしたら、きっとこの先は、地獄へ直行のコースに違いない。
芳夫は目の前が真っ暗になった。
しかし目の前の悪魔は首を横に振り、その考えを真っ向から否定したのだった。
「いえいえそうではありません。先程も申しました通り、あなたは大変幸運でいらっしゃいます。あなたが只今考えられた通り、悪魔の囁きに乗った者は死刑になったり地獄へ落ちたりで碌なことにはならないのが通例なのですが、今回ばかりはそうではないのでして。と言いますのも、あなたはとてもラッキーな、大きな区切りとなるお客様だからです」
悪魔はここで大袈裟に両手を開いて上へ挙げ、天から落ちてくる巨大なボールをキャッチするようなポーズをとった。そして芝居がかって後を続ける。
「何と何と、驚くべきことに、あなた様はこの世界の開闢以来、悪魔の囁きに乗って殺人を犯した一億人目の方なのですよ。ですから特別記念サービスとして、悪魔の囁きに乗った者にはつきものの苛烈な運命は、免除してさしあげるようなわけでして」
「何だって?」芳夫は目の前にいる男に疑いの目を向けないではいられなかった。「僕は悪魔にそそのかされた一億人目? そんな偶然があるのか。宝くじも当たったことが無いってのに。いや、よく考えてみると、やっぱり変だぞ。悪魔の誘いで人を殺した人間が、そんなにいるはずはないんじゃないか。今地球には八十億人近くの人がいるが、それはここ二百年くらいで急激に人口が増えたからで、種としての人類が誕生してからの延べ人数は大して多くないと聞いたことかある。なのに一億人もがお前たちの誘いで殺人を犯したなんておかしい」
「ああ、あなたも現代科学なる迷妄に、毒されていらっしゃる」悪魔は何とも嘆がわしい。というように首を大きく横に振った。「それは現代科学の学説ではそうなっている。というだけでしょう。しかし、よく考えてほしいのですが、その科学とやらでは神や悪魔はどう扱われています? 完全にこの世に存在しないものとして無視しているでしょう。神がこの世界を創ったなどということはありえないと。しかし私共は存在するのです。悪魔が存在するということは神も存在する。その時点で現代科学の大前提は根本から崩れてしまうのですよ。『この世界は神が創造した』という可能性を考慮に入れて推論しなければ、正しい世界の在り方などというものは分かるはずがないのです。神が介在した人間の歴史は、たかだが1・4キログラム程度の脳しか持たない、こざかしい科学者が考えるよりも遥かに長いのです。分かっていただけましたか」
自信満々な物言いに、芳夫はそんなものなのかという気分になってきた。元々が、他人の言葉を信じやすいタイプなのである。
「そうすると、本当に僕は一億人目なのか。その記念として、殺人の罪に問われることはないというのか・・・・・・」
「さようでございます」
悪魔はとり澄まして目を細め、尖った鼻先をツンと突き出すようにした。
「でも、どうしてそんなことをするんだ。サービスなんかしても意味ないんじゃないか」
「それがそうでもないのですよ」悪魔は眉をハの字にして、しょげかえるような素振りを見せた。「最近は私どもの業界も不景気でしてねえ。頑張って営業をしても、なかなか囁きに乗っては頂けないのですよ。いや、人間の愚かさ自体は変わらないのですがね。情報通信技術が進歩して人間界に情報が溢れかえった結果、人間たちの情報を無視するスキルが向上してしまった。ひと昔前とは段違いで、頑張って囁いても『あっ、そう。この話は頭の中の〈判断がつかないもの〉のフォルダーに入れとくね』と木で鼻をくくったような反応が返って来るばかりなので厭になってしまいます。こういった惨状に、魔界営業の上層部は危機感を持ったのですね。このままではライバルの天界産業に差をつけられて、神様から事業廃止を言い渡されてしまうと。『とにかく何でもいいから手を打て。なりふり構わず手段は選ぶな』てなもんで、その一環として考えられたのがこのサービスなのです。まあ、正直言いますと、私もどれだけ効果があるのか疑問に思ってはいるのですが・・・・・・っと、これは言っちゃあいけないか。とにかく百万人ごとに特別サービスとして、殺人の罪免除の特典をつけることになりました。さらに一千万人ごとの区切りでは、恋愛対象としてお好きな異性を一人プレゼント。そして、さらにさらに今回は一億人目の大区切りなので、その上に一億円が当選した宝くじを一枚おつけいたします。『えーい、もってけ泥棒、この野郎。こちとらは倒産覚悟の大赤字でえっ』と言いたいほどの大サービスですよ」
悪魔は懐から一枚の、手が切れそうにピンとした札ならぬ宝くじを取り出して、芳夫の手中に押し付けた。
芳夫はその紙切れを腫物に触るように両手で持って、マジマジと見つめないではいられなかった。
十月に出たばかりのハロウィン記念の宝くじだった。宝くじらしい福々しいデザインで、数字が並んだ両脇に、頭にカボチャを被った子供と三角帽子を被った魔女コスプレ美少女のイラストが描かれている。
これが一億円になるというのか。
指が震え出した芳夫の思考に、目の前の悪魔紳士が調子を合わせてきた。
「それだけではありませんよ。あなたが大好きな女性が、あなたのプロポーズを待っています。綾香さん。でよろしいですよね。彼女の心はもうあなたへの愛しい思いで一杯です。『あんな素敵な方が私に好意を持って下さるなら死んでも本望だわ』くらいには思っていますので、あなたのすべてを受け入れて一生添い遂げてくれます。お幸せですね。本当に、あなたはご幸運な方ですよ」
「本当に、綾香は僕のもとに帰ってくるのか」
「ええ、ええ。過去に彼女があなたの元にいたことがあるのかどうかは別に致しまして、これからは間違いなくあなたに寄り添うはずでございます」
「彼女と結婚できるんだな」
「もちろんでございますよ」
悪魔は念を押すように声に力を込めた。
その後ろに一列に並んでいるタキシード姿の悪魔たちも加勢するように、口々に肯定する声をあげ始めた。
「おめでとうございます」
「お幸せに」
「素晴らしい奥様ですね」
「きっと可愛らしい子宝にも恵まれますよ」
皆暖かい微笑みを浮かべ、励ましと祝福の拍手をする。
その音は中々鳴りやまず、芳夫はその心地よい響きに包まれていると、ジワジワと実感が湧く気がしてくるのだった。
「本当に、本当に綾香と結婚できるんだな」
「さようでございます」
「一億円も手に入るんだな」
「さようでございます」
「後でやっぱり地獄行きでしたなんていうことにもならないんだな」
「あっ、申し遅れておりました。亡くなられた後には天国への無料パスポートを一枚おつけいたします」
「そうか。嘘じゃあないんだな」
「私共は約束したことは必ず守ります。それだけが私共のいいところですからね。全知全能の神様のように掌を返して、『わしは全能なのだから当然約束も契約も破れる。神の御心を人間如きが忖度するとは何事か』などと開き直ることはないのです」
「そうか。やっぱり本当なんだな」
芳夫はようやく信用していいかという気持ちになった。そうすると体中が嬉しさで一杯になって、皮膚がはち切れそうだった。まるでヘリウムを詰め込まれた風船のように地上にじっとしてはいられず、両手を上げて飛び跳ねた。
「うわーっ、やったやった。綾香が僕のものになるんだあ。一億円も手に入るんだ。やって良かった。殺して良かった。やっぱり人生は、常に挑戦し行動した者に道が開かれるんだあ。やったぞー。やってやったぞー・・・・・・」
「うわーっ、やったやった。やって良かった。殺して良かった。やっぱり人生は、行動した者に道が開かれるんだあ。やったぞー。やってやったぞー」
鉄格子で隔離された狭っ苦しい病室内で、一人の男がピョンピョン飛び跳ねていた。
ガリガリに痩せ、顔中無精髭だらけの不健康そうな中年男が、全身で歓びを爆発させている。あらぬ方向を向いた眼は、生々しい欲望にぎらついていた。
廊下からそれを見やった石田は、いささか気圧される思いがした。
新人看護師の石田はまだこの病院に勤務し始めたばかりで、こんな危ない患者を収容した病棟に足を踏み入れたのは初めてだったのである。
この病院では重犯罪を犯した精神病者をも収容しており、その多くは離れ病棟の個室に閉じこめられている。それは知っていたが、聞くと見るとでは大違いだった。
思わず目を潜め、ついでに声も潜めるようにして、
「何ですかあれは」
「昔、殺人を犯した患者だよ」
先輩看護師の長岡は全然平気なようすだった。
精神科の看護師は、暴れる患者を取り押さえなければならない場合があるので男が多い。長岡も、そんな経験を積んでいるせいか腕っぷしが強かった。
「惚れた女をストーカーした末に恋敵きを刺し殺した男なんだが、殺人を犯したショックで気が触れたらしくてな。殺人現場で躍り上がって喜んでいるところを発見されて逮捕されたんだ。困ったことに、責任能力無しと判断されてこの病院に送られてきてから十年にもなるのに一向に良くならない。時々殺人を犯した時のことを思い出してああいう発作を起こすんだな」
「殺したのを思い出して喜んでるんですか。ちょっと気持ち悪いですねえ・・・・・・」
「まあな。だがあの患者なんかはまだおとなしい方だよ。普段は惚れた女の写真と外れ宝くじを見比べてニヤニヤしているだけだからな。あんな様子になるのは一日に一回か二回ってとこだ」
「そうなんですか」
「あんな患者にビビってもらったら困るぜ。この奥にはもっと厄介な患者が控えているんだからな。いずれは君にも担当してもらわなければならない時が来るかもしれない。こっちだ」
先に立って歩を進めた長岡は、頑丈なゲートの前で立ち止まった。廊下はさらに億まで続いているが、ここから先へ進めるのはゲートを開く鍵を持つ者だけである。
長岡はポケットから鍵を取り出すと、それを無造作にゲートの鍵穴に突っ込んだ。そして首を回して石田を振り返る。
「この先には本当に危険な患者もいるから注意しろよ」
石田はその言葉に将来に影さすような不安を覚えた。しかし、好奇心はそんな思いを上回っている。
「ええ。覚悟はしてますよ」
自分を奮い立たせるように答えると、先輩が開けてくれたゲートの向こうへ足を踏み出した。
了